カスレアクロニクル   作:すばみずる

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40 にゃあ

 太陽が中天へ近付く頃。ボトムレスピットの裏口の隙間から黒い毛玉が一つ、音もなく外へと滑り出した。

 

 深い闇色をした毛並みを持つその黒猫は、周囲の匂いを短く嗅ぎ取ると、尻尾を揺らして悠然と歩き始める。

 

 ボトムレスピットの居候であり、万物を呑み込む虚無の暴食家、全てを喰らう大穴である。

 

 大穴にとって、自分が今被っている猫という外皮に対する自認や執着は一切ない。そもそも形という概念自体が、本来が虚無である大穴にとってはひどく曖昧なものだ。

 

 何故だか少女の形をとっていたものが、たまたまカードの効果で変化したのが今のこの形。四本足で歩き、鳴き声を上げるこの形態でいると都合が良いから維持しているに過ぎない、と大穴は思っている。

 

 本来であれば、このように前脚をぐいと押し付けて尻を上げるような伸びや、尻尾をうねらせるような行為もしなくてよい。猫としての習性は完全に後付けの代物で、ケモノとしての本能は持たない。どこぞのポンコツのように縄張りの視察などする必要もない。

 

 だが、この広大な現実世界を散歩するという行為は、猫としての習性を抜きにして、大穴にとって新鮮で退屈しない娯楽だった。

 

 

 

 シラベという相棒に見初められるまで、大穴はずっと暗く狭い構築済みデッキの箱の中に封じ込められていた。そこにあるのは静寂か、同じく箱に収められていたレディ・ローマのやかましい声だけだった。

 

 精霊がまどろみの中で見る知識の集積所は、大穴にとって無意味なものだった。ファンデッキに入れられている記録はあったが、どれもこれも古いものばかりで、新しいものが作成されない。更新されない記録たちは、大穴に自分は今、求められていないという意識を刻み込ませた。

 

 同様の境遇であったレディ・ローマも、自身の存在意義を見失っていた。私を場に出せ、女帝としての格を見せてやる、と一方的に喚き散らす彼女の演説を何回聞かされたか分からない。

 

 当時は大穴もそれを正しいのだろうなとなんとなく思い、納得のようなものをして従っていた。

 

 同調しやすかったシラベの夢に入り込んでから激動を経て今に至り、結局ローマの話が正しかったのかどうか、知る意味はなく、興味も無い。

 

 

 

 あの空間に比べれば、光と音と匂いに満ち溢れたこの外界は、歩いているだけで絶え間なく情報が流れ込んでくる素晴らしい場所だった。

 

 今はシラベの首元という特等席を見つけ、そこで丸くなっている時間が一番のお気に入りではある。

 

 だが、シラベが仕事やデッキ構築に没頭していたり、他の者への毛繕いに執着して構ってくれなくなると、こうして時折外へ散策に出るようにしている。

 

 大穴が路地裏を抜け、人通りのある表通りへと出ると、すれ違う人間たちが次々と視線を向けてきた。

 

「あ、猫ちゃん」

 

「おいでおいで、チッチッチッ」

 

 大人も子供も猫の姿を認めるやいなや注目し、時には足を止めてスマホなるものを出したり、声をかけてくる者もいる。

 

 大穴は逃げるそぶりを全く見せない。警戒心というものが欠落しているのもあるが、単に逃げる理由がないのだ。道の中央を堂々と歩き、人間が手を伸ばしてきてもそのまま受け入れる。

 

 子供の乱暴な撫で方も、大人の恐る恐る背中を擦る手つきも、大穴は目を細めて大人しく享受した。撫でられること自体は嫌いではないし、大穴には狙いがあった。

 

 ベンチに座っていた女子大生らしき二人組の足元で、大穴は立ち止まる。

 

 狙い目だ。そう思い頭を擦り付けてやると、黄色い歓声と共にもにゅもにゅと大穴を撫で回す。そして持っていた紙袋の中から、細長い食べ物が差し出した。

 

「ね、これ食べるかな」

 

「えー、猫にはヤバいんじゃないの?」

 

 それはフライドポテトという、油と塩気にまみれた人間の食べ物だ。

 

 本来、猫の消化器官にとってそれは決して口にしてはいけない代物である。塩分も油分も過多であり、健康被害は著しい。

 

 だが、大穴には全く関係のない話だった。むしろこれを待っていた。

 

 しばらく撫でさせてやっていると、人間は機嫌を良くして何かしらの供物を差し出してくる。その法則を大穴は学習していた

 

 差し出されたポテトを咥え込み、咀嚼もそこそこに胃袋という名の底なしの虚無空間へと放り込む。猫の胃袋に収まったわけではなく、字面通りの虚無に飲み込まれたのだから、病など起きようがない。

 

 味や食感、材質に頓着しない大穴だが、それでも食べる物の条件には意識を払っていた。

 

