51 福利厚生の一環
秋祭りの喧騒が遠い過去のように感じられるほど、季節の歩みは容赦がなかった。
あれから一週間。商店街を吹き抜ける夜風は完全に秋の終わりを告げる冷たさを帯びており、道行く人々の肩をすくめさせている。
ボトムレスピットの店舗裏口の前に立った押江シラベは、吐く息が僅かに白く濁るのを見つめながら、ポケットの中で鍵の束を弄った。
冷え切った金属の感触を指先で確かめ、鍵穴に差し込んで回す。ガチャリという乾いた音が静まり返った路地裏に響き、鉄扉がわずかに開いた。
隙間から漏れ出すのは段ボールと古い木材が混ざり合ったような、この店特有の匂い。親しみすら覚えるようになってきた事に、シラベは口の端を歪める。
シラベは片手に下げたコンビニのビニール袋をカサカサと鳴らしながら、隙間から体を滑り込ませた。外の冷気を遮断するように素早く扉を閉め、内鍵を掛ける。
営業を終え、すべての照明が落とされた一階の店舗部分は、深海のような静寂と暗闇に沈んでいた。デュエルスペースの長机も、壁際に並ぶショーケースも、暗がりの中ではただの黒い四角い塊にしか見えない。
シラベはスマホの画面をタップして僅かな明かりを確保すると、商品の入った段ボール箱につまずかないよう、バックヤードを慎重な足取りで進んでいった。
今日の営業もなかなかにハードだった。新しいおもちゃの発売日と週末が重なった影響で、昼間から途切れることなく客が押し寄せ、買い取り査定とレジ打ちの無限ループに思考をすり減らした。
ミトラは忙しい時間帯に限ってレヴェローズと揃って姿を消し、カルメリエルが店内の案内に奔走してなおも混雑は著しく、結果としてシラベはほぼワンオペ状態で熱気に満ちた戦場を駆け回る羽目になったのだ。
いつも通りと言えばそうだが、いくら慣れようが高い密度の仕事量は身体にくることは変わらない。その疲労を癒すため、閉店作業を終えた後にわざわざ駅前のコンビニまで足を延ばし、深夜のささやかな楽しみであるジャンクな夜食を買い込んできたところだった。
古い木造の階段に足を掛ける。一段上るごとに軋む音が足の裏から伝わる感覚は、暗がりだとどこか懐かしさを感じさせる。
冷え切った空気が足元から這い上がってくるのを感じながら、シラベは二階の居住スペースへと上がった。階段を上りきった先にある薄暗い廊下には、もはやボトムレスピットの夜の風物詩とも言える光景が広がっている。
板張りの床に直に敷かれた二つの寝袋。そこには精霊姉妹が収まっている。
手前の寝袋からは、金の長い髪が無防備にはみ出しており、そこから続く布地の膨らみは、どう見ても一人用の寝袋の容量を限界まで圧迫していた。レヴェローズである。
彼女は規格外の豊満な肉体を窮屈な寝袋に押し込みながらも、スースーと規則正しい寝息を立てて熟睡している。時折、むにゃむにゃと口を動かしつつ、寝袋の中で腕をモゾモゾと動かしていた。
その少し先、奥に敷かれたもう一つの寝袋は、対照的に静まり返っていた。ピンクの髪が袋から少し零れている。カルメリエルだ。
こちらは寝袋のジッパーを首元まできっちりと引き上げ、まるで棺の中で眠る骸のように、微動だにせず目を閉じている。シラベの足音が近づいても、その美しい顔に刻まれた穏やかな表情が揺らぐことはない。
最近は廊下の奥にも荷物が積まれるようになり、彼女たちの定位置も日ごとに変化している。何かしら抜本的解決を考える必要があるかもしれないが、それはバイト店員のシラベがやることではないと目をそらし続けている。
シラベは二人の寝袋を蹴飛ばさないように、つま先立ちで慎重に廊下をすり抜けた。
自分が与えられた六畳間の引き戸に手を掛け、音を立てないようにゆっくりとスライドさせた。
その瞬間、シラベは持っていたコンビニ袋を取り落としそうになった。
「……なんだこりゃ」
口から思わず、間の抜けた声が漏れる。
視線の先、敷きっぱなしの布団の横の空きスペースに、今朝までは存在しなかった巨大な異物が鎮座していたからだ。
年季の入った木目の天板、その下には赤と黒のチェック柄をした、これまた古臭い分厚い布団が四方に広がっている。
日本の冬の象徴であり、人類の活動意欲を著しく削ぐ魔の家具。
