冬の鋭い冷気が色褪せた商店街のアーケードを通り抜けていく。年末の空気はどこか気ぜわしく、道行く人々の歩調も普段より早い。
そんな中、シラベは空の段ボール箱を抱えて歩いていた。首筋にはマフラー代わりに丸まった大穴が陣取り、ゴロゴロと低い喉の音を鳴らして暖を取っている。撫で係と見初めたキリメがいなければ前と変わらないように振る舞う猫畜生に、シラベは釈然としない想いを抱かざるを得ない。
「まったく、荷物運びなど総督の仕事ではないぞ。寒いし。こたつにいてはダメか? 今なら一緒に暖まってやってもいいぞ?」
シラベの隣を歩くレヴェローズが不満げに口を尖らせている。彼女の服装は相変わらず中古かシラベのお下がりで賄われており、シャツとショートパンツという寒々しいものに安物のコートを羽織っただけだ。歩くたびにコートの隙間から揺れる質量が、すれ違う通行人の視線を無駄に集めている。
「文句言うな。お前が普段食ってる飯代の代わりだと思えば安いもんだろ。それに今日はただの荷物運びじゃない。棚卸しだ」
シラベが呆れたように返すと、レヴェローズはさらに眉をひそめた。
「たなおろし? なんだそれは」
「店の在庫を確認して、資産の価値を計算すんの。商売の基本だ。お前のところの帝国じゃやってなかったのか」
「むっ。軍備の管理は姉様のような数字が好きな者の管轄だったから、私が知らないだけだ。前線で指揮を執るのが総督の仕事だからな」
「戦場じゃ戦死者の何割が同士討ちって言われてたっけな」
胸を張って無能を晒すポンコツを適当に受け流し、商店街から更に住宅街へと足を進める。目的地は店から少し離れた場所にある、ミトラの実家である古民家だ。シラベは以前、秋祭りの騒動の際にも来たことがあるので迷うことはない。
文句半分、興味半分のレヴェローズを引き連れて十数分。シラベは古民家の敷地へと足を踏み入れた。
手入れの行き届かない庭先には枯れたままの雑草が霜を被り、表札の「佐野」の文字は日焼けで薄れかけている。人の気配が絶えて久しい家特有の、ひんやりとした静けさが漂っていた。
軋む引き戸を開けて土間に入ると、まず視界を塞いだのは巨大な鉄の塊だった。
カルメリエルと愉快な仲間たちが建造し、紆余曲折を経てここに安置されることになったフルメタル神輿である。本来なら風情ある広い土間であるはずの空間の大部分を異形の構造物が占拠しており、その禍々しいシルエットはシラベの頭痛を再発させるのに十分だった。
「相変わらず邪魔だな、これ」
「あら、シラベ様。文句ならミトラ様におっしゃってくださいませ。これをここに置くと決めたのは店長様ですから」
「まず作った奴に文句を言うのが筋だろ」
二階へと続く急な階段の上から、先に到着して作業を始めていたカルメリエルの声が降ってきた。彼女はいつものシスター服の上にどこから調達したのか白い割烹着を羽織り、頭には三角巾まで被っていた。手にははたきを持ち、完全に大掃除モードに入っている。聖職者の装いと割烹着という組み合わせは意味不明だが、不思議と様になっている辺りがこの女の底知れなさだ。
「さあ、お喋りはそこまでにして二階へ上がってきてください。ここの地層を今日中にどうにかしなければなりませんのよ」
「地層ねぇ。ま、大袈裟でもないか」
「ええ。まったく、ミトラ様ったらまるで管理する気がないのですもの。先代のお荷物がそのまま化石になっておりますわ」
カルメリエルに急かされ、シラベとレヴェローズが古い木の階段を上る。踏みしめるたびに悲鳴じみた軋みが鳴り、レヴェローズが大丈夫なのかと不安げに天井を見上げた。
二階に上がると、そこは段ボールの要塞だった。
先代の店長、つまりミトラの父親の時代から蓄積された、売れるかどうかも分からない旧在庫や個人的な私物が廊下から部屋の中まで無秩序に積み上げられている。古い家屋特有のカビと埃が混ざり合った匂いが、冷え切った空気に澱んでいた。窓には蜘蛛の巣が張り、差し込む冬の陽光すら埃っぽく霞んで見える。
「ひどい有様だな。これ全部確認するのか」
「だから臨時休業にしたんでしょ」
シラベのぼやきに返事をしたのはミトラだった。
彼女は奥の部屋の隅に陣取り、持ち込んだらしい小さな電気ストーブの傍に体を丸めて座り込んでいる。パーカーの袖口から覗く手には小さな軍手が嵌められており、一応作業する姿勢だけは見せていた。だが、その体勢からはここから動くつもりはないという断固たる意志だけが伝わってくる。
