平日の昼過ぎ。ボトムレスピットの店内には特有の静けさが満ちており、倦怠感に満ちた時間帯である。
換気扇が低く唸る音だけがBGMとして響く中、シラベはカウンターの内側でストレージの整理といういつ終わるとも知れない単調な作業をこなしていた。客の姿はまばらで、デュエルスペースにはデッキの一人回しをしている常連が一人か二人いる程度だ。
そんな平穏を破るように、入り口のガラス戸がカラカラと乾いた音を立てて開いた。シラベは手元のカードから視線を上げ、来客の姿に少しばかり目を瞬かせる。
最近、新たな常連となりつつある客。チンピラのようなスカジャンに野球帽をかぶった姿。兼定キリメだ。
スカジャンの下に着ているのは、紺色の襟に白いラインが入った、ごく一般的なセーラー服だった。足元はローファーで、鞄も学校指定のものらしきスポーツバッグを肩から提げている。学校帰り、時間帯を考えればサボりか早退の類だろう。
だがシラベの関心は彼女の服装とは全く別のところへと引きずり込まれる。
キリメはカウンターに立つシラベに軽く片手を上げて挨拶めいた仕草を見せると、そのまま迷うことなくデュエルスペースの空いている椅子へと向かい、スポーツバッグを隣の椅子に置いて腰を下ろそうとする。
その瞬間だった。シラベの肩に伸し掛かっていた大穴が、不意に身を起こした。
大穴は床に飛び降りると前足を伸ばして優雅に伸びをしてから、音もなくカウンターの横を抜けてデュエルスペースへと歩み出た。
迷いのない足取りで向かった先は、他でもないキリメの足元だ。キリメが椅子に座ったその隙を縫うように、大穴は軽やかな跳躍で彼女の膝の上へと飛び乗ったのだ。
「──」
シラベはストレージにカードを挿す手を止め、その光景をじっと見つめた。
きっかけは何だっただろうか。最近、キリメが店に来るたびに繰り返されているお決まりの光景だ。
大穴はキリメのスカートの上に陣取ると、ぐるぐると喉の奥から重低音を響かせながら丸い頭を彼女の腹部に擦り付け始めた。
キリメの方も、普段はヤンキーよろしく常に牙を剥くような態度をとっているくせに、この時ばかりは口元をだらしなく緩めている。周囲には気づかれていないつもりなのかもしれないが、カウンターから見ているシラベからは彼女がどれだけこの黒猫に懐かれたことを快く思っているかが表情から丸わかりだった。
キリメは両手を使って大穴の後頭部から背中にかけて丁寧な手つきで撫でていく。換気扇の駆動に紛れ、彼女の囁くような声がシラベの耳に入る。
「おーちゃん、今日も元気だね。毛並みツヤツヤじゃん」
「なぁぅ」
おーちゃん。彼女は大穴のことをそう呼んでいる。気の抜けた愛称にシラベは呆れるが、当の大穴本人がその呼び名に不満を抱いている様子は全くない。
むしろキリメの手の動きに合わせてさらに身を預けているようで、膝の上でどんどんあられもない姿勢へと溶けて行っている。シラベの胸の内に、言葉にし難いモヤモヤとした感情が渦巻き始める。
黒猫の姿を取って以来、大穴はシラベの肩を特等席として譲らず、彼がどこへ行くにもべったりとしがみついていた。昼間はそのずっしりとした質量で慢性的な肩こりをもたらしてきて、夜になれば布団の中に潜り込み、その冷たい鼻先を押し付けて彼を悩ませる。ただ重くて邪魔くさい存在、そう認識しているつもりだった。
たまに店を抜け出して外へ遊びに行ったり、ミトラの機嫌が良い時に捕まって大人しく撫でられている姿を見たことはある。ご飯をくれる人間にはそれなりに懐くという打算的な生態も理解している。
だが、ああして一介の客である人間に自ら寄っていき、膝の上に乗って撫でられ待ちをするような真似は、シラベの知る限り初めてのことだった。
別に大穴が誰に懐こうが知ったことではない。むしろ肩こりの原因が一つ減って清々するというものだ。
