71 俺の猫だぞ
三が日が過ぎた。人間たちはそれを正月休みの終わりと呼ぶらしい。
大穴にとっては相棒と共に暖かい場所で丸くなっていられる時間が減り、住処の一階で再び人の気配が満ち始める区切りでしかない。
ボトムレスピットの営業が再開した最初の日。冬の陽光がショーケースのガラスに弱々しく反射する店内で、大穴はカウンターの上に寝転がっていた。
正確に言えば、仰向けになっている。四肢を投げ出し、丸い腹を天井に向けた無防備な姿勢だ。冬毛に覆われたその腹は、通常よりも一回り膨らんで見える。
本来、大穴に猫の代謝など存在しない。彼女はカードの精霊が偶然飲み込んだカードによって猫の姿を取っているだけであり、季節に応じて毛が生え変わる生物学的なプロセスとは無縁だった。
しかし、肌を刺すような冷たさは人間のみならず、精霊の体であっても不快なものだった。だからある朝、大穴は自分の意思で毛並みの密度を変えた。猫として正しい手順を踏んだわけではない。ただ寒いから厚くした。それだけのことだ。
一夜にして一回り大きくなった黒猫を見て、シラベは「冬毛か」と呟いただけだった。ミトラは「もこもこになった」と少しだけ嬉しそうな声を出し、カルメリエルは「大穴も季節を感じるのですね」と微笑んだ。
レヴェローズだけが「太ったのではないか」と失礼なことを言っていたため、大穴は噛んだ。
四者四様ではあったが、誰も深くは追及しなかった。大穴だからそういうものだろう、という緩い納得が、この店には流れている。
その冬毛の腹に今、シラベが顔を埋めていた。
カウンターの上で仰向けになっている大穴の腹に、シラベは椅子に座ったまま額を乗せるようにして突っ伏している。温かく膨らんだ毛の中に顔を沈め、時折もぞもぞと顔の角度を変えては深く息を吸い込んでいる。
大穴はされるがままだった。
シラベの額から伝わる人間の体温。吐息が腹の毛を揺らすくすぐったさ。ごつごつした指先が脇腹を緩慢に掻いていく感触。それらは不快ではなかった。むしろ心地よい。
大穴にとって、シラベの傍にいることは幸福の定義そのものだった。
「……ふわふわだなぁ」
シラベが腹毛に埋もれたまま、誰に言うでもなく呟く。年明け早々から仕事のやる気を完全に喪失した声だった。新年一発目の業務時間を猫の腹に顔を埋めることに費やす二十五歳は社会人という観点からすると危ういが、大穴には関係ない。
シラベの指が腹を撫でる。爪の立て方は雑で、力加減にむらがある。猫という生き物がどこを触られれば喜ぶのかを、この男は結局あまり理解していない。猫カフェで修行してきたと言っていた割に、成果は微々たるものだった。
それでも、その不器用な手のひらの温もりは好きだ。
好きだが。あの指を知ってしまった今では、シラベの手だけでは満足しきれないこともある。
そう大穴が思ったせいだろうか。カラカラと、入り口のガラス戸が乾いた音を立てた。冬の冷気が一瞬だけ店内に忍び込み、大穴の耳がぴくりと動く。
「あけおめー。今年もよろしく」
聞き覚えのある声に、大穴の尻尾が無意識にぴんと立った。
「おう、あけおめ。今年初の客がお前とはな」
シラベは大穴の腹から少し顔を上げ、カウンターに突っ伏した姿勢のまま入り口を見た。だらけた体勢を直す気配は微塵もない。
「だらしないな。正月ボケかよ」
「あー、三が日でボケきった。リハビリ中だから大目に見ろよ」
「どんな理屈だよ」
兼定キリメ。スカジャンにキャップ、ダメージジーンズ。年が明けても変わらない出で立ちだ。肩にはスポーツバッグを提げ、口元にはコンビニで買ったらしい肉まんを咥えている。
「冬休みくらい家でゆっくりしてたらどうだ? 福袋も売ってないから来る意味無いぞ。働きたくないし」
「客がいなきゃ干上がるんじゃないのかよ。アタシはほら、家にいても暇なんだよ。テレビも飽きたし」
キリメは肉まんの最後の一口を頬張りながら、ショーケースの横を通り過ぎてデュエルスペースへと向かう。その足取りはもうすっかり常連のそれだった。
