駅前のカラオケボックス。防音されたその小部屋では、誰もマイクを握っていなかった。テレビ画面にはデモ映像が流れ続け、別の部屋から誰かの歌声が遠く響く。
向かい合うように座るシラベとヒナタの間には、カラオケ用の低いテーブルがある。その上にはプレイマットが二枚敷かれ、カードが整然と並べられていた。
エインヘリヤル・クロニクルの対戦盤面だ。
「ターンエンド。……次で終わりだな」
シラベがカードから手を離す。ヒナタが頷き、自分のターンに移る。
この対戦は本日で三戦目になる。使っているデッキは全てヒナタが持参したもので、シラベの手持ちではない。
様々なデッキタイプとの対戦経験を積みたいので、店外にて相手役を務めてほしい。報酬も出す。そのヒナタの頼みに応じ、シラベはこのカラオケボックスに来ていた。
シラベが了承したのは報酬という単語と、ヒナタの会社訪問以降に対する評価の微妙な上方修正が重なった結果だった。友達と遊びに行くようなものだ。
だが一つ、問題があった。
ヒナタが持ち込んだデッキはアグロからコントロールまで幅広いアーキタイプを網羅したもの。環境デッキと言える出来のものもあるが、当然ながらそのどれにもレヴェローズ・ドゥブランコのカードは入っていない。
シラベがレヴェローズに出会った最初期。レヴェローズとの対戦に敗北したシラベは、あのアンティの強制を受けている。
デッキに必ず入れること。最優先で召喚すること。
その契約は文章で明確に定義されたものではない。破ったところで、肉体が滅ぶような致命的なペナルティもない。
だが、レヴェローズのカードを入れずに対戦を行うと、終了後に言い知れない疲労感がシラベの全身を襲う。半日肉体労働をした後のような、体の芯から体力を搾り取られるようなだるさだ。
三戦目が終わった瞬間、シラベは盤面を片付ける気力もなくテーブルに突っ伏した。
「ぐ……」
額がプレイマットに押し付けられ、両腕がだらりと垂れ下がる。背骨から力が抜け落ち、ソファの座面にずり落ちそうになる体を気力だけで支えていた。
対面のヒナタは対戦中の棋譜と問題点をノートに書き付けていた手を止め、突っ伏したシラベを怪訝な目で見下ろした。
「そんなに疲れるものなのかい?」
「……レヴェローズが背中にのしかかって来て、延々と恨み節言われてるような気分だ」
テーブルに埋もれたまま、くぐもった声でシラベは答える。あのポンコツの「なぜ私を使わないのだ」「裏切り者」「いじわる」という声が、対戦が終わると脳の奥で反響し続けている気がする。幻聴なのか遠隔で飛ばす本人の怨念なのかは判別がつかないが、どちらにしても不快指数は天井を突き抜けている。
ヒナタはペンを置き、申し訳なさそうに眉を下げた。
「すまないね。だが、信頼できるプレイヤーがミトラを除くと君しかいなかったんだ」
「いーよ別に。部屋代も飯代も全部そっち持ちだし、バイト代も出すって言うんだから」
シラベは顔をなんとか持ち上げて、ドリンクバーで持ってきたコーラに手を伸ばしがぶりと飲み込む。糖分が枯渇した体に流れ込んでいくのを感じて、少しだけ人間に戻れた気がする。
「たださ」
「なんだい」
「なんでこういう形で練習するんだ?」
シラベは体を起こし、背もたれに深くもたれかかった。
「ミトラにバレないようコソ練したいのは分かる。でも色んなタイプのデッキと戦いたいなら、大会にでも出りゃいいだろ。よその週末大会にでも行けば色んな相手がいる。フリープレイを誘うのだって手だ。カードショップのデュエルスペースに座ってりゃ、そのうち声かけてくる奴もいるだろ」
ヒナタは一瞬だけ間を置き、それから少し困ったような表情を浮かべた。あのヒナタでもそういう顔をするのか。珍しいものだとシラベは思った。
