カスレアクロニクル   作:すばみずる

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※この話はエイプリルフールネタです。本編とは関係ありません※


81 劇場版カスレアクロニクル

 

 

 午後三時のボトムレスピットに客はいなかった。

 

 曇天の空は店先を暗くして、ショーケースの中のカードは蛍光灯の光を受けて控えめに輝いている。暖房の駆動音が低く唸り、時折レジの横に積まれたチラシの束が空調の風でめくれる。

 

 カウンターの内側ではカルメリエルが仕入れ記録の確認を行なっていた。ペンを走らせる手は淀みなく、糸目の奥は数字の列を正確に追っている。

 

 ミトラは彼女の傍の椅子に座り、卸業者のカタログを眺めていた。新しい玩具の発注数を決めなければならない時期だ。多すぎれば在庫が圧迫し、少なすぎれば機会損失になる。

 

 シラベとレヴェローズは買い出しに出ていた。日用品と消耗品の補充をする一方で、シラベはたまには散歩させるさとレヴェローズを指差していた。引きまわす側のレヴェローズはそんな言葉は聞こえず、店の外で飼い主を待ってソワソワとしていたのをミトラは覚えている。

 

 大穴はカウンターの上で丸くなっている。冬毛をめいっぱい膨らませた黒い毛玉は、ミトラの手が届く距離にじっと目を閉じていた。時折ミトラやカルメリエルに撫でられ、そのたびに身じろぎをして毛繕いを行う。

 

 平穏な午後だった。ボトムレスピットにとってはありふれた、何も起こらない時間帯だ。

 

 その平穏は、前触れもなく砕かれた。

 

「──なに?」

 

 異音にミトラが顔を上げると、店舗の入り口であるガラス扉が砕かれていた。外側から力任せに破壊されたらしく、ガラスの破片が店内に飛散し、蛍光灯の光を受けて鋭い輝きを撒き散らす。冬の冷気が流れ込み、チラシの束が爆ぜるように舞い上がった。

 

 カルメリエルの反応は、音が鳴り終わるよりも早かった。カウンターを飛び越え、ミトラの前に立ち塞がる。シスター服の裾が翻り、広げた両腕がミトラの小さな体を覆い隠した。

 

「ミトラ様、お下がりください」

 

 その声に普段の柔らかさはない。冷たく、硬く、鋼を打ったような緊張感に満ちている。

 

 入り口が完全に破壊され、人影が踏み込んできた。一人。二人。三人。四人。その全員が同じ装束を纏っていた。暗い色のローブを纏い、フードを深く被っている。顔は影に沈んで判別できない。裾は足首まで覆い、手元すら布地の中に隠されている。

 

 異様だった。冬の商店街に現れるには、あまりにも異質な集団。

 

 彼らは言葉を発さず、身振りによるコンタクトも無い。だがその動きは統制されたものであると、統制する側でもあったカルメリエルは見抜いていた。

 

「なに、これ」

 

 カルメリエルの背中の陰で、ミトラが息を呑んだ。カタログが手から滑り落ち、床に乾いた音を立てる。

 

 その音に合わせるように、大穴が動いた。

 

 カウンターの上で丸くなっていた黒い毛玉は、一拍の躊躇もなく跳躍した。全身を毛を逆立て、普段は出さない牙を剥く。喉の奥から漏れたのは肉食獣の如き低い威嚇音だった。

 

 黒い弾丸が空を切った。その小さな体が、最も近いローブの一人に向かって飛びかかる。

 

 その疾走へ翳す様に、ローブの人物が布地の下から片手を突き出す。

 

 閃光。白い光が炸裂し、店内にいた全員の視界を灼いた。

 

 光が収まった時、大穴の姿はなかった。

 

 空中で飛びかかろうとしていた黒猫の体は消え失せ、代わりにローブの人物の手の中に、一枚のカードが収まっていた。

 

 闇色の肌を持つ少女が描かれた、ホログラム仕様のカード。

 

『全てを喰らう大穴』。

 

 カルメリエルの糸目が、初めてはっきりと見開かれた。

 

「大穴……!」

 

 手を伸ばしかけた体が、すぐに自我で抑えつける。ミトラが背後にいる。ここを離れるわけにはいかない。

 

 ローブの人物は大穴のカードを無造作にローブの内側に仕舞い込んだ。その何の躊躇いもない手付きに、カルメリエルの思考が加速した。

 

 推定敵は四人。全員の戦闘能力は不明だが、如何なる手管か精霊をカードに戻す術を持っている。まともに対峙すればカルメリエル自身も同じ末路を辿る可能性がある。ミトラを守りながら四人と相対するのは不可能に近い。

 

 だが、退路はある。

 

「ミトラ様」

 

 カルメリエルは振り返らず、背後のミトラの腕を掴んだ。

 

「裏口から出ます。私に続いてください」

 

「カルメリエル、大穴が──」

 

「取り返します。ですが今はミトラ様の安全が最優先ですわ」

 

 有無を言わさぬ声だった。ミトラの腕を引き、カウンターの裏からバックヤードへと走る。カーテンをくぐり、段ボールが積まれた狭い通路へ踏み込む。

 

 数歩あれば足りる先にある裏口の鉄扉。その手前に、人影があった。

 

 暗い色のローブ。フードを被り、裾は足首まである、表の集団と全く同じ装束。だがカルメリエルは、その人影のフードの奥を見て固まる。

 

 ローブの奥からフードの縁を持ち上げた指先は白く、細く、手入れの行き届いた爪をしていた。フードの影が退き、薄暗いバックヤードの中に──アッシュグレーの髪が零れ落ちた。

 

 亜修利ヒナタ。

 

 その顔に、いつもの芝居がかった微笑みはなかった。ミトラを見つめる瞳に宿っているのは、恋慕でも陶酔でもない。

 

 カルメリエルの前に出ようとした体を、ミトラが押しのけた。

 

「ヒナタ」

 

 ミトラの声は低く、硬かった。

 

 視線がヒナタのローブを舐めるように辿り、それから表の方へと一瞬だけ向けられる。

 

「表の連中は、あんたの仲間?」

 

