平日の午前中。本来であればとうに店を開けているべき時間だが、今日のボトムレスピットは表のシャッターが重々しく下ろされたままだった。
表からの光が差さず、蛍光灯の明かりのみが照らす店内で一人、レヴェローズ・ドゥブランコはデュエルスペースの椅子に腰掛けていた。
普段はやれ総督だ偉いだなんだと言いつつも、今の服装は威厳を欠片も感じさせないヨレた無地のTシャツとジャージのズボンというひどく自堕落なものだった。シラベのお下がりのそれは着古し尽くしてようやく伸縮性を獲得し、彼女の規格外の胸部を息苦しくない程度には収めることが出来ていた。
レヴェローズの前には、役所で無料配布されている町内の広域マップが広げられている。
「どうしたものかな」
独り言ちたレヴェローズに返ってくる言葉は無い。外の喧騒だけが変わらず薄く響くだけだ。
こうして店が静まり返っているのには理由があった。
早朝。レヴェローズの愛しき契約者であるシラベが唐突に「猫カフェで修行してくる」と言い出した。気まぐれな黒猫が客の膝の上でだらしなく腹を出して甘えていた光景が、彼の独占欲と対抗心を大いに刺激したらしい。
如何なる解決策を模索したのかはレヴェローズには分からなかったが、金と時間を費やしてプロの猫たちに挑み、それに通用し得る撫で方を会得するという奇行を彼は選択した。
そんな馬鹿げた宣言を聞いたミトラも「面白そうだから」という理由で便乗した。シラベの駆る自転車の後ろに搭乗して行き、結果として本日のボトムレスピットは臨時休業の札を掲げることになったのである。
店に残されたのは二人の精霊と一匹の猫。しかし大穴は朝飯の後にいつの間にか姿を消しており、カルメリエルは朝食の片付けを終えると早々に身支度を整えて地域住民とのコミュニケーションと称して外出していった。
以前、そのコミュニケーションの果てに何が待ち受けているかと姉の動きにレヴェローズは警戒心を抱いていた。しかし実際に企んでいたのはフルメタル神輿などという大仰な鉄の塊で、結果としてただの祭りの出し物として消費されただけで済んでいるため、今ではもう勝手にしろとばかりに関心を失っている。
姉の率いるカルメリエル
広げた地図をなぞりながら、レヴェローズはいくつかの選択肢を天秤にかけていた。
一つは少し離れた公園へ赴くこと。シラベから貰っているお小遣いは少ないため買い食いは出来ないが、歩くだけなら金は掛からない。気晴らしになる。だが少し刺激が足りないかもしれない。
もう一つは、隣町にあるカードショップ「けのや」へと足を運ぶこと。散歩がてら何度か立ち寄ったこともあるため、勝手も知っている。平日の昼間でも小規模な店舗大会が開かれているのも知っていた。参加費は痛手だが、勝ちさえすれば店舗で使える金券が手に入る。なんならそれをシラベに買い取ってもらってもいい。
どちらにするか。腕を組み唸っていたその時だった。
カチャリ、と。店鋪の奥、バックヤードに通じる裏口の扉が開く金属音が響いた。
シラベかミトラが忘れ物でもして戻ってきたのだろうか。レヴェローズが地図から顔を上げてそちらへ視線を向けると、カーテンを捲り上げて姿を現したのは、そのどちらでもなかった。
「なんだ、いるじゃないか」
堂々と姿を現わしたのは、亜修利ヒナタだった。仕立ての良いスーツを身に纏った男装スタイルは相変わらずで、その胸元でワイシャツを虐待するのもいつもの調子だった。
「表のシャッターが閉まっていたので裏からお邪魔させてもらったが、ふむ。ミトラは留守かな?」
「留守だが。貴様、どうやって入ってきたのだ?」
「どうやってもなにも。裏口から普通に扉を開けて入ってきただけだよ」
平然と言ってのけるヒナタの言葉に、レヴェローズは首を傾げた。先に出たカルメリエルが鍵を閉め忘れたのだろうか。ヒナタが愛用のピッキングツールを用いて数秒でシリンダーを開錠したという事実を知る由もないレヴェローズは、不出来な姉を持つと苦労する、とポンコツな推論で自己完結した。
「契約者と店長は、猫の扱いを学ぶとかで隣駅の猫カフェへと出かけていったぞ。夕方まで帰らないだろう」
