竹箒がアスファルトを擦る乾いた音が、夕暮れ時の商店街に響いていた。
傾きかけた日差しがアーケードの隙間から差し込み、舞い上がる埃を黄金色に染めている。押江シラベは首に巻いたタオルで額の汗を乱暴に拭いながら、集めた落ち葉やゴミをちりとりに押し込んだ。
商店街の組合が主催する、定期清掃活動である。
ボトムレスピットは本通りから一本路地に入った目立たない立地にある上、店長のミトラが極度の面倒くさがりで近所付き合いを避けてきたため、長らく組合の活動からは遠ざかっていた。
しかしシラベが住み込みで働き始め、店に居候の精霊たちが増えてからは状況が一変した。主にカルメリエルが持ち前の交渉力で近隣商店の店主たちと折衝を重ね、組合員としての体裁を整えてしまったのだ。
結果として、手の空いている者が組合の行事に顔を出すという業務タスクが追加されることになった。時折レヴェローズが物珍しさから参加することもあり、彼女の無駄に堂々とした態度と目を見張る美貌は、意外にも商店街の老人たちから元気のいい別嬪さんとして大層な歓迎を受けている。
今日は精霊たちに店の仕事を任せ、清掃活動の参加者はシラベ一人だった。腰を叩きながらゴミ袋の口を縛り、集積所へと運ぶ。肉体労働自体は学生時代のアルバイトで慣れているが、カードショップの店員という現在の肩書とは酷くかけ離れた業務内容に、シラベは微かな理不尽さを覚えていた。
「っし。じゃーお疲れっした」
「お疲れさーん」
すべての作業を終え参加者へ一礼した後、シラベは組合から支給された入浴券を握りしめ、商店街の端にある昔ながらの銭湯の暖簾をくぐった。
熱めの湯船に肩まで浸かり、酷使した筋肉をほぐし、脱衣所に戻って扇風機の風を浴びながらコーヒー牛乳を一気に飲み干す。その一連を終えると、ようやく普段とは違う労働が終わったという実感が湧いてきた。
濡れた髪をタオルで乱雑に拭きながら銭湯の引き戸を開け、夜の気配が濃くなった通りに出た瞬間だった。
街灯の下に、見覚えのある人影が立っていた。
細身のスラックスに、仕立ての良いジャケット。男性的な服装を好む男装の麗人でありながら、最近では胸の膨らみだけは一切隠そうとしていない。シャツのボタンが弾け飛ばないのが不思議なほどの豊満な双丘を堂々と前方に突き出し、電柱に寄りかかるようにして腕を組んでいる。
若き社長であり、ミトラに対して異常な執着を見せる女。亜修利ヒナタだった。
ヒナタはシラベの姿を認めるなり、電柱から背中を離して大股で歩み寄ってきた。
「遅かったな、従僕くん」
「なんだお前。何企んでやがる」
「心外だな。君の動向を追っていれば、清掃活動中のミトラにも会えるのかと思ってから張っていただけだ」
堂々とした不審者発言に、シラベは濡れたタオルを首にかけ直しながら深い溜息をついた。
「あるいはミトラは先に銭湯に来ていて一緒に帰るのかと思ったが、結局君一人だけか」
「あの引きこもり店長が、商店街のゴミ拾いだドブさらいだなんぞに顔を出すわけないだろ。少し考えれば分かることだ」
「む。言われてみれば確かにそうだな。彼女の白魚のような手を泥で汚すなど、私の美意識が許さない」
「そもそも、何でこんな時間までこんな場所をうろついてるんだ。マジでストーカーやってんのかよ、仕事しろ」
シラベの冷たい視線に対し、ヒナタは得意げに鼻を鳴らした。
「人聞きの悪いことを言うな。私の会社が今度、この町内会で行われる祭りの後援をすることになってね。本日はその視察の一環として現場の空気を感じに来ていたんだよ」
「なにが視察だ、完全に公私混同でミトラ狙いじゃねえか」
「定時はとうに過ぎている。社長とはいえ、業務時間外のプライベートまで制限されるいわれはない」
悪びれもせずうそぶくヒナタに、シラベは頭痛を覚えてこめかみを押さえた。ここで立ち話を続けていても疲労が溜まるだけだと判断し、無視して帰路につこうと歩き出す。
しかしヒナタは長い足で容易に追いつき、シラベの横に並んだ。
「まあ待て。せっかくだ、少し付き合いたまえ」
ヒナタに半ば強引に連れ込まれたのは、銭湯からすぐ近くの静かな純喫茶だった。
薄暗い照明と革張りのソファ、店内に流れる静かなジャズが、表の喧騒を遠ざけている。二人は対面で席に座り、シラベはアイスコーヒーを、ヒナタは紅茶を注文した。
ミトラという目当ての人物が周囲にいないせいか、今のヒナタはいつもの演劇めいた大げさな身振りを潜め、ひどく物静かだった。黙って紅茶のカップを傾ける姿を正面から見据えると、改めてその容姿の良さが際立つ。
