58 まっ、待てやコラ!
休日の午後。少し傾き始めた太陽が、古びた商店街の通りに長い影を落としていた。
頭には深めに被ったベースボールキャップ。目元にはレンズの大きな黒縁の伊達眼鏡。健康的な小麦色の肌とキャップの後ろから覗く明るい金髪のウルフカットが、彼女の本来の活発さを物語っている。羽織っているのは背中に派手な刺繍が施されたオーバーサイズのスカジャンだ。
それは周囲の目を誤魔化すための変装のつもりで、実際彼女の顔を誰も注目していないものの、目立つ原因は隠しきれずにいた。スカジャンの下に着込んだTシャツは彼女の年齢にはおよそ不釣り合いな胸の質量で布地がはち切れんばかりに前へとせり出している。道行く人々の視線は伊達眼鏡ではなく、その膨らみへと無意識に吸い寄せられていた。
キリメ自身その視線には気づいてはいたものの、顔さえ割れなければ変装としては完璧であると強引に自己完結し、不躾な視線はすべてガンを飛ばして処理してきた。
その不快な視線を追い払う時よりも更に鋭く三白眼をさらに細め、キリメは大きく深呼吸をした。
緊張している。ただの買い物のために、心臓が馬鹿みたいに早鐘を打っている。
彼女が睨みつけているのは、ボトムレスピットという名のおもちゃ屋だ。一見すると昔ながらの寂れた玩具店だが、ここが近隣のカードゲーマーたちの溜まり場になっていることは、ネットの掲示板やSNSの書き込みで調査済みだった。
兼定キリメは不良高校生である。彼女自身にもその自認はあった。安っぽい金髪と人相の険しさ。売られた喧嘩は残らず買う好戦的な態度と乱雑な口調。容姿のせいでからかわれるのを片端から殴り飛ばしていた結果、いつしか同年代からは関わってはいけない人間として恐れられていた。
そんな彼女が、なぜ休日の昼下がりにこんな場違いな店の前で立ち尽くしているのか。
理由は一つ。彼女のポケットの中に隠された、数十枚の厚紙の束にある。
エインヘリヤル・クロニクル。数ヶ月前、出来の悪い兄がリビングに置いたままにしていて偶然見かけた美麗なイラストに、キリメは目を奪われてしまった。
ただの気まぐれだった。荒々しくも美しい絵柄が気になり、なんだこれとネット検索をしただけだ。しかし、緻密に描かれた世界観と美しいキャラクターたちに触れていくうちに、オタク的免疫の持たない彼女はその身の内に眠っていた収集癖を完全に目覚めさせてしまっていた。
とはいえ、自分がカードゲームに夢中になっているなど、死んでも周囲には知られたくなかった。ヤンキーと恐れられているのはどうでもいい。だが高校生にもなって紙遊びなんて絶対に笑われるという認識はあったし、何より家族にバレた時、兄の影響で始めたと思われるのが我慢ならなかったからだ。だからこれまではネット通販を利用して、ちまちまとカードを買い集めていた。
しかし、画面越しの画像だけでは限界がある。カード特有のホイル加工の輝きや、実物の状態をこの目で確かめたい。その欲求がとうとう警戒心を上回り、変装までして隣町のこの店へと足を運ばせたのだった。
キリメはスカジャンのポケットの上から、自作のデッキが入ったケースを強く握りしめた。
彼女の偏った知識によれば、カードショップという場所は目と目が合えば即座にデュエルを挑まれる修羅の国であるはずだった。絡まれた時に無抵抗でいるのは癪に障る。いざという時は受けて立つために、一応ルールを覚え、自分なりに組んだデッキを忍ばせてきたのだ。
「……行くぞ、アタシ」
小さく呟き、キリメは覚悟を決めてガラス戸に手を掛けた。滑りの悪いレールが不愉快そうに鳴る。