「猫カフェ? ミトラにしては珍しい行動パターンだな……いや、シラベに無理やり付き合わされているのか。嘆かわしい」
ヒナタは肩をすくめると、何の躊躇いもなくレジカウンターの中の、ミトラがいつも座っている椅子にどかりと腰を下ろした。
「そちらこそどうしたのだ。平日の昼間からこんな場所に現れるとは、貴様もとうとう社会からドロップアウトしたのか」
「まさか。今日の午前に予定していた打ち合わせが相手の都合で急遽キャンセルになってしまってね。それを前提に予定を組んでいたものだから、ぽっかりと一日空いてしまったのだ」
ヒナタはミトラの座る椅子の座布団を愛おしそうに撫でながら、深い溜め息を吐いた。
「差し迫ったタスクも無いことだし、今日は丸一日ミトラの美しい顔を愛でて英気を養おうとしたのだが……当てが外れた。彼女の残り香だけで我慢するとしよう」
恍惚とした表情で空気を吸い込むヒナタを見て、レヴェローズは顔を引きつらせた。相変わらず手の施しようがない。
しつこいほど通っているヒナタの姿を、レヴェローズも知らないわけではない。彼女の異常な愛情は横に置くとして、カードゲームに対する学習能力の高さは目を見張るものがあるのは事実だ。研鑽する姿勢は評価出来る。
とはいえ。いくら顔馴染みになったとはいえ、この狂人を店内に一人残したまま自分だけ遊びに出かけるわけにはいかない。万が一、ミトラの私物を持ち去さられたり、また勝手にカメラを仕込まれたりすれば、後でシラベから雷を落とされるのはレヴェローズだ。
だがこのまま店内で閉じこもっているのも面白くない。遊びにいけないのは嫌だ。
どうしたものか。レヴェローズは地図とヒナタを見比べ、そしてヒナタの腰についている四角いポーチのような箱を見て決心する。自分とこのストーカーを結びつける共通項など一つしかなく、それを使わなければ店外へ誘い出すのは難しいだろう。
「おい、ヒナタ」
「なんだい? 私は今、ミトラの温もりを感じるための瞑想に入っているのだが」
「真性だな貴様。ではなく、隣町のカードショップで平日大会がある。私はそれに参加するつもりだが、貴様も来るか?」
レヴェローズの提案に、ヒナタは瞑想を中断して怪訝な顔を作った。
「私が、ミトラがいない場所で、君とカードゲームを? あまり気が乗らない提案だな」
「貴様、店長に勝つために日々デッキを調整しているのだろう? 私や店長以外を相手にして、自分の今の実力を測るにはちょうどいい機会ではないか」
ヒナタは少し考えるような仕草を見せた。身内だけの対戦では見えてこない環境や、想定外のデッキタイプとの遭遇は、己のプレイングを磨く上で必要不可欠な要素だ。大事なネジが外れているヒナタではあるが、整った理路を示されれば必ず納得する。
「ミトラへの愛を証明するための試金石として、修行に身を投じるのも悪くない」
ヒナタはスーツの皺を払いながら立ち上がり、不敵な笑みを浮かべた。
「良いだろう。その誘い、乗らせてもらおうか」
*
日が落ちて暫く経った頃。ボトムレスピットの裏口の扉が開き、冷たい夜風と共に二つの人影が店内へと滑り込んだ。
「あー、疲れた。猫ってあんなに理不尽な生き物だったか」
シラベは恨みがましい声を上げながらバックヤードに置いているゴミ取り用の粘着テープのロールを手に取ると、自分とミトラの着ている服に当てて猫の毛を剥がしていく。
「シラベががっつきすぎなのよ。猫はああいう余裕のない人間を見下すようにできてるの」
シラベに粘着テープを当ててもらいながら、ミトラは勝ち誇った表情を浮かべている。本人は偉そうにしているつもりのようだが、両腕を上げてばんざいの姿勢の彼女を世話するシラベは年の離れた妹の世話でもしている気分になっていた。
猫カフェでの修行はシラベにとって芳しいものではなかった。猫用のおやつを持っている間だけは群がってくる猫たちも、おやつが尽きた途端に蜘蛛の子を散らすように去っていく。あとはどれだけ撫でようと冷たい視線を向けられるだけで、修行の実感など得られないままだ。噛まれなかったことだけは救いだった。