 例えば、地べたに落ちているものも問題なく食える。だが、それをするとあの店の面々から非難される。

 

 ご飯係たちから叱られ、何よりシラベに怒られるのは嫌だった。茶黒く平べったい六脚の侵入者を呑んだのを大声で咎められて以来、大穴はそういう真似は控えようと思った。

 

 許されるのは皿に入ったものと、手ずから差し出されたもの。窮屈な条件だったが、食おうと思えばなんでも食える大穴だからこそ、条件を付けて食事を行うということは、逆に達成感や充足感を感じさせる事になった。

 

 それでも我慢出来ずに口に入れてしまう事はあったが、それはそういうものだと思って自身を諦めている。

 

 大穴は器用に二本、三本とポテトを平らげ満足し、女子大生の指を軽く舐めてやるサービスをすると、再び歩き出した。

 

 気まぐれな散歩にルートや決まりはない。風の流れる方向や、興味を惹かれる匂いの先へとただ足を進めるだけだ。

 

 住宅街を抜け、なだらかな坂を下っていくと、やがて視界が開けた。

 

 広々とした空の下に、濁った水を湛えた大きな川がゆったりと流れている。

 

 河川敷だ。

 

 風が水辺特有の生臭い匂いを運んでくる。大穴は斜面に生い茂る背の高い草をかき分けながら、川辺へと降りていった。

 

 橋の下の薄暗い空間に差し掛かると、そこには奇妙な光景が広がっていた。

 

 ブルーシートや拾い集められたらしいベニヤ板、錆びたトタン屋根などで雑に組み上げられた、家のような構造物がいくつも身を寄せ合うように並んでいる。

 

 そこには街を歩いていた人間たちとは明らかに毛色の違う、服が汚れ、体から強い獣のような匂いを発する人間たちが暮らしていた。

 

 野生の人間だ、と大穴は認識した。ここの人間たちは、根本的に生態系から外れたような空気をまとっている。

 

 大穴は野生の人間たちには特に興味を示さず、川の岸辺ギリギリまで歩み寄った。

 

 ゆらゆらと流れる、莫大な量の水を見つめる。

 

 果たして、この水をすべて自分の腹の中に飲み干すことはできるだろうか。

 

 虚無である大穴の許容量には限界がないはずだが、目の前を絶え間なく流れ続けるこの流体を呑み込むには、どれほどの時間がかかるのか。

 

 そんなことをぼんやりと考えていると、背後から微かな足音が近づいてくるのが耳の形をした感覚器官に捉えられた。

 

 振り返ると、そこに見覚えのある人物が立っていた。

 

 ピンク色の長い髪を揺らし、清潔なシスター服に身を包んだ女。ボトムレスピットの同居人であり、優秀なご飯係として大穴が認識している存在、カルメリエルだ。

 

 大穴は駆け寄ろうとしたが、カルメリエルはこちらに気づいていないらしい。彼女は野生の人間たちの集落へと迷いなく足を踏み入れていった。

 

 何をしているのだろうと、大穴は草陰に身を隠したままその様子を観察することにした。

 

 カルメリエルが集落の中央に立つと、薄汚れたテントの中から次々と野生の人間たちが這い出してきた。

 

 彼らは警戒するどころか、カルメリエルの姿を見るなり顔をほころばせ、すり寄るように集まってくる。

 

 カルメリエルは肩にかけていた大きな布袋を下ろし、中からタッパーに詰められた料理や、温かいおにぎりを包んだホイルを次々と取り出し、彼らに配り始めた。

 

「お待たせいたしました。皆さんの分の用意がありますから、慌てずどうぞ」

 

「ああ、シスター。今日もすまねえな」

 

「いつも本当に助かるよ。神様仏様だ」

 

 人間たちは口々に感謝の言葉を述べながら、各々食べ物を受け取っていく。

 

 大穴は草陰で鼻を鳴らした。どうやら自分の優秀なご飯係は、この野生の人間たちにも餌付けをしているらしい。

 

 しかし、ただの施しというわけではなかった。

 

 食べ物を受け取った人間たちは、カルメリエルに向かって何事かヒソヒソと話している。

 

「例の駅前の再開発の件だがよ、どうも裏にヤクザ絡みのフロント企業が一枚噛んでるらしいぜ」

 

「隣町のカードショップ、夜逃げ同然で店閉めたってよ。在庫は全部裏口から業者が持っていったって噂だ」

 

 カルメリエルは柔和な笑みを崩さないまま、その雑多な噂話に静かに耳を傾けている。

 

 そして話が終わると、人間たちは今度は自分たちの住処の奥から、ガラクタのようなものを持ち出してきた。

 

 断線したモーター、ひび割れた基盤、どこかの工場からくすねてきたような得体の知れない金属のパーツ。

 

「こんなんでいいのかい? 業者も引き取ってくれなかったぜ」

 

「ええ、ええ。構いません。ありがとうございます」

 