切れ長の目元に通った鼻筋、男装を際立たせるために整えられた短いアッシュグレーの髪。しかし視線を少し下げれば、テーブルの上に乗せられた腕の隙間から、主張の激しい胸の谷間が露わになっている。端正な顔立ちと過剰な女性的シンボルのアンバランスさが、奇妙な色気を醸し出していた。
(こいつ、中身があんな狂ってなければ、ただの超絶美人でスタイル抜群の金持ちなんだよな)
シラベはストローを噛みながら、しみじみとそんなことを考えた。客観的に見れば完璧なステータスを持ちながら、その情熱のすべてをミトラへの一方的な愛に注ぎ込んでいるのだから救いがない。
シラベの生温かい視線に気づく様子もなく、ヒナタはカップをソーサーに静かに置いた。
「さて。君を引き留めたのは他でもない。少しばかり君の知恵を借りたいと思ってな」
「金持ちの社長が、ただのカードショップ店員に何の相談だ」
「ミトラとの対戦で勝つための、具体的な方策についてだ」
真剣な眼差しで放たれた言葉に、シラベは思わずアイスコーヒーを吹き出しそうになった。
「はあ? なんで俺に聞くんだよ。普通、敵の身内に塩を送れなんて頼まないだろ」
「口惜しいが、現在のミトラの対戦を最も間近で、かつ冷静に分析できる環境にいるのは君だろう。それに、君ならば私情を挟まず、純粋な戦術的観点から意見を述べてくれると見込んでいる」
ヒナタの言葉に、シラベは首の後ろを掻いた。面倒なことに巻き込まれたという思いが半分。しかしもう半分で、あのふんぞり返っている店長がヒナタ相手に本気で追い詰められ、苦虫を噛み潰したような顔をするのも面白いかもしれないという悪戯心が芽生えていた。
「まあ、いいや。ただし俺の主観に基づく分析だ。絶対じゃないぞ」
「構わない。聞かせてくれ」
ヒナタは身を乗り出し、テーブルの上の砂糖壺を邪魔そうに端へ追いやった。その拍子に胸がテーブルの縁に押し付けられ形を変えるのが目に入ったが、シラベは意識して視線を外した。
「あいつが最近使ってるデッキの基本戦術はコントロール。序盤は徹底的に打ち消しと防御を固めながらマナを伸ばす。で、中盤以降に全体破壊の呪法や戦術を使って、こっちが展開した生命体や機械を一度全部更地にする」
「あの悪夢のような全体破壊か。先日も私のドラゴンたちが一瞬で塵にされた」
ヒナタが苦々しい顔で呟く。
「最後には大型生命体を着地させて、ガラ空きの顔を殴って終わりが基本形って感じだな。使うデッキに拘りがないなら、相手の手札を覗いて捨てさせる『片手落とし』や『初対面のあいさつ』なんかを初手に打てれば打ち消しがあるかどうかの前方確認が出来る。あとは『ドラゴンの昼飯』みたいな
シラベが具体的なカード名をいくつか挙げながらメタの張り方を解説すると、ヒナタは真剣な表情で頷き、時には手帳を取り出してメモを取り始めた。
ティーチングで教えた時もそうだったが、この女は興味のある分野に対する学習意欲が異常に高く、飲み込みが早い。経営者になり得るような能力の高さがこういうところに出ているのだろうと、シラベは感心するしかなかった。
三十分ほどの即席の講習を終えると、ヒナタが注文していたパンケーキが運ばれてきた。授業料代わりだと言って勧められ、シラベは遠慮なくフォークを伸ばした。
甘いシロップが疲れた体に染み渡るのを感じながら、シラベはずっと気になっていたことを切り出した。
「そういや、聞いておきたいことがあったんだ」
「なんだ。指南の礼だ、私に答えられることなら答えよう」
「以前、アンタがレディ・ローマと大穴のデッキを盗んだ時のことだ」
シラベの言葉に、紅茶を飲もうとしていたヒナタの手がぴたりと止まった。バツの悪い顔をして視線を泳がせたが、シラベの言葉を遮ろうとはしなかった。
「あの二人、自分たちが宿っていた構築済みのデッキを使われることを望んでいたはずだろ。だが、実際にアンタが講習会に乗り込んできた時、使っていたデッキはあいつらの初期デッキとは全く違う、ガチガチに組まれたデッキだった」
シラベはフォークを置き、ヒナタの目を真っ直ぐに見た。
「あいつら、プライドを折ってまでデッキの改造を了承したってことか?」
今となってはどうでもいい話ではある。だが、一時期でも睡眠を妨害されていた身からすると、それで済む程度の話だったのかと肩透かしを食らっている部分もある。
ヒナタはしばらくカップを見つめた後、小さな溜息をついて口を開いた。
「……当時の顛末を話せば、少々情けない話になるのだがな」
ヒナタは背もたれに体を預け、視線を天井に向けた。
「あの深夜、君たちの店のバックヤードで監視カメラを仕掛け、貸出用の箱からあの二つのデッキを盗み出して自宅へ戻った後のことだ。大穴の精霊は無口で、ただ部屋の隅で高級な菓子を貪っているだけだった。だがレディ・ローマは違った。彼女は私に