 ヒナタは答えなかった。

 

「ホビー漫画の読みすぎで悪ふざけするのも大概にしなさいよ」

 

 声には棘があった。だがその棘の奥に、かすかな祈りが混じっていることにカルメリエルは気づいていた。嘘であってほしいという祈り。ヒナタがふざけているだけで、今にもいつもの馬鹿みたいな笑顔で「驚いたかい?」と言ってくれることを期待する、小さな祈り。

 

 ヒナタは沈黙したまま、ローブの内側からデッキケースを取り出した。

 

 黒い革のケースを右手で掲げる。

 

「──レーラズ・フィールド展開」

 

 その宣言に対して、ミトラの手が反射的に動いた。パーカーの内側に巻かれたデッキホルダーから、一組のデッキが引き抜かれる。

 

 空間が歪む。バックヤードの壁が、床が、天井が、段ボールの山が塗り替えられる。カルメリエルの手がミトラの肩から剥がされ、見えない力で弾き飛ばされた。

 

「ミトラ様──!」

 

 カルメリエルの声が遠ざかる。彼女の姿が光の壁の向こうに消えていく。

 

 

 *

 

 

 買い物袋を両手に提げ、商店街の裏道に入った時。シラベの足が止まった。

 

「どうした、契約者──ん?」

 

 ボトムレスピットの外観が見えている。見えているが、いつもと違う。ガラス戸があるべき場所にガラス戸がないことだった。入口の引き戸がフレームごと破壊され、内側に倒れ込んでいる。店の前に置いてあった立て看板は倒れ、路面に散らばったチラシが冬風に吹かれて渦を巻いている。

 

「契約者……あれは」

 

 レヴェローズの声が緊張で強張る。シラベは買い物袋を地面に落としていた。足が勝手に駆け出す。

 

 走りながら見えてくる光景の全てが、シラベの理解を拒んだ。店内に複数の人影がある。暗い色のローブを纏った人間。フードを深く被り、顔が見えない。まるで映画のセットに迷い込んだような非現実感。

 

 その人影の中心に、カルメリエルがいた。シスター服の裾は破れ、いつも整えられたピンクの長髪は乱れていた。床に膝をつき、肩で息をしている。糸目は見開かれ、その奥の瞳にはシラベが今まで見たことのない、剥き出しの殺意が宿っていた。

 

 カルメリエルの視線の先のローブの一人が片手を突き出す。そして、閃光。

 

 白い光がカルメリエルの全身を包み、彼女の輪郭が揺らいだ。シスター服が、ピンクの髪が、開かれた瞳が光の粒子に分解され、凝縮され、一枚の矩形へと収束していく。

 

「カルメリエル!」

 

 シラベの叫びは間に合わなかった。

 

 光が消えた時、カルメリエルの姿はどこにもなかった。ローブの人物の手の中に、一枚のカードが収まっている。表面にはシラベが見慣れた女性の顔があった気がした。

 

 思考が追いつかない。理解が追いつかない。だが足は止まらなかった。砕けたガラスの上を踏み越えて店内に飛び込む。

 

 その瞬間、バックヤードのカーテンが揺れた。奥から現れた人影を見て、シラベの心臓が一拍、止まった。

 

 亜修利ヒナタ。だがいつものスーツ姿ではない。ローブの集団と同じ、暗い色のローブに身を包んでいた。

 

 その腕に、ミトラが抱かれていた。小さな体は力なく垂れ下がり、腕も足も脱力している。気を失っているらしかった。

 

「ミトラ……!」

 

 シラベが踏み出した。状況は分からない。しかしシラベは、カルメリエルを奪った者たちと同じ格好をしたヒナタを既に敵と認識していた。

 

 ローブの人間が行く手を塞ぐ。シラベはぶつけるようにかき分けようとした。

 

 一人目の肩を掴んで横に押しのけた瞬間、目の前に新たな人影が立ち塞がった。

 

 ローブの女だった。他の者たちと同じ暗い色のローブだが、フードの下に白い仮面を着けている。目元だけが開いた無表情な仮面。その奥から覗く瞳が、シラベを値踏みするようにじろじろと見回した。

 

 上から下まで。シラベの足元から頭の天辺まで。品定めをするような、商品の欠陥を探すような視線。

 

「精霊の匂いはするけど」

 

 仮面の奥から声が漏れた。若い女の声だった。抑揚が薄く、感情の読めない声。

 

「お前は弱そう」

 

「ああ?」

 

 断定する言葉に、シラベの闘志に火が付く。

 

 視界の奥で、ヒナタがミトラを抱えたまま歩き出すのが見えた。ローブの集団がヒナタを囲むように移動を始めている。

 

 精霊という言葉に、シラベのゲーム脳がガチンと鳴る。理屈に通らない真似をする奴らを叩きのめす手段が、単純な暴力のはずが無い。幸い、自分はそれに繋がる物を知っている。

 

「レヴェローズ!」

 

 シラベは振り返らずに名を呼んだ。一拍の間。

 

「──レーラズ・フィールド展開!」

 

 レヴェローズの声が、震えながらも力強く響いた。

 

 空間が歪む。ボトムレスピット周囲の空間が閉じ、店内にいた全員──シラベ、レヴェローズ、仮面の女、そしてローブの集団ごと、色のない光の空間に閉じ込められた。

 

 シラベの左手は、コートの内ポケットに入っていた。指先が触れたのは、肌身離さず持ち歩いているデッキケースの硬い感触。

 

 ケースから取り出したデッキを、仮面の女の前に掲げた。

 

「弱いかどうか、確かめてみろ」

 

 声は平坦だった。怒りで叫ぶでもなく、恐怖で竦むでもなく。カードゲーマーがデュエルの席に着く時の、あの静かな集中。

 

 仮面の女は首を僅かに傾けた。仮面の下の瞳がシラベのデッキを一瞥し、それからシラベの目を見た。

 

「いいよ」

 

 ローブの内側から、彼女もまたデッキケースを取り出した。鮮やかな赤い革のケースの蓋を開き、スリーブに包まれたデッキを片手で掴む。

 

 二人の間に、光の床の上でダイスが転がった。

 

