大晦日の夜。ボトムレスピットの二階は、年の瀬にふさわしい静寂に包まれていた。
階下のシャッターはとっくに下りている。年末年始の休業は十二月二十九日から一月三日まで。個人経営のホビーショップにとって長期休暇は痛手のはずだが、ミトラの方針は頑なだった。休む時は休む。シンプルで強い理だ。
そんな則を敷かれる中。シラベは自室の布団に潜り込み、ゴホゴホとわざとらしい咳を繰り返していた。
「契約者、二年詣りだぞ二年詣り! 年を跨いで神社に行くのだ! カルメリエルが甘酒が飲めると言っていたぞ!」
布団の上からのしかかりながら、レヴェローズが訴えかけてくる。ジャージ姿の総督閣下は目を輝かせ、シラベの上で跳ねるようにはしゃいでいる。レヴェローズが腰を動かすその度に、彼女の存在全てがシラベを圧し潰す。
シラベはそんなレヴェローズへ反抗も仰瞰もせず、ひたすらに体調不良をアピールしていた。
「無理。風邪引いた。喉が痛い。熱もある」
「何を言う。さっきまで平気な顔で煎餅を食べてたではないか!」
「煎餅を食べてから急激に悪化した。急性煎餅熱だ」
「適当な事を言うな!」
何から何まで出鱈目だったが、シラベは断固として布団から出なかった。布団をぎゅうと引き上げ耐え続ける。その演技力は大根もいいところだったが、彼にとって重要なのは説得力ではなく、断固たる拒否の意志を示すことだった。
「一緒におみくじとやらを引こうではないか! 新年初の運試しを共にするぞ!」
「知るか。勝手に行け」
しばらく押し問答が続いた後、廊下から救いの声が響いた。
「レヴェローズ、そろそろ出発しませんと。近所の神社でも行列ができてしまいますわ」
カルメリエルだ。シスター服の上にダウンジャケットを羽織り、手にはミトラから支給された小銭入れを持っている。その足元では大穴が黒い毛並みを膨らませて待機していた。寒さに耐えかねて更なる変身を試みたのか、冬毛の大穴は普段より一回り大きく見える。
「姉様……。契約者が起きてくれないのだ」
「仕方ございませんわ。シラベ様がご病気なら無理はさせられません。私たちだけで参りましょう」
カルメリエルの声には微塵の疑いも含まれていなかった。彼女がシラベの茶番を見抜いていないはずがない。だが、その糸目はただ柔和に細められているだけで、それ以上の追及はなかった。
何かを察している。だが、あえて乗っている。その底知れなさにシラベは内心でぞわりとしたが、今は助かる。
「むぅ……仕方がない。店長よ、お前も行くか?」
レヴェローズが廊下の先、ミトラの部屋に向かって声をかける。
「なんで寒い中わざわざ出なきゃいけないのよ。パス」
即答だった。ドア越しのミトラの声は平坦で、布団に包まっているのが容易に想像できる。
「ぬぅ。では姉様と大穴の二人と一匹で行ってくる。契約者、安静にしているのだぞ」
「おー、気をつけてな」
しおしおとなりつつ肩を落としたレヴェローズが、カルメリエルと大穴を伴って階段を下りていく。裏口の扉が開き、閉まる音。それから数秒の間を置いて、遠ざかる足音が完全に消えた。
シラベは布団の中で耳を澄ませた。鐘の音の合間には静寂しかない。
「……行ったか」
シラベはばさりと布団を跳ね除けて上体を起こした。先ほどまでのふざけた病人ヅラは脱ぎ捨てられ、その顔には悪巧みが成功した小学生のような笑みが浮かんでいる。
同時に、廊下からパタパタと小さな足音が近づいてきた。
「行った?」
ミトラが顔を覗かせた。フリースのパジャマ姿で、手には小さな白い箱が抱えられている。
その口元には、シラベと同じ種類の、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「行ったな。カルメリエルにはなんかしらバレてるっぽいが」
「ま、大丈夫でしょ。むしろこっちの監視が無いからってあいつが好き放題やらないか気がかりだけど」
ミトラはシラベの部屋に入ると、こたつの上に白い箱を丁寧に置く。
「開けるぞ」
命じられる前に、シラベが箱に切れ込みを入れて取り出しやすいよう展開させる。