こたつである。ただでさえ狭い六畳間が、この正方形の物体のせいでさらに圧迫されていた。
そして何よりシラベを困惑させたのは、下半身をこたつ布団に突っ込み、シラベの布団のうえに寝そべっているミトラだった。
彼女はシラベが部屋に入ってきたことにも気づいているはずだが、視線を画面から外そうともしない。
「おい。どういうことだよ、店長」
シラベはコンビニ袋を畳の上に置き、ミトラを見下ろした。
ミトラはそこでようやくスマホから目を離し、面倒くさそうに顔を上げる。年齢を感じさせない子供のように幼い顔立ちだが、その瞳は暗く淀んでいるのがデフォルトだ。
「どういうこともなにも。見ての通り」
彼女は当然のように言い放ち、こたつ布団をポンポンと叩いた。
「福利厚生の一環。最近寒くなってきたから、従業員のために暖房器具を用意してあげたの。感謝しなさい」
淀みなく建前を口にするミトラの態度に、シラベは頭を掻く。
福利厚生などという言葉が、半ばブラックな労働環境が常態化した店の長の口から出てくる時点で胡散臭さしかない。
「どうせ俺がひいこら働いてる最中、二階のどっかにこたつを置いてたのを思い出して掘り起こしてたんだろ」
このこたつの古びたデザインと、布団から漂う微かなカビの匂いは、どこかで新品を買ってきたものではないことを如実に物語っている。シラベはミトラの意図を正確に読み解き指摘した。
「でも、自分の部屋に置くと狭くなるし、出したものを片付けるのも面倒だからって、適当な理由つけて俺の部屋に押し付けようとしてる、違うか?」
図星を突かれたはずだが、ミトラの表情は一切崩れない。
むしろ、何を今更当たり前のことを、と言わんばかりの態度で肩をすくめた。
「従業員の健康管理も店長の立派な仕事よ。ほら、突っ立ってないで座りなさいよ。足元冷えるでしょ」
そう言って、ミトラは自分の隣にある、これまた古びた茶色い座椅子をパンパンと叩いてみせた。
「座椅子は一つしか見つからなかったんだけど、特別にあんたが使っていいから」
妙に優しい、恩着せがましい口調。普段の彼女なら、自分が一番快適な場所を陣取り、シラベには畳の上に直に座れと命令するはずだ。
それがわざわざ座椅子を譲ってくるという似合わない優しさに、シラベの警戒心は最高潮に達した。
何か裏がある。企んでいる。こんなやつばっかだなこの店。
そう直感したが、冷え切った部屋に立ち尽くしていても疲労が蓄積するだけだ。
シラベは疑わしげな視線をミトラに向けたまま、仕方なく指定された座椅子に腰を下ろした。
スプリングがへたった座椅子の座面が、ギシッと悲鳴を上げる。
シラベはこたつ布団の端を持ち上げ、冷え切った足を潜り込ませた。
「ん、電源入ってねえじゃねえか」
少しめくったこたつの中は真っ暗で、ヒーターの赤い光はどこにも見当たらない。
「まだコンセント繋いでないのよ。延長コード探すの面倒くさくて」
ミトラは悪びれもせずに答える。やはりただの粗大ゴミの押し付けだったか。
しかし、足をさらに奥へと差し込んだ時、シラベのつま先にふわりとした柔らかい感触が触れた。
柔らかい肉の隙間に差し入れたような、未知なる触覚。足を引っ込めそうになったが、すぐにそれが何であるかを理解する。
「なん」
こたつ布団の奥から、くぐもった、機嫌の悪そうな鳴き声が聞こえた。
布団をもう少しめくって覗き込むと、そこには延々と続く闇が広がっていた。
ぎょっとして目を閉じ頭を振り、もう一度見直す。
改めて見るそこには、真っ黒な毛玉が丸くなっていた。夜空よりも深い闇色の毛並み。大穴である。
彼女は現在、こたつという新たな暗闇の恩恵を、猫という最適な姿で最大限に享受しているらしかった。
電源が入っていなくても、分厚い布団に覆われた狭い空間は、大穴の体温と、周囲の冷気を遮断する効果によって、意外と温かい空気が保たれていた。
シラベの足先に、大穴の柔らかな毛皮が触れている。大穴はシラベの足であると確認すると、匂いを嗅ぐように何度か僅かに湿る鼻を押し付けた後、再び体を丸めて喉の奥からゴロゴロという重低音を響かせ始めた。
その微かな振動と、猫特有の体温が足元から伝わってくる。冷え切った末端の神経が解れていくような心地よさ。
