薄暗い六畳間を満たしていたのは、奇妙なほどの静寂だった。
押江シラベは重い瞼をこじ開け、せんべい布団を押し退ける。
いつもならば布団に潜り込んできている馬鹿共の寝言や衣擦れの音がしてきたり、あるいは一階の店舗部分から何かしらの騒々しい物音が聞こえてくるはずだった。
しかし今朝は、耳鳴りがしそうなほどの無音が空間を支配している。通りを走る車両の音すら聞こえてこない。
シラベは首を傾げながら寝巻き姿のまま立ち上がり、軽く伸びをした。
冷え切った空気が肌を刺す。ボトムレスピットというこのカードショップに住み込みで働くようになってから、これほど静穏な朝を迎えた記憶はなかった。
扉を開け、軋む音を立てる木造の廊下へと足を踏み出す。その瞬間だった。
「にゃあ」
視界の端で何かが跳ねたかと思うと、シラベの胸元にふわりとした塊が飛び込んできた。
思わず両腕でそれを受け止める。腕の中に収まっていたのは、一匹の猫だった。
きらきらと輝くような美しい金色の毛並み。そして、どこか高貴さすら感じさせる、透き通った紫色の瞳。
見覚えのない猫だ。野良猫にして身綺麗で、よく世話をされている。
「なんだお前、どこから入ってきた」
シラベが問いかけても金色の猫は答えない。
無遠慮に掴まれているというのに、逃げようとするそぶりすら見せない。それどころか、喉の奥でゴロゴロと心地よい音を鳴らしながら、シラベの腕に前足を絡ませ、すりすりと頭を押し付けてくる。
ずいぶんと人慣れしている猫だ。体温の心地よさに少しだけ警戒心を緩めたシラベは、その柔らかな毛並みを撫でる。
「にっ」
短く鳴く金の猫。その仕草は見た目の高貴さとは裏腹に無邪気で、なかなかの甘え上手だった。
寝る前に戸や窓を閉め忘れたのだろうか。片手で猫を抱き抱えたまま、シラベは階段を下りていく。
店舗の一階、デュエルスペースへと足を踏み入れる。そこにはいつものように、朝食の準備が整えられていた。
湯気を立てる味噌汁と、綺麗に焼き上げられた鮭の切り身、そして炊きたての白米が並んでいる。いつも通り、カルメリエルが調理した料理だろう。
しかし、肝心の彼女の姿がどこにもない。バックヤードを覗き込んでも、ピンク髪のシスターは見当たらなかった。
そればかりか、子供よろしく早起きなミトラや、意外とおあずけが出来るタイプのレヴェローズの姿すらない。一番遅起きなシラベを待って朝食を開始するのがいつの間にか定番となったボトムレスピットの朝なのに、一人も席に着いていないのはおかしい。
「誰かいないのか?」
シラベの呼びかけは店内に虚しく吸い込まれていった。途端に、得体の知れない不安が胸の奥に這い上がってくる。
皆、揃いも揃ってどこへ消えてしまったというのか。神隠しにでも遭ったような異常な状況に、シラベが周囲を見回した時だった。
足元で、控えめな鳴き声がした。
「にゃうん」
視線を落とすと、そこにはまた見慣れない色の猫がちょこんと座っていた。
ふんわりとした、綿菓子のようなピンク色の毛並み。
しっぽを上品に足元に巻きつけて、糸目がじっとシラベを見上げている。その佇まいには、どこか覚えのある。
シラベは嫌な予感を確かめるように、抱きかかえていた金色の猫を落とさないようゆっくりとしゃがみ込んだ。
「まさか……カルメリエル、なのか?」
信じられない思いで口にした名前に、ピンク色の猫は応えるように小さく鳴いた。
「にゃあ」
肯定しているとしか思えないタイミングだった。ピンクの猫は立ち上がり、シラベの足首に柔らかな体を擦り付けてくる。
