正月気分が抜けきらないボトムレスピットの午後。暖房の温もりに包まれた店内において、シラベはカウンターの内側で上機嫌にしていた。
それは珍しいことだった。普段のシラベは怠惰と倦怠を煮詰めたような顔でレジに立ち、客が来れば義務的に接客し、来なければ雑事に追われるか猫と戯れている。生き生きとしているのは大会運営や勝負に巻き込まれている時くらいなものだった。
仕事に対する姿勢としては褒められたものではないが安定している程度のもの。それが今日に限って、鼻歌こそ歌っていないものの口元がうっすらと緩んでいる。目元にも妙な光が宿っていて、客が来ないことを存分に喜んでいるようでもある。
その原因は、彼の手元にあった。
シラベはカウンターの上に柔らかい布を敷き、その上に置かれた壺を丁寧に磨き上げていた。
壺と言っても陶器ではない。金属製で、表面には異国情緒溢れる紋様が彫り込まれている。蓋の部分には鎖の意匠が施され、胴体には直線を組み合わせた文字のような装飾が幾重にも刻まれていた。全体的に鈍い真鍮色をしており、高さは三十センチほど。安っぽくはないが、インテリアとして飾るには少々おどろおどろしい。
シラベはその壺をひっくり返し、底面の汚れを布で拭い取ると、満足げに光に翳して表面の輝きを確認した。
「シラベ様」
バックヤードのカーテンを捲り、カルメリエルが顔を出した。手には伝票のファイルを抱えている。シラベの様子に気づいた彼女は、糸目をわずかに傾けた。
「珍しくご機嫌のようですが。その壺はどうされたのですか?」
「おう、これか。この間、駅前のリサイクルショップを覗いてたら、たまたま見つけたんだよ」
シラベは壺を両手で持ち上げ、カルメリエルに向けてぐるりと回して見せた。自慢げに胸を張るその姿は、レアカードを引き当てた少年のそれと大差ない。
カルメリエルは壺をしばし眺めた。上から下まで一応丁寧に見たものの、彼女の目には装飾が派手なだけの壺にしか映らない。
「はぁ。立派な壺ですわね」
当たり障りのない感想が漏れる。カルメリエルの頭の中にはこれに一体いくら払ったのだろうという率直な感想が同居していた。
シラベは鈍い反応に気づいたのか、壺を抱えたまま身を乗り出した。
「なんだよ、その反応。もっとこう、おおっとか言えよ。これもエインヘリヤル・クロニクル関係のものなんだぞ」
「はい?」
「カード、『ソロモン王の壺』。知ってるだろ?」
『ソロモン王の壺』
コスト:〈4〉
タイプ:機械
・〈1〉,ソロモン王の壺を生け贄に捧げる:コインを1枚投げる。あなたがコイン投げに勝った場合、飛翔を持つ無色の5/5の悪魔・機械・生命体・代替品を1体生成する。あなたがコイン投げに負けた場合、ソロモン王の壺はあなたに5点のダメージを与える。
ああ、と。カルメリエルの中で点と点が繋がった。黎明期に刷られたギャンブル性の強い機械カードだ。なるほど、そういうものはシラベの好物だろう。
カード名を挙げられれば、カルメリエルにもそのカードイラストが思い出せる。シラベが磨いていたそれは、イラストのものに酷似している。
「つまり、カードのイラストを立体化したグッズということですか」
「そうそう。海外の公式が限定で作ったやつでな。日本じゃ出回らなかったんだよ」
シラベは壺の表面を布でもう一度撫で、目を細めた。
「当時はクレジットカードも持ってなかったし、海外通販のハードルが今より高かったから、指を咥えて眺めてるしかなかったんだよ。それがまさかリサイクルショップの棚で埃被ってるとは思わなかった」
嬉しそうに語るシラベ。カルメリエルはその姿に壺そのものへの関心よりも、この男がカードゲーム関連の品に対してだけ異常な情熱を発揮するという既知の事実を改めて確認していた。
