重厚なデスクに置かれたモニターの青白い光が、亜修利ヒナタの端正な顔を冷たく照らし出していた。
深夜の書斎。壁一面を覆う本棚には分厚い専門書が整然と並び、キーボードを叩く小気味良い打鍵音だけが静寂に穴を開けている。
ヒナタはブラウザのタブを切り替えながら、画面に羅列されるテキストデータを目で追っていた。
表示されているのは、エインヘリヤル・クロニクルに関する非公式のWikiサイト、過去にアーカイブ化された公式ページ、そして海外フォーラムの考察記事の翻訳だ。
彼女が貴重な睡眠時間を削ってまでこんなオタクめいた情報収集に勤しんでいるのには、二つの理由があった。
一つは、愛しのミトラとの共通の話題を増やすため。あの常に気怠げで愛想のない店長の興味をこちらに向かせるには、彼女の土俵であるカードゲームの知識を深めるのが最も確実なアプローチだ。
そしてもう一つは、ボトムレスピットに居座る「精霊」なる存在に対する、純粋な知的好奇心だった。
ヒナタは目の前にある事象をオカルトという曖昧な言葉で片付けることを許さない。現象が存在する以上、そこには必ず理屈がある。かつて自身もその被害を──あるいはその共犯関係に巻き込まれたものの、その信念は揺らいでいない。
不条理への手掛かりを、ヒナタはゲームの背景ストーリーに求めた。
発売当初、このカードゲームに明確なストーリーなど存在しなかった。ファンタジー風のイラストが描かれた、ただの対戦のためのツールに過ぎなかったのだ。
それが年月を経るにつれ、後付けで世界観がパッチワークのように拡張されていった。最初は海外でのみ出版されたペーパーバックの小説。次にインターネットの普及に伴い公式ホームページ上で連載されたショートストーリー。一時的に展開されたPC向けデジタルゲーム内で語られた断片的なテキスト群。
媒体ごとに設定の細部は矛盾を孕んでおり、いつから誰が全体の世界観を監修しているのかすら明かされていない。ストーリー担当者の名前はどこにもなく、クレジットには常に無機質な開発チームとしか記載されていなかった。
「無い、な」
ヒナタはモニターの前で腕を組み、深く息を吐いた。ドゥブランコ三姉妹のストーリー、その他の地域や時代で展開されていたものも一通りなぞった上での溜め息だった。
公式のストーリーにおいて、「精霊」などという存在は一切記述されていない。カードから実体化して自立思考するなどという現象は当然描かれないし、そもそもプレイヤーが使役するのはあくまで記憶の再現体であり、自我や肉体を持った個体ではないとされている。
そして、「契約者」という概念も存在しない。
あのレヴェローズという金髪の女は、事あるごとにシラベを契約者と呼んで執着している。かつてヒナタに取り憑いたレディ・ローマもまた、ヒナタを契約者であると妄信する口振りだった。
だが公式設定のどこを探しても、カードのキャラクターがプレイヤーたる魔術師と個別の契約を結ぶというシステムも、それを裏付けるストーリーも見当たらない。
では、あのおもちゃ屋で実体化して飯を食い文句を垂れている彼女たちは、一体何者なのか。何をもってして、特定の人間を契約者と認識しているのか。
単に自身をデッキに入れている者をそう呼んでいるだけなのか。それが契約と呼ぶに足るものなのか。
ヒナタの思考が回転するが、データが不足しすぎていて確定的な答えは出ない。情報の生命体、並行世界からの観測による実体化、あるいは集団幻覚。論理を飛躍させても決め手に欠ける。
考察に行き詰まりを感じ、ヒナタは検索の方向性を変えた。
公式設定から離れ、ファンが個人で運営するサイトや画像掲示板を巡回してみる。熱心なプレイヤーたちの雑然とした考察の中に、何か見落としている視点があるかもしれないと考えたからだ。
無数のリンクを辿るうち、ヒナタは一つの個人サイトに行き当たった。
エインヘリヤル・クロニクルのキャラクターのイラストを描いてアップロードしている、いわゆる二次創作のブログだった。公式で多用されている重厚で油絵めいたタッチとは全く異なる、アニメ調の可愛らしく、そして過剰に特徴を強調された絵柄。
