橋谷クモンは、自分の心の移り変わりの早さに少しだけ戸惑っていた。
ついこの間まで、彼はボトムレスピットの金髪の店員であるレベに夢中だった。彼女に恋い焦がれ、その笑顔を独占したいと願い、そして彼女の隣には常にあの気怠げな男がいるという現実に打ちのめされた。
初恋は見事に散った。レベから手渡されたカードだけが、その儚い想いの証として彼の手元に残された。
だが、その傷が癒えるよりも早く、クモンの視線は別の人物へと吸い寄せられるようになっていた。
カルメリエル。
レベと同様、ボトムレスピットにいつの間にかいるようになっていた、ピンク色の長い髪を持つ女性だ。
いつもシスター服に身を包む不思議な装い。基本的にはカウンターからあまり出ない仕事や買い出しをしているような、裏方仕事をこなしているようだった。
レベが姉と呼ぶことから姉妹であるらしいことは客の間でも噂になっていたが、勝気で感情表現の豊かなレベとは対照的に、カルメリエルは常に穏やかな微笑みを絶やさない。
そして何よりクモンの目を釘付けにしたのは、そのシスター服では到底隠しきれない胸の膨らみだった。
小学生のクモンにとって、それはあまりにも刺激の強い光景だった。彼女が少し身を屈めたり、テーブルの上のカードを片付けたりするたびに、布地が引き伸ばされて形作られる柔らかな稜線から目が離せなくなる。
レベに向けられていた熱情はいつの間にか行き場を変え、カルメリエルという底なしの沼へとゆっくりと沈み込み始めていた。
その日、クモンは新しいデッキの調整を終えて、店を出たところだった。
ふと視線を向けると、店舗の脇にある細い路地から、カルメリエルが大きなゴミ袋を両手に下げて歩いていくのが見えた。裏手のゴミ置き場へと向かっているのだろう。
夕暮れの斜陽が、闇に溶ける前の彼女の後ろ姿を黄金色に縁取っている。
クモンは周囲を見回した。店内の客や店員はデュエルスペースで熱戦を繰り広げており、誰もこちらに気付いていない。
気が付けば、彼の足はカルメリエルの後を追って路地へと踏み込んでいた。
建物の隙間にある裏手は、表通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。室外機の低いうなり声と、どこかから漂ってくる少しカビ臭い空気。
その薄暗がりの中で、カルメリエルはゴミ袋を集積所に丁寧に収めているところだった。
立ち去るなら今だ。頭の片隅で微かに警鐘が鳴ったが、理由は分からない。考えるよりも先に、クモンは声を出していた。
「あ、あの。カルメリエルさん」
自分でも驚くほど上擦った声だった。
カルメリエルはゆっくりと振り返り、クモンの姿を認めると、いつものように糸目で優しく微笑んだ。
「あら、クモン君。どうしたのですか。こんな裏手まで」
「その、ゴミ捨て、大変そうだったから。手伝おうかなって思って」
取ってつけた言い訳だった。ゴミ袋はすでに片付け終わっているのだから、手伝うも何もない。
だがカルメリエルはそれを呆れることなく、シスター服の裾を軽く払ってからクモンに歩み寄ってきた。
「優しいのですね。お心遣い、感謝いたします。でも、もう終わってしまいましたから大丈夫ですよ」
彼女が近づいてくるにつれて、クモンは芳しい香りに周囲が包まれていく気がした。薄暗い路地の中で、彼女の存在だけがぼんやりと光を放っているように感じられる。
「カードの調子は如何ですか。最近、よく新しいデッキを試していらっしゃるようですが」
「あ、はい。レベさんから貰ったカードを中心に組んでみてて。結構、勝てるようになってきました」
「まあ。妹のカードを愛用してくださっているのですね。姉として、これほど嬉しいことはありませんわ」
カルメリエルは口元に手を当てて、ふふっと上品に笑った。
その仕草に合わせて、シスター服に包まれた双丘が豊かに揺れる。クモンは慌てて視線を彼女の顔へと戻した。
当たり障りのない会話だった。デッキの構成、最近よく対戦する相手のこと、店内の居心地。
それでも、カルメリエルはクモンの言葉一つ一つに丁寧に耳を傾け、相槌を打ってくれる。彼女の紡ぐ言葉はどれも柔らかく、冷たい夕暮れの空気の中でクモンの胸の奥にじんわりと染み入ってきた。
レベに話しかけた時は、どこか子供扱いされているような感覚があった。クモンは子供なのだから、それは当然ではある。
だがカルメリエルは違った。彼女の慈愛に満ちた眼差しは、クモンを一人前の相手として、全肯定で受け入れてくれているように思えた。
もしかして、カルメリエルさんも僕のことを。
そんな淡い期待が、クモンの頭をもたげる。都合の良い勘違いだと笑うには、目の前の女性の態度はあまりにも優しすぎた。
