レヴェローズ・ドゥブランコは、胸の奥底に澱のように溜まる疑念を持て余していた。
ボトムレスピットの狭い店内を見渡せば、ピンク色の髪と修道服を纏った姉、カルメリエルの姿が目に入る。あの腹黒い姉は、周囲の人間から好意を引き出す術を呼吸をするように使いこなす。シラベのように初めから底意を疑ってかかるか、ヒナタのように自らの欲望以外が視界に入らない狂人でなければ、瞬く間にその懐へと絡め取られてしまう。
最近のカルメリエルは、特定の子供たちと顔を寄せ合い、ひそひそと密談を交わすことが増えていた。時には連れ立って店舗の外へ出て行く姿も見かける。
それだけではない。買い出しと称して店を空ける時間が異常に長い。一度スーパーへ向かうと、平気で二時間も三時間も帰ってこない。つい先日も、午前中に事務仕事をあらかた片付け、昼飯もそこそこに出て行ったかと思えば、帰って来たのは夕闇が街を包む直前だった。
時間をかけた割に、持ち帰ってきたのは特売のネギの束と卵のパックが二つだけ。あの姉がただ無意味に街を彷徨うはずがない。
絶対に、裏で何かを隠して動いている。根拠は無いが、レヴェローズ第六感覚が危険信号を発していた。
夜の帳が下りた六畳間。シラベの部屋に敷かれた万年床は、本来の持ち主の意思とは無関係に毎晩激しい陣取り合戦の舞台と化していた。
レヴェローズは当然の権利のように布団へ潜り込み、シラベの体温を奪おうと背中に身をすり寄せる。しかし、彼女の安眠と密着を妨害する不届き者が既にそこを占拠していた。
「ふんっ。どけ、痴れ者が。そこは私の定位置だ」
「んなぅ」
レヴェローズが威嚇するように身を捩って足をねじ込むと、毛布の膨らみの中から低く唸るような鳴き声が返ってくる。
シラベの脇腹にぴったりと張り付いているのは、深い闇色の毛並みを持った一匹の猫。万物を呑み込む虚無の精霊、全てを喰らう大穴だ。
後からでしゃばってきた新入り精霊の癖に、獣の外皮を被って太々しくもシラベの温もりを独占して真なる相棒であるレヴェローズを巧妙に煽り立てる。レヴェローズにとって、腹立たしいことこの上ない。
「ミャー」
大穴は忌々しいほど可愛らしい鳴き声を上げながら、シラベの腕に自らの頭をすりつけた。勝ち誇った星屑のような瞳が、毛布の中の暗闇でらんらんと光りレヴェローズを見据えている。
「ええい、鬱陶しい。お前はただの食欲の権化だろうが。契約者の温もりなど理解できるはずが……痛っ。噛むな」
「お前ら、毎晩毎晩うるせえんだよ。寝るなら静かに寝ろ」
シラベが寝返りを打ちながら気怠げな声を上げた。大穴とレヴェローズに背を向けて、布団の端で身を丸く縮める。
「契約者。寝る前に一つ聞いておきたいことがあるのだ」
レヴェローズはシラベの背中に豊かな胸を押し当てながら、深刻そうな声を作った。こうして密着すれば、最初の数十秒間はシラベが文句を言わずに話を聞いてくれるとレヴェローズは学習していた。
「最近、カルメリエルの様子がおかしいとは思わんか。妙に子供たちと距離が近いし、買い出しに行くと言って何時間も帰ってこない。あれは絶対に裏で良から企てをしているに違いない」
シラベは面倒くさそうに深く息を吐き出した。
「あのなあ。あいつのあの格好を見ろよ。健全な男子なら引き寄せられるのは仕方ないだろ。変な妄想をするな」
「む……そういうものなのか」
「そうだよ。むしろあいつ自身がガキどもの反応を面白がって遊んでるだけだ。買い出しの件だって、近所のスーパーの特売時間に合わせて店を渡り歩いてるから遅くなるんだろ。金勘定に細かいからな」
「しかし、特売を巡るにしては持ち帰る品数が少なすぎる。それに、あのひそひそ話の時に見せる邪悪な笑みは……」
「邪悪な笑みって、お前が勝手にそう見えてるだけだろ。いいからもう寝ろ。明日も朝からパックの品出しがあるんだ」
シラベは毛布を頭からすっぽりと被り、完全に会話を拒絶する態勢に入った。それどころか、毛布を捲り上げた勢いでレヴェローズを布団の冷たい端へと容赦なく追いやってしまう。
「あっ、おい。寒いぞ。もっと私を引き寄せろ。あとこの黒い毛玉をどかせ。こいつがいるから狭いのだ」
レヴェローズが抗議の声を上げるが、シラベの寝息は深くなるばかりだ。代わりに、大穴が喉をゴロゴロと鳴らす重低音だけが闇に響く。
結局、シラベの徹底抗戦と場所を陣取る大穴のコンボに耐えきれず、レヴェローズは自ら布団を抜け出す羽目になった。
冷え切った廊下に出ると、壁際の段ボールの隙間にぽつんと置かれた自分用の寝袋が待ち受けていた。
