祭りの喧騒が夕暮れの空に溶けていく。
提灯のオレンジ色の光が、アーケードの隙間から見え隠れする秋の空を照らし出していた。
焼きそばのソースの焦げる匂いと甘ったるい綿飴の香りが入り混じる雑踏の中、異様な熱気を放つ集団が進んでいく。わっしょい、わっしょいという野太い声と、それに混じる子供たちの高い歓声が商店街に響き渡る。
彼らが引いているのは、本来なら屈強な男たちが肩に担ぐべき神輿だ。しかしその神輿は木材や金箔で彩られた伝統的なものではなく、無骨な鉄骨と配線がむき出しになった巨大な金属の塊。
フルメタル神輿である。
伝結晶を抜かれたその重すぎる機体は、到底人力で担ぎ上げることなど当然不可能ではあった。
ボトムレスピットの代表代理として組合長に詫びを入れたカルメリエルは、設計ミスだったという体裁で事情を説明し、喧嘩神輿の参加を辞退。予定していた神輿については店舗側の駐車場で展示するのみと言おうとした。
だが組合長は金属製の神輿を面白がり、これで街を練り歩くことも見世物の一環として急遽決定。現在は頑丈な台車に乗せられ、太いロープで何十人もの手によって牽引されていた。
ロープを握りしめ汗だくになって台車を引いているのは、カードショップであるボトムレスピットの常連のむさ苦しいカードゲーマーたちと、カルメリエルの給料から強制的に徴収された風呂代で身綺麗にした浮浪者たちと、近所の小学生たちだ。
その先頭で誰よりも甲高い声を上げてはしゃいでいるのは、金の髪を揺らすレヴェローズである。
「そら、わっしょい! わっしょい! 征け、者ども! ドゥブランコの総督が先導してやる!」
彼女は法被を羽織り、うちわを振り回しながら、神輿の巡行を軍の進軍とでも勘違いしているのか誇らしげに胸を張って先導していた。
その少し後ろの安全な歩道では、店長のミトラが片手にりんご飴、もう片手にチョコバナナクレープを持ち、もぐもぐと口を動かしながらマイペースに見物を決め込んでいる。
そして、その狂騒の最後尾。一人だけこの世の終わりのような顔をしている男がいた。
「はいはい、あんま近寄るんじゃないぞー! マジで鉄だから轢かれたら潰れっぞ!」
ボトムレスピットの気怠げな店員、押江シラベである。
彼の右肩には大穴が占拠を決め込んで、時折シラベの頬に鼻先を押し付けては喉を鳴らしていた。
シラベは首に巻いたタオルで滝のような汗を拭いながら、台車の車輪が観客の足を踏まないように誘導し、時には酔っ払いの絡みを適当にあしらうという交通整理とトラブル対応に追われ、すっかり疲弊しきっていた。
橋谷クモンは、その喧騒を少し離れた場所にいた。
彼の手には、屋台で買ったばかりのまだ温かいベビーカステラの紙袋が大切に抱えられている。
かつて彼の心を奪った金髪の女神レヴェローズの姿を見ても、今のクモンの胸は痛まない。彼の心には既に別の、より深く慈愛に満ちた絶対的な存在が鎮座しているからだ。
ピンク色の髪を持つあの美しいシスター。カルメリエル。
彼女に役に立つ子には甘えさせてあげると囁かれたあの日から、クモンの世界は一変した。他の有象無象の客たちとは違う、彼女にとっての特別な存在になるため、クモンは祭りの準備期間中も小間使いとして文字通り奔走してきた。
今日も神輿の巡行の合間に、彼女を労うための差し入れを買ってきたのだ。
ただ、肝心の彼女の姿が神輿の周囲に見当たらない。
人混みを掻き分け、クモンは商店街の脇道や屋台の裏手を探し歩いた。
やがて、たこ焼きの屋台と古い金物屋の隙間、提灯の光も届かない薄暗い路地の奥に、見慣れた修道服のシルエットを見つけた。
声をかけようと踏み出したクモンの足が、ピタリと止まる。
「カルメリエル、ちょっといいか」
彼女へと、背の高い男が無造作に歩いて行ったからだ。
それはあの忌々しい、いつも無気力で気怠げな店員。シラベだった。
クモンは無意識のうちに物陰に身を隠し、紙袋を胸に抱きしめたまま息を潜めた。