 

 *

 

 

 数ターン後。シラベの盤面には何も残っていなかった。

 

 手札は一枚。ライフは残り僅か。対する仮面の女の盤面には三体の生命体と、シラベが知らないタイプを持つカードが並んでいる。手札も潤沢。リソースの差は歴然だった。

 

 序盤の読み合いまでは互角だった。いや、互角だと思わされていたのかもしれない。三ターン目に仕掛けたシラベの攻勢を、仮面の女はわずか一枚のカードで瓦解させた。そこからは雪崩だった。シラベが何を出しても、それを上回る回答が即座に返ってくる。ドロー、展開、除去、展開。隙がない。こちらの手札を透視しているかのような的確さで盤面を制圧されていく。

 

 強い。レヴェローズのカードを軸にしたシラベのデッキの弱点を、初見で正確に突いてくる構成と判断力。ボトムレスピットの常連の誰よりも、ミトラよりも、ヒナタよりも上だった。

 

「『渡界者』の能力起動、次のターンまで戦術を戦略レベルで運用する。ターンエンド」

 

 仮面の女が呟くように宣言した。その声には退屈すら混じっていた。

 

 シラベは最後の手札を見た。レヴェローズのカード。コスト8。盤面を返すには足りない。何を出しても次のターンで終わる。

 

 だが、出さないという選択肢はシラベにはなかった。

 

「レヴェローズを……召喚」

 

 カードを光の床に叩きつけ、シラベと共に先ほどまで歩いていたレヴェローズが盤面に現れる。相手の生命体よりも辛うじて大きい程度の壁。それでも、次のターンさえ回って来れば。

 

 だが、レヴェローズが活躍する機会は訪れなかった。

 

「レスポンス。戦術『火遁』。直接火力で終わり」

 

 もういいとばかりに放たれた雑な火力がシラベを焼き、そのライフをゼロにする。

 

 レーラズ・フィールドが軋むように震え、空間の端が罅割れ始めた。敗北の確定に伴って、結界の解除が始まっている。

 

 同時に、閃光。レヴェローズの体を白い光が包んだ。

 

「くっ、嫌だ……契約者──!」

 

 レヴェローズの叫びが光の中で途切れた。金髪が、紫の瞳が、伸ばしかけた指先が、光の粒子に呑まれていく。凝縮され、圧縮され、一枚のカードへと変貌する。

 

 シラベの手が伸びるが、届かない。

 

 ローブの一人がカードを回収する。シラベが見たのは、カードの表面に描かれたレヴェローズの姿。あの見慣れたイラストが今は遠い。

 

 レーラズ・フィールドが完全に崩壊し、ボトムレスピットの荒れた店内が視界に戻った。

 

 膝をついたシラベの前に、足音が近づいた。

 

「シラベ君」

 

 ヒナタの声だった。ミトラを抱えたまま、シラベの傍を通り過ぎようとしている。その足が一瞬だけ止まっていた。

 

 ヒナタの唇が、シラベにだけ聞こえる声量で動いた。

 

「ミトラを救いに来ても、君では勝てない」

 

 シラベは顔を上げた。ヒナタの目が、ローブのフードの影からシラベを見下ろしている。

 

 空洞のような瞳。そこにほんの一瞬だけ、震えのようなものが滲んでいるようだった。

 

「分が悪すぎる。そんな博打は、君は好きじゃないだろう」

 

 シラベは答えられなかった。

 

 ヒナタが歩き出す。ローブの集団がヒナタを中心にして集まっていく。仮面の女は一度だけシラベを振り返り、やっぱり弱かったね、と呟いた。

 

 ボトムレスピットの店内に残されたのは、砕けたガラスと、倒れた什器と、散乱したカードパックと、膝をついたままのシラベだけだった。

 

 ミトラも。レヴェローズも。カルメリエルも。大穴も。誰もいなくなった。

 

 暖房だけが、何も知らない顔で低い駆動音を鳴らし続けていた。

 

 

 *

 

 

 どれくらいの時間が経ったのか分からなかった。

 

 シラベは荒れた店内の床に座り込んだまま動けずにいた。背中をカウンターに預け、両膝を立てて、ただ天井を見上げている。

 

 砕けたガラスの破片が蛍光灯の光を受けて散らばっている。倒れた棚からカードパックがいくつも転がり出し、踏み潰されたぬいぐるみの玩具が歪な形で床に寝そべる。レジは無事だったが、その横にあったカルメリエル愛用のノートパソコンは沈黙している。

 

 暖房はまだ動いていた。砕けた入口から吹き込む冬風と暖房の温もりが、店内で無意味な攻防を繰り返していた。

 

 シラベは何も考えられなかった。考えることを拒否していた。

 

 考えれば、あの白い閃光を思い出す。カルメリエルが一枚のカードに還元されていく瞬間を。レヴェローズの指先が光の中に溶けていく最後の一秒を。ヒナタの腕の中でぐったりと力を失っていたミトラの姿を。

 

 そして、仮面の女の声を。

 

 ──やっぱり弱かったね。

 

 シラベの拳が膝の上で握り締められた。爪が掌に食い込む。痛みだけが、思考停止した頭に届く唯一の信号だった。

 

「うわ、なんだこれ」

 

 入口の方から声がした。

 

 声と、砕けたガラスを踏む音の方。ガシャリという不吉な足音と、驚愕するような呟き。

 

 シラベが顔を上げると、入り口には兼定キリメが立っていた。

 

 スカジャンにジーンズの私服姿でいつものように来店した彼女は、入口のガラスが消滅していることと、店内が台風の後のように荒れていることに、鋭い目を見開いて立ち尽くしていた。

 

「泥棒? てか強盗? マジで?」

 

 キリメの視線が店内を巡り、それからカウンターの前に座り込んでいるシラベに辿り着いた。

 

「何があったんだよ、これ。大丈夫?」

 

 困惑の視線が痛い。シラベは天井を向き、掠れた声で答えた。

 

「もう何もねえよ」

 

「は?」

 

「何もねえんだ。店長もいねえ。レヴェローズもカルメリエルも大穴もいねえ。全部持ってかれた。終わりだ」

 

