夜。店舗のシャッターを下ろして一日の業務を終えたシラベは、自室のコタツに下半身を沈めてのんびりとした時間を過ごしていた。
冬の気配が本格的に街を包み込むようになり、シラベの六畳間ではコタツが本格稼働し活躍し続けていた。
古い木造建築であるこの店舗兼住宅は、隙間風こそないものの底冷えが酷い。布団への籠城だけでは冷気がどうにもならない現状、ミトラ曰くの福利厚生の一環に縋るほか無かった。
シラベの手元には問屋から送られてきた分厚いカタログが開かれている。トレーディングカードゲーム以外にも、新商品の玩具やボードゲームなど、年末商戦に向けて仕入れの参考にするためだ。
しかし、温かいコタツの魔力と、一日の疲労が相まって、カタログの文字はシラベの頭を上滑りしていく。
そんな気怠い静寂を破り、部屋の戸がすっと静かに開いた。
「失礼いたしますわ」
鈴を転がすような、しかしどこか含みのあるように聞こえる声とともに現れたのは、カルメリエルだった。
いつものボディラインを強調した破廉恥一歩手前の修道服ではなく、ゆったりとした薄紅色のパジャマ姿。長く豊かなピンク色の髪は吸水性の高いタオルでふんわりと包み込まれており、風呂上がりの熱気を帯びた白い肌がほんのりと上気している。
シラベの部屋は、いつの間にか奇妙な住人たちがだらだらと過ごす共有スペースのような扱いになっていた。レヴェローズが我が物顔で転がっていることもあれば、ミトラが無言でゲーム機を持ち込んでくることもある。
「おう」
シラベ自身も、いちいち追い出すのも面倒だと容認しており、特に咎めることはしない。短い返事だけを返し、シラベは再びカタログへと視線を落とした。
カルメリエルは当然のようにシラベの対面に座り、コタツ布団をめくって滑らかな脚を滑り込ませた。コタツの中の限られた空間で、彼女の足先が意図的にシラベの足に微かに触れるが、シラベは気にした風でもなくカタログのページをめくる。
カルメリエルは卓上に置かれていたカゴからみかんを一つ手に取った。細く綺麗な指先が器用にオレンジ色の皮を剥いていき、白い筋まで丁寧に取られたみかんの果肉をさらに半分に割る。
「どうぞ、シラベ様」
差し出されたそれを、シラベはカタログから目を離さないまま、ん、と受け取って口に放り込む。甘酸っぱい果汁が口の中に広がり渇きを癒す。
「悪ぃな」
「いいえ。温かくする分、きちんと水分を取りませんと」
「どんどん所帯じみてきてるな。別にいいけど」
カルメリエルは残りの半分を自分の口へと運びながら小さく微笑む。ミトラがアレでレヴェローズがあのザマのなか、性癖さえ除けばカルメリエルがこの店で一番真っ当であるとシラベは感じていた。
いまのみかんを分ける行いも彼女の腹黒い本性だけを知っているなら警戒するところだが、共に過ごしていればなんとなくの雰囲気はシラベにも掴めてくる。こうして世話焼きをしている時の彼女は害のない、ただの気の利く同居人だった。シラベもまた、その奉仕を自然なものとして受け入れている。
しばらくの間、紙のこすれる音と、コタツのヒーターが微かに唸る音だけが部屋を満たしていた。
不意に、カルメリエルが思い出したように切り出した。
「そう言えば、シラベ様」
「ん?」
「このところ、お店の近くに猫の溜まり場が出来ているようですよ」
その言葉に、シラベはページをめくる手を止めた。
「ああ、やっぱりか。遠くの空き地で勝手にやってりゃいいが、うちの近くとなると困ったもんだな」
心当たりはあった。ここ数日、夜も更けてくると外から複数の猫の鳴き声が聞こえてくることが増えていた。発情期なのか縄張り争いなのか、あるいはただの集会なのかは分からないが、路地裏に響く鳴き声は妙に耳に残る。
「夜中にうるせえし、ゴミを漁られたりフンで汚されたりしたら最悪だ」
シラベは面倒な事態を想像して思わず眉根が寄る。猫は好きだ。好きだが、それは愛でる余裕があってこその好意だ。自分の責任とは異なる部分で迷惑を被るとなると話が違ってくる。
「ええ、全くですわ。お客様を迎えるお店の周辺が不衛生になるのは、あまり好ましいことではありませんね」