「まあ、悪くないな」
シラベは座椅子の背もたれに体重を預け、小さく息を吐いた。
ヒーターの乾くような熱さではなく、生き物の体温によるじんわりとした温もり。疲労困憊の体には、これくらいが丁度いいのかもしれない。
ミトラの思惑はどうあれ、結果的に快適な空間が手に入ったのなら、これ以上文句を言う必要もない。シラベが完全に警戒を解き、リラックスした姿勢をとった、まさにその瞬間だった。
横でスマホをいじっていたミトラが、突然立ち上がった。
そして、シラベが何か言う間もなく、座椅子に座る彼と、こたつの天板の間の狭い隙間に割り込んできた。
「うお」
シラベの短い悲鳴を無視して、ミトラはくるりと背を向けると、そのままシラベの膝の上へと腰を下ろした。遠慮のない重量感が、シラベの太腿にのしかかる。
小柄で華奢な体格の彼女は、シラベの膝と胸の間の空間にすっぽりと収まってしまった。
「おい、何やってんだ」
シラベはミトラの肩を掴み、引き剥がそうとした。
しかしミトラは完全に脱力し、シラベの胸に背中を預けて全体重をかけてくる。
「こたつってさ、足は温かいんだけど、入ってると背中ばっかり寒くなるのよね」
ミトラはシラベの抗議など聞こえないかのように、のんびりとした声で言う。
「だから、背中をぬくくしたいなーと思ってたのよ。ちょうどいい背もたれ兼ヒーターが来たから、使わせてもらうわ」
僅かに頭を振り向かせ、ミトラはイタズラっぽく笑いながらそう告げた。
座椅子を譲った理由はこれか。最初から誰かを座椅子に座らせ、自分はその膝の上に乗って背中を温める計画だったらしい。福利厚生でもなんでもない、ただの自己中心的な暖の取り方。
「どてらでも着てろ。邪魔だ。どけ」
「うるさい、店長命令よ」
シラベは文句を言いながら、ミトラの脇腹をつついたり、抱え込んで持ち上げようとしたり、肩を揺さぶったりする。しかしミトラはいくら体を触られてもシラベに身を委ねたまま、一向に退こうとしない。
強引に突き飛ばすこともできたが、そうすれば機嫌を損ねて後々面倒なことになるのは目に見えている。
それに。シラベの胸に押し付けられた小さな背中からはフリース越しに彼女の体温と、伸し掛かる下半身からしっかりとした柔らかさが伝わってくる。
足元には大穴の柔らかな温もり。胸にはミトラの確かな重量感と熱。
物理的な圧迫感はあるものの、それ以上に、凍えていた体が急速に温められていくのを感じた。
「勝手にしろ」
シラベは抵抗を諦め、両腕の力を抜いた。
ミトラの脇から手を離して、畳の上に放置していたコンビニ袋を引き寄せる。袋から取り出したのは湯切りを済ませた特盛のカップ焼きそばと肉まんだ。それらを天板に無造作に置く。
「あ、肉まん。私にも一口ちょうだい」
スマホの画面から視線を上げたミトラが、天板の上の肉まんを指差す。
「嫌だね。俺の夜食だ。食いたきゃ自分で買ってこい」
「ケチ。給料減らすわよ」
「労働基準監督署に駆け込むぞ」
口もとだけで悪態をつき合いながら、シラベは肉まんを半分に割り、結局はその片方をミトラの口元に押し付けた。
「ん、よろしい」
ミトラは満足げにそれを咥え、モグモグと咀嚼を始める。
六畳間の蛍光灯の下。古びたこたつの中で、男の膝の上に女が座りながらジャンクフードを分け合う。シラベは自身の様子を客観的に見ようとして、即座に打ち切る。ワガママなガキに付き合ってやってるだけだ。
「シラベ? どうかした?」
分けられた肉まんを小さな口で食べながら、寄りかかってシラベを見上げるミトラ。
無造作な態度。無警戒な顔。信頼している瞳。
顔を上げているせいで、その白い首元がよく見える。鎖骨。影。緩い服へと伸びるライン。
「なあ」
「何?」
息が詰まってようやく、シラベは喉と両腕の強張りを自覚する。目を閉じ、一拍置く。
「明日、用があるから早起きするとか言ってただろ。いつまでここにいるつもりだ」
「あんたが寝るまで。私が寝落ちしたら、そのまま布団に運んで」
「人使い荒すぎだろ」
シラベの毒づきに、ミトラは短く笑い声を上げただけだった。
外の冷たい風の音を遠くに聞きながら、ボトムレスピットの夜は、いつもと変わらない、しかし少しだけ温かい空気の中で更けていった。