秋祭りの夜の記憶は、橋谷クモンの脳裏に甘く、そして鮮烈に焼き付いていた。
喧騒と熱気に包まれたハレの日の最中。ぶつかり転びそうになった自分を優しく、しかし力強く抱き留めてくれたのは、一人の美しい大人の女性だった。
紺地に牡丹模様の浴衣を着崩し、はだけた襟元から暴力的なまでの質量を覗かせていた彼女。アッシュグレーの髪から漂う微かな香水の匂いと、大人特有の柔らかで圧倒的な包容力。
悲しいことがあったのなら、胸の内に仕舞い込み、それを乗り越える糧としたまえ。
心地の良い声でそう励まされた瞬間、クモンの小さな胸の奥底で、間違いなく三度目の恋の鐘が高らかに鳴り響いていた。
初恋の金髪のお姉さん、レベは、いつも気怠げな店員の隣で幸せそうにしていた。
二度目の恋のピンク髪のシスター、カルメリエルは、自分以外のたくさんの子供たちにも同じように優しく接していることを知り、特別になりたいと縋り付いた先でも、やはりあの店員と楽し気に話している姿を見せつけられた。
小学生のちっぽけなプライドは二度も打ち砕かれた。だがその傷跡を優しく撫でるように現れた祭りの夜の女神に、クモンは完全に心を奪われていた。
それ以来、クモンは限られた時間をボトムレスピットへと通い詰めることに費やした。いまばかりは、目的はカードの購入でも対戦でもない。ただひたすらに、あの夜の彼女の姿を探していた。
あの運命の夜以前にはよく見かけていたつもりだったが、会おうと思うと何故だか遠く感じる。クモンとて子供とはいえ毎日店に通えるわけでもなく、かの女性もまた社会的立場がある以上、来ない日もあった。
そして今日の午後。リュックを背負ったままデュエルスペースの隅に座り、ルールブックを読むふりをしながら入り口を監視していたクモンの努力は、ついに報われることとなった。
古びたガラス戸が開き、涼しい風と共にその人が店内に足を踏み入れた。
亜修利ヒナタ。その名を客同士の噂話から聞けたのは、クモンの幸運によるもの他ならなかった。そこに付随する狂人云々という情報はクモンは都合よく無視している。
今日の彼女は浴衣姿ではなく、高級そうなアッシュグレーのスーツを身に纏った男装スタイルだった。しかしクモンにとっては、それすらも気高く美しい童話の王子様のように輝いて見えた。
ただし、細身のスーツでは到底隠し切れない胸の膨らみが男装というコンセプトを完全に破壊しており、小学生の情操教育に極めて悪い艶かしさを放っているのも、また事実としてクモンの目を焼いていた。
ヒナタは優雅な足取りで店内を見渡し、ふとクモンの前で視線を止めた。
クモンは心臓が口から飛び出しそうになるのを必死で押さえつけ、椅子から立ち上がった。今だ。今しかない。
「あ、あのっ」
裏返りそうになる声を引き絞る。
「お祭りの時は、助けてくれて、ありがとうございました」
深々と頭を下げるクモン。ヒナタは少しだけ目を丸くした後、ふっと花がほころぶように優雅に微笑んだ。
「ああ、あの時の少年か。元気でやっているようで何よりだ」
低めの優しい声が耳をくすぐる。自分を覚えていてくれた。気にかけてくれた。その事実にクモンの頬は茹でダコのように真っ赤に染まり、頭の中はお花畑のような幸福感で満たされた。
だが、その至福の時間は数秒しか持たなかった。
ヒナタの視線がクモンを通り越し、真っ直ぐにカウンターの奥へと向かったからだ。
クモンも釣られてそちらを見る。そこには、ボトムレスピットによくいる小さな女の子と、クモンがこの世で最も憎んでいる冴えない大人の男、シラベの姿があった。