カルメリエルは同意するように頷き、少し首を傾げて提案した。
「少し、様子を見に行きませんか?」
「なんで俺が。寒いし、放っておけばそのうち散るだろ」
シラベが面倒くさそうに顔をしかめると、カルメリエルは用意していたような思案顔をしながら額に指を乗せる。
「シラベ様が行けば、きっと大穴も付いてくるでしょう? 大穴ならもしかすると言葉の通じない野良猫たちへ、ここで集まらないようにと言い含めてくれるのではないでしょうか」
そう言って、カルメリエルはシラベの足元、正確にはコタツの奥深くを見透かすように糸目から視線を向ける。
ふむ、とシラベは考える。大穴は現在、カードの効果とはいえ黒猫の姿になっている。本性は底なしの虚無であり超常の存在だが、この状態でも人語を一応理解しているはずだ。
もし猫同士のネットワークというものが存在するなら、猫姿の大穴が何かしらの交渉というか、脅しをかけて追い払ってくれるかもしれない。似姿を取ったおかしな存在であればこそ、通じるものもあるだろう。
シラベはカタログを卓上に置き、コタツの布団を大きく持ち上げて中に腕を突っ込んだ。
熱源のすぐ近くで一つの巨大な毛玉が蕩けるように伸びきっている。シラベはその闇色の毛並みを持つ黒猫の脇腹に両手を入れて、ずりずりと外へ引きずり出した。
「にぃぃっ」
安眠を妨害された大穴は、不満げな音を喉から鳴らし、シラベの腕の中で液体のようにぐにゃりと体を捻った。
「夜の散歩でもするか?」
シラベがそう言うと、大穴は星屑のような瞬きを宿した瞳でシラベを見上げ、短くにゃあと鳴いた。承諾なのか抗議なのかは分からないが、暴れて逃げる様子はない。
二人は寝間着の上に厚手の上着を羽織り、シラベは大穴を抱えたまま一階の店舗裏口へと向かった。
鉄扉を静かに押し開けると、冷え切った夜の空気が容赦なく二人の頬を打つ。
ボトムレスピットの裏手は、周囲の建物の勝手口が面する狭い路地になっており、夜中はいわんや日中でも薄暗く人通りが少ない。
そんなわずかな光が届く狭所の中、給湯器の室外機の上や積まれた古い段ボールの影に不気味な光の粒がいくつも浮かび上がっていた。
猫の目だ。ざっと数えても十数匹はいる。三毛、茶トラ、黒、白。様々な柄の猫たちが、一定の距離を保ちながら思い思いの姿勢でたむろしていた。
扉の開く音に気づいた猫たちは、一斉にシラベたちの方へと顔を向けた。警戒心も露わに低い唸り声を上げるものや、いつでも逃げ出せるように腰を浮かせるものもいるが、群れ全体としてはすぐに散り散りになる気配はない。自分たちのテリトリーに足を踏み入れた侵入者を値踏みしているような、奇妙な圧迫感があった。
「うお、結構いるな」
シラベは少し圧倒されながらも、抱えていた大穴を地面へと下ろした。大穴は音もなく着地すると、尻尾をゆっくりと揺らしながら、路地に集まる猫たちを無感動な目で見つめた。
「大穴。ここにたむろされると迷惑だから、別のところに行って集会してくれって伝えてくれ。うちの周り以外ならどこでもいいからよ」
「まぁ、自己中心的ですこと」
「お前だってそう言うだろ」
「はい」
寄り添うように立つカルメリエルは頷く。そういうところだぞ、とシラベは言わない。言っても無駄なのは分かっていた。
シラベの言葉を聞いているのかいないのか分からない態度のままふいっと顔を背け、野良猫たちの群れに向かって数歩近づく。
野良猫たちの間の緊張が一気に高まる。毛を逆立て、シャーッと威嚇の声を上げる猫もいた。
しかし、大穴は全く意に介さず、群れの中央付近で立ち止まると、口を大きく開けた。
「……にゃおん、なご、にゃあ」
威嚇ではない、ひどく平坦で、どこか不気味な響きを持った鳴き声だった。虚無の深淵から漏れ出たような低周波が路地を這い、野良猫たちの耳を打つ。
何度か大穴と、ボス格らしい茶トラ猫との間で鳴き声の応酬があった。シラベとカルメリエルは、その異様なコミュニケーションを固唾を呑んで見守っていた。
やがて、大穴が一つ短く鳴いて振り返った。交渉成立か、とシラベが安堵の息を吐く。
「みゃああっ」
