ボトムレスピットの午後は、生ぬるい平穏の中にあった。
シラベはレジカウンターの中で、買い取り査定の終わったカードをストレージボックスに仕分けしている。単調な作業だ。しかし、彼には現在、慢性的な肩こりという新たな職業病が追加されていた。
右肩に乗る、ずしりとした重み。
喉を鳴らす重低音が、シラベの耳元で絶え間なく響いている。
視線を向ければ、そこには一匹の黒猫がふてぶてしくしがみついている。夜空よりも深い闇色の毛並みを持ち、瞳には星屑のような瞬きを宿した猫。
「んなん」
「なん、じゃねえよ。落ちても知らねえぞ」
シラベの言葉をあえて無視するように、黒猫は尻尾を後頭部に這わせる。
その正体はかつてシラベの首筋に噛み付き、ライフを貪ろうとした精霊、全てを喰らう大穴である。
あの夜。レヴェローズと大穴によるシラベの争奪戦は、予想外の形で幕を下ろした。
シラベが揉みくちゃにされる最中、陳列棚からこぼれ落ちた一枚のコモンカードを大穴が偶然飲み込んでしまったのだ。
呪法カード、猫変化。
対象の生命体を猫に変え、一切の能力を失わせるというスタンダードな無力化カード。それが大穴の体内で作用した結果、トランジスタグラマーな少女の姿は収縮し、今のような黒猫の姿へと変貌を遂げた。
毎ターンの維持コストであるライフ吸収も猫の姿では機能しないようで、ただシラベの肩に乗って甘えてくるだけの無害な存在に落ち着いている。まともな服を着ていない少女が四六時中しがみついてくるという社会的な死のリスクも回避され、シラベとしては肩の荷が下りた気分だった。いや、物理的な質量は肩に乗ったままなのだが。
「おい、また作業の手が止まっているぞ契約者」
不満げな声とともに、カウンター越しに顔を出したのはレヴェローズだ。
シラベが買い与えたスウェット姿は相変わらずだが、最近は何かに対抗するように手伝いをする意欲を見せている。手にはモップが握られており、彼女なりに店内の清掃に励んでいるようだ。
レヴェローズの忌々しそうな視線は、シラベの肩で丸まる黒猫に向けられている。
「その泥棒猫、いつまでそこに居座らせるつもりだ。主の肩を不法占拠するなど、本来ならば即刻排除すべきところだぞ」
「排除って言ってもな。猫の姿じゃカードに戻ることも出来ないみたいだし、引き剥がそうとすると爪立てて抵抗するんだよ。マフラー代わりになって案外暖かいから別にいいけど」
シラベが黒猫の顎の下を指先で撫でると、大穴は気持ちよさそうに目を細め、喉の鳴る音をさらに大きくした。すり寄ってくる柔らかな毛並みには、かつての底なしの冷たさはなく、心地よい微熱だけがある。
「ふん。私ならばマフラーなどという安物ではなく、最高級の羽毛布団のように契約者を温めてやれるというのに」
「寝る時にお前らが布団に潜り込んでくるのは重いからやめろっていつも言ってるだろ」
シラベが呆れて突っ込むと、レヴェローズは顔をぷいと背けてモップ掛けに戻っていった。
そのやり取りを、少し離れたバックヤードの入り口から眺めている者がいる。ピンク色の髪を揺らし、仕入れ伝票の束を整理しているカルメリエルだ。
ミトラ謹製の簀巻きの刑を終え、苛烈な折檻を耐え抜いた彼女は何事もなかったかのようにシスター服を纏って業務に復帰している。
「本当に、妹は素直じゃありませんわね。あのような獣に嫉妬するくらいなら、自分も犬変化のカードでも飲み込んで契約者の足元にすり寄ればよろしいのに」
カルメリエルの口から飛び出す毒舌は、以前と何一つ変わっていない。むしろ折檻を経てなにかを充填したのか切れ味を増している気さえする。
「聞こえているぞ姉様! 貴様、また簀巻きにされたいのか!」
「あら、事実を申し上げたまでですわ。それに、今の私は真面目に働いておりますもの。ミトラ様からのお咎めは受けません」
涼しい顔で言い放ち、カルメリエルは伝票の束をバインダーに挟み込む。彼女たちの騒々しい口論も、今やボトムレスピットの日常的な環境音の一つとして機能していた。
そんな騒がしいカウンター回りから少し離れた、デュエルスペースの中央。
周囲のプレイヤーとは一層奇妙だが、最近ではこちらも日常的になってしまった光景がある。
