指先は機械的に動いているだけで、カードのテキストなど全く頭に入ってこない。彼の意識は、カウンターの奥で新弾のパックを仕分けしている金髪の女性店員に完全に釘付けになっていた。
名札は着けていない。客の間では、レベという呼び名で通っている。
透き通るような白い肌に、鮮やかな金の髪。小さな顔には不釣り合いなほど豊かな胸の膨らみが、服の上からでもはっきりと分かる。
初めてこの店を訪れた時、彼女の姿を見た瞬間にクモンの心臓は早鐘のように鳴り喚き、卒倒しかけたのを今でも覚えている。
小学生のクモンにとって大人の女性というのはそれだけで圧倒的な存在だが、レベは特別だった。ただ美しいだけでなく、初心者だったクモンにエインヘリヤル・クロニクルのルールを隣に座って一から優しく教えてくれたのだ。
カードを指差す彼女の指先の滑らかさや、時折触れ合うことで伝わる彼女の熱に、クモンはすっかり夢中になってしまった。
今日こそ、自分の気持ちを伝える。
カードを置き、汗ばんだ手をきつく握りしめる。告白する言葉は昨日の夜から何度も頭の中で反芻していた。
いつもはデュエルスペースで騒いでいる中学生の集団や、変な恰好をしたやかましいイケメンの姿は無い。絶好の機会だ。
クモンが意を決してカウンターへ向かおうと一歩踏み出した、その時だった。
バックヤードから、もう一人の店員が姿を現した。
シラベとかいう男だ。いつも気怠げにレジを打っている冴えない大人だが、クモンはこの男がどうしても好きになれなかった。レベに対していつも偉そうに指示を出し、時には呆れたようなため息をつくからだ。
あんなに綺麗で優しい人に対して、なぜあんな態度が取れるのか。クモンには全く理解できなかった。
シラベはあくびを噛み殺しながらカウンターに入り、レベの隣で作業を始める。その肩には、店で飼われているらしい黒猫が器用に乗っていた。
クモンが舌打ちをこらえて足を止めた直後、信じられない光景が目に飛び込んできた。
作業の手を止めたレベが中腰になったシラベの後ろに回り込むと、そのままべたりと抱きついたのだ。
「おい、邪魔すんな。手が止まるだろ」
シラベが面倒くさそうに言うが、レベは離れようとしない。それどころか、豊かな胸をシラベの背中にぐいぐいと押し付け、彼の首筋に顔を寄せていく。
「契約者。そんな毛玉ばかり構っていないで、私を撫でろ。大穴なんかよりも、私の方がずっとお前を温めてやれるぞ」
甘く、とろけるような声だった。
クモンは息を呑んだ。全身の血の気が一気に引いていくのを感じる。レベがクモンに向けてくれる、あの包み込むような優しいお姉さんの声とは全く違う。
誰かに甘え、独占しようとしているような、クモンの知らない大人の女の響きがそこにあった。
シラベの肩に乗った黒猫が不満げに鳴き声を上げると、レベはさらに意地になったようにシラベに絡みつく。
「なんだその目は。この男は私の契約者だぞ。退け」
「フーッ」
「いい加減にしろ。あっちで棚の掃除でもしてろ」
シラベは無造作にレベの抱擁を振りほどき、彼女の額を軽く小突いた。
普通なら怒るか泣くかするような雑な扱い。だが、レベは額を押さえながらも、どこか嬉しそうに口を尖らせている。
「むぅ……契約者がそこまで言うなら仕方ない。この作業が終わったら、私の相手をしてもらうぞ」
ぶうたれながらも、レベは大人しくカウンターから出ていき、ショーケースのガラスを拭き始めた。
シラベは段ボール箱を数箱抱えて、またバックヤードの方へと引っ込んでいった。
再び、店内にはレベとクモンの二人だけになった。
今だ。出鼻をくじかれたが、今なら話しかけられる。
クモンは重くなっていた足を引きずって、ショーケースを拭いているレベに近づいた。ガラスを拭く彼女の横顔は、やはり息を呑むほど美しい。
気配に気づいたレベが振り返る。
「おお、クモンではないか。熱心にカードを見ていたな。欲しいものは見つかったか?」
クモンを見下ろすその顔には、いつもの優しいお姉さんの微笑みが浮かんでいた。
ついさっきまでシラベに向けていた、あの熱を帯びた甘い表情は微塵もない。子供に向けられる、純粋で無害な好意の眼差し。
それが、今のクモンにはひどく残酷なものに思えた。
胸の奥がぎゅっと締め付けられ、喉の奥に何かがつかえたように言葉が出てこない。ポケットの中で握りしめていたはずの勇気は、あっけなく霧散してしまっていた。
「あ……えっと……」
「ん? どうした? 何か探しているカードがあるなら、私が一緒に見てやろう」
心配そうに首を傾げるレベ。その優しさに触れるたび、クモンは自分がただの子供としてしか見られていないという事実を冷酷に突きつけられているような気がした。
シラベという男にしか、あの顔は見せないのだ。