祭りの喧騒が壁に反響し、二人の声はくぐもってよく聞き取れない。しかしシラベの低い声には、普段のやる気のなさとは違う、険しい響きが混じっていた。
「どういうつもりだったんだ」
シラベの言葉に、カルメリエルは首を傾げるような仕草を見せた。
「どう、とは?」
「とぼけるな。あのフルメタル神輿の件だ。子供だの浮浪者だのを使ってあんなもんを作った、本当の目的はなんだ?」
問い詰めるシラベの態度は、明らかに敵意を帯びていた。
カルメリエルは困惑したように小さく肩をすくめる。
「お話しした通りですわ。お祭りの喧嘩神輿で、優勝するためです」
「そんなことのために、お前がわざわざ動くかよ。人間に伝結晶仕込んで機械にする人体実験でも企んでたのか?」
一歩、シラベがカルメリエルに詰め寄る。
薄暗がりの中で、男が女性を脅しているようにしか見えない構図。
クモンの胸の中で義憤が燃え上がった。
僕のカルメリエルさんが、あの横暴な店員にいじめられている。助けに行かなくては。男として、彼女を守るために飛び出さなくては。
しかし、震える足は地面に縫い付けられたように動かない。大人が凄んでいるそこへ立ち向かう勇気が、小学生のクモンにはどうしても湧いてこなかった。
そんな彼の悲壮な葛藤とは裏腹に、カルメリエルの態度は予想外のものだった。
怯えるどころか、彼女は少し拗ねたように唇を尖らせたのだ。
「確かに、知的好奇心がなかったとは言いません。ですが……本当に、ただ勝ちたかっただけです」
そう言って、彼女は修道服のポケットから四つ折りにされた紙切れを取り出し、シラベの胸元に押し付けるように広げて見せた。
それは商店街の掲示板にも貼ってある、秋祭りのチラシだった。
「これがどうしたって?」
「ここの、優勝賞品。ご覧になってください」
「優勝賞品って……国内リゾート施設、団体旅行券?」
シラベが呆れたような声で、チラシの文字を読み上げる。
「おい。まさか、お前……こんなのが欲しかったのか?」
「なにか問題でもありまして?」
カルメリエルは不満げに見上げる。
「問題はないけどな。あんな鉄屑の設計図引いて、何十人も人間を動員してまでやることじゃねえだろ。お前、もっとこう、世界征服とかそういう壮大な野望があるタイプだと思ってたぞ」
シラベの困惑したような言葉に、カルメリエルの表情が不意に崩れた。いつもの完璧な微笑みでも、冷ややかな見下しでもない。
「だって……」
彼女は気恥ずかしそうに視線を彷徨わせ、両手の指先を擦り合わせる。そして消え入るような声で呟いた。
「お店の皆様と、遊びに行きたかったんですもの……」
一瞬の静寂。
直後、路地にシラベの盛大な吹き出し笑いが響き渡った。
「はっ、ははははは! なんだそれ! お前、そんな小学生みたいな理由で……くっ、あはははは!」
腹を抱えて笑い転げるシラベを見て、カルメリエルの顔がみるみるうちに朱に染まっていく。
「わ、笑わないでくださいませ! 真剣だったんですのよ!」
恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、カルメリエルは真っ赤な顔でシラベの胸をポカポカと叩き始めた。
「痛い痛い! やめろって。いや、悪い、あんまりにもポンコツな妹にそっくりだったもんだから、つい」
「レヴェローズと一緒にしないでください! もう、シラベ様の意地悪!」
物陰からその光景を見ていたクモンの手から、カサリと音を立ててベビーカステラの紙袋が滑り落ちた。
怒っているカルメリエルを見るのは初めてだった。彼女に怒られるような人間なんていない。シラベはそんな優しい人間を何故だが怒らせた、ろくでもない奴だ。
だが、叩く手にも全く力がこもっていないのは一目瞭然だった。本気の拒絶などしていない。