大穴はカウンターの上で仰向けのまま、キリメの姿を目で追いつつ考えていた。猫の脳でものを考えるというのは、人間のそれとは随分と違う。言語ではなく、感覚の明暗。快と不快の配合。不定形の存在だから尚更だろうか、そういうものに大穴は縛られていた。
キリメの指は細い。シラベの指が森の枝のように節くれだっているとすれば、キリメの指は柳の枝だ。しなやかで、繊細で、触れるポイントを正確に知っている。
耳の付け根を親指の腹でくるくると円を描くように。顎の下を人差し指の背で軽く掻き上げるように。首筋から背骨に沿って指先を滑らせる時は、力を入れすぎず抜きすぎず、毛並みの流れに逆らわないように。
あれは猫の喜ぶ箇所を知っている手だった。家で飼っているのか、それとも本能的に扱いを心得ているのか。どちらにしても、猫の体を持つ今の大穴にとって、キリメの指は他の誰にも代えがたい至福をもたらしてくれる。
シラベの撫で方も好きだ。雑で、不器用で、時々痛いけれど、そこに込められた温もりが好きだ。だがキリメのものは、別格だった。
しかし。大穴の小さな脳裏に、もう一つの記憶が浮かぶ。
キリメに撫でてもらった日の夜。布団に潜り込んだ大穴をシラベが受け入れてくれなかったこと。
普段なら黙認するか、せいぜい重いと文句を言いながらも結局は添い寝を許してくれるはずなのに、キリメが長時間大穴を撫でた夜に限って、シラベはやけに冷たかった。
布団の隙間を塞がれ、枕元中への侵入を阻まれ、果ては寝る前に甘えようとして腹を上を向いて見せつけたというのに素通りしていくという屈辱を味わった。翌朝には元に戻っていたが、あの時のシラベの顔には露骨にむっとした感情が滲んでいた。
理屈は大穴には分からない。人間の感情は猫の脳で処理するには面倒くさすぎる。
ただ、因果だけは理解した。キリメに撫でてもらうと、シラベが機嫌を悪くする。シラベの機嫌が悪くなると、夜の居場所が危うくなる。
ミトラの布団は危険だった。暖かさは保証されているが、少しばかり寝相が悪い。シラベと一緒の時のミトラはじっとしている癖に、大穴だけだと落ち着きがない。
レヴェローズとカルメリエルの寝袋は息苦しい。柔らかさはピカイチではあるものの、レヴェローズは寝言がうるさいし、カルメリエルは逆に静かすぎて落ち着かない。
ともあれ、大穴の安住の地はシラベの布団だった。
キリメの指か。シラベの懐か。どちらも捨てがたい。これが人間の言う板挟みというやつなのだろうか。
「おーちゃん、おいでー」
キリメの声が、大穴の鼓膜を揺らした。
デュエルスペースの椅子に荷物を置いたキリメが立ち上がり、カウンター傍で大穴に両腕を広げている。スカジャンの前が開き、トレーナーの胸元が無防備に差し出されていた。大穴を受け止めるための柔らかく温かい着地点がそこにある。
大穴の体がぴくりと動いた。仰向けの姿勢から、半ば反射的に四肢が跳ね起きようとする。
あの胸に飛び込めば、あの指が来る。耳の裏を、喉元を、背中を、最高の手つきで撫でてくれる。その快楽を、大穴の体は覚えている。
だが大穴が飛び出すよりも先に、腹の上に乗っていたシラベの頭が持ち上がり、その手が大穴の体にそっと回された。
抱え上げるのではない。ただゆるく、しかし確かな力で大穴の胴体を片手で包むようにしている。
その手のひらから伝わるものを、大穴は理解した。ここにいろというシラベの意思だ。
大穴は四肢に籠もっていた力を抜く。そのまま抱え込もうとする力に身を委ね、カウンターの上を滑る。
悪くない。指先こそ及第点でしかないが、この腕の中は温かかった。猫カフェでの修行はそれほど実を結ばなかったようだが、こうして囲い込もうとする力加減は上手くなっていた。あるいは、何かを抱き締める練習でもしていたのだろうか。
そして何より。
キリメからは見えない角度で、シラベのもう片方の手が動いていた。