「はぁ」
説明を聞いても、カルメリエルからはやはり気の無い返事しか出てこない。実際のカードでもない、ゲームに使えるわけでもないオブジェに喜ぶ感性は、カルメリエルには少々理解の及ばない領域だった。
「どうでもよろしいですが、シラベ様。それを店内に置くおつもりでしたら、ミトラ様に怒られるのでは? あの方のお眼鏡にかなう造形とはあまり思えませんが」
ミトラは店内の物品管理にそれなりの美意識を持っている。シラベが勝手にカウンターの上を趣味の悪い壺で占拠すれば小言の一つは飛んでくるだろう。
シラベの手が止まる。そういえばそうだという顔になりかけた、ちょうどその時。
「何の話?」
二階から降りてきたミトラが、欠伸を噛み殺しながらカウンターの横を通り過ぎた。昼を過ぎたというのに寝間着を着続けている、外に出る気どころか客の前に出るつもりもない恰好だ。
ミトラの目が、カウンターの上の壺に留まる。
「なにこれ」
「ソロモン王の壺。リサイクルショップで見つけたんだよ。ここに飾っていいか?」
シラベの問いにミトラは壺を見つめたまま数秒考え込み、こくりと頷く。
「別にいいわよ」
「おっ、マジか」
「あら、ミトラ様。よろしいのですか」
「カードの立体グッズって意外とないからね。物珍しさに足を止める客が出てくれば、その流れでパックのひとつでも買ってくれるかもしれないし」
ミトラ自身もカードを覚えていたのだろう。カードゲーマーとして付随する収集癖が刺激されているのか、カルメリエルの予想に反して肯定的な見方をしている。
ミトラの許可にシラベの顔がさらに緩んだ。
「さすが店長。話が分かる」
「調子に乗らないの。あくまで客受けがいい限りの話よ。邪魔になったら撤去だから」
ミトラが釘を刺すのを聞きながら、シラベは上機嫌で壺磨きを再開しようとした。
「カードからの立体物と言うなら、私がいるではないか」
いつもの図々しい声がシラベの手を止めさせる。彼の視界の端から金色の髪がぬっと割り込んできた。
レヴェローズだ。先ほどまで店内の掃除をしていた彼女が箒を片手に持ったまま、いつの間にかシラベのすぐ横に立っている。
「カードのイラストが現実に出てきたという点では、その壺よりもよほど正真正銘の立体物だろう。しかも動くし喋るし契約者のために戦うぞ」
レヴェローズは自分の体を指差しながら、堂々と自己アピールを展開した。
「こっちの方が丁寧に手入れされるべきだと思わないか? 別に壺を悪く言うつもりはないが、壺は契約者の布団を温められないし、壺と対戦もできないだろう」
壺と自分を比較対象にしている時点で論点がおかしいのだが、レヴェローズは大真面目だった。紫の瞳がシラベを真っ直ぐに見つめて訴えかけている。
「契約者よ。その壺のように、私の事を磨いていいぞ」
「何をどう磨くんだよ」
「知らん。とにかく大切に扱え!」
レヴェローズは堂々とした仁王立ちで実の無い主張をする。シラベは壺を布の上に戻し、大儀そうに立ち上がった。
「はいはい、分かった分かった」
レヴェローズの前に立ち、彼女の顔をじっと見る。レヴェローズは一瞬嬉しそうに目を輝かせた。しかしシラベの手は彼女の頭や体には触れない。
代わりに指先が伸びたのは、レヴェローズの肩。
「ん」
「髪の毛ついてるぞ」
シラベの指が、レヴェローズの肩に張り付いていた一本の金髪をつまみ取った。それだけだった。
レヴェローズはぽかんと口を開け、自分の肩に触れる。
「え、それだけか?」
「それだけだ。ほら、手入れ完了。じゃ、次は表の掃除してこい。看板の前に落ち葉溜まってたぞ」
「ちょ、待て、契約者! もっとこう、あるだろう! 髪を梳くとか、背中を流すとか──」
「外行け。今すぐ」