それを見てもシラベに不満はなかった。ミトラが肉体労働をするわけがないと分かっていたし、下手に動かれて段ボールの下敷きにでもなったら洒落にならない。あの体格では文字通り埋まる。
「シラベ様とレヴェローズは、奥の段ボールから中身を出して商品かゴミか分類してください。判断に迷うものはミトラ様へ。私は手前の箱から順に帳簿と照合していきますわ」
「あいあい」
「仕方あるまい。総督自ら前線に出てやろうではないか」
カルメリエルの指示のもと、発掘作業が始まった。マスクを着けたシラベとレヴェローズが埃まみれの段ボールを次々に開封していく。
中から出てくるのは、遠い時代に流通した由来も知れないおもちゃの山。日焼けして茶色く変色した古いスリーブの束。誰が発注したのか分からない、マイナーなボードゲームの箱が同じ種類だけで二十個以上。先代の趣味なのか仕入れミスなのか、判断が付かない品々が地層のように堆積していた。
「ぷしっ」
舞い上がった埃に大穴がくしゃみをした。小さな黒い体が丸ごと跳ねる。
「こら、シラベ。大穴が可哀想でしょ。こっちによこしなさいよ」
「お前がモフりたいだけだろ。ほれ」
ストーブの前から、もっともらしい理屈をつけて手を伸ばすミトラ。シラベは呆れつつも大穴を引き剥がし、座り込むミトラの膝の上に乗せてやる。大穴は慣れた動きでミトラの太腿に陣取り、電気ストーブの温もりと店長の体温に挟まれて、あっという間に満足げな重低音を響かせ始めた。
シラベの肩が軽くなった。その軽さがどこか寂しいのは、ここ最近の慢性的な症状だった。
「おおっ! 契約者よ、見ろ! 掃きだめにも宝があったぞ!」
感傷を吹き飛ばす能天気な声。次に騒いだのはポンコツだった。
レヴェローズが目を輝かせて持ち上げたのは、エインヘリヤル・クロニクルの古い未開封ボックスだった。黄ばんだシュリンクフィルムに包まれたそれに、シラベにも見覚えがある。だがそれは良い思い出ではない。
「よりにもよって『ギルド長の難問』じゃねえか。宝でもなんでもねえよ」
収録カードの悉くが微妙な性能に終わった不遇弾の代名詞だ。他のカードショップでもたまに投げ売りされており、転売屋が騙されて買い占めてくれることを祈るしかないような商品である。
シラベにとってはただの産廃の塊でしかないが、レヴェローズにとっては未知の宝の山に見えるらしい。紫の瞳が子供のようにきらめいている。
レヴェローズがシュリンクフィルムに指を掛けた瞬間、シラベは素早くその手首を掴んで制止した。
「む、何をする契約者」
「馬鹿野郎、やめろ。カスパックでも未開封だったら値がつくんだ。シュリンク破ったら中身がなんであれただの紙切れの詰め合わせになる」
「何を言う! カードは戦場に出てこそ、使われてこその存在だろう! こんな箱の中に閉じ込められたまま一生を終えるなど、カードとして生まれた意味がないではないか! 可哀想だとは思わんのか!」
「おお。お前、一応そういう見方でモノ言えたんだな」
レヴェローズの主張は、思いのほかカードの精霊じみたものだった。
彼女たちはプレイヤーに使われることで存在意義を見出す。だからレヴェローズはシラベのデッキに己を入れることを強いている。暗い箱の中で眠り続けることは、確かに彼女たちにとっては死と同義なのかもしれない。
だが現実の資本主義とカードショップの経営は別のルールで動いている。
「でもな、開けて中身が分かったらストレージの肥やしになるだけだ。未開封のままなら、コレクターが勝手に幻想を抱いて高い金を出してくれるかもしれねえ。開けないことが一番の価値なんだよ」
「ええい、理屈を並べるな! 開けなければ強いか弱いかも分からんではないか!」
「そもそも強いカードがねえんだよ、その拡張パックは。猫箱を観測するまでもなくカスが確定してる」
シラベは強引にボックスを奪い取り、未開封商品の仕分け用段ボールへと放り込んだ。
レヴェローズはしばらく恨みがましい目でシラベを睨みつけていたが、すぐに別の箱から出てきた古びたブリキの玩具に興味を移し、カチャカチャとゼンマイを回して遊び始めた。集中力の無さは相変わらずだ。戦力にならないどころか足手まといだが、追い出しても別の場所で余計なことをしかねないので、目の届く範囲に置いておくしかない。