 投げやりな声だった。キリメがこれまで聞いたことのない、完全に底が抜けたような声。

 

 普段のシラベは気怠げではあっても、どこかに芯がある。文句を言いながらも手は動かすし、面倒だと言いながらも結局は引き受ける。その芯が、今は折れていた。

 

 キリメはガラスの破片を避けながら店内に入り、シラベの正面にしゃがみ込んだ。その目がシラベの顔を覗き込む。

 

「何があったんだよ」

 

「お前に言ってもしょうがねえ」

 

「しょうがあるかどうかはアタシが決める。いいから話せ」

 

 シラベは数秒の間を置いて、重い息を吐いた。年下の女子高生に聞かせたところで状況は一ミリも変わらない。変わらないが、責めるような三白眼は引く気配がなかった。

 

 シラベはかいつまんで話した。ローブの集団が店を襲っていたこと。カルメリエルがカードに封じ込められて持ち去られたこと。ヒナタが連中の側にいたこと。ミトラが連れ去られたこと。自分がデュエルで負けて、レヴェローズもカードにされたこと。

 

 精霊のことは詳しく説明しなかった。カードの中にキャラクターの魂が宿っていて、実体化して飯を食ったり文句を垂れたりしているなどという話を、何も知らない人間にどう伝えればいいのか分からなかったし、今のシラベにはそれを整理する気力もなかった。

 

 キリメは黙って聞いていた。途中で何度か首を傾げ、眉をひそめ、口を開きかけては閉じた。理解が追いついていない部分があるのは明らかだったが、シラベの声の調子が尋常でないことだけは正確に受け取っているようだった。

 

「──で、そいつらが店長さんを連れてった」

 

「ああ」

 

「レベさんたちも」

 

「ああ」

 

「おーちゃんも」

 

「いないから、そうなんだろうな」

 

「じゃあ追いかけろよ」

 

「無理だ」

 

 キリメの焦れた声に、シラベは俯き膝に額を押し付けた。

 

「俺は弱い。デュエルで負けた。あいつらには精霊をカードに封じる技術があって、敗者を従わせる結界を張る力がある。俺がのこのこ行ったところで、また負けて終わりだ」

 

「だからって」

 

「お前は見てなかったから分からねえんだよ。完封だった。手も足も出なかった。勝ち目が──」

 

「うるせえな」

 

 キリメの声が、シラベの言い訳を叩き切った。顔を無理矢理前に向けられ、頬に衝撃が走る。キリメの右手がシラベの左頬を張っていた。

 

「ぐだぐだ言って腐ってんじゃねえよ」

 

 キリメの眼が、至近距離からシラベを射抜いていた。怒っている。だがそれは軽蔑の怒りではなかった。

 

「勝てないから行かない? 弱いから無理? 何だそれ。店長さんが攫われて、おーちゃんも連れてかれたかもしれなくて、あんたの相棒もやられてて。それで、ここに座ってしょぼくれてるのが正解なわけあるか?」

 

「……正解なんて、そんなの」

 

「分かんねえよな。分かってねえならとにかく行動しろって言ってんだよ!」

 

 キリメはシラベの胸倉を掴み上げた。不意を突かれたシラベの上体が引き起こされる。

 

「弱いなら強くなりゃいい。勝てないなら勝てるようにしろ。動けるんならとっとと動け。腐ってる暇があったら足動かせ。喧嘩売られてるんだよアンタは!」

 

 ヤンキー気質の乱暴な言い分に、シラベは言い返す気も起きない。理屈が伴っていないガキの言い分。簡単に言いやがって、と唇の端を噛む。

 

 だがそれでも、その熱の籠もった言葉にシラベの目が少しだけ焦点を取り戻した。

 

 頬がじんじんと痛む。その痛みが、底の抜けた器の穴を僅かに塞いでいた。

 

「……言いたいことは分かる」

 

「分かったなら立てよ」

 

「だがな。相手には精霊ってのが──カードの中にいる存在がいて、そいつが結界を張ってどうこうされたら好き放題やられる。こっちも同じことが出来るなら殴り込める余地があるが、レヴェローズを取られた今の俺にはそれがない。向こうの有利な条件で受け身になっちまう」

 

 キリメは一瞬だけ首を傾げた。精霊。カードの中にいる存在。彼女にとっては意味不明な単語の羅列だろう。大穴が猫ではなくカードの精霊であることも、レヴェローズやカルメリエルが人間ではないことも、キリメは知らない。

 

 だがキリメは、理解できない部分を無視して、理解できる部分だけで話を進めた。

 

「要するに特別なカードが要るってことだろ」

 

「まぁ平たく言えば」

 

「だったら、店にこんだけカードあるんだから、要るもん持ってけばいいじゃん。店長さんいないなら好き放題出来るだろ」

 

 キリメの手が、荒れた店内を大雑把に指し示した。ショーケースは倒れているものもあるが、中のカードは無事なものも多い。壁際のストレージボックスは散乱しているが、中身がそっくり消えたわけではない。

 

「精霊のカードなんてそうそう──」

 

 そこまで言いかけて、シラベの口が止まった。

 

 思考が巻き戻る。あの瞬間。ヒナタが去り際に囁いた言葉。

 

 ──ミトラを救いに来ても、君では勝てない。

 

 ──そんな博打は、君は好きじゃないだろう。

 

 博打。その言葉に今さらになってシラベは眉をひそめた。

 

 亜修利ヒナタはシラベの過去を徹底的に洗った女だ。大学時代のホストクラブ勤務すら把握していた。ミトラの傍にいる男の素性を調べるのは当然だと、本人が堂々と言い放っていた。

 

 そんな女が、シラベの無職時代にパチンコへ通い詰めていた過去を知らないはずがない。ビギナーズラックでのめり込んでそのまま痛い目を見たクチだが、それでもやめられなかったカスがシラベだ。

 

 そもそも、シラベのプレイスタイルは博打のようなものだ。自分の引き運を信じた強気が売りの人間に、博打は好きじゃないだろう、と言うか。

 