中から現れたのは、小ぶりだが上等なケーキが二つ。苺のショートケーキと、チョコレートのムース。どちらも丁寧な造形で、ボトムレスピットの食卓にはおよそ似つかわしくない華やかさがあった。
「大晦日にケーキって変だよな」
「今の今までタイミングが無かったからしょうがないわよ。賞味期限を無視するのも、これ以上は厳しいだろうし」
事の始まりは数日前、クリスマスに遡る。
「ミトラ! この聖夜に相応しいものを持ってきたよ! どうか受け取ってくれたまえ!」
閉店間際のボトムレスピットに、いつもの芝居がかった声が響いた。ヒナタが抱えた白い箱には、シラベでも名前くらいは知っている高級洋菓子店のロゴが印刷されている。
「いらない。帰って」
「まだ中身を見てもいないじゃないか! 今年話題のパティシエの特注品だよ? 予約だけで三ヶ月待ちのものだ」
「三ヶ月も前から計画してたの。気持ち悪い」
ミトラの辛辣な拒絶にもヒナタは微塵もめげず、箱の蓋をちらりと開けて中身を見せようとした。
しかし、二人の間へヒナタが百合の花を咲かせようとするのもお構いなしにシラベの手が伸びる。
「はいはい、没収。お触り厳禁」
「な!? 従僕風情が、主への貢物を横取りするとは何事だ!」
「主じゃなくて店長な。あと俺は従僕じゃなくて店員。で、ここは飲食禁止。お分かりですかねお客様」
「いつからそんなルールが!? この前レヴェローズがそこでチョコを食べていただろう!」
「あいつは身内だからノーカン」
理不尽なダブルスタンダードを平然と言い放ちながら、シラベは箱をカウンターの下に滑り込ませた。ヒナタが取り返そうと身を乗り出すが、シラベは一歩も引かない。残業代は出ないのだ。こういうめんどくさい日のヒナタはさっさと締め出すに限る。
「返したまえ! それは私がミトラとの甘いひとときのために心を込めて選んだ、あっ、ちょ、むね、やぁっ──」
「閉店です。お引き取りください」
如何な天才社長だとしても、男女の差は覆し難い。シラベの押し出しが決まり手となって、ヒナタは強制退場させられた。
「何あいつ。ここ最近おとなしかったのに」
「あれじゃねえか。聖夜の何とかの何時間とかにあてられでもしたんだろ」
「洒落になんないからやめなさいよ」
シラベは適当なことを言いながら、ヒナタから没収した箱の蓋をそっと開けて中身を確認した。苺のショートケーキと、チョコレートのムース。先ほど言っていた三カ月待ちの売り文句に違わない、素人目にも手の込んだ造形だと分かる。
二つ。問題はそこだった。ミトラの分と、恐らくヒナタが一緒に食べるつもりだった自分の分。合計二つ。
これを店内で公にすればどうなるか。
『──なんだなんだ! 甘い匂いがするぞ! 契約者、それは何だ!』
レヴェローズが突進してくる未来が見える。
『──あら、美味しそうですわね。これは皆へ平等に分配するべきではないでしょうか?』
微笑みの裏で取り分けの主導権を握るカルメリエルの姿が見える。そして忍び寄る大穴がなごなごにゃあんと強請ろうとすることだろう。
一切れのケーキを四人と一匹で分けてしまえば、一人あたりひどくさもしい量しか口に入らない惨状になることだろう。そしてそれで済めばいい方で、分配の不公平を巡ってレヴェローズがごね、カルメリエルが笑顔で調停という名の支配を画策する面倒事が勃発する光景が、シラベには実に鮮明に見える。
シラベは箱の蓋を静かに閉じ、レヴェローズとカルメリエルと大穴が二階に上がっているのをよく確認する。そしてレジ締めをやっているミトラの横に並び、声を落とした。
「えー、ミトラ店長」
「なに、バイト店員」
チラリと箱の中身を見せて、ミトラの耳元で囁くシラベ。
「今日のクリスマスケーキはカルメリエルが用意しているものを食べるとしてですね。ヒナタが持ってきたコレは後日、精霊たちに内緒で食べるってのはどうっすかね」
ミトラの手が止まった。言わんとすることは伝わったのだろう。死んだ魚のような目がほんの一瞬だけ生き返る。
レジの表示する数字だけが、二人の間で静かに光っていた。
「乗った」