自分がどれだけ背伸びをしたところで、彼女のあの甘えた声を引き出すことはできない。その絶対的な距離感が、小さな胸を容赦なく押し潰す。
「……どんなデッキを使おうか、悩んでて」
震える声でようやく絞り出したのは、昨晩用意していた告白の言葉ではなく、当たり障りのない相談だった。
それを聞いたレベは、ぱっと顔を輝かせた。
「ほう、デッキ構築の悩みか。ならば私に任せておけ。風属性を好むお前のプレイスタイルなら、早期にマナを伸ばして盤面を制圧する形か、大型の生命体を軸にしたものになるだろうな」
レベは掃除用の布巾を置き、身を乗り出してクモンの相談に乗り始めた。カードの属性の相性や、マナのカーブについて熱心に語る彼女の姿は、以前と何も変わらない。
クモンは適当に相槌を打ちながら、ただ彼女の唇の動きを見つめていた。
自分が何を言っているのか、ほとんど頭に入っていない。心の中には、泥のような敗北感だけが渦巻いていた。
ひとしきりアドバイスを終えると、レベは何かを思いついたようにポンと手を打った。
「そうだ。初心者のお前には、わかりやすい切り札が必要だな。ちょうどいいものがあるぞ」
そう言うと、レベは着ているTシャツの首元に手を入れた。クモンにもう少し背丈があれば、それが胸の谷間から出されたものだと見えていた。
一枚のカードがクモンに差し出される。それはスリーブに入れられたエインヘリヤル・クロニクルのカードだった。
「エースカードにはこれを使うといいぞ」
レベは得意げに笑い、そのカードをクモンの手に置く。
受け取ったカードに視線を落とし、クモンは小さく息を漏らす。
カードの名前は、『
イラストに描かれているのは、軍服を身に纏い、傲岸不遜な笑みを浮かべる美しい女性だった。金色の髪、豊かな胸、そして整った顔立ち。
不思議な事に、それは目の前にいるレベと恐ろしいほど似ていた。
同じような響きの呼び名。姿もそっくりなカード。どういうことなのかクモンにはわからなかったが、それ以上に、手渡されたカードから伝わってくる微かな温もりが彼の意識を奪っていた。
レベの胸元にしまわれていたカード。その事実だけで、顔がカッと熱くなる。
カードの表面に宿るわずかな体温が、彼女の存在そのものを手のひらに刻印するかのようだった。
「どうだ、強そうで美しいだろう。私のお気に入りの一枚なのだ。お前のデッキでも、きっと大活躍してくれるはずだぞ」
レベは自分の分身を褒めちぎるように胸を張る。
彼女にとっては、布教のために何枚ものうちの一つを、見込みのある初心者に譲っただけなのかもしれない。
だが、クモンにとっては違った。
告白はできなかった。彼女の特別な人にはなれなかった。シラベに向けていたあの甘い顔を、自分に向けてもらえる日はおそらく一生来ない。
それでも、この温もりだけは確かにクモンの手の中にあった。
「……ありがとうございます。大事に、使います」
クモンはカードを両手で包み込むように持ち、深く頭を下げた。涙声になりそうなのを、必死でこらえる。
「うむ。そのカードが大会で戦場に出た暁には、私が直々に派手な実況を叫んでやろう。期待しているぞ」
屈託なく笑うレベの顔を一度だけ見上げ、クモンは逃げるようにボトムレスピットを後にした。
夕暮れの商店街を歩きながら、クモンは何度もカードの感触を確かめた。もう体温は失われ、ただフィルムに包まれたの冷たい紙になってしまっている。
それでも、あの時の微かな温もりは、クモンの記憶の中に鮮烈に焼き付いていた。
その日を境に、クモンが組むエインヘリヤル・クロニクルのデッキには、どんな属性の組み合わせであろうとも、必ず一枚の『
それが彼なりの、決して届くことのない初恋への弔いであり、いつか届いて欲しい想いの道標だった。
「どうしました、レヴェローズ。鼻歌なんて歌って」
「私のカードを使う人間を増やすことが出来たのだ。姉様も言っていただろう、地道であっても草の根を増やしていくのが大切なのだと」
「なるほど。ちなみに、使うプレイヤーが増えることへの利点は何と考えているのかしら」
「無論、契約者のためだ」
「あら、シラベ様の?」
「うむ。私を主軸としたデッキを作る人間が一人でも増えれば、それは契約者とは違う観点が得られるということ。それが私たちには思いもよらない、劇的な発想であれば、それに感銘を受けた契約者が私をより巧みに使ってくれることだろう」
「なるほど、なるほど」
「クモンはまだ未熟だが、デッキの作り手として是非とも開花して欲しいものだ。研鑽しあう友というのは良いものだからな」
「我が妹ながら、罪深さは一丁前ね」
「何か言ったか?」
「いいえ。その努力が実ることを祈っていますわ」
カルメリエルで同じノリの話を書こうと思ったけど、R18にしかならないのでやめた