 言わない。ヒナタなら言わない。あの女は言葉を選ぶ。ミトラ以外の人間に対しては常に計算が働いている。不自然な言葉は意図的に選ばれたものだ。

 

 博打。博打にまつわる何か。精霊。カード。

 

 シラベの視線が、店内を走った。

 

 倒れた棚。割れたガラス。散乱した商品。だがその向こう──壁際に設置された、ディスプレイ用の小さなショーケースは無事だった。

 

 そのショーケースの中。照明に照らされて、一枚のカードが鎮座しているはずだ。

 

 ずっとそこにあった。誰も気に留めず、誰も手に取らず、閉じ込められたまま。

 

 シラベはふらふらと壁際のショーケースへ歩み寄る。小さなガラスケースの中に、それはあった。

 

賭博都市の女帝(エンプレス・オブ・ジャックポット)レディ・ローマ』

 

 数多の能力と強力なステータス。レヴェローズとは比較にならない、時代遅れだが正真正銘のパワーカードだ。

 

 そしてこのカードの中には──精霊がいる。封印されているだけで、存在は消えていない。その筈だ。

 

 今のシラベに唯一残された活路。手がショーケースの蓋に触れた。指先が微かに震えている。

 

「おい。何か見つかったのかよ」

 

 後ろからキリメの声がした。

 

 シラベは振り返った。生意気な女子高生が、腕を組んでこちらを見ている。事情も分からないくせに、行動しろと叩いてくれた年下のガキが。

 

 シラベの口元が、自嘲気味に歪んだ。

 

「見つかったかもしれねえ。ただし、博打だ」

 

「へえ。勝てんの?」

 

「分かんねえ。こいつだってジャジャ馬だ。レヴェローズと似たようなもんだ」

 

「で?」

 

「──やるしかねえだろ」

 

 シラベはショーケースの鍵を取り出した。

 

 

 *

 

 

 キリメはスカジャンのポケットからスマホを引き抜くと、慣れた手つきで画面をフリックし始めた。検索ワードを幾つか叩き込み、タイムラインをスクロールしていく。

 

 十秒も経たずに、キリメは見つけ出した。

 

「あった。バズってるじゃん」

 

 画面をシラベに向ける。投稿には動画が添付されていた。六本木、高層ビルの正面玄関に続々と吸い込まれていく暗い色のローブの群れ。撮影者は通行人らしく、手ブレの激しい映像の中で「やばいやばい何これコスプレ?」というテロップが踊っている。

 

 ビルの外壁に刻まれたロゴが、動画の一瞬だけ映り込んでいた。

 

 デヴァローカコーポレーション。ヒナタの会社だ。

 

「六本木か」

 

 シラベの頭がようやく回転し始めた。止まっていた歯車に無理やり油を差し込むようなぎこちない回転だったが、それでも回っている。

 

 六本木の高層ビルにミトラが連れ込まれているとする。正面から二人で(シラベは既にキリメを巻き込むつもりだった)突っ込んでも効果は薄いだろう。もしかすると、あのローブの集団がビル全部に詰まっているかもしれない。

 

 必要なのは突破力だ。理屈も交渉も通じない相手をこじ開ける、圧倒的な物理的突破力。

 

 シラベの視線がカウンターの裏に向いた。散乱した書類の中に、見覚えのあるスマートフォンが転がっている。カルメリエルのものだ。作業中に置いていたのがそのまま残されている。

 

 拾い上げた。画面は割れていない。ロック画面にはミトラの寝顔の写真が設定されている。

 

 シラベはパスコードを知っていた。チラリと見た時に、ミトラの誕生日である0402だということが印象に残っていた。

 

 ロックが解除され、シラベはメッセージアプリを開いた。あるはずだという確信があった。

 

『カルメリエル十字軍(クルセイダーズ)』。メンバー数、七十二名。

 

 ボトムレスピットの常連客の中で、カルメリエルに心酔している者たちの集まりだ。カルメリエルが微笑みながら何かしらを囁いて少しずつ増やしていった信者たちのネットワーク。情報収集から荷物運びまで、カルメリエルの一声で馳せ参じる私設軍団。

 

 シラベはその存在をおぞましいと思いつつも、今日この瞬間だけはあの聖女の計らいに感謝した。

 

 メッセージを打つ。

 

『緊急招集 座標添付 カルメリエルの危機 至急参集願う 詳細は現地で』

 

 ミトラの実家の住所を添付して送信する。既読の数字が猛烈な勢いで増えていく。十、二十、三十。返信が雪崩のように流れ込んできた。

 

『何があったんですか』

『カルメリエルさんは?』

『向かいます!』

『仕事中ですが抜けます!!』

 

 盲目的な動員力に薄ら寒いものを感じつつ、シラベはスマホをポケットに突っ込んだ。

 

「キリメ」

 

「なに」

 

「付き合え」

 

「どこに」

 

「デヴァローカのビル。殴り込むぞ」

 

 キリメは呆気に取られた顔をした。だがすぐに口元が獰猛に釣り上がる。

 

「そうこなくっちゃ」

 

 

 *

 

 

 シラベがミトラの実家に着いた時、すでに十数人の人影が集まっていた。

 

 仕事帰りのスーツ姿、部屋着にダウンジャケットを羽織っただけの者、ジャージ姿で駆けつけた者。服装はばらばらだったが、全員の目に宿っている光は同じだった。カルメリエルのために呼ばれたのだからカルメリエルのために動く。狂信的ですらある結束力。

 

 シラベは軋む引き戸を開け、十字軍を土間に引き入れた。

 

 そこには、あの忌々しい鉄塊が鎮座していた。

 

 分解された状態で壁際に立て掛けられたフルメタル神輿。カルメリエルと愉快な仲間たちが建造し、秋祭りで街を蹂躙しかけたものの、紆余曲折を経てここに安置されることになった異形の構造物。担ぎ棒は外され、装甲パネルは番号が振られた状態で積み上げられている。

 

 シラベは十字軍の前に立った。

 

「説明する時間がない。簡潔に言う。カルメリエルが攫われた。取り返しに行く。その為にこいつが必要だ」

 