マウスのホイールを回す指が止まる。
描かれているキャラクターのほとんどは、初心者に毛が生えた程度の知識しかないヒナタには見覚えのないものだった。だがその中に一つだけ、明確に知っている顔があった。
ピンク色の長い髪に、重力を無視した豊満な胸部。ボトムレスピットで事務作業と炊事をこなしている、あのシスター服の女。カルメリエルだ。
しかし、画面の中の彼女はいつもの柔和な微笑みを浮かべてはいなかった。
そのブログの管理人は、カルメリエルというキャラクターに対してひどく歪んだ偏愛を抱いているようだった。敵国に通じて破滅したという公式の悲惨な結末──腹黒い聖女が因果応報とばかりに地の底へ堕ちていくというギャップが、愛好家の嗜虐心をよほど煽るのだろう。
描かれていたのは、薄暗い地下牢のような場所で、異形の装甲を纏ったヴラフマの雑兵たちに囚われたカルメリエルの姿だった。神聖な衣服は無残に引き裂かれ、拘束された手足は抵抗の余地を奪われている。だらしなく崩れた表情と涙に濡れた目元からは、公式イラストの聖女然とした威厳が根こそぎ剥ぎ取られていた。
さらにページをスクロールすると、より凄惨な光景が展開されている。生体融合技術の過酷な実験の犠牲となったのか、全身に機械的な管を接続された状態。虚ろな目を開けたまま意識を失い、敵国の兵器の一部品として改造され尽くしたその描写は、残酷でありながらどうしようもなく扇情的だった。
「……男の性欲というものは、本当に度し難いな」
誰もいない書斎で独りごちる。口では軽蔑を気取りながらも、ヒナタの耳の裏は熱を帯びて赤く染まっていた。マウスを握る手に無駄な力が入り、革張りの椅子の上で落ち着きなく姿勢を変える。
男装の麗人を自認し、常にスマートであろうとするヒナタだが、この手の露骨な暴力性と退廃的な色気の合わせ技に対する耐性は皆無に等しかった。
ボトムレスピットで実際に言葉を交わしている、現実のカルメリエルの姿が脳裏に浮かぶ。
常に柔和な笑みを絶やさず、ミトラの世話を焼き、どこか底知れない空気を纏った女。
あのカルメリエルが、こんなあられもない姿で泣き叫び、堕ちていくなどあり得るのだろうか。
「あり得ないな。あの女はもっとこう……腹の底がドス黒いというか。自分が窮地に陥る状況すら逆手に取って、相手の脳髄に毒を盛りそうな図太さがある」
画面のイラストと現実のカルメリエルのあまりのギャップに呆れ、ヒナタは少し冷めた頭でブラウザのタブを閉じた。
だが、妙な思考が頭の隅に引っかかる。
公式の設定には存在しない、精霊という自立した個体。そして今まさに目にした、公式の設定を逸脱した無数の二次創作の数々。
もしかすると、あのおもちゃ屋にいる彼女たちもまた、誰かの強烈な想像力や願望が形を得たもの、一種の二次創作のような存在なのではないか。プレイヤーたちが長年注ぎ込み続けた想念や欲望が結実した結果。だからこそ公式ストーリーには存在しない「契約者」などという独自の概念に縛られているのではないか。
「馬鹿馬鹿しい。オカルトより酷い妄想だ」
ヒナタは小さく自嘲して頭を振った。論理的飛躍にもほどがある。だとすれば誰がそれを空想しているというのか。先ほど見た二次創作に影響されて、思考が変な方向に引っ張られている。
PCの電源を落とす。モニターの光が消え、書斎は完全な暗闇と静寂に包まれた。
ヒナタは椅子の背もたれに体を預けたまま、天井を仰いだ。
答えは出ない。だが、答えの出ない問いを抱え続けることには慣れている。ミトラへの愛もそうだ。
明日もまた、あの狭いおもちゃ屋に足を運ぼう。非科学的な現象の観察対象として。そしてミトラの美しい顔を拝むために。
二つの動機のうちどちらが本音かなど、ヒナタ自身にも分かりきっている。
重い椅子から立ち上がり、書斎のドアへと向かう。暗闇の中でスーツの上着を脱ぎ、寝室へと消えていった。