カスレアクロニクル   作:すばみずる

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第三部
38 もう一回


 薄暗い視界に、微小な埃が朝の光を乱反射して頼りなく舞っていた。

 

 ミトラは重い瞼をゆっくりと開き、自分の後頭部を支えている心地よい弾力に意識を向ける。それは使い古されたクッションでも、安物の枕でもなかった。時折蠢き、耳を当てれば妙な音が鳴り、どこか安定感がある。

 

 目を半ばまで開けたところで、ようやくそれに思い当たる。それとは即ち、シラベの腕だ。

 

「……あー」

 

 やったか。冷静にそう思い体のあちこちを触り、雑に掛かっていた毛布の中にも手を突っ込むが、乱れは無い。よかった。よかった?

 

 ともかく。身体を動かす内に意識が覚醒していき、同時に昨晩の記憶が断片的に蘇ってくる。

 

 昨日はECの最新パックの発売日だった。それを祝して、などと適当な大義名分を掲げたシラベはミトラに宅飲みを提案したのだ。

 

 出来る経営者は従業員の提案を無下にするものではないと思い、ミトラは了承。閉店後の店内で酒盛りを許可した。

 

 精霊たちは数口アルコールを飲んだだけで寝袋に入ってしまったが、ミトラとシラベ、そして──そう、なぜか居座っていたヒナタの三人は止まらず飲み続け、場所をミトラの部屋に移しても終わらなかった。そこまではミトラは覚えている。

 

 記憶の残骸は今も部屋のあちこちに散乱している。空になったスナック菓子の袋、底にわずかな水滴を残したペットボトル、そして幾つもの発泡酒やワインの空き缶が、無造作に転がっていた。

 

 ミトラは小さく息を吐き出す。

 

 普段は憎まれ口ばかり叩き合っている相手。だが少し肌寒い朝の空気の中で伝わってくるシラベの体温は、悔しいほどに心地よかった。

 

 もうしばらく、このまま微睡んでいよう。

 

 そう思い、ミトラがシラベの胴へ少しだけすり寄ろうとした時だった。

 

 シラベを挟んだ反対側に、何かがあることに気づいた。

 

 そこには、昨日の閉店から居座り続けていた客であり友人のヒナタがいた。

 

 いつもの男装スタイルを少し緩めた、自身のボディラインを隠さない着こなし。パーツ単位ではギリギリ中性的と言えそうだったが、その尻は男というには安定感がありすぎたし、その胸は大きく分厚く重くデカかった。

 

 バニースーツを着ていた時の感覚が忘れられないのか、ヒナタはそういう恰好をすることに躊躇が無くなってきていた。昨晩にはシラベからソシャゲみたいな着こなしだなと言われていたが、ヒナタはつまり需要があるということだ等とよく分からない理屈でドヤ顔をかましていた。

 

 おそらく、オタク気質のあるミトラにも刺さるのではないかと期待しているのだろう。ミトラは否定も肯定もしなかったが、強いて言えばおっさんキャラの方がガチャを回しに行きやすいのでどうでも良かった。

 

 そんな風に自分の魅力に自覚的だったヒナタは、ぐっすりと眠りながらシラベの右腕にしっかりとしがみつき、あろうことかその豊満な胸を彼の腕にこれでもかと押し付けている。だらしない寝顔を晒し、んふふと甘ったるい声まで漏らしていた。

 

 普段はシラベに対してつんけんしている癖に、見境が無い。相手が寝ているという事実を都合よく無視した理不尽な苛立ちが、ミトラの胸の奥でパチンと弾けた。

 

「起きなさいよ、あんたたち」

 

 ミトラは寝転がったまま足を振り上げ、無防備な二人の脇腹に容赦のない蹴りを見舞った。鈍い音が六畳間に響き渡る。

 

 突然の衝撃にシラベとヒナタが奇声を上げて飛び起きた。

 

「いてえっ!? なんだ朝から!」

 

「うぇ!? ……なっ、なぜ私がこんな男に……! この泥棒! 私の純潔を奪う気か!」

 

「うるっせぇ! 酒癖悪いなら最初から飲むな!」

 

 寝癖を四方八方に爆発させたシラベが怒鳴り返す。ヒナタは状況を悟って顔を真っ赤にし、自分の衣服を掻き合わせながら後ずさっている。

 