 全員の表情が変わった。スーツの男が上着を脱ぎ捨て、ジャージの男が腕まくりをする。

 

「これを組み立てろ。一回やってるから分かるな? 設計図はここにある。担ぎ棒は奥の部屋だ。三十分で完成させろ」

 

 十字軍が動く。カルメリエルに鍛えられた統率力は伊達ではなかった。指示を出す前から役割分担が自然発生し、装甲パネルを運ぶ者、担ぎ棒を通す者、ボルトを締める者が流れ作業のように連携していく。

 

 シラベはその間に二階へ上がった。古い木の階段を駆け上がり、かつて棚卸しで整理したのとは別の段ボールの探す。

 

 目当てのものはすぐに見つかった。レヴェローズの軍服だ。

 

 安物の服を着るようになって以降、あのポンコツがしまいこんでいた一張羅。店にあっても邪魔なのでここに放り込んでいた。

 

 シラベが探しているのは軍服そのものではない。それと共に装着されていた装飾品だ。

 

 軍服を広げていくと、六角形の結晶体が姿を現す

 

 伝結晶。ドゥブランコ帝国の根幹技術。情報の記録と伝達を司る結晶体。カルメリエルが猫耳を生成した時にも言及していた、精霊の世界の技術の結晶。神秘なるものを持ち得ないシラベにとって貴重な理外の存在で、フルメタル神輿を起動するために必要な代物だ。

 

 結晶を軍服から外し、握りしめる。硬質な感触の奥に、微かな熱を感じた気がした。

 

 シラベが一階に戻ると、フルメタル神輿はほぼ完成していた。

 

 異形の構造物が家の前にそびえている。金属製の装甲パネルが組み合わさり、担ぎ棒が四方に伸びている。相変わらず祭り用の神輿というよりは移動要塞だ。

 

 シラベは完成した神輿の中央に登り、構造の核となる部分を開いて中心に伝結晶を押し込んだ。

 

 低い音と振動が起こる。結晶が金属のフレームと接触した瞬間、細い光の筋がフレームに沿って走り、装甲パネルの継ぎ目を縫うようにして神輿全体に広がっていく。

 

 十字軍の面々が息を呑んだ。

 

 神輿の表面を走る光の脈動は、伝結晶の力がフレームを通じて構造全体に行き渡っていることを示していた。カルメリエル謹製の狂気の製作は、今ここに完成していた。

 

「担げ!」

 

 シラベが叫ぶと、十字軍が担ぎ棒に取りついた。十数人の手が鉄管を握り締め、膝を曲げ、腰を落とす。

 

「持ち上げろ!」

 

 掛け声と共に、フルメタル神輿が宙に浮いた。

 

 本来なら成人男性が十数人がかりでも悲鳴を上げるはずの重量が、伝結晶の力によって大幅に軽減されていた。それどころか担ぎ手たちには未知なる力が注ぎ込まれ、その足取りは異様に軽く、走ることすら可能な機動性を神輿は得ていた。

 

「乗れ、キリメ」

 

「はぁ!?」

 

「乗れって言ってんだ! 六本木まで行くぞ」

 

 キリメは口をぱくぱくさせていたが、シラベの目を見て言葉を飲み込んだ。そのまま担ぎ手たちを足場にして駆け上がり、神輿の上に登った。

 

 シラベはすでに天蓋の横に腰を下ろしていた。右手にはレディ・ローマのカード。左手はフレームを掴んでいる。

 

「出せ! 行き先は六本木! デヴァローカコーポレーション本社ビル!」

 

 十字軍が一斉に叫び、フルメタル神輿は古民家前から疾走し始めた。伝結晶の脈動に呼応するかのように、担ぎ手たちの足は人間の限界を超えた速度で路面を蹴っていく。

 

 商店街を突き抜け、大通りに出る。信号など知ったことではない。異形の神輿を担いだ集団が冬の東京を疾走していく光景は、目撃した通行人にとっては白昼夢以外の何物でもなかっただろう。

 

 神輿の上で、シラベはレディ・ローマのカードを伝結晶に近づけた。

 

 ここに施された封印をどう解けばいいかなどシラベは知らない。レーラズ・フィールドの原理も、精霊をカードから解放する手順も、シラベの知識にはない。

 

 だが、伝結晶がある。精霊の世界の技術の結晶体。理屈の外にある存在には、理屈の外にあるもので対抗するしかない。

 

 カードの縁が伝結晶の表面に触れる。何かが起これ、なんとかなれと祈ったシラベに呼応するように、それは火花が散った。紫電が伝結晶から迸り、カードの表面を舐めるように走った。

 

 精霊の宿るカードは傷付かない。それはシラベがこの一年で学んだ数少ない確実な知識の一つだった。レヴェローズのカードは何度床に落としてもスリーブを替え忘れても、一切の傷を受け付けなかった。

 

 だが。レディ・ローマのカードの縁が、微かに焦げた。

 

 カードの表面に小さな焦げ痕が浮かぶ。それは封印の綻びになったのだろうか。理屈の外の力が、理屈の外の封印を無理やりこじ開けていく。

 

「──きゃあっ!」

 

 甲高い悲鳴が、カードの中から弾け出た。閃光と共に、シラベにとって懐かしい姿が現れる。

 

 豪奢な衣装と翼。気位の高い目元。唇に引かれた深紅のルージュ。

 

 賭博都市の女帝、レディ・ローマその人だ。彼女は目を白黒させながら周囲を見回していた。走る神輿。叫ぶ十字軍。冬の東京の街並みが猛烈な速度で流れていく。

 

「なっ……なんですの、これは! ここはどこ!? なぜ私はこんなものの上に!?」

 

「説明してる暇はない」

 

 シラベはレディ・ローマをまっすぐに見た。

 

「頼む。お前の力を貸してくれ」

 

 レディ・ローマの動きが止まった。揺らめく像の中で、彼女の瞳がシラベの顔を認識する。記憶が繋がったのだろう。見開かれた目が、ゆっくりと細められた。

 

「あら。貴方は──私を使い、私を放り、私を刑死させた人」

 

「ああ。そうだ」

 