「さあミトラ。これで私の場には五体の竜が揃った。圧倒的な力の象徴にして、君への揺るぎない愛の証だ。どうか受け取ってくれないか」
芝居がかった手つきでカードを盤面に並べ、甘ったるい台詞を吐いているのは、亜修利ヒナタである。
あの一件以来、彼女はすっかりこの店の常連と化していた。ただし、精霊の影響下の時のように目のやり場に困るバニースーツではない。現在は細身のスラックスにシックなベストという、どこぞの男役を思わせる洗練された男装スタイルに身を包んでいる。
端整な顔立ちと高身長も相まって、黙って座っていれば見とれるほどの麗人だ。しかし、対面の相手に向ける視線は相変わらず重く、そして執拗だった。
対するミトラは、頬杖をつき、死んだ魚のような目でヒナタの盤面を眺めている。
手元には湯気を立てるほうじ茶の入ったマグカップ。店長としての業務は完全にシラベと精霊たちに丸投げし、彼女はこうして暇つぶしのようにヒナタの相手をしていた。
ミトラはヒナタが並べたドラゴンのカードを、つまらなそうに指差す。
「これとこれとこれ、召喚酔いで動けないでしょ。だから何なの」
「君が次に受け止める私の想いの荘厳さだよ!」
「はいはい。私のターン。ドロー」
ミトラが引いたカードをそのまま場に叩きつける。
「『ラグナロック』。全体破壊。生き残った耐性持ちの生命体で直接攻撃。ライフゼロ。私の勝ちね」
一瞬の出来事だった。ヒナタが数ターンかけて構築した愛の結晶らしいドラゴン軍団は、一枚のカードによって跡形もなく盤面から消し飛び、がら空きになったヒナタのライフはゼロへと直滑降した。
「ああっ……! またしても私の愛は届かないというのか! 君の心という名の要塞は、どれほど高く厚いのだ……!」
ヒナタは大げさに天を仰ぎ、以前より隠す気の薄れた豊かな胸元をかきむしるような仕草で敗北を嘆く。
先の騒動から心を入れ替え、本人曰く真っ当なやり方の下でミトラに挑み続けているヒナタだが、今のところただの一度もミトラから勝利を奪えていない。
「愛とか要塞とか関係ないわよ。あんたのデッキ、大型を出したいのは分かるけど序盤の防御がスカスカなの。除去撃たれた後のリカバリーも考えて構築しなさいって毎回言ってるでしょ」
ミトラはほうじ茶をすすりながら、容赦ないダメ出しを浴びせる。
「そこが良いのだよ、ミトラ。計算高く立ち回るのではなく、ただ真っ直ぐに一番強いものを君に捧げたい。この不器用さこそが、私の純真さの証明だと思わないか?」
「思わない。ただの構築とプレミ。はい、次のゲームやるならさっさとシャッフルして」
ミトラの冷淡な扱いに、ヒナタは嬉しそうに微笑む。
「ふふ。君のそういう容赦のないところ、昔から変わらなくて好きだよ。君に無様に踏みにじられるのも、悪くない快感だ」
完全に新しい扉を開いているヒナタを見て、カウンター内のシラベは深く溜め息を吐いた。
「あいつ、本当に懲りないな」
シラベはストレージの整理を再開しながら、視界の端で繰り広げられる奇妙な対局を眺める。
常識外れのカード泥棒騒動を乗り越えて、あるいは有耶無耶にして、ヒナタはこの店の一部の風景に溶け込んでしまっている。
ミトラも口では文句を言いながら、ヒナタが店に来るとこうして長々と対局に付き合っている。サボりの口実というのもあるだろうが、かつての学友と当時は実現しなかった同じ趣味を通じて机を囲んでいる今の時間を、彼女なりに楽しんでいるように見えた。
「んぐるるるるっ」
肩の上の大穴が、不意に鳴き声を上げてシラベの頬に冷たい鼻先を押し付けてくる。かまえという催促だ。
シラベは苦笑し、カードを置いて再び黒猫の喉元を撫でてやる。
レヴェローズが遠くから文句を言い、カルメリエルがそれを煽る。デュエルスペースではヒナタの芝居がかった敗北の悲鳴が上がり、ミトラが呆れた声でルールの基礎を説教している。
これが、今のボトムレスピットの日常だった。
理不尽な精霊たちと、厄介な常連客。そして、決して裕福ではないが、カードに囲まれた静かな生活。
シラベは悪くないなと内心で思いながら、いつかまた舞い込んでくるであろう新たな厄介事に備えて、手にしたカードをストレージに収めた。
第二部完
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