 わあわあと言い争い始めた二人を冷ややかに見下ろし、ミトラは面倒くさそうに布団から抜け出した。

 

「さっさと片付けなさいよ。もう朝なんだから」

 

 それだけを言い捨てて、ミトラは洗面所へと向かった。

 

 少しして、乱れていた髪を整え、胡散臭い男装スタイルに戻ったヒナタが部屋から出てきた。後ろには大あくびをするシラベの姿もある。

 

「では良い朝を、ミトラ。仕事が終わればまた来るよ」

 

「あの寝起きからよくそこまで気取れるわね、あんた」

 

 ミトラの言葉から逃げるように階段を駆け下り、店を出ていくヒナタ。あれで社長と言うのだから、世の中分からないものだ。

 

 手櫛で寝癖をどうにかしようとしているシラベは、洗顔中のミトラの後ろに順番待ちのように並ぶ。長くなる自分よりも先に顔を洗わせてやるか、とミトラが場所を譲ろうとすると、ふわりと匂いが鼻をくすぐる。

 寝ている時に嗅いでいた匂い。それを認識した途端、ミトラは反射的にシラベの腕を掴んだ。

 

「えっ、何」

 

「酒臭い。風呂入れ」

 

「あ? なんで朝から」

 

「うっさい。店長命令」

 

 問答無用と浴室へシラベを蹴り出すミトラ。諦観のはいった抗議の声を聞き流しながら洗顔を再開した。

 

 一階のデュエルスペースに降りて定位置の椅子に腰を下ろすと、すでに起きていたピンク髪の聖女、カルメリエルが静かに近づいてきた。彼女の手には、温かいお茶の入ったマグカップが握られている。

 

「おはようございます、ミトラ様。随分と騒がしい朝でしたわね」

 

「いつもこんなもんでしょ」

 

 マグカップを受け取り、湯気をすする。ミトラの視線はすでに手元のスマートフォンに向けられていた。日課であるシングルカードの相場チェックと、他店の在庫動向の確認だ。これを店に反映させるかは気分次第だが、それでも見ておかないと座りが悪い。

 

 画面をスクロールしていると、木造の階段が重たげに軋む音が響いた。

 

 レヴェローズだ。彼女は目を半分閉じたまま、ふらふらとした足取りで降りてくる。その腕の中には、黒猫姿の大穴がだらりと伸びて抱えられていた。

 

「……んー、契約者はまだ起きていないのか。お腹すいた」

 

「なぁお」

 

 寝ぼけ眼のレヴェローズに同意するように、腕の中の大穴が間延びした声で鳴いた。

 

「あんたの契約者なら今お風呂よ」

 

「なんと悠長な、みんな揃わないと食べられないではないか」

 

 ぶうぶう言うレヴェローズ。それに呼ばれるかのように、二階からバスタオルで濡れた髪を乱暴に拭きながらシラベが現れた。

 

「あー、さっぱりした」

 

 首の筋を伸ばしながら息を吐くシラベは、ふとミトラを見て眉をひそめた。

 

「お前も風呂入らなくていいのかよ。昨日あれだけ飲んだんだぞ」

 

「あんたの後に入るのヤダ」

 

「はあ? 理不尽すぎだろ。俺はお前の親父か」

 

 文句を垂れるシラベを無視し、ミトラはスマートフォンの画面をタップし続けた。

 

 テーブルには、カルメリエルが手際よく用意した朝食が並べられていく。狐色のトースト、半熟の目玉焼き、湯気を立てるコーヒー。

 

 床に置かれた小さな皿には、大穴用のサラダがこんもりと盛られていた。なんでも喰らう虚無の暴食家とはいえ、店舗で飼うペット枠が床の埃やゴミを漁るのは見栄えが悪すぎる。ミトラの命令で、最近はまともな餌をカルメリエルに用意させていた。今日のメニューはレタスの外葉らしい。

 

「にゃ」

 

 大穴は床の皿を一瞥すると、シラベの座る椅子の脚に前足をかけ、食卓の上へとよじ登ろうとした。目玉焼きを狙っているのは明らかだった。

 

「おっと、そっちは駄目だ。お前の朝飯は下にあるだろ」

 