 シラベの視線はブレない。レディはそれを数秒受け止めた後に鼻を鳴らして顔を少し背ける。

 

「私の力がどうしても必要だと?」

 

「どうしても必要だ」

 

「ふぅん? どーしても?」

 

 レディ・ローマの声に、甘い響きが混じり始めた。封印から解放された直後の混乱が退き、代わりに精霊としての矜持と、それ以上にこの状況を楽しもうとする気配が滲んでくる。

 

 シラベは歯を食い縛った。頭を下げるのが好きな人間ではない。だが今は、プライドを秤にかけている場合ではない。

 

「頼む」

 

「もう一回言ってちょうだい」

 

「……頼む」

 

「もっとこう、心を込めて」

 

「どうか、お願いします」

 

 レディ・ローマの唇が、満足げに弧を描いた。レヴェローズと似た匂いをシラベは感じていた

 

「まぁ──そこまで言うなら。私の力がどぉしてもどぉーしても必要だと言うのなら。手伝ってあげないことはなくてよ」

 

 彼女の手に握られた銃が、シラベの顔の前にひらひらと振られた。まるで扇子で煽ぐような気取った動きだ。

 

「ただし。これは貸しですからね。きっちり利息をつけてお返しいただきますわよ」

 

「分かった。何でもいい。力を貸せ」

 

「あら、何でもだなんて。女帝に白紙の手形を献上するとは気前がいいわね」

 

 レディ・ローマはくすくすと笑いながら体を宙に漂わせ、シラベの隣に固定されたように浮遊を止めた。

 

「で。何をすればいいの」

 

「仲間が攫われた。取り返しに行く。相手は精霊をカードに封じる力を持ってるが、戦うには多分お前の力がいる」

 

「面白そうじゃない。久しぶりに暴れられるのかしら」

 

 シラベの横で、キリメが引きつった顔をしていた。

 

 彼女の目には、シラベが虚空に向かって頭を下げ、誰もいない空間と会話し、何かに懇願している姿しか映っていないのだ。

 

 こいつ大丈夫かな、という気持ちがキリメの顔に如実に表れていた。叩いて立ち直らせた甲斐があったのか、それとも叩いた衝撃で何か別のものが壊れたのか。判断に迷う光景だった。

 

 だがキリメは何も言わなかった。シラベの目が正気であることだけは確認できた。何が見えているかは分からない。だが少なくとも、この男は腐るのをやめて前に進んでいる。

 

 それだけで今は十分だった。

 

 フルメタル神輿は冬の東京を駆け抜けていく。伝結晶の脈動に後押しされた十字軍の足は衰えを知らず、六本木の高層ビル群が前方に迫り始めていた。

 

 

 *

 

 

 デヴァローカコーポレーション本社ビルの正面エントランス。その周囲を、ローブの集団が取り囲んでいた。正確な数など数えている余裕はない。フードの下から覗く無数の目がこちらを向き、一瞬だけ動きが止まる。

 

 シラベは神輿から身を乗り出し、叫んだ。

 

「止まるな! 突っ込め!」

 

「嘘ぉ!?」

 

 キリメの悲鳴は遠く置いて行かれる。十字軍は止まらなかった。伝結晶の脈動に突き動かされた足は、躊躇よりも信仰が勝っていた。カルメリエルのために走れと言われた人間たちに、ローブの壁は障害にならなかった。

 

 フルメタル神輿が吶喊する。金属の装甲がローブの人垣を轢き潰すようにして押し開いていく。弾き飛ばされたローブたちが左右に散り、悲鳴とも怒号ともつかない声が上がった。だが十字軍は止まらない。伝結晶の光が脈打つたびに担ぎ手の力は増し、フルメタル神輿は暴走する戦車のような勢いでエントランスのガラス扉に激突した。

 

 意趣返しだ。シラベは思いつつ、キリメの腰を抱えながら衝撃に備える。ガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、次の瞬間には粉々に砕け散った。神輿ごとロビーに突入する。

 

 広大な吹き抜けのロビーは、異様な光景に支配されていた。

 

 大理石の床の上に、スーツ姿の男女が数十人、壁際に座らされていた。手を後ろに回され、結束バンドで手首を縛られている者もいる。デヴァローカの一般社員たちだ。その周囲をローブの者たちが見張るように立ち、入口の騒ぎに顔を向けていた。

 

 人質だ。シラベの胃の底が冷えた。精霊やカードの問題ではない。生身の人間が拘束されている。

 

 考えが一つ、シラベの頭を過ぎった。ヒナタも脅されているのではないか。

 

 あの女は狂人だが馬鹿ではない。自分の会社の社員を人質に取られれば、経営者として従わざるを得ない状況に追い込まれる。あのローブを着ていたのも、ミトラを抱えていたのも、本意ではなかったのかもしれない。

 

 だが今はそれを確かめている暇はない。

 

「十字軍! 社員さんたちを助けろ! ローブどもを引き剥がせ!」

 

 シラベの号令と同時に、十字軍がフルメタル神輿を投げ出して飛び掛かる。カルメリエルの信者たちは一人一人の士気が異常に高い。ローブを着た者たちへ体当たりで突っ込み、組み付き、引き倒していく。乱戦が始まった。

 

 ロビーの至る所でローブと十字軍が揉み合っている。だがシラベが懸念していたレーラズ・フィールドは展開されなかった。雑兵のローブたちには結界を張る能力がない。

 

 精霊をカードにする手段があったとしても、肉弾戦であれば十字軍に分がある。カルメリエルへの信仰で駆動する彼らの戦意は尋常ではなかった。

 

 シラベは神輿から離れ、混戦の隙間を縫って走った。キリメが隣を走っている。

 

 ロビーの奥で、一人のローブが他の者たちに指示を出しているのが見えた。身振りが大きく、声にも力がある。幹部格だ。

 

「あいつだ」

 

 シラベはレディ・ローマのカードを掲げた。

 

「レーラズ・フィールド展開」

 

 隣を行くレディ・ローマの声と重なり、女帝が嬉々とした表情で指を鳴らした。幹部とシラベが戦闘するための空間に引きずり込まれる。

 