一方のミトラは、ただ座ってぼんやりしているだけで何匹もの猫が膝の上に入れ替わり立ち代わり、気まぐれにミトラが撫でようがされるがままに猫たちは眠りについていた。羨ましい。やはり体温が高い方が好まれるのか、とシラベは考察していた。
「大穴の奴、今夜俺の布団に潜り込んできたら絶対に外につまみ出してやる」
「ガキね、あんた」
「お前に言われたくねえよ35歳児」
負け惜しみを吐き捨てながら、シラベはバックヤードのカーテンをくぐる。そこには、夕食に向けて既に準備を整えているカルメリエルの姿があった。シスター服の上にエプロンという聖職者なのか家庭的なのかよく分からない出で立ちで、テーブルに食器を並べている。
だがシラベとミトラの視線は夕食の準備ではなく、デュエルスペースの隅の長机に向けられた。
なぜか店にいるはずのないヒナタが、レヴェローズと共に机の上にカードをずらりと並べているのだ。
「コントロールデッキへの対抗策は、やはり生命体による電撃戦が最適解に近い。恒常的に攻められる不防の能力を持ったものであればなおの事良い。ライフを刻んでいくことは明確な圧力になる」
「だが全体除去に対する警戒をしないわけにはいかないだろう。そういう意味でピーピングは局面ごとに強さの質が変わると言っていい。生命体だけを増やしても上振れを期待するだけになってしまう」
二人はシラベたちが帰ってきたことにも全く気付かず、主にヒナタのデッキ構築について白熱した議論を交わしている。その真剣な眼差しには愛だの執着だのといった動機は見えず、純粋にカードゲームの勝利を渇望するプレイヤーのそれだった。
シラベとミトラは顔を見合わせ、呆気にとられたままカルメリエルの元へと歩み寄った。
「おい、なんだあれ。なんでヒナタがいて、あんな真面目にデッキの調整なんてやってるんだよ」
シラベが小声で尋ねると、カルメリエルは困ったように微笑みながら、小皿にポテトサラダを取り分けた。
「お帰りなさいませ、シラベ様、ミトラ様。あのお二人ですが、どうやら昼間に隣町のカードショップへ乗り込んでいったようなのです」
「あいつらが二人でか? どういう流れだよ」
「さぁ。そこの店舗大会に出場したらしいのですが……お二人とも、五戦のうち四勝一敗という成績だったそうで」
シラベの目が僅かに見開かれた。
レヴェローズは分かる。あれはあれで盤外戦術を抜きにして小癪にも勝負事には勘が働くやつだ。デッキも余分な一枚を除けば弱いわけじゃない。
だがヒナタまでもが見知らぬプレイヤーたちが集まるアウェイの環境でそれだけの成績を収めたというのは、手ずから教えた身であるシラベからしても予想以上の跳ね方だった。
「なるほどな。あのストーカー、本気でカードゲームの沼に頭まで浸かり始めてやがる」
そうなってくると、あの議論の熱の入り様もシラベには頷ける。全勝を逃したその一敗が余程悔しかったのだろう――シラベも経験がある。だがミトラに対してモーションを仕掛ける機会をあのヒナタが逃すなんてなかなか見れるものではない。
真剣な顔でカードの採用枚数について言い争うヒナタ。その学習能力と執念は底知れないものだ。次にあの女と盤面を挟んで向かい合う時は、これまでのような小手先では通用しないかもしれない。
「次戦う時はもっと手ごわいかもな、店長。金だけじゃなくて、経験値まで積まれちゃたまらねえぜ」
「手ごわかろうが何だろうが、出されたデッキは叩き潰すまでよ」
シラベの軽口にミトラは脱いだコートをシラベに押し付けて応じる。彼女らしい口振りに、シラベは笑うしかなかった。
「お風呂入ってくる」
そう言って階段を数段上ったところで、ミトラはふと立ち止まり、振り返ってシラベを見下ろした。
「シラベ」
「ん?」
「晩ご飯食べたら、そっちの部屋でデッキの調整するから。付き合いなさい」
どうやら負けず嫌いの火の粉は、あらぬ方向に飛び火していたらしい。その宣言が打消し不能なことはシラベは百も承知だ。こういう時は余計な文句は言わず、応じるに限る。
「はいはい、店長命令ね」
「ん」
シラベの雑な回答に満足したのか、ミトラは微笑んでから再び階段を上っていく。
どいつもこいつも負けず嫌いばかりだ。それが嫌だと、シラベは思わなかった。