 シラベは空いている手で黒猫の額を軽く押し返し、床へと降ろす。

 

「みゃあお」

 

「文句言うな。たまには野菜も食わねえと、ただでさえ黒い毛並みがもっと淀むぞ」

 

「ふしゃあ」

 

 威嚇にもならない鳴き声を上げたものの、大穴は食卓に上がるのを諦めて床のレタスをシャリシャリと噛み砕き始めた。虚無の存在が草を食む光景は何度見てもシュールだった。

 

 食事が終わると、レヴェローズが率先して空いた食器を重ね、二階の流し台へと運んでいく。総督としてのプライドはどこへやら、すっかりこの店の生活サイクルに馴染んでいた。

 

 カルメリエルはカウンターの中に入り、レジスターを立ち上げる。シラベは店のシャッターを開けるために外へ出る。

 

 それぞれの役割分担で開店準備が進む中、ミトラはバックヤードにある自分用の椅子に陣取った。

 

 食後の毛繕いを終えた大穴を拾い上げ、膝の上に乗せる。深い闇色をした柔らかな毛並みをもふもふと撫で回すと、大穴は目を細めて喉の奥でゴロゴロと低い音を鳴らした。

 

 やがて金属の擦れる重い音が響き、シャッターが完全に開き切る。ボトムレスピットの営業開始だ。

 

 ミトラの執拗な撫でに耐えきれなくなったのか、大穴は膝から身を翻して飛び降り、カウンターでPOP作りをしているシラベの肩へと器用に飛び乗った。

 

「おい、重いんだよお前。爪立てんな。あっち行け」

 

 口では文句を言いながらも、シラベは決して乱暴に払いのけようとはしない。肩に乗せたまま、手元のストレージボックスの大きさに合わせて紙を切っている。大穴もシラベの首元に顔を擦り付け、そこをすっかり自分の特等席だと認識しているようだった。

 

 ミトラはその光景を黙って眺めながら、隣のカルメリエルと仕入れ伝票の突き合わせを行う。店の経営は劇的に上向いているわけではないが、どうにか赤字の沼からは脱し、ぎりぎりで回っている。面倒な事務作業や在庫管理の大半は優秀なカルメリエルが片付けてくれるため、ミトラは堂々とサボる時間を確保できていた。

 

 

 

 日が傾き、商店街に西日が差し込み始めた夕方。

 

 店舗のガラス戸が勢いよく開き、男装のヒナタが再び現れた。朝の取り乱して逃げ帰った姿など微塵も感じさせない、堂々とした大仰な足取りで、ミトラが隠れるカウンターの前に立つ。

 

「さあミトラ、今宵も君に私の愛を証明しよう」

 

「はいはい、そこの席に座って」

 

 芝居がかった台詞を適当にあしらい、ミトラはデッキケースを手にデュエルスペースへと向かった。

 

 向かい合って座り、ゲームが始まる。

 

 ヒナタのプレイングは、客観的に見ても洗練されていた。持ち前の優れた頭脳で複雑なカードの処理を正確にこなし、一度覚えたルールや裁定は絶対に間違えない。盤面の計算も早い。

 

 だが、彼女には決定的な弱点があった。応用が全く利かないのだ。

 

 自分の思い描く理想の盤面を作ることに固執するあまり、相手の妨害や想定外のカードの動きに対して柔軟に立ち回ることができない。状況が刻一刻と変化しているにもかかわらず、自分のやりたいコンボを強引に押し通そうとして、致命的な隙を晒す。

 

 ミトラの手札破壊の戦術でキーカードを落とされ、さらに今引きした切り札には的確なカウンター戦略を叩き込まれると、ヒナタが組み上げていた盤面は砂上の楼閣のように呆気なく崩壊した。

 

「ああ……またしても君の牙城を崩せなかった。私の愛はまだ足りないというのか」

 

 ライフを削り切られ、ヒナタは大げさに天を仰いで嘆きの声を上げた。

 

 ミトラはその芝居がかった悲鳴を完全に無視し、手際よく自分のカードをデッキケースへと片付けていく。手応えのなさに対する呆れよりも、相変わらずの不器用さに少しだけ毒気を抜かれていた。

 

 そうこうする内に日は沈み、夜。二日連続のお泊りを狙うヒナタを丁重に見送った後、シャッターを下ろし、店舗の営業は終わる。

 