「大会の場だと、感想戦をする時間に限りがあるからね。勝っても負けても、対戦後にじっくりと棋譜を振り返って問題点を洗い出す時間が取れない。あの場の空気で長居するのは対戦相手にも迷惑だろう」
それは分かる。店舗大会の回転率を考えれば、一戦ごとに長々と反省会を開く余裕はない。ヒナタが先ほどからノートに棋譜を記録しているのも、そういう真剣さの表れだった。
「フリープレイについては──実はいくつかのカードショップのデュエルスペースで試みたんだが」
ヒナタの言葉が途切れた。ペンを指先でくるりと回し、天井を仰ぐ。
「私とやろうと言ってくれる人間も、申し出ても応じてくれる人間も、どちらも少なくてね」
「……おう」
「そして、極稀に声を掛けてくれたかと思えば」
ヒナタは片眉を上げ、苦笑に近い笑みを浮かべた。
「なんというか。カードよりも別の目的が透けて見える誘い方をされるのでね。困るんだよ」
シラベはカードショップのデュエルスペースにヒナタが座っている光景を想像する。
アッシュグレーのショートヘア。端正な顔立ち。モデルのような長身。着崩したシャツの胸元。仕立ての良いスーツ。
そんな人間がデュエルスペースの対面に座って「対戦しませんか」と微笑んできたら、大抵の男は──あるいは女も──カードに集中できるわけがない。ましてや声をかける側がその美貌に下心を持たないでいるのは難しいだろう。
「お前の見た目なら、そういう輩も出るだろうな」
シラベはコーラをもう一口啜った。体力はまだ五割も回復していないが、糖分が脳に届き始めたのか思考は少しずつ正常に戻りつつある。
ヒナタは自分のアイスティーのグラスを傾け、氷をカラカラと鳴らした。
「この美貌は全てミトラのためにあるというのに。厄介なものだよ」
「はいはい、美人美人。モデル級。巨乳。ご立派」
いつもの王子様ムーブだ。シラベは慣れた手つきで受け流す。この手の自己陶酔的な台詞に一々突っ込んでいたら日が暮れる。
ポーズを決め終えたヒナタは、ふとコップを置いて小首を傾げた。その瞳がシラベの顔をじっと見つめる。
「君はそういうものに関しては妙にあけすけだね」
「あ?」
「レヴェローズとカルメリエル。二次元が三次元に飛び出してきたような美人に囲まれ、ミトラという美姫のすぐ傍にいながら、あまりに枯れている」
シラベを見るヒナタの目は観察者のそれになっていた。経営者として人間を見る癖がこういう時にも出るらしい。
シラベはコーラを揺らしながら、事もなげに言う。
「別に枯れてはねーよ。お前のそのはだけてる胸元だって普通にガン見してるぞ」
ヒナタは一瞬だけ目を瞬き、それから微かに口角を上げた。
「それは知っているよ。見られている自覚はある」
「知ってて隠さねえのかよ」
「隠す理由がないからね。この身体は武器だ。使えるものは使う。ミトラ以外の人間がどこを見ようと、それは相手の問題だよ」
堂々としたものだった。さすがはあらゆる倫理観を無視してミトラに求愛し続ける女だけのことはある。
ヒナタは飲み物を一口含んでから、じっとシラベの顔を見た。先ほどまでの軽い調子が消え、何かを測るような目つきに変わっている。
「やはり」
「ん?」
「ホストクラブで働いていた経験が、君をそうさせているのかな」
シラベの手が止まる。直後、コップの中身が喉に入りかけて盛大に咽せた。コーラの炭酸が気管を逆流し、咳が止まらない。ソファの上で前のめりになりながら、涙目で口元を腕で押さえる。
「げほっ、が、ぐっ──なん、で、それ、を」
「ミトラのそばにいようとする男の素性を洗うのは当然だろう?」
ヒナタの声は穏やかだったが、穏やかな狂い方をしていた。ミトラに近づく人間を精査するのを当然と言い切るのはネジが外れた物言いだが、この女の場合は狂気と理性が完全に両立している分だけ始末が悪い。
