ボトムレスピットに帰り着いた二人を出迎えたのは、一階のデュエルスペースに並べられた夕食とカルメリエルだった。
「おかえりなさいませ。お二人の分は温め直してありますわ」
「おう。そろそろ着くって連絡しといて良かった」
鮭の西京焼き、具沢山の味噌汁、ほうれん草の胡麻和え。いつの間にかいつも通りになっていたカルメリエル謹製の献立が、いつも通りの長机の上に二人分並んでいた。その変わらなさに、シラベはようやく肩の力が抜けるのを感じる。
「いただきます」
ジャケットだけ脱いだシラベはミトラに並んで椅子に座り、味噌汁を一口啜る。温もりと塩気が胃の腑に染みた。高層ビルのコーヒーメーカーから出た上等なカフェオレよりも、この味噌汁の方がよっぽど落ち着く。
先に夕食を終えていたレヴェローズが、シラベの正面に陣取って頬杖をついてくる。
「契約者よ。ヒナタの会社とやらはどうだったのだ。あのアレが運営するものなどろくなものではあるまい」
「気持ちは分かるがちげえよ。テーマパークだのなんだの企画するような会社だ。話聞きたかったら後にしてくれ。腹減った」
適当に答えるシラベにレヴェローズはそのまま矢継ぎ早に質問を浴びせてきたが、シラベが鮭と米のペース配分に執心して話を聞かなくなったと見るや不満げに鼻を鳴らしつつも大人しくなった。
それでも向かいに座り続けていたのはどういう意地なのか。唇を尖らせている総督閣下の表情を見つつ、シラベは黙々と食事を続ける。
*
食後。シラベが寝間着に着替えた頃、一同は何を言うでもなくシラベの部屋に集っていた。
もはやこの部屋がボトムレスピットの居住者全員のたまり場と化していることに、シラベが異を唱える気も無かった。寝床であるはずの布団は壁際に押しやられたままで、その跡地に鎮座するこたつがこの夜も六畳の王として君臨している。
シラベは座椅子に腰を下ろし、足をこたつに突っ込んでいた。足先に触れているのは、先客として最深部を占拠していた大穴の冬毛だ。例のごとくヒーターの至近で液状化しかけている黒い毛玉は、シラベの足が侵入してきてもにぃと不満げに一鳴きしただけで、場所を譲ろうとはしなかった。
レヴェローズはシラベの左手側に座り、こたつの天板に突っ伏すようにだらりと上半身を投げ出している。安物のジャージに包まれた豊満な胸がテーブル上で形を変え、シラベの方へ地滑りのように迫ってくるが、この光景にも慣れた。慣れたことが正常かどうかは考えないことにしている。
手早く皿洗いを済ませてきたカルメリエルはシラベの右隣に正座し、用意してきた急須から湯呑みに茶を注いでいた。シスター服から部屋着のパジャマに着替え終えた彼女は、髪をゆるく一つに束ねている。穏やかな所作で茶を配る姿は聖女というよりは旅館の仲居だ。
「どうぞ、シラベ様」
「おう。そうだ、ヒナタから手土産貰ったんだ。さっさと食っちまうか」
「そうですわね。……ああ、丁度いい。ミトラ様が持ってきてくださいました」
カルメリエルの言う通り、部屋へ入って来たミトラが白い箱を持ってきていた。またヒナタの菓子だ。シラベにも思うところがあったものの、前とは違って精霊どもの分も考慮された手土産なら余計なことはやっていないだろう。
そういえばケーキの件を問い詰めるのを忘れていた、とシラベが心の中での舌打ちをする一方で、ミトラから箱を任されたカルメリエルが丁寧に開いていく。中にはフィナンシェやらマドレーヌやらが個包装で詰め合わされている。高級菓子店のロゴが箱の蓋に刻印されており、自分の月給ではおいそれとは手が出ない価格帯であろうことはシラベにも察しがついた。
「おお! これは美味そうだ! 姉様、私は大きいのをもらうぞ!」
「ご随意にどうぞ。ミトラ様はどちらがお好みですか?」
「フィナンシェ」
ミトラが小さく答えたのを聞いてから、カルメリエルが彼女に包みを渡す。レヴェローズは遠慮という単語を知らないかのようにマドレーヌをひったくり、至福の顔で齧り始めた。
