「そう言えば、聞いたかい」
「何が」
平日のボトムレスピットは、本来であれば特有の静けさと紙の匂いが漂うだけの空間であるはずだった。しかし今日のデュエルスペースには、ヒリヒリとした熱を帯びた空気が充満していた。
「ここの近所の古民家、と言っても空き家だったようだが。そこで倒壊騒ぎがあったのだそうだ。『初対面のあいさつ』を使おう」
「ふーん。レスポンス、『対話拒否』で打ち消し」
換気扇が低いモーター音を響かせる店内の中央で、長机を挟んで向かい合う二人のプレイヤーがいる。
「いいだろう、ターンエンドだ。関心が無いのかい? 君も他人事とは言い難いだろう、ミトラ」
「この店が潰れるって話なら、まぁあるかもね。こうやって連日客と遊び呆けてるんだから。『スパインの寄生虫』召喚。対応無いならそのままエンド」
「エンド前にレスポンス。『ニーズヘグの棘』。除去だ」
「……チッ。通しで」
一人はこの店の主であるミトラだ。いつもと変わらない、オーバーサイズの黒いパーカーに脚のラインを隠す気のない黒いトレンカという怠惰な部屋着スタイル。しかしその前髪の奥から覗く死んだ魚のような瞳には、今までにないほどの不機嫌な色がべったりと張り付いていた。
「この店舗のことでは無い。君の生家、まだ残っているのだろう。物置に便利なのは分かるが、近所でこのような騒ぎを聞くと気が気でないよ。『隣人の蠢動』を使おう、よろしいかな?」
「なんであんた実家のこと……ああ、高校の時はあっちにも行ってたっけ。こないだバラしたフルメタル神輿をシラベに入れさせたけど、平気だったみたいよ。……レスポンスなし。どーぞ」
彼女の対面に座っているのは亜修利ヒナタ。彼女は今日も高級な仕立ての男物スーツを纏い、髪を整えた男装スタイルを貫いていた。だが、どれだけ男装らしく振る舞おうとも、その内側に秘めた規格外の女性的質量をごまかすことはできていない。
「では墓地より即時行動を得た『世界樹斬りの英雄』を場に出す。そのまま戦闘位相に入るが、なにかあるかい?」
「…………どうぞ」
「『英雄』で攻撃。攻撃時効果でそちらの場の生命体を破壊させてもらおう」
「レスポンス」
「こちらもレスポンス」
世間話を挟む暇もない空中戦の末、望む結末を得たのはヒナタだった。
「防御出来る生命体はいない。ダメージ計算までいいかな?」
「どーぞ」
そうして二人の間で繰り広げられていたゲームが、今終わりを告げた。
「……私の勝ちだ、ミトラ」
ヒナタが盤面のカードを軽く指で叩き、静かに、しかし深い感慨を込めて勝利を宣言した。
その言葉が店内に落ちた瞬間、ミトラは天井を仰ぎ、手札を盤面上へと放り投げた。
少し前にはカードゲームのルールすらろくに知らなかったヒナタが、ミトラという熟練のプレイヤーを相手に、正真正銘の実力で一勝を挙げた瞬間だった。
ヒナタは立ち上がり、まるでオーケストラの指揮を終えたマエストロのように、あるいは悲願を達成した英雄のように両腕を広げて天を仰いだ。
「ああ、素晴らしい! この勝利の美酒、何百回と舐めさせられた泥水の味が、この一瞬の甘露を引き立ててくれる。ついに私は、君の堅牢な城壁を打ち破り、その懐へとたどり着いたのだ!」
「うるさいわね」
大げさに歓喜の声を上げるヒナタに対し、ミトラは口を尖らせてそっぽを向いた。
「百何戦もやって、そのうちのたった一回勝てたからって何よ。たまたま私の引きが悪くて、あんたの手札が噛み合っただけでしょ。運ゲーで勝ってそんなに喜べるなんて、おめでたい頭してるわね」
典型的な敗者の言い訳である。それを証明するかのように、カウンターの中で作業をしていたシラベがたまらずデュエルスペースへと歩み出てきた。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべてミトラを見下ろす。
「おいおい店長、ずいぶんとダサい言い訳だな。初心者に負けることなんて絶対ありえない、百回やっても百回私が勝つなんて、いつだか豪語してなかったか?」
「なっ、あんたねえ……!」
過去の自分の言動から刺されたミトラがシラベを鋭く睨みつける。しかし、盤面を見ればミトラのライフはゼロであり、負けたのは紛れもない事実であった。どれだけ不機嫌になろうとも反論は不可能だ。
ミトラが悔しそうに唇を噛み締めていると、ヒナタが咳払いをしてシラベの方へと向き直った。
「ちょうどいいところに来てくれた、シラベ。この後の二戦目に向けて、サイドボードの入れ替えを行いたいのだが」
ヒナタはスマートな所作で自分のデッキケースからサイドボードカードを取り出し、テーブルの上に広げた。