総督たる自分がなぜこんな扱いを受けねばならないのか。憤りながらも厚手の寝袋に体を潜り込ませる。
しばらくすると、レヴェローズは胸元にむず痒い重みを感じた。いつの間にか六畳間から出てきていた大穴が、今度はレヴェローズの放つ熱に狙いを定めたのか、するりと寝袋のジッパーの隙間から侵入してきていた。
「お前も蹴り出されたのか。ふん、ざまあみろ」
口ではそう毒づきながらも、湯たんぽ代わりになる猫の毛皮の温かさに少しだけ安堵し、レヴェローズは暗闇の中で明日の計画を練り始めた。
「契約者が動かないなら、私一人で尻尾を掴んでやる」
翌日の昼下がり。太陽が中天を過ぎた頃、レヴェローズは商店街の電柱の陰に身を張り付かせていた。
視線の先には、肩に大きなエコバッグを下げて歩くカルメリエルの姿がある。ゆったりとした足取りでアーケードを抜けていくその後ろ姿を、レヴェローズは一定の距離を保ちながら尾行していた。
ミトラからは遊び歩いてないでストレージの整理をしろと罵られたが、強引に抜け出してきた。この時間を無駄には出来ない。レヴェローズの目は獲物を狙う猛禽類のように鋭い。
だが、この尾行には根本的な欠陥があった。異様な風体の美女が、別の美女を尾行しているという構図である。
カルメリエルは季節感も世俗も無視したシスター服と圧倒的なプロポーションで、ただ歩いているだけでも人目を引く。そしてその後ろを、激安衣料品店の無地Tシャツを限界まで引き伸ばしている豊満な胸のレヴェローズが、不自然に身を屈めながらコソコソと付いていくのだ。
すれ違う通行人のほとんどが、怪訝な顔でレヴェローズを振り返る。指を差そうとする子供の腕は、隣を歩く親によって無言でしめやかに素早く下ろされた。
「なぜこうも視線を集めるのだ。私が総督だからか。隠しきれない高貴なオーラが漏れ出ているというのか」
見当違いの呟きを漏らしながら、レヴェローズは額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
背後の珍道中を知ってか知らずか、カルメリエルはゆったりとした足取りで大型スーパーへと吸い込まれていく。
レヴェローズも距離を空けて店内へ入り、精肉コーナーの試食販売で差し出された爪楊枝に刺さったウインナーを咀嚼しながら、カルメリエルの動向を監視し続けた。
確かに彼女は、チラシの特売品に狙いをつけてカゴに入れている。シラベの言っていた通り、金勘定に厳しい姉らしい振る舞いだ。
しかし、レヴェローズは姉の買い物カゴの中身に違和感を覚えた。野菜や肉などの普段使いの食材とは別に、大量の清涼飲料水のペットボトルやスナック菓子を別のカゴに分け、会計を別々に通していた。
ボトムレスピットのバックヤードに、あのような菓子類を常備する習慣はない。レヴェローズが何度シラベにおねだりしても「すぐ食べ尽くすからダメ」「自分の小遣いで買え」「昆布でも食ってろ」と一蹴されていたから間違いない。
同じ調子でいくつかのスーパーを回った後のカルメリエルの様子は、さらに常軌を逸していた。
片手には食材の入ったエコバッグ。そしてもう片方の腕一本で、ペットボトルが詰まった重い段ボール箱と大量の菓子袋を抱え込んでいる。常人の筋力ではない。人外としてのフィジカルを隠す気もないその姿で、彼女はボトムレスピットの方向へは戻らず、商店街を外れて住宅街の細い路地へと入っていった。
周囲の景色は徐々に寂れ、やがて河川敷近くの工場地帯へと差し掛かる。
カルメリエルが足を止めたのは、赤錆の浮いたトタン屋根が目立つ、今は使われていないらしい廃工場の前だった。
鉄扉の隙間から滑り込むように中へ入っていく姉を確認し、レヴェローズは足音を殺して後を追う。半開きの扉の隙間から薄暗い内部を覗き込むと、そこには予想外の光景が広がっていた。
だだっ広い土間の中央には、ボトムレスピットの常連である子供たちの姿があった。その中には、以前からレヴェローズに懐いている橋谷クモンの姿もある。
さらに、商店街ではあまり見かけない身なりの貧しい大人たちまでもが数人集まっていた。
彼らは工場の中心にガラクタや金属片に色とりどりのケーブル、金色の装飾金具などを広げ、何やら構造物のようなものを組み上げている最中だった。
井桁に組み上げられた鉄管に、金属の土台のようなものが固定されている。持ち運ぶための取っ手なのか、最下段の棒は長い。
十数人の働き手によって、糸ノコで金属を切断する甲高い音や、電動ドライバーでビスを打ち込む音が工場内にけたたましく響き渡っている。