二人の間に流れる空気は、傍目から見ても親密そのものだった。あの気怠げな男がいじめていたわけではない。彼らはただ、じゃれ合っていただけなのだ。
ある時は甘く、しかしある時は冷徹で、どこか近づきがたいほどの気高さを持っていたはずの女神。それが年相応の乙女のように顔を赤くして、男の胸に甘えるかのな素振りを見せている。
クモンの脳内で、何かが音を立てて崩れ去った。
レヴェローズの時と同じだ。
自分がどれだけ尽くそうと、どれだけ特別な存在になろうと足掻こうと、彼女たちの隣には常にあの男がいる。
最初から、彼らは特別な関係だったのだ。
自分に向けられていた役に立つ子には甘えさせてあげるという言葉も、ペットの犬を撫でる程度の、残酷なほどの余裕から出たものに過ぎなかった。
「僕じゃ……」
それ以上を自分の口から言えなかった。言わない事だけが唯一、己の心を守る手段だった。その代わりに、クモンの目から大粒の涙が溢れ出した。
誰にも届かない嗚咽を漏らしながら、クモンは背を向けて祭りの雑踏へと駆け出した。
もう何も見たくなかった。
提灯の光も、笑い合う人々の声も、すべてが自分を嘲笑っているように感じられた。
涙で視界が滲み、前がよく見えない。
人混みを無理やり押し退けるようにして走り続けていたクモンは突然、目の前に現れた柔らかい壁のようなものに激突した。
「痛っ……!」
反動で後ろに倒れそうになるクモン。
しかし。地面に背中を打ち付けるよりも早く、何者かの腕がクモンの背中を優しく、しかし力強く抱き留めた。
「おっと。気をつけたまえ」
頭上から降ってきたのは、アルトのよく響く、どこか芝居がかった声だった。
クモンは涙でぼやける目を瞬きながら、自分を抱き留めてくれた人物を見上げた。
そこにいたのは、艶やかな大人の女性だった。
アッシュグレーの髪。切れ長の目元、整った顔立ち。紺地に大輪の牡丹が描かれた浴衣を、彼女はひどく着崩して纏っていた。はだけた襟元からは緩く巻かれたさらしが覗き、その中には暴力的なまでの質量を持った二つの膨らみが、今にもこぼれ落ちそうに封じ込められている。
クモンはその顔に、見覚えがあった。
ボトムレスピットで何度か見かけたことがある。常に仕立ての良いスーツを着こなし、傲慢な態度で自分と年嵩の変わらなそうな女の子に付き纏っていた変人の客だ。
しかし、今の姿はいつものスーツ姿とは全く異なる。女としての色香を全開にしたその出で立ちは、クモンの記憶にある人物像と結びつかないほど美しかった。
亜修利ヒナタは腕の中のクモンを一瞥すると、すぐに視線を祭りの雑踏へと戻した。
その横顔はいつもの偏執的なそれではなかった。探しているただ一人の愛しい人を見つけ出そうとする、真剣で、どこか憂いを帯びた表情だった。
提灯のオレンジ色の光が彼女の形の良い鼻筋と、伏せられた長い睫毛の影を頬に落としている。
その横顔はクモンの目に、運命に翻弄されながらも一途な想いを胸に秘めた、美しく気高い大人の女性として焼き付いた。
ヒナタは再び視線を落とし、クモンと目を合わせた。
「少年よ、怪我はないかい?」
彼女は空いた手で懐から手ぬぐいを取り出すと、クモンの頬を濡らす涙を壊れ物に触れるように優しく拭った。
「男がこんな往来で涙を見せるものではない。何か悲しいことがあったのなら、胸の内に仕舞い込み、それを乗り越える糧としたまえ」
何気ない、それでいて自信に満ち溢れた力強い言葉。
そして顔を近づけられたことで鼻腔をくすぐる、微かな香水の匂い。さらし越しに伝わってくる、圧倒的な胸の柔らかさ。
ドクン、と。クモンの胸の奥で、三度目の巨大な鐘の音が鳴り響いた。
レヴェローズへの純情。カルメリエルへの心酔。そのどちらとも違う、強烈な引力がクモンの魂を掴んで揺さぶっている。
涙はいつの間にか止まっていた。
代わりにクモンの顔は熱を帯び、口は半開きになり、呆けたようにヒナタの顔を見つめ続けている。
彼の小さな世界に、新たな女神が降臨した瞬間であった。