「どのカードを抜いて何を入れるべきか、少し意見を聞きたい。私の考えではこのカードを積むべきだと思うのだが、序盤の展開が淀む懸念がある」
「あー? めんどくせえな。自分で考えろよ、そういうのも含めてカードゲームだろ」
シラベは露骨に面倒くさそうな顔をした。しかし、ヒナタが真剣な眼差しでカードを並べているのを見ると、結局はため息をつきながら彼女の隣へと歩み寄り、机の上のカードを覗き込んだ。
「そのデッキは基本的に相手の手札を叩き落として時間稼いで、墓地から引っ張り出す動きがメインだろ。ミトラのデッキはコントロールだから盤面除去はいらない。あとは動きの起点になるカードを見極めてなんとかしろ。これ二枚抜きは確定、こっちのを三枚入れろ。マナのバランスは……」
シラベはヒナタの肩越しに身を乗り出し、指先でカードをなぞりながら具体的なアドバイスを並べ立てた。ヒナタもシラベの言葉を熱心に聞き入り、時折質問を挟みながらデッキの調整を進めていく。
カードのテキストを一緒に確認するため、二人の顔は自然と近づいていた。シラベの横顔とヒナタの白い肌がわずか十数センチの距離にある。身を乗り出したシラベの腕に、ヒナタのワイシャツがはち切れんばかりに膨らんだ胸元が、時折かすかに触れそうになっていた。
当の本人たちには盤面と構築のことで頭がいっぱいで、そんな物理的な距離感など微塵も気にしていない。しかしその光景を長机の向かい側から見せつけられていたミトラの心中は、穏やかではなかった。
ただでさえ初めての敗北を喫して機嫌が悪いというのに、自分の店員が対戦相手と顔を寄せ合い、あろうことか自分を倒すための作戦会議を親密な空気の中で行っているのだ。ミトラの薄い胸の奥で、名状しがたい黒い泥めいたものがどろりと膨れ上がっていく。
「ちょっと、あんたたち」
地を這うような低い声が、デュエルスペースの空気を震わす。
シラベとヒナタが顔を上げると、そこには能面のような顔をしたミトラがいた。
「いつまで人の悪口言ってんの。さっさと二戦目始めるわよ」
「対抗策練るのは悪口じゃねえだろ」
ミトラはシラベの言葉を無視し、自身のサイドボードをひったくるように手に取った。その手つきは乱暴で、カードの縁がこすれる音が不快さを表すように響く。
「シラベがアドバイスしたからって、調子に乗らないことね。次は手も足も出ないように完膚なきまでに叩き潰してあげるから」
その声に輪郭が伴っていたなら鋭角で人を刺せるほど棘に塗れていた。それを負けたせいの不機嫌と見たシラベは露骨に顔をしかめる。
「店長、大人気ないぞ。仮にも店舗の人間が客に向かって叩き潰すとか言うなよ。接客やってる意識の欠片もねえな」
「うるさい。あんたは黙ってカウンターに戻ってなさい。これは私とこいつの問題よ」
ミトラの異常なまでの剣幕に、シラベは肩をすくめて後退した。どうやら今の彼女は忠告など一切耳を貸さない精神状態にあるらしい。
一方のヒナタは、ミトラのその怒気すらも自分への執着だと都合よく解釈したのか、妖艶な笑みを浮かべてみせた。
「ふふ、望むところだ。君が本気で牙を剥いてくれるというのなら、私も全力でそれを受け止め、へし折って見せよう。さあ、始めようか、マイ・プリンセス」
ヒナタが仰々しくデッキをシャッフルし、ミトラの前に差し出す。ミトラは無言でそれを乱暴にカットし、自分のデッキもシャッフルして定位置に置いた。
互いに初期手札を引き、ゲームの準備が整う。
「私からよ」
ミトラが宣言した。先攻は前のゲームの敗者が選ぶのがルールだ。
そして、第一ターンに入るよりも前、ゲーム開始を告げる直前のタイミング。いわゆる0ターン目と呼ばれるタイミングで、ミトラは手札から二枚のカードを盤面に叩きつけた。
「ゲーム開始時、手札にあるこの二枚の呪法を設置する。『
シラベはカウンターの中からそのカード名を聞き、思わず目を見張った。ゲーム開始時に手札にあれば、マナを支払うことなく場に出すことができる特殊な呪法カード群。
『
そしてもう一枚、『
ピーピングハンデスで相手の行動を制限し、墓地を利用して大型を展開する。ヒナタのデッキの核となる二つの戦術を、ゲームが始まる前から完全に封殺する構えだった。
「えげつねえ……」
シラベは呆れと納得の狭間にいた。ミトラの宣言通り、これは完膚なきまでに叩き潰すための一切の容赦を捨てたプレイングだった。ガンメタなんて店舗の人間がやることじゃないし、そもそもフリープレイで持ち出すような代物でもない──いや、むしろフリープレイだからこそ出来るふざけた構成だろうか?