そして、当然のように。ミトラはフィナンシェの包みを受け取ると、空いているこたつの一辺、入り口側の辺を無視してぐるりと回り込み、シラベの膝の上に腰を下ろした。
座椅子に座るシラベと、こたつの天板の間に小さな体がするりとねじ込まれる。彼女は背中をシラベの胸に預け、足をこたつ布団の中に伸ばし、何食わぬ顔でフィナンシェの封を切り始めた。
シラベもレヴェローズもカルメリエルも、いちいちそれを指摘しない。シラベも腕をミトラの左右に通す形でこたつの天板に手を置いて手土産の包みに手を伸ばそうとして、止まる。
フィナンシェだのマドレーヌだのはいわゆる焼き菓子だ。気を付けてかじらないと屑がぽろぽろと落ちるかもしれない。その落下先はシラベの腹ではなく、ミトラの頭頂部、あるいは膝である。
シラベは静かに手を引いた。食べる行儀が悪いつもりはないが、何かあると思いながら食べるのは気分が良いものではない。
少し頭を傾けて茶をすすることに留めていると、シラベの傾きに合わせるように、ミトラの身体がしなだれかかる。
ミトラの体温が、いつもより近い気がした。
いや、気がした、ではない。近い。明確に。
以前のミトラは背もたれとしてシラベの胴体を利用するだけだった。背中を預けはするが、それは椅子の延長程度の距離感だった。
今は違う。寝間着越しに伝わる小さな背中の体温が、シラベへと隙間なく密着している。肩甲骨の硬さと綯い交ぜの、華奢だが確かな肉の柔らかさ。後頭部がシラベの鎖骨の窪みに収まるように傾いていて、シャンプーの匂いが息を吸うたびに鼻腔を掠めた。
こうして座っているのは、大晦日の夜以来だったかもしれない。シラベはふとそう思った。それだけのことだ。それだけのことのはずなのに、背中から伝わる三十五歳の体温がやけに意識される。
シラベは意識して呼吸を整え、手持ち無沙汰な手をこたつ布団の中へ滑り込ませた。
「上等な品物ですわね。ヒナタ様がミトラ様への贈り物にするだけはありますわ」
カルメリエルが自分の分のマドレーヌを上品に割りながら、誰に言うでもなく呟いた。
「やはり金持ちとは食道楽に行きつくものなのだな。店長よ、これが食えるならアレとの関係を良好にしていくのもやぶさかではないのではないか?」
「たかる前提全開の発言止めなさいよ、浅ましい」
レヴェローズは既に二個目に手を伸ばしている。食い意地は総督の威厳と反比例していた。
ミトラはフィナンシェを小さな口で少しずつ齧りながら、ふと視線を巡らせた。マドレーヌを食べつつも次に食べるフィナンシェへと狙いを定めているレヴェローズ。茶を注ぎ足すカルメリエル。こたつの下で時折ごそごそと存在を主張する大穴。そして自分の背もたれになっている男と、背中越しに感じている自分。
「……今更だけど。賑やかになったわね、この店」
その声には、いつもの気怠さも毒も含まれていなかった。ただ、しみじみとした実感だけが乗っていた。
シラベは返事をしなかった。かつてシラベがこの部屋に来た時、ここには段ボールしかなかった。あの時は自分の寝床になるとは思わず、急な業務を押し付けられた不平不満しか抱いていなかった。
そこからミトラにここに移れと言われ、アパートを引き払い、今では精霊が二人と一匹、店長が一人、バイトが一人がひしめいている。賑やかという言葉は、シラベの実感でもあった。
ふと、こたつの中で、それぞれの足先に揉まれていた毛の塊がのそりと動いた。
「にゃ」
居づらくなったのか、大穴は安住の地から一旦離脱し、布団の外へと這い出てきた。そのままレヴェローズの脚を蹴とばしつつ歩き出し、シラベとミトラの元へと近づいていく。
そして前足をミトラの細い脚に乗せて、頭をぐりぐりと押し付けた。
「ん。なに、甘えたいの」