店内は、外観から想像する通りの薄暗さと狭さだった。埃の匂いと人とか汗とか、嗅いだ覚えのない臭気が混ざり合った、淀んだ空気が漂っている。
壁際には色褪せた児童用の玩具が並び、その反対側には、目的のカードが並べられたガラス張りのショーケースが鎮座していた。
店内には数人の客がいたが、誰も入り口のキリメに注目することはない。思い思いにショーケースやストレージを眺めていたり、配置された長机に向かって何やらカードを広げていた。突然対戦を挑まれる気配はない。キリメは少しだけ肩の力を抜いた。
視線を巡らせると、奥のレジカウンターの中に一人の男がいた。
気怠げな目を半分閉じたような店員だ。三十路前後のように見えるその男は、いらっしゃい、と抑揚のない声を出したきり、すぐに手元の作業に戻ってしまった。
男の肩には夜空のように深い黒い毛並みを持つ猫が丸くなって乗っている。カードショップのカウンターで猫を乗せながらデッキ構築をしているという奇妙な光景だったが、店員は器用な手つきでカードを並べ替え、何かをぶつぶつと呟いていた。
放っておかれていることに安堵しつつ、キリメは小さく首を揺するようなお辞儀をしてそそくさとショーケースの前へと移動した。
ガラス越しに並ぶ、色とりどりのカードたち。
ネットの画面でしか見たことのなかった高額なレアカードや古いカードが、そこには当たり前のように並べられている。照明を反射してキラキラと輝くホイルカードの美しさに、キリメの鋭い三白眼はたちまち魅了された。
(すげぇ。画面で見るのとは全然違う)
気がつけば、キリメはガラスに額がぶつかるほど顔を近づけ、夢中になってカードのテキストやイラストを端から端まで目で追っていた。
あ、これ欲しかったやつだ。こっちのカード、生で見るとこんなに光り方が綺麗なんだ。不良としての威嚇も、周囲への警戒も完全に忘れ去り、彼女の口元は無意識のうちに緩んでいた。欲しい。あれもこれも欲しい。バイト代の残りを計算しながら、脳内で自分のバインダーを彩る構想が膨らんでいく。
どれくらいそうしていただろうか。不意に、パン、と手を叩く乾いた音が店内に響いた。
ビクッとしてキリメが顔を上げると、カウンターの中で作業をしていた気怠げな店員が立ち上がり、店内に向かって声を張り上げていた。
「えー、時間になったんで、『四国無双』の体験会、ぼちぼち始めます。参加する奴は卓についてくれ」
四国無双。
その単語に、キリメは首を傾げた。エインヘリヤルクロニクルの遊び方の一つらしいが、ネットの対戦動画では見ていないルールだ。
よくわからないまま、キリメはショーケースから離れ、邪魔にならないように壁際へと寄ってデュエルスペースを観察した。
長机は二つの卓に分けられていた。一席目の卓には、四人の人間が座っている。
だが、その面子が異常だった。
一人は、どこか冷めた目をした小学生くらいの小さな女の子。どういう神経をしているのか持ち込んだ座布団を尻に敷いている。もう一人は緊張でガチガチになっている、こちらも小学生くらいの男の子。ここまではおもちゃ屋の客として理解できる。
問題は残りの二人だ。
一人は、仕立ての良いスーツを隙なく着込み、足を組んで優雅に微笑んでいるアッシュグレーの髪の男……いや、女。まるで詰め物でもしているかのように胸元は豊かに膨らんでおり、対面の男の子が緊張する気持ちがよく分かる。
そしてもう一人は、外国人のようなプラチナブロンドの髪を持ち、こちらもやはり巨大な胸を偉そうに張っている女だ。キリメ自身も自分の体型には持て余すものを感じていたが、あの金髪の女の質量は人間の骨格の限界を超えているようにも見えた。
小さな子供二人と、男装じみた巨乳の女と、金髪巨乳の女。
