鼻腔をくすぐる甘ったるい香りと、太腿にのしかかる豊満な肉の質量。
レヴェローズの体温を感じながら、シラベはレヴェローズのデッキという借り物を弄りながら、構築という名のパズルの久々の面白さに没頭していた。膝の上の産廃王女はシラベが自分のためにカードを触れてくれているというだけで上機嫌で足をぶらつかせている。
端から見ればいい年をした男が紙いじりをしながら顔をしかめているだけのホラー映像だろう。
そんな平日昼間の、平和かつ社会的にはやや終わっている静寂を破ったのは、テーブルの端から伸びてきた小さな影だった。
「……ねえ」
感情の抜け落ちた、平坦な声。
シラベが顔を上げると、そこには死んだ魚のような目をした少女が立っていた。
日焼けを知らない青白い肌に、手入れされていないボサボサの黒髪。サイズ違いの黒いパーカーをワンピースのように被り、下には黒のタイツ。まるでショップの暗がりに生えたカビが人の形をとったような出で立ちだ。黒々とした少女にシラベは少年時代を重ねてほのかに親近感を覚えた。
平日の昼間。小学生なら小学校にいるはずの時間帯。
だが、今のシラベに彼女を咎める資格はない。社会のレールから外れた者が同様の存在に対して詮索するなんてマナー違反だろう。シラベ自身、平日の昼間からカードショップに入り浸る男なのだから、怪しさで言ったら人のことは言えない。
何より、シラベの恰好で学校がどうこうと詰める姿は滑稽だし、万が一泣かれでもして誰かに見られればそれだけで通報ものだ。世間は正しくない成人男性にとことん冷たい。
「なんだ、嬢ちゃん」
シラベは出来る限り愛想のよいつもりで、しかし膝上のレヴェローズをさりげなく押し退けながら答えた。レヴェローズが不満げに身じろぎし、その柔らかい尻の感触がダイレクトに伝わってくる。
「これ、デッキ?」
「ああ。まあ、借り物だけどな」
「私のだからな」
豊満な胸が目の前で揺れるが、シラベは無視する。
少女もシラベ本人には興味がないらしく、テーブルに広げられたカードへ視線を落としていた。そして、色素の薄い指先で、一枚のカードを指し示した。
「なんでこれ入れてるの?」
指先にあるのは、『伝結晶総督レヴェローズ・ドゥブランコ』。
「え?」
「弱いじゃん」
挨拶代わりの直球すぎる火の玉ストレートに、膝の上のレヴェローズが息を呑む気配がした。
「いや、まあ……そうなんだけど」
思わず肯定した瞬間、見えない手がシラベの耳を強くつねり上げた。痛い。だが声を上げれば不審者だ。シラベが脂汗をかいて耐えていると、少女は無言でポケットからスマートフォンを取り出した。
慣れた手つきでフリックし、突きつけてきたのはカードデータベースの画面だ。
「これ知ってるでしょ」
画面に映っていたのは、巨大な時計仕掛けの翼を持つ、彫刻めいた猛禽類だった。
『伽藍造りの空猟兵』
コスト:〈7〉
タイプ:機械・生命体 ― 鳥類
・伽藍造りの空猟兵は、
・飛翔(この生命体は、飛翔を持つ生命体によってのみブロックされる)
・伽藍造りの空猟兵が攻撃またはブロックに参加した際、戦闘終了時に、伽藍造りの空猟兵の上からCCを1個取り除く。
・〈3〉:伽藍造りの空猟兵の上に
[0/0]
「……あー、はい。存じ上げております」
シラベは思わず敬語になった。
たしか、レヴェローズより一つ前の弾に収録されたレアカード。
コストはレヴェローズより軽い「7」。スタッツは同じ実質6/6。
戦闘する場合は維持コストというデメリットはあるが、マナが余る終盤では誤差の範囲。何より決定的なのは『飛翔』。地上の敵を無視して顔面を殴れる回避能力だ。
「1コス軽い。サイズは同じ。回避能力あり。維持コストは些細な問題」
「ぐぬぬ……!」
「対してこっちは、重い。実質バニラ。ぼっ立ち。……比較にならない」
「き、貴様ぁ! 小娘の分際で!」
シラベの膝の上で、レヴェローズが激昂して暴れだした。
「バニラではない! 私には『伝結晶』への強化がある! 私にしかできない盤面構築が……おい契約者! 言ってやれ! あの鳥ごときと王族を比べるなと!」
総督閣下がポカポカとシラベの胸板を叩くが、その声は少女には届かない。そしてシラベの心にも響かない。なぜなら少女の言うことが正論すぎるからだ。
「ま、まあな。デカめの生き物採用するならそっちがいいよな」
「うん。そもそも『潤滑剤』デッキに入れるにはどっちもあり得ないけど、伽藍造りの方が鍋で煮込めるぶん毛一本マシ。それ、選ぶ理由、ない」
少女はスマホをしまい、ゴミを見るような、あるいは未知の深海生物を観察するような目でシラベを見上げた。
彼女の視線が、カードイラストに描かれたレヴェローズの、過剰に強調された胸部へと吸い寄せられる。
そしてシラベの顔へと戻り、少女は正解にたどり着いた探偵のように呟いた。
「──おっぱい?」
「ぶふっ」
シラベは咳き込んだ。
「性能面での採用理由が存在しない。なら残る可能性は一つ。性欲」
「お、おっぱ……!? な、なな、何を言うかこの無礼者! 私は総督だぞ! 高貴なるドゥブランコの……おい、何か言い返せ!」
顔を真っ赤にしたレヴェローズが、シラベの胸ぐらを掴んで揺さぶ──ろうとするのをかろうじて堪える。契約者を年少の者の目の前で異常に揺する男にすればどういう社会的制裁が待つか程度は総督閣下でも理解できた。
シラベはこの最悪の盤面の受け流し方を思い付いていた。というより、そもそも自分が攻撃対象になっていることがおかしいのだ。
そもそも、あらかじめ言っているのだ。このデッキは借り物なのだと。自分のものではないのだと。
であれば、全ての攻撃は無効となるし対象不適正だ。「そうなんだよ持ち主がおっぱい星人でさぁ」と架空の知り合いにすべてを押し付けることも可能だった。
だが、シラベは反論しなかったし、言い訳も責任転嫁もしなかった。本来の持ち主であるレヴェローズが騒ぎを起こすかもしれないというのもあったが、そんなことよりも大事な自分の中のオリジンがあった。
今の彼がレヴェローズをデッキに入れなければならない理由はアンティのせいではあるが、最初のきっかけは確かにエロいからだったからだ。
自分のデッキのことではない。どうでもいいデッキのことで、しかもそのデッキに捻じ込まれている理由も、当人の虚栄心に依るものでしかない。歪んだ構築だ。
それでも自分の原点を言い当てられている以上、それを偽ることは出来なかった。
「……まあ、男にはな、性能より大事なものがあるんだよ」
シラベが遠い目をして認めると、少女は心の底から興味なさげに鼻を鳴らした。
「キモい」
一刀両断。少女はそれ以上シラベに関わる価値なしと判断したのか、くるりと踵を返して去っていった。
残されたのは、子供にドン引きされた精神的ダメージを負ったシラベと、プライドをズタズタにされて涙目になっているレヴェローズ。
店内放送のBGMだけが虚しく響いていた。