女の子――ミトラはパイプ椅子に座るシラベの背中にべったりと寄りかかるようにして、自分のスマートフォンをいじっている。シラベもそれを払い除けることなく、面倒くさそうに溜め息をつきながらビー玉を使う玩具の大会用掲示物を作り続けていた。
クモンの知るところではないが、以前のヒナタなら愛しのミトラが男に触れているだけで発狂していただろう。しかし最近ではシラベのカードゲーマーとしての実力を認め、彼を介して自身の腕を磨くという奇妙な師弟関係めいたものを築きつつあった。
悪い感情は、まぁ、無いと言えなくもない。
しかし、だからといってミトラが自分以外の男に気を許している姿を黙って見過ごすほど、ヒナタの独占欲は枯れていない。
ヒナタの瞳の奥に、冷たい策略の光が宿るのをクモンは見逃した。
「ちょうどいいところにいた、シラベ。デッキについて少し意見を聞きたいのだが」
ヒナタは優雅な歩みでカウンターを回り込み、ミトラの目の前で、シラベの横にぴったりと並び立った。
そして自分の腰に取り付けているデッキケースからカードを取り出すと、細く長い指でシラベの前に広げてみせる。
「しょーがねーな。なんだよ」
退屈な工作に飽きていたのが、シラベは嫌とは言わなかった。紙細工をどかしてデッキをよく見えるように並べていく。
そんなシラベの肩越しから、ヒナタは覗き込むような姿勢をとる。自然、シャツのボタンが弾け飛びそうなほどの豊満な胸が、シラベの右腕にこれでもかと押し当てられた。
意図的だ。誰の目から見ても明らかな、過剰な密着。
クモンは息を呑んだ。あんなに気高く美しいヒナタさんが、なぜあんな無気力で冴えない男に対して、あんなにも淫らな真似をしているのか。
だが信じられないことに、密着されたシラベは顔色一つ変えなかった。
「あー、序盤は手札除去より生き物で耐えるようにしたいわけか。それならこっちの呪法はダブつくから、これを三枚積めば……」
シラベは押し付けられている質量を完全に無視し、淡々とカードのテキストを指差してアドバイスを始めたのだ。
これもまたクモンには知る由もないが、シラベは日常的にレヴェローズやカルメリエルといった精霊たちの規格外の肉体を押し付けられ、さらには大穴という黒猫の質量まで背負わされている。ヒナタ程度の密着など、もはや彼にとってはノイズに過ぎなかった。
しかしその平然とした態度が、かえって事態をややこしくする。
「ちょっと、シラベ。その構築じゃ中盤が息切れするでしょ」
ミトラが不機嫌そうな声を上げ、シラベの背中から離れると、今度はヒナタの反対側、シラベの左腕に自身の小さな体をねじ込むようにして抱き着いた。
ヒナタに対抗するようにカードを覗き込み、わざとらしくシラベの腕に自分の胸を押し当てるミトラ。だが、絶対的な戦力差は如何ともし難く、シラベにとっては肘に何かが当たっている程度の感覚しかなかった。
両手に花。しかも一方は息を呑むような大人の美女で、もう一方は可愛らしい少女(35歳)。
カウンターの外からその光景を見つめていたクモンは絶望と嫉妬、そして名状しがたい烈火に苛まれた。
どうして、自分ばかりがこんな目に遭うのか。好きになった人は、いつもあの男のところへ行ってしまう。
しかし――クモンの脳内。車輪のような何かが、軋みながら理性を轍にしていく様を彼は幻視した。
レベ、カルメリエル。二度に渡り初恋を破壊されてきたクモンの心は、もはや普通の小学生のそれではなかった。過酷な環境に適応しようとする生物の生存本能が、彼の精神を歪な方向へと、今まさに進化させようとしていた。
あんなに美しいヒナタさんが、無表情な男の腕に自らの豊かな胸を擦り付けるようにして奉仕している。自分には見せてくれないような女の顔をして、男の気を引こうとしている。
悔しい。悲しい。憎い。
