靄がかかっている。
シラベは靄の中にいた。足元は見えない。天井もない。壁もない。ただ白く濁った霧がどこまでも続いていて、シラベはその中に立っている。
引き延ばされた時間に揺蕩っていると、曖昧な隙間の中から輪郭が覗いてくる。蛍光灯の白い光。パーテーションで区切られたデスク。キーボードの打鍵音が遠くで鳴り続けている。
どこかのオフィスのようだ。シラベはその光景をぼんやりと眺めている。夢だと分かっていた。夢の中で夢だと気づける程度には、意識の表層が浮いている。
会社員時代の残像だ。
だが、かつてシラベを何度も叩き起こした悪夢とは質が違っていた。
ボトムレスピットに来る前も、後も、何度も見ていたものには鮮明さがあった。元上司の顔。詰問する声。同僚たちの目線。デスクの上に叩きつけられる書類。怒声の圧力。胃液がせり上がる感覚。全てが生々しく、五感を伴って再現され、シラベを汗まみれにして叩き起こしてきた。
今はそのどれもない。目の前にいるはずの上司の顔が見えない。輪郭すら曖昧で、人の形をした霞のようなものが向こう側にぼんやりと立っているだけだ。声も聞こえない。口らしきものが動いているのは分かるが、音が届かない。ガラス越しの無声映画のように、会社という舞台装置だけが形骸として残り、そこにいたはずの人間たちは中身を失っている。
名前が出てこない。上司の名前。同僚の名前。あれほど胃を痛めた人間関係の、その当事者たちの名前すら思い出せない。
俺はこれほどまでに切り替えの出来る性格だったのか。シラベは靄の中で自嘲した。
眠れない夜があった。過去から逃避して、でも物だけは捨てられず、現実から目を背けた日々があった。再就職の気力が湧かず、無職のままアパートでゆっくりと腐っていた。あれだけ苦しかった記憶が、時間が経ったというだけで、こうもあっさりと輪郭を失うものなのか。
薄情なのか。それとも人間の脳は自衛のためにそういう風に出来ているのか。
何をするでもなく周囲を眺めていると、靄に穴が開いた。
会社の残像が、霞ごと吸い込まれていく。パーテーションが歪み、蛍光灯の光が渦を巻き、顔のない上司の影が引き伸ばされて飲み込まれる。掃除機の吸入口に吸い取られるゴミのように、悪夢の残滓が一点に収束していく。
その一点は黒かった。
深淵のように黒い穴だ。靄を食い破って広がり、夢の舞台装置を残さず呑み込んでいく。床も壁も天井も闇に沈み、やがてシラベの足元にも何もなくなった。
暗闇の中に、シラベと黒い穴だけが残された。
穴が形を変え始めた。
不定形の闇が輪郭を得ていく。下方から上方へ、液体が逆流するように立ち上がり、少女のシルエットを象っていった。
小柄な体躯。闇そのもののような肌。ぼろ切れとしか呼びようのない布片が申し訳程度に体を覆い、その下の身体の凹凸を隠す気がない。特に胸部の膨らみは小さな体躯に対して不釣り合いなまでに主張しており、ぼろ切れの合間から覗く谷間の存在感がやかましい。
黒い髪が無造作に垂れている。その一部が猫耳のように跳ねているが本物の獣耳ではなく、あくまで寝癖のような跳ね方だった。
全てを喰らう大穴。猫の呪法の掛かっていない、真の姿だ。
いや、真の姿と呼んでいいのだろうか。このカードのイラストは何度か変更されている。初期のイラストは単なる穴の絵だった。今目の前にいるこの少女の姿はデュアルコンストラクションに収録された際のリメイクイラストだ。であれば後付けのこちらの方が真の姿であるという保証は──
「まあ、いいか」
夢の中で考えることではない。シラベは思考を投げ捨てた。
大穴は、シラベの目の前で口をもぐもぐと動かしていた。先ほど吸い込んだものを、あの会社員時代の靄を咀嚼しているだろう。
人間が食べ物を噛み砕くのとは違う。音もなく、ただ口が規則的に動き、闇の少女の喉がこくりと上下する。嚥下した。
大穴はとてとてと歩いてきた。足音はしない。夢だからだろう。