ミトラは短く答える。シラベから箱を受け取ると、足音を殺して自室へと消えていった。その背中は、店長というよりお菓子を隠す子供のものだった。
そうして、ミトラの部屋にある小型冷蔵庫に二つのケーキは秘匿され、精霊たちを安全に追い出せる日を待つことになった。
生菓子だ。そう長い期間待つことは出来ない。ギリギリを見極め続けた結果が今この時、大晦日である。
「あいつらの分まで用意する余裕はないし、これはしょうがないわ。いやーしょうがない」
「だよなぁ。見えるけど見えないものもあるけど、見えないものは存在しないんだよ。胃に収めちまえばあいつらを悲しませることもねえよな」
共犯者同士で空言と目配せを交わし、シラベはこたつの電源を入れた。じんわりと足元から温もりが広がっていく。ミトラもこたつの一辺を陣取り、にまにまと緩む顔を隠そうとしない。
フォークは二本。皿は面倒なので付属のトレーのまま。飲み物はミトラが淹れてきたほうじ茶だ。ケーキにほうじ茶という組み合わせは洒落っ気のかけらもないが、二人とも気にする性格ではなかった。
「いただきます」
小さな声で手を合わせるミトラ。シラベも同じように呟いてから、フォークを苺のショートケーキに差し込んだ。
口に運ぶ。甘い。普段のコンビニスイーツとは格が違う滑らかなクリームが舌の上で溶けていく。値段を考えたくはないが、ヒナタの財力には素直に感謝するしかない。
「……美味しい」
ミトラがぽつりと漏らした。チョコレートのムースを小さなフォークで丁寧にすくう横顔は、いつもの気怠げな店長とは少し違って見えた。甘いものを食べている時の彼女は、見た目相応の幼さが滲む。
「ヒナタにはちゃんと礼言っとけよ。あいつの金で食ってるんだからな」
「やだ。調子に乗るから」
「調子に乗らせてやれよ。あれはあれで店の客なんだし」
「客としてはともかく、人間としては手に負えないのよ、あいつは」
ミトラはフォークの先を唇に当てたまま、不満げに眉を寄せた。だが、その不満がどこか柔らかいものであることにシラベは気づいている。いつぞや初めてヒナタの名前を聞いた時の、あの本気の嫌悪とは質が違うものだった。
ケーキが半分ほど減った頃、シラベはふと、自分の体の異変に気がついた。
暑い。
熱い。
こたつの温度設定は変えていないのに、やけに体の芯が火照っている。頬のあたりがじんわりと熱を帯び、心臓の鼓動がいつもより早い気がする。
酒を飲んだ時に似ているだろうか。だが今夜は一滴も飲んでいない。
シラベはフォークを止め、手元のケーキをまじまじと見つめた。
口の中に残る甘みの奥に、微かな──本当に微かな、普通なら気付かないであろう違和感が舌に引っかかる。
(……まさか)
脳裏にアッシュグレーの髪と、自信満々の笑みが浮かんだ。
あのストーカー社長が、ミトラへの贈り物にただの善意だけを込めるだろうか。何の仕込みもなく、純粋な好意だけで高級ケーキを二つ差し入れるような人間だったか。
証拠は、ない。成分分析をしたわけでもない。だが、ヒナタならと考えると、やりかねないと答えが出てしまう。むしろやらない方が不自然だ。
あの女の行動原理はほぼ全てが「ミトラとの距離を縮める」一点に集約されている。直接手渡すケーキに何かしらの──酒精か、あるいは薬膳的な何かを忍ばせていたとしても、何ら不思議ではない。
(迂闘だった。ヒナタが持ってきたものを、中身も確認しないで食うなんて)
しかし後悔は今更だ。既に腹の中に収まってしまっている。心拍が上がっているのが気のせいなのか本物なのか、もはや判別がつかない。
シラベは盗み見るようにミトラの様子を窺った。
彼女は何の違和感も覚えていないようだった。ただ、その頬がほんのりと上気しており、いつもよりほんの少しだけ目が潤んでいるように見える。その認識が仕込みのせいなのか、単に暖かい部屋で甘いものを食べたからなのか、シラベには判断がつかなかった。
(落ち着け。仮に何か入っていたとしても、たかが知れてる。あのヒナタだって、相手を潰すようなものは使わないだろ。まさか媚薬なんてこの世に存在しないだろうし。……しないよな? せいぜい酒くらいにしてるよな?)