それなのに。いざこうして自分以外の人間に無防備な腹を見せて蕩けている姿を見せつけられると、理不尽な喪失感のようなものが込み上げてくる。
小学生じみた独占欲が脳裏を掠め、シラベは自嘲気味に息を吐いた。馬鹿らしい。相手はただのカードの精霊が猫の姿を取っているだけのもので、ペットですらないのだ。
しかし、理屈で感情を完全に抑え込めるほど、シラベも大人になりきれてはいなかった。
気がつけばシラベは手に持っていたカードの束をカウンターの上に置き、デュエルスペースへと歩み出していた。
シラベはキリメの座るテーブルの前に立つと、わざとらしく低い声を作って見下ろした。
「学校はいいのかよ、不良少女」
つっけんどんな言い方だった。客に対する態度としては威圧的だったが、彼女との間には既にそういう距離感が出来上がってしまっている。
キリメはシラベの咎めるような声を聞いても、悪びれる様子を見せなかった。彼女は視線を大穴から外すことなく、膝の上の黒猫の顎から首を指先で優しく掻きながら答えた。
「なんだよ、急に。アタシの学校、もう期末テスト終わったから授業短いんだよ。別にサボりじゃねえし」
学生特有の怠惰な理由だ。シラベはかつての自分の学生時代を思い出しつつ、さらに憎まれ口を重ねる。
「落第しても知らねえぞ。カード遊びばかりにかまけて留年したなんて笑い話にもならねえからな」
親や教師のような小言だ。自分でも何故こんなに刺々しい言い方になっているのか理解しながらも、口を噤むことができない。
キリメはピタリと猫を撫でる手を止め、ようやくシラベの方へと顔を上げた。
普段であれば威嚇するように睨みつけてくるその瞳が、今はひどく意地悪な、面白がるような色を帯びている。
彼女はシラベの顔をじっと見つめ、不敵に口の端を歪めてにやりと笑った。
「やけにつっかかってくるじゃん」
初動の札が切られた。シラベは僅かに眉を顰め対応札を探す。
「なんだよ、文句あっか」
「別に。たださ」
キリメは再び視線を膝の上の大穴へと戻し、その黒く艶やかな背中を手のひらでゆっくりと撫で下ろした。大穴が気持ちよさそうに短い鳴き声を上げる。
「おーちゃん取られて、悔しいんだろ」
腎臓に鉤突きを撃ち込まれたような衝撃がシラベを襲う。肺の中の空気が一瞬止まるのを感じた。
「別にんなことねーよ。重たい毛玉が肩からいなくなって、むしろ清々してるくらいだ」
反射的に強がりを吐き出す。しかしその声は浮き足立っており説得力の欠片もない。キリメにもそれは明白のようで、脱出不能のコンボが構築されていく。
「強がんなよ。ほら、おーちゃん、シラベが拗ねてるよ」
「んんる」
幼児へ語り掛けるような口調でキリメに話しかけられた大穴は、仰向けのまま首だけを動かしてシラベを見上げた。星屑のような瞬きを宿した瞳が、シラベの不機嫌そうな顔を映し出している。
しかし、大穴はすぐに興味を失ったように目を閉じ、再びキリメの腹部に頭をすり寄せて喉を鳴らし始めた。その無関心な態度が、シラベの悔しさをさらに煽り立てる。
普段からシラベは大穴が肩に乗ってくるのを許容し、時折その柔らかい毛並みを撫でてやっている。撫でられれば大穴は甘えてきて、それなりに機嫌良さそうにはしていた。
それでも、シラベが撫でてもここまで蕩けていることはない。
キリメの手つきに合わせて大穴は前足をだらしなく曲げ、服従と安心を示すように無防備な柔い毛を晒し続けている。その姿はシラベの知るふてぶてしい姿とはまるで別物の、ただの愛らしい飼い猫だった。
敗北感に似た感情がシラベを襲う。俺には見せない顔を他人の前で見せているという事実が、理不尽な嫉妬となってシラベの行動を促した。
シラベは無言のままキリメの座る椅子の横にしゃがみ込んだ。スカートに覆われているむっちりとした女子高生の脚が目前に迫るが、今はどうでもいい。
「なっ、何すんだよ」