シラベは注意するのを諦め、黙々と作業を続ける。
*
数時間が経過し、窓の外の光が傾き始めた頃。
二部屋にまたがっていた段ボールの山は「売却可能」「店舗保管」「廃棄」「判断保留」の四つの山に仕分けられ、ようやく畳の色が見えるところまで片付いてきた。
その最も奥、壁際に押し込まれていた一際古びた段ボールをシラベが開けた時のことだった。
「ん……これは」
中に入っていたのは未開封のパックやスリーブではなく、明らかに個人が使い込んでいた痕跡のある品々だった。
縁が擦り切れて飴色に変色した本革のデッキケース。クリップで束ねられた、手書きのおもちゃ大会の運営マニュアル。色褪せた封筒に入った、常連客に宛てたらしい手紙の下書きが数通。そして、黒い表紙の分厚いノート。
シラベはノートを手に取り、パラパラとページをめくった。そこには日付と共にその日の売り上げ、来店した客の傾向、仕入れの反省、そしてカードゲームの環境に対する個人的な考察が、几帳面な文字でびっしりと書き込まれていた。
業務記録であり、同時に日記でもある。
記名こそないが、シラベには察しがつく。ミトラの父親──先代店長の遺物だ。
あの狭い店舗を切り盛りしながら、毎日これだけの記録をつけていたのか。律儀を通り越して偏執的ですらあるが、そこには確かに店を愛した人間の体温が宿っていた。
シラベがノートに見入っていると、背後から無言で手が伸びてきた。
小さな軍手に包まれた指が、シラベの手からノートを奪い取る。
「見ないで」
振り返ると、ミトラがいた。先ほどまでストーブの番をしていたはずの彼女が、いつの間にかシラベのすぐ後ろに立っている。その顔に浮かんでいる表情からは感情が読めない。
「ああ、悪い。これ、どうすんだ?」
「ゴミよ。こんな古いマニュアルは今の店には必要ないし、デッキケースもボロでしょ。捨てるわ」
ミトラは宣言通りに躊躇なく廃棄用のゴミ袋へと放り投げた。その乱暴な手付きに、理屈は理解していたシラベも眉をひそめたくなる。
しかし。左手に握られた黒い日記帳だけは、ゴミ袋の上で不自然に動きを止めた。
ミトラの視線がノートの表紙に落ちる。
数秒の空白。電気ストーブの駆動音がやけに大きく響いた。
やがてミトラは何も言わず、そのノートを自分が持ってきたリュックサックの中に無造作に押し込んだ。座布団代わりにそれを尻に敷き、再び大穴に顔をうずめ始める。
シラベはそれを見て見ぬふりをして、段ボールの残りの整理に戻った。
「おお、なんだこれは。店長の子供の頃ではないか!」
空気を読まないレヴェローズの明るい声が、静寂を木っ端微塵に吹き飛ばした。
彼女が手にしていたのは古いアルバムだった。表紙の布張りは色褪せ、角は擦り切れている。レヴェローズが指差しているのは、その中の一枚の写真だ。
まだ看板の色が鮮やかだった頃のボトムレスピットの店先。恰幅の良い男性の肩に跨り、満面の笑みでピースサインをしている幼い少女。
その顔は間違いなくミトラのものだった。シラベの観察眼では現在との違いはその笑顔しかないように見える。
「ちょっと、何勝手に出してんのよ! 返しなさい!」
ミトラの顔が見る見るうちに赤く染まり、ストーブの前から弾かれたように立ち上がってレヴェローズに飛びかかった。膝に乗っていた大穴がふぎゃと不満の鳴き声を上げて退避する。
「こんなの……こんなの、どうでもいいものよ。捨てなさい、いますぐ」
「何故だ、店長。思い出の品だろうに。捨てることはあるまい」
「あんたみたいな無神経で脳味噌の足りないポンコツに見られて、適当なこと言われるのが一番腹立つのよ。ただでさえガキの頃なんて思い出したくないのに……」
言葉の端が掠れた。それに気づいたのか気づかなかったのか、レヴェローズは素直にアルバムを差し出す。ミトラはそれをひったくるように奪い取ると、ゴミ袋に叩き込もうと振りかぶった。
その瞬間。横からスッと伸びてきた白い手が、ミトラの腕からアルバムを優雅に掠め取った。
カルメリエルだ。
「それならば、ミトラ様。私にお任せくださいませ」
彼女は糸目のまま微笑み、古びたアルバムを自らの豊かな胸の谷間へと当然のように滑り込ませた。四次元ポケットか。姉妹揃って亜空間じみた収納能力を誇っている。