シラベの頭の中は、混乱でぐちゃぐちゃになりそうだった。その混沌をさらに深めるように、ドスッという軽い衝撃が首元を襲った。
「痛っ」
思わず首をすくめると、いつの間にか背後の棚の上から飛び乗ってきたらしい小柄なトラ猫が、シラベの肩に陣取っていた。
トラ猫は短い手足でしっかりとシラベの服を掴み、どこか見下すような、ふてぶてしくも偉そうな視線をシラベに向けている。
その生意気な目つき。小柄でありながら周囲を全く気にしない堂々とした態度。シラベの直感が、理性を追い越して答えを導き出した。
「痛えな……お前、ミトラか!?」
シラベが半ば確信を持って叫ぶと、トラ猫は舌打ちのような鳴き声を漏らした。
「なん」
ひどく不機嫌そうな顔を作りながらも、トラ猫はシラベの首筋に自らの頭をぐりぐりと押し付けてくる。
文句を言いつつも甘えたいという、ひねくれた感情が痛いほど伝わってくる擦り寄り方だった。
「おい、やめろ、くすぐったい」
シラベがトラ猫を引き剥がそうと手を伸ばしかけた瞬間、さらなる追撃がやってきた。
床を蹴る乾いた音と共に、灰色の影が宙を舞う。
それは大柄な灰色の猫だった。
灰色の猫はシラベのもう片方の肩に飛び乗ると、そのまま首元にいるトラ猫へと身を乗り出していった。
「にゃあああん!」
情熱的で、どこか大げさな鳴き声。その声には、相手への抑えきれない愛衝動が込められているようだった。
灰色の猫はトラ猫の毛並みに顔を埋めようと必死に擦り寄っていく。
「ふごっ、しゃーっ」
トラ猫は全身の毛を逆立て、本気で嫌がるように前足で灰色の猫の顔面をバシバシと叩き始めた。
しかし灰色の猫はそんな抵抗など気にも留めず、ひたすらにトラ猫へのアピールを続けている。
「……ヒナタもかよ」
シラベは呆れ果て、深い溜息を吐いた。
トラ猫と灰色猫が痴話喧嘩を繰り広げ、足元ではピンクの猫が静かに寄り添い、そして左腕の中では金色の猫が至福の表情で喉を鳴らしている。
猫まみれ。
ただの動物好きなら狂喜乱舞する状況かもしれないが、シラベにとってはこの猫たちの正体が知人である可能性が高いという事実が、強烈な精神的疲労を引き起こしていた。
シラベは腕の中で仰向けになり、すっかり安心しきっている金色の猫を見下ろした。
紫色の瞳が、とろんと細められている。
「じゃあ、お前は……レヴェローズなのか」
確認するように問いかける。
金色の猫は、まるで総督が部下を労うような尊大な、それでいて甘え切った声で答えた。
「にゃあ」
間違いない。こいつらは全員、何らかの理由で猫になってしまったのだ。
シラベがこの不条理な空間にどう立ち向かうべきか頭を抱えかけた時。
ズシン、という重い音が響いた。
店内の床が微かに揺れる。
ズシン、ズシン。音は外から近づいてくる。
それは足音というよりも、小規模な地震のようだった。
シラベは肩の上の二匹を落とさないように気をつけながら、腕の金猫を抱き直し、もう片方の腕でピンク猫を抱え、おそるおそる店舗の入り口の扉を開けて外を覗き込んだ。
外を埋め尽くしていたのは、圧倒的な黒だった。
見上げるほどの高さ。ビルの二階部分にまで届こうかという巨大な黒い影。
それは、艶やかな黒い毛並みを持った、規格外の巨大な黒猫だった。
夜の闇をそのまま固めたような漆黒の巨躯が、店の前に鎮座し、見下ろすようにシラベを見つめている。
底知れぬ深さを持つ星屑の瞳。
ただ食欲と本能のままに全てを呑み込む、虚無の権化。
「大穴……?」