ある種の内輪であるからこそ成立し得るメタ合戦の空気があることは、シラベも理解している。しかし、あの社会不適合の判を押されかねない店長がそういうノリを理解しているのだろうか?
ともあれ。ミトラは完全に私怨でデッキを歪め、ヒナタを殺しに来ていたのは明らかだった。
「どう? これで手札破壊も墓地利用もできないわね。何も出来ないまま、ただ私に殴り殺されるのを待つだけの案山子になりなさい」
ミトラが満足気な笑みを浮かべてヒナタを見る。戦術の根幹を否定されたヒナタは、さぞかし狼狽しているだろう。そうシラベも思い、ヒナタの様子を伺う。
しかし、ヒナタは全く焦っていなかった。むしろ、ミトラの動きを予期していたかのように、冷たく、そして誇り高い笑みを浮かべたままだった。
「素晴らしい。私の愛を全力で拒絶しようとするその姿勢、ゾクゾクするよ。だがそのような結界など、私との逢瀬では何の意味もなさない」
ヒナタの言葉をいつもの空言と思い、ミトラは気にも留めない。しかし数ターン後、それが強がりでもなんでもない事実であった事を知る。
展開を妨害されるヒナタはミトラのルーンが全て使われるその一瞬の隙を突いて、一枚のカードを提示した。
「コストを支払い、戦略カード『葛籠檻』を唱える」
そのカード名を聞いた瞬間、ミトラの表情が凍りついた。
『葛籠檻』。場に出ているすべての呪法を破壊する除去カード。比較的軽量ではあるが、本来なら採用率は低い。
全体除去という効果は派手だが、相手が呪法を使わないのであれば完全な空振りに終わる。そんなカードを、ヒナタはデッキに入れていた。
「その手のカードに煮え湯を飲ませられるのは懲り懲りだからね。それに、君はサイド後には足止めのために生命体を術式対象にする呪法をよく採用していた。警戒するのは当然だろう?」
「だからって、お得意の覗きをせずに撃つなんて博打が過ぎるんじゃない。ウチの店員の悪影響受けてる自覚ある?」
「何を言う。君はこの二枚を手札に入れている時点で、選択肢を二つ失った状態で始めているようなものだ。安定した妨害札を引き込めているとは思えなかったよ」
ミトラの苦し紛れの舌鋒もヒナタには通じない。メタに対するメタ。相手の思考を読み、致命的な一撃を最速で叩き潰す。それはもはや初心者のまぐれ当たりではなく、立派なカードゲーマーとしての思考の帰結だった。
「さあ、邪魔な障害物は消え去った。ここからが本当の愛の語らいだ、ミトラ」
盤面からミトラの設置した強力な結界が弾け飛び、ゲームの形勢が傾く。歯噛みするミトラと、優雅に次の手を思案するヒナタ。カードの応酬、視線のぶつかり合い。静かな店内には、カードを並べる乾いた音と、二人の静かな呼吸だけが響き渡る。
カウンターに戻ったシラベは買い取ったカードの仕分け作業を再開しながら、その白熱した戦いの様子を横目で眺めていた。
あのどうしようもない狂人のストーカーが、いつの間にかミトラを本気にさせるほどのプレイヤーに成長している。そして、いつも無気力なミトラが、大人げなく感情を剥き出しにして盤面に向かっている。
異常な状況の連続に感覚が麻痺しそうになるが、それでも、目の前で繰り広げられているカードゲームの熱だけは、紛れもない本物だった。
「仲が悪いよりはマシか」
シラベは二人に聞こえないように呟き、カウンターからその盤面を見物する事にした。