ミトラの声が半音上がった。残ったフィナンシェを天板に置き、両手で大穴を抱え上げる。冬毛のおかげで一回り大きくなった黒猫が、膝上の小柄な店長の胸に収まる。
抱きかかえられた大穴は満足げに喉の奥から重低音を響かせ、ミトラのパジャマに顔を埋めた。冬毛のもこもこした感触を堪能しているのか、ミトラの指先が大穴の背中を何度も往復する。
「ミトラ様」
カルメリエルが湯呑を置き、穏やかな声を投げた。
「そこに座っていらっしゃると、シラベ様がお菓子を食べるのを遠慮し続けてしまいますわよ」
ミトラの手が止まった。
彼女はシラベの方を振り返らなかった。ただ、背中越しに伝わる微かな強張りで、指摘が刺さったことはシラベにも分かった。
「……別に、汚れても……」
もごもごと、消え入るような声だった。語尾が曖昧に溶けて聞き取れない。しかし退く気はないという意志だけは、背中越しにべったりとくっついてくる体温から十分に伝わってくる。
シラベはため息をつき、ミトラの脇の下にそっと手を差し入れた。
「ほら、ちょっとどいてくれ」
「…………」
ミトラは無言でむっとした顔を作った。眉間に皺が寄り、口が真一文字に結ばれる。ミトラに抱えてられている大穴がきょとんとした顔でシラベを見ている。
幸いにも蹴りが飛ぶ事は無かった。シラベの手に持ち上げられるまま、ミトラは渋々と膝の上から降りた。
シラベはミトラの素直さを意外に思いつつ、そのまま自分の横に座り直すか、空いているこたつの辺に座るものだと思っていた。
だが、ミトラはそうしなかった。恨むような眼でシラベを見たあと、すぐ隣のカルメリエルの正面に回る。
そしてカルメリエルが何か言う間もなく、くるりと背を向けて、その膝の上にストンと腰を下ろした。
「あら」
カルメリエルの糸目がわずかに開いた。しかしそれは驚きというよりも面白がっているような気配で、一拍の間を置いてから彼女は自然にミトラの体を受け止めていた。大穴ごとミトラを膝に乗せ、背後からふんわりと両腕で囲い込むような姿勢。豊かな胸元がミトラの後頭部を包み込み、ミトラの小さな体はカルメリエルの懐にすっぽりと収まった。
ミトラは何も言わず、大穴を撫で続けている。
その光景を、レヴェローズがフィナンシェの欠片を指先に乗せたまま呆然と眺めていた。
「誰かを尻に敷いてないと落ち着かないのかよ、お前は」
シラベは自分でも思う以上に呆れた声を出しつつも、ようやくフィナンシェに手を伸ばした。
個包装のフィルムを剥がし、バターの香りが鼻腔を満たす。一口かじるとさくりとした歯触りの後に、しっとりとした生地の甘さが舌に広がった。ヒナタの菓子選びのセンスだけは認めざるを得ない。こればかりは経験の差だ。
「うるさい。どこに座ろうが私の勝手でしょ」
ミトラがカルメリエルの膝の上から不機嫌そうに言い返す。だが、その背中はカルメリエルの胸元に深く沈み込んでおり、退く気配は微塵もなかった。
カルメリエルはにこにこと微笑みながら、片手でミトラの黒髪をそっと梳き始めた。もう片方の手は湯呑みへと伸び、何事もなかったかのようにお茶を啜る。
「ふふ。ミトラ様は、本当に甘えん坊さんですわね」
「気持ち悪いこと言わないで。暖を取ってるだけ」
「はいはい。それはそれは」
大穴がミトラの胸の上で体勢を変え、くるりと仰向けになった。ミトラの小さな手が膨らんだ冬毛の腹に沈み込む。大穴はゴロゴロと喉を鳴らし、ミトラの指にむにむにと前足を絡ませている。
レヴェローズは菓子の最後の一口を噛み締めながら、そんな二人と一匹を羨ましそうに見ていた。
「契約者よ」
「嫌だ」
「まだ何も言っていないぞ!」
「お前がそこから一歩も動かないなら続きを言わせてやるよ」
「ぬぐっ。……な、なら、契約者が来い! 私の上に乗らせてやるぞ! どうだ!」
「座椅子と張り合うなよ」
シラベは自分の分のマドレーヌを投げ付け、レヴェローズを黙らせる。黙る方がどうかと思った。