シラベが震える声でその名を呼ぶと、巨大な黒猫の喉が鳴った。
それはもはや猫のゴロゴロ音ではなく、地鳴りやエンジンの駆動音に等しい轟音だった。周囲の建物の窓ガラスがビリビリと共鳴して震える。
巨大黒猫は、シラベの姿を認めるや否や、嬉しそうに目を細めた。
そして、その巨大な頭部をゆっくりと下げ、シラベへと近づけてくる。
甘えるつもりなのだ。
普通の猫がするように、頭を擦り付けて愛情表現をしようとしている。
だが、その質量は普通ではない。
迫り来る漆黒の壁。シラベが避けようにも、猫達を蔑ろにする激しい動きは出来ない。
「おい、待て、やめろ、潰れ──」
シラベの悲鳴は、巨大な柔毛の塊に包み込まれ、あっけなく途絶えた。
視界が完全に黒に塗り潰され、凄まじい圧迫感がシラベの全身を押し潰していく。
息が、できない。視界が黒一色のまま、意識が溶けていく。
震わせる唸り声だけが響き続けていた。
◆
ボトムレスピットの朝。薄暗い六畳間の扉が、乱暴に開け放たれた。
「もう朝だぞ契約者。いつまで寝ているつもりだ」
偉そうな声と共に現れたのは、無地のTシャツとスウェットのショートパンツという部屋着姿のレヴェローズだった。
彼女はせんべい布団の中で横たわるシラベを見下ろし、呆れたように息を吐いた。
シラベの顔面は、完全に塞がれていた。
仰向けに寝ているシラベの顔の上で、漆黒の毛並みを持つ一匹の猫が見事な香箱座りを決めている。
大穴だ。顔面に乗っかった黒猫はシラベの鼻と口を塞ぎ、喉の奥からゴロゴロと満足げな重低音を響かせていた。
「まったく。そんな顔の上に張り付かれて寝ていたら、契約者が悪夢を見るだろうが。退いてやれ」
レヴェローズが注意するが、黒猫の姿の大穴は全く気にする素振りを見せない。むしろ目を細め、より一層シラベの顔面に体重を預けるようにしてゴロゴロと喉を鳴らし続けた。
窒息しかけているシラベは、無意識の内に苦しげな呻き声を漏らし、布団の中でわずかに身をよじっている。
「呆れたやつだ。まあいい」
レヴェローズはため息をつきながら、布団に近づいてきた。
彼女の視線が、シラベの身体へと向けられる。
顔面は黒猫に占領されているが、首から下の胴体部分は、今のところ空き地になっていた。
朝の少し肌寒い部屋。暖を取るための適当な場所。
レヴェローズの脳内でいくつかの条件が組み合わさり、極めて自己中心的な結論が導き出される。
彼女はためらうことなくシラベの布団の上に乗り上げ、そのままシラベの胴体をまたぐようにして四つん這いになった。
「ちょうどいい。私も少しばかり寒かったのだ。ここで暖を取らせてもらうぞ」
そう言うが早いか、レヴェローズは上半身の体重を、シラベの胸板の上に預けた。
無地のTシャツ越しでも隠し切れない、豊満にして凶悪な質量が、シラベの身体を容赦なく圧迫する。
顔面を黒猫に塞がれ、胸部を総督閣下の質量で押しつぶされたシラベ。絞り出されるような、ひゅっと空気が漏れる音が響く。うなされ方はさらに激しくなり、手足が痙攣するようにビクビクと動く。
しかし、上に乗る二つの重りはその苦悶に全く配慮する様子はない。黒猫は心地よさそうに顔面で香箱を組み続け、レヴェローズはシラベの胸元に頭をすり寄せて、ふにゃりとしただらしない表情になる。
「うむ。やはり契約者の上は落ち着く。……目覚めるまでこうしていようか」
満足げな呟きとは対照的に、シラベの意識はさらなる深い悪夢の底へと沈んでいく。
レヴェローズは大穴と共に、のんびりと契約者の温もりを味わい続けるのだった。