なんだあの空間は。カードショップというのはもっとこう、チェックシャツを着たむさ苦しい男たちが、早口で専門用語をまくしたてながらひしめき合っている場所ではないのか。キリメの脳内イメージは粉々に打ち砕かれた。
キリメは目を白黒させながら、もう一つの卓へと視線を移した。
二席目の卓には、先ほどまでカウンターにいた男の店員が座っていた。肩に乗っていた黒猫は床に下ろされ、不満そうにうなんと鳴いている。かわいい。
そしてその向かいには、ピンク色の髪という正気を疑う彩りと、豊満な体のラインを強調するようなシスター服を着た女が優雅に微笑んでいる。一見すると優しげに見えるが、彼女からは直感的に関わってはいけない、底知れない得体の知れない気配がドロドロと漂っている。野生の勘が警鐘を鳴らすレベルだ。
その隣には尋常でない雰囲気に完全に呑まれ、おどおどと周囲を見回している若い男の客だった。彼だけが唯一、この空間における正常なカードゲーマーの姿に思えた。
「あー、こっちの卓、三人でもいいけど……どうせならもう一人欲しいな」
気怠げな店員が、頭を掻きながら思案顔で呟く。四国無双というルールは、どうやら四人でやるのが基本らしい。
店員はぐるりと店内を見渡し、そして。
壁際に立っていたキリメと、ばっちり目が合った。
キリメの背筋が、ビクンと跳ねた。目が見開く。まずい、目を合わせたら対戦を挑まれる。偏った知識が警鐘を鳴らす。
店員は立ち上がると、のそのそとした歩みでキリメの方へと近づいてきた。
「あの、すみません」
声をかけられ、キリメの肩がびくっと震えた。心臓が嫌な音を立てて跳ね回る。
逃げるべきか。いや、ここで背を向けたら舐められる。これまで張ってきた虚勢が、こんなオタクの巣窟で崩れ去るのは我慢ならない。
「今からカードゲームの体験会やるんですけど。もし興味あれば、一緒にやってみませんか。貸し出しのデッキもありますよ」
キリメの葛藤などお構いなしに、店員は気軽に持ちかけてきた。
興味は、あった。ネットでルールは覚えたし、自作のデッキで誰かと対戦してみたいという欲求はずっと抱えていた。
だが、緊張と、そして何より突然声をかけられたことへの防衛本能が、彼女の口から全く逆の言葉を紡ぎ出させた。
「あァ? なんでアタシが、こんなとこでカードゲームなんかやらなきゃなんねえんだよ」
低く凄みを利かせた、見事なヤンキー口調だった。
しまった、と思った時には遅かった。相手はただ親切で声をかけてくれた店員だ。こんな突っかかり方をすれば、厄介な不良が冷やかしに来たと思われて追い出されてしまう。
だが店員はキリメの威嚇を全く意に介さず、足元に寄り添ってくる黒猫を無視しながら平然と返した。
「いや、ずっとめちゃくちゃ嬉しそうな顔でショーケースに張り付いてたんで。興味あるんかなと思って」
その言葉が、キリメの脳天に雷のように直撃した。
無自覚だった。自分では鋭い目つきで周囲を警戒しているつもりだったのに、端から見れば、おもちゃの前で目を輝かせる子供のようにショーケースにはしゃいでいたことが完全にバレていたのだ。
顔中から火が出るような熱さを感じた。肌が耳の先まで真っ赤に染まっていくのが自分でもわかる。
恥ずかしい。穴があったら入りたい。変装して面が割れていないからとかではなく、今いる自分がそう見られていたことが恥ずかしくてたまらない。
猛烈な羞恥心が、行き場を失って反発心へと変換される。
舐められたままでは終われない。オタク趣味の不良がショーケースを見てニヤニヤしていたことを指摘されて逃げ帰ったなどという屈辱の記憶は、絶対に作ってはならない。