警戒したようにキリメが少しだけ身を引くが、シラベはそれに構わない。キリメの声を無視してシラベはキリメの手の隣に自分の手を滑り込ませる。蕩けている大穴の柔らかい腹部を、キリメと一緒に撫でようとした。体温ときめ細かい毛の感触が掌に伝わる。
だが、その瞬間だった。大穴の長くしなやかな尻尾が、鞭のように動いた。
音こそ鳴らなかったものの、その尻尾はシラベの手首をペシリと叩き、そのまま押し退けるような動作を見せた。
弱い力だった。爪を立てるわけでもなく、威嚇の声を上げるわけでもない。しかし、それは明確な拒絶の意思表示だった。
今はこいつに撫でられているから邪魔をするな。そう言わんばかりの態度に、シラベの手が押し退けられた空中で行き場を失う。
静寂。換気扇の音すらシラベには遠い。心臓を押すような衝撃が彼の胸に突き刺さっていた。
シラベの停止した手は空に留まり続け、キリメが吹き出すのを堪えるような表情を作っている。彼女はシラベの顔と、尻尾でブロックをしている大穴の姿を交互に見比べた後、勝利を確信したような笑みを浮かべた。
「カードの腕はともかく、猫の撫で方はアタシの方が上だな」
勝ち誇るキリメの言葉が、対戦で敗北を宣告される時よりも鋭くシラベの胸に突き刺さる。
悔しい。だが制圧された盤面と削られたライフの前では、どんな反論も意味を成さない。
大穴はシラベの手が追って来ないことを確認すると、再びキリメの撫でる手に身を委ねて深い重低音を響かせ始めた。
「……ああ、そうかい。勝手に存分に撫で回してろ」
シラベは捨て台詞を吐いて立ち上がると、キリメのくすくすという笑い声を背中で受けながら、足早にカウンターの中へと戻っていった。
失意と共にカウンターの内側に逃げ込んだシラベは、深くため息をついて肩を落とした。
自分はいったい何に熱くなっていたのか。相手はただの女子高生で、対象はただの精霊の猫だ。こんなことでムキになるなど、自分の精神年齢が退行しているのではないかとすら思えてくる。
だが、あのあられもない姿と明確な拒絶は、確かにシラベの自尊心を削り取っていた。
カウンター内のパイプ椅子に重い腰を下ろそうとした時、不意に背後から声が掛かった。
「そう落ち込むな契約者よ」
いつの間にかバックヤードから出てきていたレヴェローズがシラベの隣へにじり寄り、豊かな胸部をシラベの肩に押し付けてきた。
彼女は尊大な態度のまま、自らの頭をシラベの顔の横へと突き出してくる。
「あのような獣に構ってもらえなかったくらいで、そう肩を落とす必要はない。私の頭はいつでも空いているぞ。ほれ、私の頭を撫でる権利をやろう」
上から目線すぎる提案を言い返す気力も無い。突き出された頭は明らかに撫でられ待ちの姿勢で静止している。
シラベは半ば無意識に手を伸ばし、レヴェローズの滑らかな金髪を数回撫でる。サラサラとした手触りは悪くない。悪くはないのだが。
キリメの膝の上で腹を出していた黒猫の姿と比べてしまうと、えも言えぬ虚しさが胸の奥に広がっていくのをシラベは感じた。
俺は何をしているのだろう。
「むふふ。どうだ、獣の毛並みよりも私の髪の方が手触りが良かろう?」
満更でもなさそうに目を閉じるレヴェローズに対し、シラベは撫でていた手を止め、そのまま彼女の頭頂部へと軽くチョップを振り下ろした。
「あいたっ!? な、何をするのだ!」
「撫でる権利の返却だ。それよりお前、商店街の掃除に参加する予定だったろ。さっさと行ってこい」
せっかく慰めてやろうとしたのに云々、レヴェローズはしばらく唇を尖らせたが、これ以上は構ってもらえないと見るやしゅんとしたまま店の外へと消えていった。
再びカウンター内に一人取り残されたシラベは、パイプ椅子に深く腰を沈める。
視界の先、デュエルスペースでは、キリメが未だに大穴を愛おしそうに撫で続けている。
その光景をぼんやりと眺めながらシラベは、次に大穴が自分の布団に潜り込んできた時は、少しだけ冷たくあしらってやろうと大人げない決意を固めるのだった。