カルメリエルは彼らの元へ歩み寄り、買ってきた差し入れの飲み物と菓子を配りながら、優しげな笑みを浮かべて図面らしきものを指差して指示を出していた。
「なんだ、あれは……」
レヴェローズは目を細めた。何かの兵器か。それにしては装飾が派手すぎる。祭壇のつもりか。そう見るには供物を乗せるスペースが乏しい。彼らが何を作っているのか、レヴェローズの知識と経験を総動員しても判断がつかなかった。
だが、子供や大人たちを手足のように動かし、己の私兵がごとく未知の物体を建造させているという事実は揺るがない。これはただの買い出しの寄り道などではない。
「あの女が裏で良からぬ組織を作り上げていたことには違いない。シラベにこの事実を突きつければ、私の見立てが正しかったと土下座して謝罪し、私に縋り付くことだろう」
もしシラベが泣いて謝るならば、レヴェローズも寛大な心で許し、その頭をこの胸に抱き寄せてやるつもりだった。総督たるもの、苛烈さだけではなく慈悲の心も持ち合わせねばならない。
十分な証拠を得たと判断したレヴェローズは、直ちに帰還すべく踵を返した。
その瞬間である。
「あら、もうお帰りですか?」
背後から、耳の裏を直接撫でるような甘い声が降ってきた。
レヴェローズは心臓が口から飛び出そうになるのを堪え、勢いよく振り返る。
そこには、つい先ほどまで工場の中央で指示を出していたはずのカルメリエルが立っていた。いつの間に距離を詰め背後に回ったのか。足音すら感じさせなかった。
「か、カルメリエル。貴様、いつの間に……」
「そんなに驚かないでくださいな。あなたの隠しきれない気配、ずっと前から気づいておりましたわ。ウインナーの匂いも付いていますし」
カルメリエルは両手をシスター服の胸の前で組み、ふわりと微笑んだ。その余裕の態度が、レヴェローズの反骨心を強く刺激する。
「ふん。強がるな。貴様がこの廃工場で子供たちを唆し、何か怪しげな物品を作らせていることは全て見させてもらった。この事実を我が契約者や店長に伝えてやる。そうすれば、お前のその余裕ぶった顔も歪むことだろう」
レヴェローズは腕を組み、豊かな胸を張って高らかに勝利を宣言した。
しかし、カルメリエルの表情から笑みは消えなかった。むしろ、聞き分けのない幼子を見るような、深い慈愛の目を向けてくる。
「シラベ様たちには、私から良きタイミングで全てを伝えるつもりなのですが……ふむ。そうですね。どうでしょう、レヴェローズ。あなたも少し、この計画を手伝ってくれませんか?」
「なっ、馬鹿を言うな。私が貴様の怪しげなテロリズムに手を貸すつもりなど微塵もない!」
「随分と嫌われたものですわね。でも、これを見ても同じことが言えますか?」
カルメリエルは修道服の深い袖口から、四つ折りにされた一枚の紙切れを取り出した。それをゆっくりと開き、レヴェローズの目の前に突きつける。
レヴェローズの視線は、カルメリエルの細い指先が示すある一点の文字列に完全に釘付けになった。
「なっ……これは」
その衝撃がレヴェローズの脳髄を揺らしている間に、一歩距離を詰めたカルメリエルが耳元へと唇を寄せる。蠱惑的な囁き声で詳細な説明が流し込まれるにつれ、レヴェローズの顔から激しい敵愾心がみるみるうちに薄れ、代わりに困惑と、己の欲求への抗いがたい葛藤が浮かび上がってくる。
「──レヴェローズにも、決して悪い話ではないと思いますが?」
プレゼンテーションを終え、再び一歩離れたカルメリエルの微笑みが、悪魔的な魅力を帯びて深くなる。
紙に書かれている文字。そしてカルメリエルが語った計画。それはレヴェローズの強情さを打ち砕くのに、十分すぎる破壊力を持っていた。
頭の中で猛烈な計算が始まる。シラベに報告して一時的な優越感を得るか、それともこの企みに乗って実利をとるか。
廃工場から聞こえてくる金槌の甲高い音が、彼女の思考の決断を急かすように響き続ける。
レヴェローズは長く沈黙し、何度もチラシの印字とカルメリエルの顔を交互に見比べた。やがて、彼女は深い溜息とともに肩の力を抜いた。
「……手伝って、やらないことも、ない」
「まぁ。珍しく賢明ね、我が妹」
「だが勘違いするなよ。私は貴様に従うわけではない。ただ、私の目的に合致しているから、一時的に協力してやるだけだ」
「ええ、ええ。分かっておりますわ。頼りにしておりますよ、レヴェローズ」
カルメリエルは心底嬉しそうに微笑みながら、レヴェローズの手を両手で優しく包み込んだ。