「このままゴミ袋に入れても、後から愚妹にイタズラされないか心配でしょう? 私が責任を持って処分いたしますわ」
「誰が愚妹だ愚姉!」
「あんた、それ後で変なことに使わないでしょうね」
抗議をあげるレヴェローズは当然無視される。
「その……本当に捨てるわけ?」
ミトラの声が、ほんの少しだけ小さくなった。それを聞いたカルメリエルの微笑みがほんの一瞬だけ深まったのをシラベは見た。まるで欲しい言葉を引き出せたことに満足したかのように。
「ご安心くださいませ。適切な処置を行います」
ミトラは胡散臭そうにカルメリエルを睨んだが、それ以上は追及しなかった。
シラベはその一連の回収劇を眺めながら、小さくため息をついた。あの腹黒い聖女のことだ。どうせ捨てるつもりなどないだろう。写真を綺麗にスキャンして額に入れるくらいのことは平気でやりかねない。シラベが分かっているということは、ミトラにも分かっているはずだ。
それでもカルメリエルに任せるということは──カルメリエルへの信頼という言葉は脇に置くとしても、ミトラなりにあのアルバムを完全に手放す気がないのだろう。自分の手で持ち帰るのは意地が許さないが、誰かに処分を依頼して預けるという形ならギリギリ折り合いがついたのか。ミトラらしい、ひねくれた執着の仕方だった。
シラベが祈るのは、せめてカルメリエルが余計な思い付きを実行に移さないことと、たとえそれが起きても自分に被害が降りかからない事くらいだった。
*
窓の外が茜色に染まり始め、段ボールの山がようやく平坦な地層程度にまで減った頃。
作業の終わりが見えてきて気が抜けたのか、レヴェローズが再び未開封パックの前に座り込んで駄々をこね始めた。
今度のパックは『戦乱葦野の地平』。レヴェローズたちの母国、ドゥブランコ王家もフィーチャーされている拡張パックだ。
「頼む、契約者! これ一つだけでいい! 一つだけでいいから開けさせてくれ!」
「子供かお前は。ダメだっつってんだろ」
「だが! これは我が祖国に縁のあるの拡張パックだぞ!? 同胞たちが眠っているかもしれんのだ! 救出作戦だ、人道的に開封すべきだ!」
「どこが人道的だ。ただの物欲だろうが」
押し問答が数分続いた後、ストーブの前で大穴を抱きしめていたミトラが面倒くさそうに口を挟んだ。
「シラベ、もういいわよ。一つくらい開けさせなさい」
「店長?」
「どうせこんな場所に十何年も放置されてたものなんて、保存状態も怪しいわよ。客に売るのも忍びないし。一パックくらい御駄賃に丁度いいでしょ」
店長からの許可が出た瞬間、レヴェローズの顔がパッと輝いた。
「聞いたか契約者! 店長のお墨付きだ!」
「わーったよ。好きにしろ」
お預けから解放された犬の如く、レヴェローズは恭しくパックを手に取り、勢いよく上部の封を破った。紙とインクの匂いが古い部屋の空気に溶ける。
彼女は期待に満ちた目で中身のカードを一枚ずつめくっていき、最後の一枚──レアカードのスロットに差し掛かった。
「ほうほう。生命体だな。CCに纏わる能力は……無いか。だがフィールドの機械を参照する、と」
聞き覚えのある効果が読み上げられ、シラベは思わずレヴェローズの手元を覗き込んだ。
『蒼穹の機竜姫』
コスト:〈8〉〈青〉〈青〉
タイプ:生命体
・量産(このカードを唱えるコストは、あなたのフィールドにある機械の枚数分〈1〉減少する)
・飛翔(この生命体は飛翔を持たない生命体によってはブロックされない)
・このカードのXの値は、あなたのフィールドにある機械の枚数に等しい。
[X/X]
「……これ」
シラベの手が止まった。
白銀の髪に、竜の角を生やした女性が描かれたカード。それを見た途端、脳裏を十年前の光景が走り抜けた。
まだカードゲームに純粋な熱を注いでいた学生時代。なけなしの小遣いを握りしめ、ボトムレスピットのショーケース越しにずっと眺めていた一枚。空を飛び、機械を並べれば並べるほどサイズが膨れ上がる。当時のシラベが使っていた機械デッキと完璧に噛み合う、夢のようなフィニッシャー。
だが当時のシラベの財布では、ショーケースの中のシングル価格に手が届かなかった。パックを剥いても出ない。友人に頼み込んでトレードを持ちかけても断られる。結局手に入れることができないまま、大学進学と共にカードから離れ、そのまま時が過ぎた。