シラベの前まで来ると、無言で両腕を伸ばし、シラベの腹のあたりにぎゅうとしがみついた。
底冷えするような冷たい肌の感触がある。夢にしてはやけにリアルな質感だ。ぼろ切れ越しに伝わる柔らかさ。頬を押し付けてくる頭の重み。黒髪の隙間から覗く小さな耳。猫の時とはまるで違う姿だが、どこか既視感がある。
シラベは片手を持ち上げ、大穴の頭にそっと乗せた。猫の時と変わらない、不器用な撫で方。大穴はされるがまま、シラベの腹に顔を埋めたまま動かない。
ふと思い当たった。この感覚には覚えがある。大穴と他一名が初めて夢に乗り込んできた時。あの時もこんな風に、現実と夢の境が曖昧な代物だった。
後からして思えば、あれは精霊との繋がりのようなものだった。つまり、目の前にいる大穴は当人そのものなのだろう。
そうだとすれば、先ほどの光景はどうだ。あのあやふやさ、こうして大穴が飲み込んだ呆気なさ。
上司の顔が見えなかったのは、記憶が薄れたからではないのかもしれない。
シラベは腰にしがみつく大穴の頭に手を置いた。黒い髪は猫の毛並みとは違うが、指を沈めた時の柔らかさは同じだった。
「お前、俺の夢を食ってたのか」
大穴が顔を上げた。きょとんとした顔だった。
何を聞かれているのか分からない、あるいは分かっているが答えるつもりがない。猫の姿の時にたまに見せる、あの無垢とも無関心とも取れる瞳。
答えはなかった。猫の時は鳴くだけだし、人型になってもひどく口数は少なかった。問いかけたところで返事が来るのはあまり期待していなかった。
夢見が悪くないなら、いいか。
ボトムレスピットに住み込みを始めてからというもの、あの頃の悪夢に苛まれる頻度は確実に減っていた。正確には、ヒナタの騒動があってから、大穴と共に暮らし始めた頃からはぱったりと止んでいた。
忙しさのおかげだと思っていた。精霊の面倒を見て、猫に肩を貸して、店長に膝を貸して、疲弊しきって泥のように眠る日々の中で、脳がトラウマを反芻する暇を失ったのだと。
だが、もしそうではなかったとしたら。
もしこの黒猫がシラベと共に眠る時、甲斐甲斐しくも悪夢を静かに食い潰していたのだとしたら。
シラベは大穴の髪をゆっくりと撫でた。猫耳のように跳ねた毛先が指に引っかかる。
「……ありがとな」
大穴は相変わらず何も言わず、シラベの腰に顔を埋めたまま動かなかった。そのつもりがあったのか、無かったのかも分からない。なんなら、普通の夢だって食われているのかもしれないから、他の害もあるかもしれない。
理由がなくても知らない害があっても今はいい。助かっているのは事実なのだから。
シラベは再び大穴の頭を撫でた。黒い癖毛の間に指を通す。大穴は目を細めて、ぐりぐりとシラベの手のひらに頭を押し付けてきた。
がり。
音がした。何かを噛み砕くような、硬質な破砕音。
シラベは反射的に下を見た。
右手がなかった。手首から先が消失している。
痛みはない。血が噴き出るでもないが、手首のそこから先が存在しない。先ほどまで大穴の頭を撫でていた右手の指が、手首が、手のひらが、跡形もなく消えている。
大穴が、もぐもぐとなにかを咀嚼していた。
「お前ッ──」
仰け反ろうと後ずさろうとした体が、しかし動かなかった。
大穴の両腕がシラベの腰を離さない。小さな体が見上げてくる。きょとんとした顔。さっきと同じだ。何が悪いのか分からないという、あの無垢な瞳。
次の瞬間、大穴はシラベの体を押し倒した。
暗闇の床に背中を打つ。衝撃はあるが痛みはない。覆いかぶさってきた大穴がシラベの胸に顔を埋め、ぎゅうと抱きしめてくる。甘えるように頬を擦り寄せながら──がり、と。
左肩に歯が立てられた。
やはり痛みはない。だが、噛まれた箇所から何かが溶けるように消えていったのが目の端に見えた。
がり。脇腹。
がり。右の二の腕。
甘噛みではなかった。一口ずつ、確実に。しかし乱暴さはなく、子供がお菓子を少しずつ齧るような、味わうような速度で。大穴はシラベにしがみつきながら、体のあちこちを食べ続けている。