カウンターの下から聞こえるビニール袋の擦れる微かな音。そして鼻腔を突く、独特の酸味の奥に旨味が凝縮されたあの匂い。
さきいかだ。
以前、シラベが晩酌のつまみにしていたそれを、大穴は一切れ分けてもらったことがあった。
食べること自体が目的で、食べ物の味には頓着することなどないのが本来の大穴だ。しかしその時は、シラベが楽しげに食べているものを手ずから分けてくれるという珍しさから、生き物としての舌を意識して味を読み取らせた。
猫の舌で感じるさきいかの味は、普段の単に腹へ落とすだけの食の楽しみとは比較にならない深い旨味を持っていた。噛めば噛むほど染み出す潮の味。繊維質の噛み応え。あの日から大穴にとってさきいかは、この世で最も価値のある食物の一つとなった。
シラベはそれを知っている。知っているから、こういう時のために隠し持っていたのだ。
シラベの指先に挟まれた一切れのさきいかが、大穴の鼻先にそっと差し出される。
「……」
キリメの開かれた腕。あの柔らかな胸と、至高の指先。
シラベの手のひら。不器用な温もりと、さきいかの誘惑。
猫として後付けされた本能は叫んでいる。撫でてもらえ、と。あの指には勝てないのだから。
だが、猫以前にカードの精霊としての大穴が知っている。この男の傍を離れるべきではないと。離れたくないと。
そしてさきいかの匂いが最後の天秤を傾けた。
大穴は僅かに残っていたキリメへの慕情を捨て、シラベの腕の中に身を預けた。丸い頭をシラベの胸元に押し付けてぐるぐると回す。
その礼とばかりに差し出されたさきいかを、小さな口でもぐもぐと咀嚼し始める。
喉の奥から、満足の重低音が漏れた。
「にゃ」
「よしよし」
シラベの声が頭上から降ってくる。その声には勝者特有の余裕が滲んでいた。
大穴を抱えたまま、シラベはキリメに向かって口の端を歪めた。
「悪いな。うちの猫は今、忙しいみたいだ」
キリメの開かれた腕が、空中で行き場を失って止まった。三白眼が大穴とシラベを交互に見つめ、それから大穴の口元でもぐもぐと動いている小さな顎に焦点が合った。
キリメの鼻が、ひくりと動く。
「……何か食わせた?」
「さあ。何のことだか」
「嘘つけ。なんかイカの匂いするぞ! 食い物で釣るとか卑怯だろ!」
「卑怯もクソもあるか。俺の猫だぞ。俺の餌で餌付けして何が悪い」
大穴はシラベの腕の中で、さきいかを噛みしめながら目を細めた。
人間たちが自分の頭の上で言い争っている。いつものことだ。こうなると長い。だが、大穴にとってそれは不快な騒音ではなかった。
シラベの腕の中はやはり暖かかった。胸元に押し付けた耳から、彼の心臓の鼓動が伝わってくる。安定した、穏やかなリズム。
さきいかの旨味が口の中に広がり、冬毛に包まれた体はぬくぬくと温もっている。
キリメの指には及ばないかもしれない。だが、この男の不器用な手のひらには、指先の技術では測れない何かがある。大穴が相棒と呼ばれた日から、ずっとここにあるもの。
「くそっ。今度来る時は猫のおやつ持ってくるからな。覚えてろ」
キリメが対抗心を燃やした宣言をしつつパックを手に取り会計を済ませる。場所代代わりのパックを持ってデュエルスペースの椅子に座り、新年の占いでもするかのように出てきた一枚一枚を吟味していく。
だがその三白眼は時折、シラベの腕の中でくつろぐ大穴にちらちらと未練がましい視線を送り続けていた。
シラベは勝ち誇った顔のまま、大穴の背中をゆっくりと撫でた。少し雑で、力加減にむらがあって、猫の急所をまるで理解していない、いつもの撫で方だった。
大穴は目を閉じ、喉の奥でゴロゴロと低い音を鳴らした。
今日はこれでいい。キリメの指はまた今度にしよう。その日の夜はまたシラベに冷たくされるかもしれないが、翌朝には肩を空けてくれるのが彼だ。そしてまた別の日に、こうしてさきいかをもらえればいい。
猫の体で暮らすうちに身についた知恵でもあり、大穴本来の性質でもある。
どちらか一方を選ばなくていい。全てを喰らうからこその大穴なのだから。