クモンの頬が熱を帯び、言葉数が少しずつ減っていく。彼の視線が熱っぽく自分に向けられていることに、カルメリエルが気付かないはずがなかった。
彼女はふと会話を途切れさせると、クモンの目の高さに合わせるように、ゆっくりとその場に屈み込んだ。
そして、両手をふわりと広げた。
「クモン君。あなたはとても、一生懸命で、可愛らしい方ですね」
まるで迷子の子供を迎え入れるような、すべてを許容する聖女のポーズ。
目の前に差し出されたその圧倒的な包容力と、すぐ目の前に迫るシスター服の張りに、クモンの理性はあっけなく吹き飛んだ。
気が付けば、クモンはカルメリエルの胸に飛び込んでいた。
柔らかい。想像を絶する感触だった。顔面を押し付けたそこは、クモンの頭をすっぽりと包み込むほどの質量と弾力を持っていた。布越しに伝わる温もりが、クモンの全身を粟立たせる。
「僕……カルメリエルさんのことが、好きです」
クモンは思わずそう呟いていた。我慢できなかった。この温もりを、この優しさを自分だけのものにしたいという衝動が、言葉となってこぼれ落ちた。
カルメリエルは驚いて突き飛ばすようなことはしなかった。彼女の細い腕がクモンの背中に回り、頭を優しく撫で始める。
「ありがとうございます、クモン君」
頭上から降ってくる甘い声。肯定された。受け入れられた。クモンの心は天にも昇るような歓喜に包まれた。
「七十二です」
「え?」
しかし、その直後に落とされた言葉は、冷や水のようにクモンの思考を停止させた。
「私にそう告白してくれたのは、クモン君で七十二人目なんですよ」
クモンは息を呑み、腕の中に抱かれたまま固まった。
七十二人。
それはあまりにも現実味のない、途方もない数字だった。クラスの人数よりもはるかに多い。
「みんな、あなたと同じように無邪気に大好き、大好きと抱きついてきてくれて。本当に可愛らしくて、愛おしい子供たちばかりでしたわ」
カルメリエルはクモンの背中を一定のリズムで撫でながら、楽しげに囁き続ける。
クモンの胸の中に、黒い感情が渦巻き始めた。
自分は特別ではなかったのだ。この温もりも、この優しい声も、これまでに七十一人もの人間が味わってきたもののお下がりに過ぎない。
レベの隣にシラベがいた時の絶望とは違う。見知らぬ大勢の誰かが、自分より先にこの胸に顔を埋め、同じように甘やかされていたという事実は、クモンのちっぽけなプライドを容赦なくえぐり取った。
悔しい。惨めだ。今すぐこの腕の中から抜け出して、泣きながら走り去ってしまいたい。
身をよじって離れようとしたクモンの背中に回された腕に、少しだけ力がこもる。
「でも、勘違いしないでくださいね。私は無条件に、皆を甘えさせているわけではありませんわ」
カルメリエルの声のトーンが、ほんのわずかに変わった。慈愛の響きの中に、ぞくりとするような甘い毒が混ざり込む。
「クモン君はとても可愛らしくて、一生懸命だったから、こうして特別に抱きしめてあげたのです。そして……」
彼女の唇が、クモンの耳朶に触れるほど近づいた。
「私の役に立ってくれる子には、もっと、たくさん甘えさせるようにしているんです」
役に立つ。その言葉が、クモンの頭の中で反響した。
七十一人という数字の重みが、一瞬にして意味を変える。他の有象無象がどうであろうと関係ない。自分が彼女にとって一番役に立つ存在になれば、この特別な温もりを独占できるのだ。
用意された蜘蛛の巣の中心に自分から飛び込んでいることなど、小学生の彼に気付けるはずもなかった。
「僕、やります……っ。カルメリエルさんの役に立ちます。なんでも、言われたことやりますから……!」
クモンは必死だった。彼女のシスター服の背中を小さな手でぎゅっと掴み、自分からさらに深くその胸の谷間へと顔を埋める。
縋り付くようなその訴えに、カルメリエルは満足そうに目を細めた。
「まあ、嬉しい。なんていい子なんでしょう」
カルメリエルはクモンの背中を強く抱きしめ直すと、そのままゆっくりと立ち上がった。
クモンの足が地面から離れる。小柄な彼は、カルメリエルの腕力によって、いとも簡単に抱き上げられていた。
足のつかない浮遊感と、体に密着するカルメリエルの肉体の柔らかさが、クモンの感覚を完全に支配する。
顔は彼女の首筋に埋まり、息をするたびにその甘い匂いが肺の奥まで入り込んでくる。足を開いて彼女の腰に絡みつくような、無防備で圧倒的な依存の体勢。
抵抗しようという気力すら湧かない。ただ、この温かくて柔らかい揺り籠の中で、すべてを委ねてしまいたいという欲求だけが残った。
「あなたの献身に、心から感謝します。私の為に、たくさん役立ってくださいね、クモン君」
頭上から降ってくる、甘く、恐ろしいほどの支配力を持った声。
完全に骨抜きにされたクモンは、意味を持たないかすれ声で答えることしかできなかった。