「お前なあ」
呆れるやら怒るやら、どうすればいいのか分からなかった。
振りほどこうにも、左腕も肩から先の感覚も、身体のあちこちが曖昧になりつつある。痛みがないのが余計にたちが悪い。苦痛があれば怒りも湧くが、大穴がシラベに抱きつきながらもぐもぐと食べている姿は、猫が飼い主の指を甘噛みしているのとどこか同じに見えてしまう。
全てを喰らう大穴。名前の通りだ。悪夢を食い、相棒の体を食い、それでもきょとんとした顔で甘えてくる。
あるいはこの精霊にとって、食べることは愛情表現なのかもしれない。好きだから食べる。近くにいたいから齧る。ペットが飼い主の指を噛むのと同じ原理で、ただそのスケールが人間の常識を遥かに逸脱しているだけで。
だとしても。
「加減ってもんがあるだろ」
声が遠くなる。視界が暗くなっていく。大穴の体温と、咀嚼音だけが最後まで残っていた。
意識が溶けた。
*
朝。シラベは目を開けた。
天井が見える。見慣れた六畳間の天井。木目の模様まで記憶している。ボトムレスピットの二階、自分の部屋。
なにか、変な夢を見ていた気がする。
内容は覚えていない。断片すら残っていない。楽しかったのか怖かったのかすら判然とせず、ただ何か見ていたという感覚だけが靄のように頭の中に漂っている。
両手を持ち上げてみた。ある。五本ずつ。指を握り、開く。問題ない。
自分でもよく分からないが、確認せずにはいられなかった。
そのまま天井を見つめていると、体に違和感があることに気づいた。
重い。
自分の体の上に、何かがのしかかっている。
ミトラではない。ミトラは軽いし、体温がもっと高い。今のしかかっている重みはもう少し面積が大きく、しかし人間一人分というほどでもない。体温はやや低いだろうか、布団の中で蒸れた熱との相殺されている。
外で散歩してきた大穴だろうか。シラベは掛け布団の端を指先で摘まみ、ゆっくりと持ち上げた。
布団の中に、薄暗い空間が開ける。朝の光が隙間から差し込み、そこにあるものを照らし出した。
黒い髪。闇色の肌。ぼろ切れのような布片に包まれた、小柄な体。
そして、小さな体躯に対して不釣り合いなまでに大きな胸部が、シラベの胸板を圧迫している。
寝息は穏やかで、表情は安らかだった。黒い髪の一部が猫耳のように跳ねているのが小癪だった。
思考が止まったシラベの手から、掛け布団が落ちた。
数秒。あるいは十数秒。
シラベはもう一度、祈るような気持ちで掛け布団をめくった。
恐る恐る覗き込んだ布団の中にいたのは、黒猫だった。
冬毛で一回り大きくなった、見慣れた黒い毛玉。シラベの胸の上で丸くなり、持ち上がった布団から差し込んだ光に目を細めている。
「にゃあ」
短い鳴き声。大穴はのそりと体を起こし、シラベの胸板の上をもこもこと歩いて顔の前まで来た。小さな鼻先がシラベの鼻頭にちょんと押し当てられる。
冷たくて、少し湿った感触。
シラベは上体を布団に投げ出し、また天井を見上げる。心臓がまだ速い。さっき見たものが幻覚なのか寝ぼけていたのか、それとも。いや、いい。考えるのをやめた。
仰向けになったシラベの顔を覗き込んでくる大穴。その鼻先がもう一度、シラベの鼻を押す。
「にゃ」
「……おはよう」
シラベは観念して左手を持ち上げ、大穴の頭を撫でた。
猫は目を細め、喉の奥からゴロゴロと低い音を鳴らし始めた。そのまま居心地がいい場所、つまりシラベの胸の上まで動いてで丸く縮こまり、撫でられるがままに体を預けてくる。
温かい。いつもの重さ。いつもの毛並み。
さっき見たものが何であったにせよ、この黒猫が自分の上で寛いでいるという事実だけは変わらない。
シラベは大穴を撫でながら、もう片方の手で自分の体を確認した。
両腕、両足、指の数。全て揃っている。欠損なし。健康そのもの。
ただ、なぜか右手の甲に、ごく薄い歯型のような痕が残っていた。何かに甘噛みされた程度の、消えかけの赤み。
気のせいだ。シラベはそう思うことにした。