理性で自分を宥めにかかる。だが、胸の奥で脈打つ熱は、理性の言い聞かせを嘲笑うように引かなかった。
毒を食らわばの精神で、シラベは残りをかっ喰らう。ここまで食べたなら残りを食わないのは勿体ない。
トレーに乗っていた甘味が消え、ミトラもシラベもフォークを置く。シラベは食器も箱も全部まとめてこたつの隅に退け、ほうじ茶を一口すすった。熱い茶で頭を冷やそうとしたが、効果は薄い。
テレビを置いていないシラベの部屋には、こたつのヒーターが発する微かな音と、遠くで鳴る除夜の鐘だけが響いている。その雰囲気穏やかなのに、どこか危うげだった。
ミトラが無言で立ち上がる。シラベはその動きを見て、意識するよりも早く体が動いていた。
こたつ布団の端を持ち上げ、自分の足の上の空間を開ける。いつもはミトラに促される動作を、シラベは自然とやってしまっていた。
「──」
ミトラはその動作を見て、一瞬だけ動きを止めた。
いつもなら、シラベが嫌だとごねようがお構いなしに乗ってくる。シラベの膝はミトラの特等席で、冬が来てからずっと続いている日常の一部だ。だが今夜は、その当たり前の前にして、ほんの一拍の間が空いた。
何かを考えるような、あるいは何かを確かめるような沈黙。
空白はすぐに消え、ミトラはシラベの太腿の上に腰を下ろした。服越しに伝わる軽い重みと、小さな体の熱。シラベの胸に背中を預け、いつもの定位置に収まる。
その熱が、今夜はいつもよりずっと近い。
「スマホ、出しなさいよ。年末特番見るでしょ」
「ああ、おう」
シラベは声を揺らさないよう気を配りながらポケットからスマートフォンを取り出し、こたつの天板にスタンド代わりのマグカップを使って立てかけた。小さな画面に映し出されたのは、芸人たちが騒々しく年の瀬を盛り上げている番組だ。
画面の向こうの喧騒と、こたつの中の静けさ。温度差が心地良く、脳を茹だらせていく。
小さい液晶の中では芸人がコントを披露したり、歌手が年末恒例歌番組のハイライトを振り返っている。シラベは適当に画面を見ているだけだったが、膝の上のミトラは興味があるのかないのか、微動だにしない。
時間が緩やかに流れていく。除夜の鐘の間隔が少しずつ狭まっている気がした。年越しが近付き気が急いているのだろうか。
やがてシラベは、ミトラの体がほんの少しずつ重くなっていることに気がついた。
背中から掛かる体重が、さっきより深くシラベの胸に沈み込んでいる。響く呼吸がゆっくりとしたリズムに変わり、小さな頭がシラベの鎖骨のあたりに傾いていた。
眠りかけているのかもしれない。暖かいこたつと、ケーキの甘さと、人の体温。そして恐らくは、シラベの体の奥で火照り続けるものと同じ効果が、彼女の小さな体にも回っている。
その時だった。
こたつ布団の中で、ミトラの指先がシラベの手に触れた。
何の前触れもなく、ほんの軽く。まるで寝ぼけて無意識にそうしたかのような、あるいは意図してそうしたことを無意識のせいにしたいかのような、曖昧な接触。
「……なんだよ」
シラベの声が、自分で思ったよりも低く出た。
返事はない。ミトラの指は動かない。触れたまま、離れもしない。
シラベは息を吐く。意識して吐き出していた。
頭の片隅で、冷静な自分が警鐘を鳴らしている。お前の判断力は今、正常じゃないかもしれないぞ、と。あのストーカーが仕込んだかもしれない何かが、お前の心拍を乱しているんだぞ、と。
だが、別の声もあった。
仕込みがあろうがなかろうが。この膝の上の温もりを心地よいと思う気持ちは嘘じゃない。あのケーキを食べる前から、もっとずっと前から──これのことを、そう悪く思ってなどいないだろう、と。
シラベはこたつ布団の中で、ミトラの腰に腕を回した。
ぎゅう、と。