息を吸う間もなく、茶トラの猫が突然弾かれたようにシラベに向かって駆け出してきた。
「うおっ!?」
威嚇されたのかと思い、シラベが身構えたが、茶トラの猫はシラベの足元に到達するなり、その足にすりすりと顔を擦り付け始めた。
それに呼応するように、周囲で警戒していた他の猫たちも次々と雪崩を打ってシラベとカルメリエルへと殺到してきた。
「ぐるるるるっ」
「しゃぁっ」
「きゃっ……! ちょっと、な、何ですのこれ!」
上品に微笑んでいたカルメリエルも、足元に群がる数匹の猫にパジャマの裾を引っ張られ、たまらずバランスを崩した。
「わっ、こら、やめろ、乗んな!」
シラベもまた、膝によじ登ろうとする猫や、足の間に割り込んでくる猫の勢いに負け、冷たいアスファルトの上に尻餅をついてしまった。
そこからは、地獄のようなもふもふの襲撃だった。十数匹の猫たちは、シラベとカルメリエルの膝の上、腕の中、肩口にまで群がり、喉をゴロゴロと鳴らしながら狂ったように頭を擦り付けてくる。
「シラベ様、シラベ様! 猫が、猫が重いですわ!」
「俺もだよ! こいつら全然逃げねえじゃねえか!」
二人は身をよじって抵抗するが、猫たちは全く離れようとしない。むしろ、抵抗すればするほど喜んでじゃれついてくる始末だ。
冷たい夜の路地裏で、二人は猫たちの体温と柔らかすぎる毛並みに埋もれ、散々に甘えられ、撫で回すことを強要された。
数分後。
ようやく満足したのか、猫たちは一匹、また一匹と立ち上がり、何事もなかったかのように夜の闇の奥へと歩き去っていった。
路地裏には、呆然と座り込む二人と、大量の抜け毛だけが残された。
シラベのジャージもカルメリエルの薄紅色のパジャマも、あらゆる種類の猫の毛で無惨なことになっている。
少し離れた安全圏で座り、前足の毛繕いをしていた黒猫をシラベは恨みがましく睨みつけた。
「大穴。お前、あいつらに何て伝えたんだ」
シラベが問い詰めると大穴は毛繕いをやめ、とてとてと歩いてくるとシラベの肩にひらりと飛び乗った。そしてシラベの首筋に冷たい鼻先を押し当て、素知らぬ顔でゴロゴロと喉を鳴らし始める。
こいつらご飯をくれる良い奴らだから今のうちに媚びを売れ、とでも言ったのだろうか。真相は大穴の闇の中だが、そのふてぶてしい態度からは一切の反省の色が見えなかった。
「はぁ。ひどい目に遭いましたわ」
カルメリエルはため息をつきながら立ち上がり、髪の毛やパジャマについた毛を払い落とそうとするが、静電気で張り付いた毛はなかなか落ちない。
「もう一度、お風呂に入り直しですわね。着替えもしないと」
「全くだ。ほら、お前先に入っていいぞ」
肩の上の大穴の重みを感じながらシラベも立ち上がり、カルメリエルの手を引いて立ち上がらせる。
「あら。せっかくですから、シラベ様も一緒に入りますか? ミトラ様のように、背中くらい流して差し上げますわよ」
カルメリエルは毛だらけのパジャマのまま、蠱惑的な笑みを浮かべてシラベの顔を覗き込んできた。
冗談とも本気ともつかない、彼女特有の甘い毒を孕んだ誘い文句。シラベはそれを真正面から見ても顔色一つ変えず、肩に乗っていた大穴の両脇を掴み上げてカルメリエルの顔へと無造作に押し付けるだけだった。
「じゃあ、こいつのシャンプー頼むわ」
「にゃ」
突然押し付けられた大穴は、カルメリエルの顔に張り付きいて居心地が良さそうに喉を鳴らす。
「もふっ、あっ、ちょっと、シラベ様!」
大穴で視界を塞がれたカルメリエルが抗議の声を上げる。シラベはそれに背を向け、毛だらけのジャージをはたきながらさっさと店舗の裏口へと歩き出した。
「早めに頼むぜ。俺はコタツで待ってるから」
シラベのそっけない背中を見送りながら、カルメリエルは大穴が落ちないよう両手で支える。
「もう」
少しだけ膨らんでいた頬を、夜色の毛並みが隠していた。
ぶっちゃけ
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日常しろ
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デュエルしろ