キリメは咄嗟にスカジャンのポケットに手を突っ込み、隠し持っていた自作のデッキケースを勢いよく引き抜いて、店員の目の前に突きつけた。
「や、やってやるよ! ただ、貸し出しデッキなんか要らねえ! アタシの魂のデッキでやってやる!」
血走った目で睨みつけながらの、謎の宣言だった。
アニメの登場人物のような台詞を叫んでしまったことに後から気づき、さらに顔が熱くなる。だが、もう後には引けない。これで対戦して、勝って、堂々と店を出るしかない。
しかし、キリメの気迫を前にしても、店員は全く怯むことなく、むしろ困ったように眉尻を下げた。
「あー……その心意気は買うんですけど。実は今回やる対戦って、普通のルールとちょっと特殊でして」
店員は頭を掻きながら、面倒くさそうに説明を始めた。
「『四国無双』って言って、デッキはきっちり百枚。しかも、基本のルーンカード以外は、全部違う種類のカードを一枚ずつしか入れちゃいけないっていうルールなんですよ。他にも色々条件があるし、通常の六十枚デッキじゃ参加できないんです」
百枚。一枚ずつ。キリメの頭の中で、必死に作り上げた自分の六十枚のデッキがガラガラと崩れ去る音がした。
なんだそのルールは。同じカードを何枚か入れて確率を安定させるのが基本じゃないのか。そんなバラバラの百枚なんて、どうやって戦えばいいのか全く見当もつかない。
「魂のデッキを使いたい気持ちは分かるんで。そっちがやりたいなら、また別の機会に通常の大会でお願いします。すんません、急に声かけて」
店員は愛想笑いを浮かべ、軽く頭を下げて卓の方へと戻ろうとした。
その背中を見て、キリメの中で何かがプツンと切れた。
店員に悪気がないのは分かっている。だが、キリメの目には、その態度が「ルールも知らない初心者は帰れ」と馬鹿にして見下しているように映ってしまったのだ。極度の緊張と羞恥心が生み出した、完全な被害妄想だった。
逃げるように背を向ける店員。舐められたまま帰るわけにはいかない。キリメは店内を見渡し、レジ横の棚に陳列されていた一つの商品に狙いを定めた。
「まっ、待てやコラ! じゃあ、あれだ!」
キリメは棚に駆け寄り、紙箱に入った分厚いカードの束をひったくるように掴み取った。それは新規参入者向けに販売されている『四国無双』用の構築済みデッキだ。
「これ買って、アタシのカードを突っ込んで作り直した奴でやってやるよ! それで文句ねえだろ!」
もはや自分が何を言っているのか、論理も計算もあったものではない。ただ、売り言葉に買い言葉で、引くに引けなくなった意地だけがそこにあった。
振り返った店員はキリメの持った構築済みデッキとその代金、赤面しているキリメを交互に見比べた。困惑しているのがキリメにも分かる。挑むような事を言っておきながら、どうか受け取れと祈るような凄むような矛盾した気持ちがあった。
「はぁ。まあ、参加してくれるってんなら歓迎しますよ。……体験会だし、ルール確認の時間でも作って準備するか……俺もまだ調整したいし……」
キリメの祈りとは無関係に、店員はあっさりと商品と代金を受け取った。そのままぶつぶつ呟きながらレジカウンターで処理を済ませ、買い上げた証のテープを貼ってキリメに商品を返す。
「お買い上げどうも。じゃ、あっちの席に座って」
「お、おう」
促されるまま、キリメは買ったばかりの分厚いデッキを握りしめ、修道服の女と若い男が待つ二席目の卓へと重い足取りで向かった。
中身もよくわからない百枚の束をこれからいじって、見知らぬ大人たちと戦わなければならない。考えると見切り発車もいいとこな状況だが、不思議と不安は感じない。
奇妙な熱に浮かされながら、キリメは買ったばかりの相棒の封を切った。