小さな体を、壊さない程度に、しかし明確な力を込めて引き寄せる。ミトラの背中がシラベの胸板に密着し、温もりが一枚の布を極めて薄くした距離にまで縮まった。
ミトラの体がびくりと跳ねた。
「──なによ」
声が硬い。だが振り払おうとはしていない。
「寝そうだったから、支えておこうと思って」
「……」
咄嗟に出た馬鹿みたいなごまかしに、ミトラは何も言わなかった。否定も、肯定も。
ただ、シラベの腕の中で少しだけ身じろぎをして──そのまま、体の力を抜いた。
重みが増す。拒絶の対義にある重さだとシラベは思った。
シラベの腕に包まれたミトラが、ゆっくりと頭をシラベの肩口に預けていく。黒い髪がシラベの首筋に触れ、彼女の匂いがほのかに香った。
ミトラの耳の先が赤い。それをシラベに見せまいとするように、彼女はわずかに顔を背けていた。
シラベはその赤を視界の端で捉えながら、何も言わなかった。
(……ヒナタ。お前のせいだからな、これは)
責任の所在を脳内で明確にしておく。何かが起きても悪いのはあのストーカーだ。俺は被害者だ。この心臓の早鳴りは仕込みのせいであって、断じて自分の感情が暴走しているわけではない。
そんな言い訳が、どれほど空虚なものかは自分が一番分かっていた。
腕の中の体温。小さな呼吸。冬の夜にしては暑すぎるほどの、二人分の熱。
シラベは自分がこの小さな店長に対して、
いつからなのか正確には分からない。膝の上に座られた最初の日からか、あるいはもっと前からか。だが少なくとも今この瞬間、腕の中にいるこの人へ向ける
認めてしまえば、
「ね、シラベ」
ミトラの唇から、名前が漏れた。
業務命令でも毒舌でもない、ミトラ自身でさえ甘いと思ったであろう響きを帯びていた。普段の彼女からは想像もつかない、無防備で、柔らかい声。
シラベの心臓が一つ、大きく跳ねた。ケーキのせいなのか。
次の言葉を待つ。
「ただいまー! 契約者! 店長! 新年だぞ! あけましておめでとう!」
階下から、この世で最も空気の読めない女の声が響き渡った。裏口の扉が開く軋む音、ドタドタと階段を駆け上がる足音、そして揺れる質量が生む独特の衣擦れ。
軋む音がした辺りで既に、ミトラの体が電流でも走ったかのように跳ね上がっていた。勢いそのままシラベの腕から脱出し、こたつから飛び出す。
「あけおめ。ねる。おやすみ」
「え、おい」
三単語で全てを済ませ、ミトラは自分の部屋へと駆け込んでいった。
バタン、と扉が閉まる音。続いて、内側から何かが崩れたりするような騒音。
シラベは空になった膝の上と、閉ざされた戸を交互に見つめた。だがその余韻は長く続かない。
「契約者よ、体調は大丈夫か? 甘酒は胃に優しいから病人にもいいと聞いたぞ!」
レヴェローズが甘酒の紙パックを振りかざしながら部屋に突入してくる。その後ろから、カルメリエルが穏やかな笑みを浮かべていた。
「あけましておめでとうございます、シラベ様。ほら、大穴もご挨拶を」
「にぃ」
促された大穴はシラベの膝──さっきまでミトラがいた、まだ温かい場所に迷いなく飛び乗ってくる。膨らんだ体躯がくすぐったいが、反応出来うるほどシラベの処理能力は残っていない。
「……………………あけおめ」
シラベは振り絞るように力の抜けた声で返し、膝の上の黒猫の頭を撫でた。
火照りは、まだ引いていない。ケーキの仕込みのせいだと思いたかった。レヴェローズが差し出す甘酒の紙パックを受け取りながら、シラベの頭はまるで別のことを考えていた。
(今度ヒナタに会ったら、一発殴る。いや、殴った上で問い詰める。何を入れたか白状させてから、もう一発殴る)
復讐の計画を立てる脳味噌は止まらない。それでもなお、腕の中に残る小さな体温の記憶とあの声の余韻は、頭から決して無くならなかった。