ヒナタは少しいたずらっぽく笑いながら、ワイシャツの胸ポケットからわずかに歪んだメモ帳を取り出した。革表紙のそれを開き、付箋が貼られたページを指先で示す。
「源氏名は『御蛇シラセ』。oshie sirabeのアナグラムだね。なかなか洒落た名前じゃないか」
「やめろ」
「大学在籍中、ホストクラブ『エムテージー』に約一年間在籍」
「やめてくれ」
「勤務態度は良好。固定客はほぼつかず、ヘルプが主」
「おい」
「退店時のトラブルは無し。在籍中の評判は可もなく不可もなく。『真面目だけど華がない』という同僚の評、最後の勤務日には客からブランド物のネクタイを──」
「もういい」
シラベはゆっくりとソファから立ち上がった。テーブルを回り込み、ヒナタの正面に立つ。
ヒナタが顔を上げる。メモ帳を開いたまま、何をするのかと首を傾げる彼女の両肩を、シラベの両手ががっしりと掴んだ。
「頼む」
シラベの声は低く、切実だった。
「店の連中には秘密にしておいてくれ」
ヒナタはシラベの顔を見つめた。正面から掴まれた肩の力は、いつもの怠惰で気だるげな男からは想像もつかない真剣さを帯びている。
「それほど恥ずべき記憶ではないと思うが? 学生時代のアルバイトとしては珍しくはあるが、別に犯罪でもないし」
「頼む」
「彼らに偏見があるとは思えないし、むしろ話の種になるような――」
「頼むから」
三度目の懇願だった。いつものシラベなら適当なところで切り上げたり、そもそと身辺調査をされた事への憤りで罵倒を並び立てそうなものたが、今日は絶対に引かない構えだった。両肩を掴む指先には微かな震えすらある。
ヒナタは自然と笑っていた。
あの店の中でシラベが見せる顔は、忙しくもやる気が最低限で保たれている、ある意味で余裕を持った青年のものだった。レヴェローズに絡まれ、ミトラに蹴られ、カルメリエルに仕事を押し付けられながらも、シラベの立ち位置は揺るがない。
ツッコミを入れ、ため息をつき、最後には結局面倒を引き受ける。その安定感は、ヒナタにとっても認めざるを得ない美点だった。
その男が、こうも必死に秘密の保持を求めている。これが面白くなければなんなのか。
それに、露見した際のリスクはヒナタにも理解出来る。レヴェローズに知られれば暴走する。カルメリエルに知られれば弄ばれる。ミトラに知られれば──どうなるかは予測がつかないが、少なくともシラベの精神衛生にとって壊滅的な事態が起こることは想像に難くない。
「分かったよ。他言はしない、約束する」
ヒナタはメモ帳を閉じ、胸ポケットに仕舞い直した。シラベの肩から力が抜けた。両手がヒナタの肩を離れ、全身から緊張が一気に流れ出ていくのが見て取れる。
「……助かる」
「ただし」
ヒナタの唇の端がわずかに上がった。
「その代わり、各デッキでの対戦を一周プラスで付き合ってもらおうか。少しばかり疲れるかもしれないが、付き合ってもらいたいな」
シラベの顔から、先ほどまでの切迫した表情は消えていた。代わりに浮かんだのは、いつもの疲弊と諦めがブレンドされた、あの見慣れた顔だ。
ヒナタが立ち上がる。ここまで弱っているシラベはやはり珍しくて面白い。背丈で言えばシラベのほうが少し高いはずなのに、ヒナタの目には十の年の差がそのまま大きさに反映されたかのように小さく見えた。
冷や汗が流れていそうなシラベの顎先に、ヒナタの指が伝う。
「それとも、店外デートは主義じゃないかな?
「マジでやめろ。分かった。満足するまでやる」
ヒナタはにっこりと微笑み、卓上のデッキケースを手に取った。
シラベは深々と溜め息をつきながら、もう一杯のコーラを取りにドリンクバーへ向かった。
背中に縋るレヴェローズの幻覚が、また一段と重くのしかかった気がした。