「ミトラ様。お湯加減は如何ですか?」

 

「悪くないわ」

 

 二階の狭いユニットバスで、ミトラはカルメリエルに抱えられる形でお湯に浸かっていた。最近はここに、黒猫の姿の大穴も当然のように割り込んでくる。お湯を怖がる様子は全くなく、湯船の縁に器用に座り込み、時折前足でお湯の表面を掻き回しては跳ねる水滴で遊んでいる。

 

 狭い湯船の中、ミトラの後頭部にはカルメリエルの豊満な双丘がぴったりと押し付けられていた。シスター服の下に隠された、暴力的なまでの質量。

 

「どうかなさいましたか?」

 

「あんたには関係無いわよ」

 

 一緒に風呂に入り始めた頃は、この過剰な密着感が息苦しくて全力で嫌がっていたのに、最近はこの底なしに柔らかな感触にもたれかかることにすっかり慣れてしまっている自分がいる。それに気づくたび、ミトラは少しだけ悔しいような、敗北感を覚えるような複雑な気持ちになった。

 

 風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かしてもらったミトラは、自室の布団に寝転んだ。

 

 携帯ゲーム機を起動し、一人用のアクションゲームを進める。

 

 電子音が部屋に響く。

 

 一年前、シラベを雇う前は、この孤独な時間が当たり前の日常だった。誰もいない静かな部屋で、ただ画面の光だけを見つめて、漫然と夜を過ごす。それが普通だった。

 

 けれど今は、部屋の外からシラベやレヴェローズの騒がしい声が聞こえなくなると、ひどく静かに感じてしまう。

 

 その静寂が、冷たくて、重い。

 

 画面の中でキャラクターが敵を倒し続けているが、指先の動きは完全に惰性になっていた。

 

 ミトラはゲーム機をスリープ状態にした。画面が暗転し、部屋の静けさが一層際立つ。

 

 少し考えてから立ち上がり、廊下へと足を踏み出す。寝袋に収まり寝息を立てるレヴェローズを器用に跨ぎ、隣にあるシラベの部屋の扉を開けた。

 

「ちょっと付き合いなさい」

 

 布団の上に寝転がり、怠惰な姿勢でスマートフォンをいじっていたシラベが、面倒くさそうに顔だけを向ける。

 

「なんだよ、今から寝るところだったのに」

 

「いいから」

 

 有無を言わせず、ミトラはシラベの背中の上にのしかかるように寝転がった。

 

「うおっ、重っ。何すんだお前」

 

 驚いて身をよじる彼を完全に無視し、持ち込んだゲーム機で対戦格闘ゲームの画面を開く。画面を壁に立て掛けると、コントローラーの片方をシラベの顔の横に無理やり押し付けた。

 

「ほら、やるわよ」

 

 シラベは長いため息をつきながらスマートフォンを床に置き、押し付けられた小さいコントローラーをしぶしぶ受け取った。

 

 二人の無言の対戦が始まる。

 

 格闘ゲームの腕前はシラベの方が上だった。ミトラの操るキャラクターは画面端に容赦なく追い詰められ、的確なコンボを叩き込まれて無残にKOの文字が表示される。

 

「もう一回」

 

「はいはい」

 

 ミトラが要求し、シラベが応じる。何度もコンティニューを繰り返すうち、シラベの操作が露骨に鈍くなってきた。簡単な連携コンボをミスし、ガードの反応が遅れる。

 

 ミトラがようやくまともな一勝をもぎ取った時、下から聞こえてきたのは、静かで規則的な寝息だった。

 

「寝てんじゃないわよ」

 

 文句を言いながらシラベの頭を軽く小突くが、起きる気配はない。すっかり寝入っている。

 

 ミトラもまた、温かいシラベの背中の上で、急速な眠気に襲われていた。

 

 今から起き上がって自室に戻るのも億劫になり、コントローラーを床の端に放り出す。そのまま毛布を手繰り寄せ、自分たちの上にふわりと広げた。

 

 背中に乗ったままうつ伏せになる。

 

 匂いがした。よく眠れる。そう直感する。

 

 静寂は、いつの間にか気にならなくなっていた。

 

 ミトラはゆっくりと目を閉じた。

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