 カルメリエルはそれらを嫌な顔ひとつせず受け取り、空になった布袋の中へと丁寧にしまっていく。

 

 大穴の認識では、そのやり取りの正確な意味は理解できなかった。意味の分からない会話。ただのガラクタ。なぜそれをご飯と交換しているのか。

 

 だが、ひとつだけ確かなことがあった。

 

 あの女は、この野生の人間たちを餌で飼い慣らし、何かを集めさせているということだ。

 

 それは大穴が人間に撫でさせてポテトをもらうのと同じ、等価交換の法則だった。

 

 一通りの配給と回収を終えたカルメリエルが、布袋を肩に掛け直して立ち上がる。

 

 ただ見ているだけでは食いっぱぐれる。大穴はカルメリエルの足元に駆け寄った。

 

「なぁん」

 

 鳴き声を上げてアピールすると、カルメリエルの足がぴたりと止まる。

 

 大穴は柔和だろう彼女の顔を見上げるが、胴体に付いた巨大な山脈に遮られてその表情は伺えない。

 

 声だけ聞こえて咄嗟に足を止めたのだろうが、もしかすると気のせいと思われるかもしれない。大穴は、このご飯係とあのポンコツが下方向に対する警戒心が薄いことは知っていた。 

 

「んー」

 

 大穴は彼女のシスター服の裾に、思い切り自分の頭を擦り付け始めた。

 

「みゃあ」

 

 再度カルメリエルを見上げ、前足を彼女のすねに置いて鳴く。それはボトムレスピットの店内で毎日のように繰り返されている、大穴のルーティンワークだった。

 

 ご飯が欲しい。ただそれだけの、食欲に忠実な合図。

 

 カルメリエルの小さな溜め息が、大穴の耳に届く。彼女はいつの間にか張り詰めさせていた肩の力を抜き、前屈みになって大穴の姿をその糸目で捉える。

 

「驚かせないでくださいな、大穴。お散歩の途中で迷子にでもなったのですか?」

 

 声には、いつもの慈愛に満ちた柔らかな響きが籠っていた。

 

 カルメリエルは膝を折り、足元でまとわりつく黒猫の体を両手でそっと持ち上げる。

 

 宙に浮いた大穴は暴れることなく、そのままカルメリエルの腕の中にすっぽりと収まった。

 

「さあ、帰りましょうか。お店に戻ったら、おやつをあげますからね」

 

 カルメリエルが微笑みかけてくる。大穴はその言葉に目を細め、彼女の顔のすぐ下にある凄まじい質量を持った柔らかな双丘の間に顔を深く埋め込ませた。

 

「にゃあ」

 

 息苦しいほどの豊満な弾力と温かさに包まれながら、大穴は満足げに喉を鳴らした。シラベの肩ほどではないが、ここの居心地も悪くない。

 

 野生の人間たちが集めていたガラクタの使い道も、このご飯係が裏で何を企んでいるのかも、大穴にとっては今日のおやつの前ではどうでもいいことだった。

 

 

 

 カルメリエルに抱えられて店に戻った大穴は、真っ先にシラベの姿を探した。

 

 出て来る前はもう一人のご飯係、ミトラと何やらしていたが、いまは対戦席で相手をしているらしい。レヴェローズはカウンターに立たされていたが、シラベの様子を気にしてちらちらと見ているのが丸わかりだった。

 

 つまり、今は甘えていい時だ、と大穴は判断する。カルメリエルの胸を蹴り、素早い動きで店内を駆ける。

 

 見物していた子供の股を潜り抜けて、一足飛びでシラベの肩へと降り立つ。手札を吟味していたシラベが、うお、と声を出した。

 

「お前なぁ、いきなり上がってくるなってば」

 

「にぃ」

 

 ぼやきを無視して、シラベの頭に大穴は顎を乗せる。ついでに両前足も乗せ、面倒なので胴まで伸びあがる。

 

 たちまち大穴は帽子のような恰好になった。後付けされた知識のままに香箱を組み、シラベの頭の上に居座ることに決める。

 

「こ、この猫畜生めが……ふてぶてしいことこの上ないな!」

 

「レヴェローズ、お前はレジやってろよ。ほれ、客が待ってるんだから。たまには知的労働をしろ」

 

「契約者! その獣を甘やかすな! ずるい! ええい姉様、レジ変われ!」

 

「お断りします」

 

 カウンター越しならレヴェローズが飛び出してこないと見越していた大穴は、勝ち誇る想いで前脚を舐める。シラベも無理に大穴を落とそうとはせず、むしろ首を固めてバランスを取ろうと必死になっているようだった。

 

 自分の存在を容認するそのシラベの仕草に、大穴は自然と喉が鳴る。

 

 これが相棒という存在だ。腹の下で唸るシラベの耳を尻尾の先でくすぐりながら、大穴は安寧の時を貪った。

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