けれど、それ以上に。
服越しでもはっきりと分かるほどにひしゃげた胸の柔らかそうなたわみや、シラベの体温を求めるような密着具合が、クモンの脳髄を激しく揺さぶった。
見たくないのに、目が離せない。怒りと悲しみの中に、ドロドロとした暗い興奮が混ざり合い、知らず熱く疼き始める。自分が絶対に手の届かない存在が無慈悲な男に雑に扱われているという構図そのものに、目覚めてはいけない三文字の扉が開きかけていた。
やがて、限界点は唐突に訪れた。幸いなことにそれはカウンターの中で起こった。
激しい音を立てて、ミトラがシラベの足を乱暴に蹴り飛ばしたのだ。
「痛っ! 何すんだよ!」
「うっさい。勝手にいちゃついてれば」
ミトラはヒナタを鋭く睨みつけると、足音を荒立ててカウンターの奥、二階の居住スペースへと続く階段を逃げるように駆け上がっていってしまった。
その瞬間、ヒナタの顔から余裕の笑みが完全に消え去った。
彼女はミトラの嫉妬心を煽って、シラベへ向いている意識を自分に向けさせたかっただけなのだ。それがまさかミトラを本気で怒らせ、自分との対話すら拒絶される結果になるとは思ってもいなかった。
「あ、待ってくれミトラ! 誤解だ、私はただ……!」
ヒナタは慌ててシラベから離れ、階段の下まで追いかけた。しかし上階からの返答はなく、部屋の扉がピシャリと締められる音だけが響く。
完全に拒絶された。その事実を突きつけられたヒナタは言葉なく肩を落とす。まるで飼い主に叱られた大型犬が耳を垂らすようにしょんぼりとしながらも、拒絶された以上は階段を登ることは出来ない。
その瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。
ヒナタは力なくシラベの前に立つと、恨みがましい目を向けた。
「……君に体を許してしまい、ミトラに嫌われてしまった……もう、終わりだ……」
「はあ!? 許されてねえし何もしてねえよ! せいぜいお前が勝手にくっついてきただけだろ!」
「責任を取って、君が私の代わりにミトラを慰めておいてくれ……さようなら……」
見当違いにも程がある当て擦りを残し、ヒナタはフラフラとした足取りで店を出て行ってしまった。
嵐のような駆け引きが過ぎ去り、カウンターに残されたのは、理不尽な濡れ衣を着せられて頭を抱えるシラベただ一人。
「俺が悪いの、か?」
誰も答えてくれない疑問を呟くシラベは、すでにクモンの眼中になかった。
ヒナタがガラス戸を閉じたのと同時に、クモンの中で沸騰かけていた異常な興奮は急速に冷めていくのを感じた。異常性癖への扉は閉ざされ、心はひどく凪いでいる。
冷静になって考えてみればおかしなことだらけだった。ヒナタの密着は突拍子なく露骨すぎ、その後の反応を見れば真の狙いはシラベではなく、あの少女の反応を引き出すことにあったというのはクモンにも分かることだった。
そして少女が逃げ出した後の、ヒナタの絶望した顔。小学生の頭でも、この三人の関係性が一般的な恋愛模様ではないことに気づき始めていた。
ヒナタさんは、あの男のことが好きなわけじゃない。そのはずだ。
ヒナタさんが本当に好きなのは、おそらくあの女の子なのだ。
その事実に思い至った瞬間、クモンの中で先ほどまでの敗北感は消え去った。
大人の男が相手なら、勝ち目はないかもしれない。けれど、相手が自分と変わらない背丈の小さな女の子だというのなら。
ひょっとすれば、ヒナタさんは――小さい子が、好きなのかもしれない。
「僕にも、勝機がある……!」
リュックの肩紐を握りしめる。クモンの瞳に三度目の恋の炎が、かつてないほど激しく、そして少し方向性を間違えた形で燃え上がり始めていた。