シラベの脳裏に、高飛車に笑うレディ・ローマの姿が容易に浮かんだ。
「当初は私も、彼女の言う通りそのデッキを使ってミトラ、そして君に挑むつもりだった。だが、基本的なルールを把握し、カードの効果を理解した上で、私は一つの疑問を抱いた。君たちが普段どのようなレベルの戦いをしているのか、基準を知っておくべきだと」
「それで?」
「こっそりと、現代の
「マジか」
ヒナタの顔に、当時の絶望が蘇ったような影が差した。
「そこで繰り広げられていたのは、レディが誇るデッキの動きとは全く別次元の光景だった。詳しいルールは分からなかったが、それでもいわゆる速度に差があるのは歴然だった。第一ターンから流れるようにマナが供給され、手札が循環し、数ターンの間に致命的な盤面が形成されていく。速度、安定性、そして妨害の質。すべてにおいて、レディのデッキは時代遅れの鈍重な産物でしかなかった」
シラベは黙って頷いた。古いカードが弱いわけではない。ただ、カードプールの増加と共にゲームの速度が上がり、単体で強いカードを漫然と叩きつけるだけのデッキは、現代の洗練された構築には太刀打ちできなくなっている。構築済みともなるとそれは顕著だ。
「私は確信した。あのままのデッキで挑めば、一矢報いるどころか、手も足も出ずに蹂躙されるだけだと。しかし……」
ヒナタは苦悩に満ちた表情で両手を組んだ。
「私にミトラとカードという以前は興味の無かった土俵で関わるきっかけを与え、打倒シラベという共通の目的のために協力してくれているレディに対し、『君のデッキは弱すぎて使い物にならない』などと、どうして言えようか。彼女の誇り高い笑顔を見るたびに、私の胃は痛んだよ」
「あれだな。現場の古いやり方に固執する頑固職人と、現実の厳しい市場原理に板挟みになった中間管理職ってやつ」
大企業の社長が個人の屋敷で味わうには、あまりにも世知辛い苦労である。
「それで、どうしたんだ」
「ごまかした」
ヒナタは胸を張り、なぜか少し誇らしげに宣言した。
「まず、どのラインまでデッキを変えられるかを測った。『君という主力カードをさらに輝かせるために、少しだけ周囲の環境を整えさせてもらえないか』と言い、彼女を残して残りを少しずつ強力なカードにすり替えた。専用のデッキという体裁を保ちつつ、中身は別物へと作り変えたのだ」
「どうりでデッキ覗いた時、入ってる基本のルーンカードにレディと同じ構築済デッキのシンボルマークが付いてると思った。テセウスの船だったわけか」
「だがそれも勝つためには足りない。なので次に、大穴にも活躍させるべきかなと誘導し、複合属性になるならばデッキ改修も仕方がないと決定的な言質をとった。その後はネットで初心者の私でも扱えて経験者を倒し得る速度のデッキリストを追求した結果、あのデッキが完成したというわけだ」
「はー。……お前、カメラを仕掛けてデッキを盗み出してから、あの講習会に乗り込んでくるまでの間は一週間しか無かったよな。その間、仕事しながらずっとそんなことやってたのかよ」
シラベが呆れて尋ねると、ヒナタは当然のように言い放った。
「そのとおりだ。仕事中の短い休憩時間の間にブラウザを開いて確認したり、夜な夜な彼女たちが眠りについた後、布団の中でスマートフォンの灯りを頼りにカードの相性を調べ、カードを注文しつつコンボルートを頭に叩き込んでいた。昼間に店へ乗り込んだ時、私の目の下に隈ができていたのに気づかなかったか? あれは寝不足と疲労によるものだ」
知るか、とシラベは内心で突っ込んだ。あの時はバニースーツのインパクトが強すぎて顔色など気にする余裕もなかった。ともすると、あのスーツは深夜テンションのようなものだったのかもしれない。
狂気じみた情熱の裏に、そんな涙ぐましい中間管理職のような苦労があったとは思いもしなかった。しかもその一週間の努力の結晶は、結局ミトラの『永劫回帰』対応デッキによって打ち砕かれてしまったのだから、不憫としか言いようがない。
「まあ、なんというか。お疲れ様」
シラベが本気で労いの言葉をかけると、ヒナタは自嘲気味に笑って残りの紅茶を飲み干した。
「その経験があったからこそ、私はデッキ構築の妙を知ることができた。無駄ではなかったさ。次にミトラと対峙する時は、純粋に勝利のみを追求した完璧なデッキを用意する」
力強く宣言するヒナタの瞳には、またあの狂信的な炎が宿っていた。
シラベは残ったパンケーキを口に運びながら、あの面倒くさがりな店長に待ち受けるであろう新たな刺客の存在を思い、少しだけ胸のすくような思いを味わっていた。