あの頃は欲しくて堪らなかった一枚が、こんな埃っぽい部屋の片隅で眠っていた。
「どうした契約者。顔色が変わったぞ」
レヴェローズがシラベの顔を覗き込む。その表情がいつもの能天気なものではなく、どこか心配そうな色を帯びていることに、シラベは少し驚いた。
「なんでもねえよ」
シラベはそう言って、視線を逸らそうとした。
今のシラベのデッキに入る余地はない。コストが重すぎるし、属性も合わない。これを使ってもミトラは勿論、躍進しているヒナタにだって太刀打ちできないだろう。環境落ちした過去の遺物。シラベの中のカードゲーマーとしての物差しが、冷静にそう判定を下す。
だが、レヴェローズはシラベの視線を逃がさなかった。
逸らそうとする目を追いかけるように、カードを動かす。シラベの視界に、白銀の竜姫が映り続ける。
「なんだよ」
「なに。言わずとも分かるぞ。契約者のことだからな」
レヴェローズはふんっと得意げに鼻を鳴らした。
「このカードが欲しいのだろう。私は優しいからな──契約者にあげようではないか」
見当違いの優しさだ。こんなカード、今ならシラベの安い給料でも何枚も買える。環境落ちして久しい旧弾のレアなど、ストレージを漁れば百円で手に入る。
ゴミを押し付けるな。お前のデッキにも入らないからって、廃品処理を任せるな。
罵倒の言葉はいくらでも湧いて出てくる。だが、それら全てをシラベは呑み込んだ。
レヴェローズの紫の瞳が、真っ直ぐにシラベを見ている。吞み込んだものは熱に溶けていった。
「そうかい」
シラベはそう呟くと、暇潰しが出来るようにと持ってきていた自分のデッキケースを開いた。六十枚のカードがぎっしりと詰まったその束の、一番後ろの隙間に、そっと『蒼穹の機竜姫』を滑り込ませる。
使う予定はない。実戦に投入する日が来るとも思えない。
だが、それでも。せめて後でバインダーに収める程度の感傷は許されるだろう。
「さ、今日の作業はここまで。さっさと帰るわよ」
ミトラがストーブのスイッチを切り、立ち上がった。カルメリエルが手際よくゴミ袋をまとめ、レヴェローズはまだ別の未開封パックに未練がましい視線を送っている。
売却品と廃棄物は後日改めて業者を手配するとして、今日のところは各自の戦利品と重要書類だけを持ち帰ることになった。シラベが台車に段ボールを載せ、一同は古民家を後にする。
外に出ると、冬の夕暮れはすでに藍色の闇に浸食され始めていた。吐く息は来た時よりもさらに白く濃い。
「んんる」
シラベの首筋に冷たい鼻先を押し付けた後、ジャンパーの襟元に黒い頭が突っ込まれる。いよいよ寒さが堪えるらしい大穴が、シラベの上着の中に本格的に潜り込んでくる。
「はいはい。寒いのな」
シラベは膨らんだ上着の上から黒猫の背中を撫でた。キリメの前ではあんなにデレデレしていたくせに、いないとなればこうして戻ってくる。都合のいい猫だと思ったが、縋ってくるものを突き放す気にはなれなかった。
台車を押しながら、先を歩く小さな背中を目で追う。ミトラはリュックサックを背負っていた。彼女の体格には少し大きなそのリュックの中には、先代の日記帳が入っているのをシラベは知っている。
「結局夜まで掛かったわね」
ミトラは立ち止まらず、振り返らず、ぽつりと言った。
「来年は、もうちょっと効率的にやりましょう」
その声は冷たい風に掻き消されそうなくらい小さかったが、シラベの耳にははっきりと届いた。
来年。
この店長は来年の話をしている。来年もまた年の瀬まで働かせると、当たり前のように。来年もこの面子でこの作業をすると、そう言っている。
「ああ、そうだな」
「他人事じゃないわよ、シラベ。カルメリエルに任せきりにしないで、あんたもあそこの在庫、ちゃんと把握しておきなさい」
「ただのバイトにそこまで求めるな」
「うっさい。来年はあんたが指揮すんのよ。店長命令」
打消し不能のいつもの宣告。辟易するはずの上司の言葉に、シラベは笑った。来年の事を言えば鬼が笑うという。ならば笑う他なかった。
冬の風が吹いていた。それでもジャンパーの中で丸まる黒猫の体温と、デッキケースの隅に収まった一枚のカードの重みが、シラベの胸の奥をほんの少しだけ温めている気がした。