有無を言わさぬ指差しに、レヴェローズは不満を顔中に塗りたくったまま、箒を握り直してしぶしぶ店の外へと追い出された。ガラス戸が閉まる間際まで壺より私の方が価値があるぞと訴え続ける呟きが聞こえていた。
シラベは肩の力を抜いて、再びカウンターの椅子に座り直した。壺を手に取り、磨きの続きに取りかかろうとする。
「シラベ様」
「ん?」
布を手に取ったシラベの視界を、今度はシスター服の胸元が塞いだ。カルメリエルだ。
「先ほどのレヴェローズへの対応、素敵でしたわ」
「ゴミを取ってやっただけだろ」
「ええ。だからこそお聞きしたいのですけれど」
カルメリエルは糸目をほんのわずかに細め、いつもの微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を傾げた。
「私のお手入れも、していただけるのかしら」
その声音は柔らかい。あるいは甘えてくるかのような声色だがシラベの背筋を撫でる何かはそれとは別の成分を含んでいる。
この女が無邪気な顔で近づいてくる時は大抵ろくなことを考えていない。おおかた、妹のような間抜けな身だしなみをしていない自分ならどうあしらうのか、それを確かめたいのだろう。
シラベは壺を置くと、カルメリエルの顔をまじまじと見つめた。カルメリエルは微動だにせず、微笑みを保ったまま見つめ返してくる。
シラベの指が伸び、カルメリエルの口元に触れた。
唇の端に付着していた、小さな白い欠片をつまみ取る。
「間食はほどほどにな。クッキーの屑ついてるぞ」
カルメリエルの微笑みが、一瞬だけ凍った。
おやつの隠れ食いを看破された聖女は、取り繕うように口元を手で覆ったが、シラベはそれ以上の追及はしなかった。
「伝票の確認終わったんなら在庫の突合せ頼むわ。バックヤードの棚、年末の棚卸しの後まだ整理しきれてないとこあるだろ」
「……かしこまりましたわ」
いつもの余裕を少しだけ削がれたカルメリエルがバックヤードへと戻っていく。その背中がカーテンの向こうに消えるのを見届けてから、シラベは三度目の正直とばかりに壺に手を伸ばした。
今度こそ腰を据えて磨き上げてやろう。布を壺の胴体に当てようとしたシラベ。
しかし、二度あることは三度あるのか。とん、とん、と。カウンターの内側の床を、小さな足音が叩いた。
シラベが目を向けると、ミトラが立っている。
寝巻姿の小さな店長は何も言わない。ただ右手に、一本のヘアブラシを持っていた。
それを無言でシラベの方へ差し出している。
「…………」
シラベは壺と、ヘアブラシと、ミトラの顔を見比べた。
「お前はカードの立体物じゃねえだろ」
「別に。髪がパサついてるから梳いてほしいだけ」
嘘だ。ミトラはカルメリエルに随分と良く手入れされているのをシラベは知っている。その証拠に、ミトラの黒髪は今日も十分に艶を湛えている。
だが、それでも。彼女よりも壺を優先させた時、壺が如何なる命運を辿ることになるか、シラベはよく想像できた。
「はいはい」
三度目の正直は結局訪れなかった。壺を布の上に戻す。
シラベはカウンターの椅子を回し、自分の前に丸椅子を置いてやる。ミトラはシラベに背を向けて、丸椅子の上にちょこんと座り込む。黒い髪がシラベの膝に広がった。
ブラシを髪に当て、毛先からゆっくりと梳いていく。絡まりはほとんどない。やはりカルメリエルの手入れの成果だろう。それでもミトラの肩の力が抜けていくのがシラベの目に分かる。
「店長」
「なに」
「壺、磨きたいんだけど」
「後にしなさい。店長命令」
シラベはため息をつきながらも、ブラシを動かす手は止めなかった。
カウンターの上で真鍮色に光る壺は主人に構ってもらえないまま、布の上で静かに出番を待ち続けていた。