 フィールド内でのデュエルは3ターンで終わった。ボトムレスピットに置いたままになっていたミトラの極悪デッキとシラベの豪運が組み合わさり、幹部のローブは為す術もなくライフを削り切られる。

 

 レーラズ・フィールドが崩壊した後、膝をついた相手の襟首を掴み上げ、シラベは低い声で問うた。

 

「ミトラはどこだ」

 

 フィールドのアンティ効果で、相手は嘘偽り無く情報を吐かざるを得ない。忌々しげに顔を歪めながらも声が搾り出された。

 

「……最上階だ。屋上への階段室」

 

「エレベーターは」

 

「封鎖してある。使えない」

 

 シラベは舌打ちを一つしたあと、男をゴミ箱に蹴り飛ばして走り出した。エレベーターホールの横にある非常階段の扉を蹴り開ける。

 

 コンクリートの壁に囲まれた狭い階段室が、上方へと螺旋を描いていた。

 

 デヴァローカコーポレーション本社ビル。以前ミトラと訪問した時、エレベーターの階数表示が二桁を超えたのを覚えている。最上階まで階段で上がるのは正気の沙汰ではないが、他に手段がない。

 

 シラベが駆け上がり始めた直後、背後からキリメの足音が追いかけてきた。

 

「へばるなよ」

 

「誰に言ってんだよおっさん」

 

「俺はまだ25だぞ」

 

「兄貴と一緒じゃん。おっさんだよ」

 

 キリメの右手には、フルメタル神輿から引き抜いてきた鉄管が握られていた。長さは一メートルほど。太さは握り拳がちょうど収まるくらい。武器と呼ぶには十分だった。

 

 五階、六階、七階。息が切れ始める。コンクリートの壁が単調に続き、足音だけが階段室に反響する。

 

 十階を過ぎたあたりで、下からの足音が増えてくる。一階からと、他の階からも。昇っているものがいると連絡があったのだろう。

 

 キリメが足を止めた。

 

「先行け。ここで一旦食い止める」

 

「馬鹿言え。相手は何人いるか分からねえんだぞ」

 

「だから止めんだろ。あんたが上で何すんのか知らないけど、後ろから追っかけてこられたらまずいんじゃねえの」

 

 シラベは言葉に詰まった。最上階でヒナタ、あるいはヒナタを脅したものと対峙する時に、背後から挟み撃ちにされるわけにはいかない。だがここに女子高生を一人残していくのは。

 

 キリメは鉄管を肩に担ぎ、心配するシラベを見上げた。

 

 笑っていた。目を細め、犬歯を覗かせた、獰猛な笑み。ボトムレスピットで猫を撫でている時の彼女とは別人のような、剥き出しの闘争本能がそこにあった。

 

「カードよりか、こっちのが上手いつもりだけどな」

 

 鉄管を振り下ろす素振り。コンクリートの壁に先端が触れ、硬い音が階段室に反響した。

 

 シラベは一瞬だけ目を閉じ、それから頷いた。

 

「頼んだ」

 

「頼まれた」

 

 そういうことになった。

 

 シラベは階段を駆け上がる。背後でキリメの怒声が走り、鉄管が風を切る音と、ローブの悲鳴が響いてきた。

 

 振り返らなかった。振り返る余裕はなかった。

 

 

 *

 

 

 シラベの足音が上方へ消えた後。キリメは階段の踊り場に仁王立ちしていた。

 

 鉄管を右手で構え、左手が拳を握る。呼吸は荒いが、足元は揺るがない。

 

 一人は鉄管の一振りで横腹を叩かれて壁にぶつかり静かになった。次の一人は脛を薙がれて階段に転がり、三人目は鉄管の柄頭で鳩尾を突かれて蹲った。

 

 キリメの喧嘩は自己流だったが、体格と気迫と容赦のなさで補っていた。恵まれた体格から振り下ろされる鉄管は、狭い階段室では回避が困難だ。ローブたちは一人ずつしか前に出られず、その一人をキリメが片端から叩き伏せていく。

 

 だが数の差は覆らなかった。

 

 七人目を倒した時、その倒した奴の影から伸びてきたキリメの腕を掴まれた。引き込まれる勢いに任せて肘を叩き込んだが、さらに二人が脚に組み付いてくる。鉄管が手から弾き飛ばされ、階段の下にからんからんと転がっていく。

 

 三人がかりで床に押し付けられた。スカジャンの袖を引っ張られ、腕を後ろに回される。キリメは足掻いたが、体重をかけられた肩が軋み、抵抗の余地が削られていく。

 

「離せ……っ、このっ……!」

 

 もがくが逃れられない。スカジャンのポケットに入れていたスマホが取り落とされる。首元のアクセサリーが引き千切られる。そしてジーンズの腰に差していたデッキケースが、ローブの手で乱暴に外された。

 

 デッキケースが床に落ちた。留め金が外れ、スリーブに包まれたカードが散らばる。

 

 後頭部を床に押し付けられた圧迫感と、肺から絞り出される空気の薄さ。意識が遠のいていく。視界の端が暗くなり始める。

 

(くそ。こんなところで。まだシラベが上にいるのに……)

 

 キリメの意識が、暗闇に沈みかけたその瞬間。床に散らばったカードの一枚が、赤く光った。

 

 薄暗い階段室を、深紅の光が塗り潰す。

 

 ローブたちの手がキリメの体から離れた。眩い光に目を灼かれ、腕で顔を庇いながら後退する。

 

 光はキリメの体に流れ込んでいた。散らばったカードの中の一枚──赤黒い色彩で描かれたイラストのカードから、赤い光の帯がキリメの胸元へと伸び、吸い込まれていく。

 

 キリメが遠い昔、兄から貰ったあのカード。それはデッキに入ったまま、肌身離さず持ち歩いていた。

 

 キリメの体がゆっくりと起き上がった。

 

 キリメ自身の意志は無い。糸で吊り上げられるように、関節が順番に伸び、膝が立ち、背筋が伸びる。

 

 眼が開いた。だがその瞳の色が違っていた。人としての虹彩に代わり、灼熱の赤が虹彩を染め上げている。

 

 キリメの口が開いた。だがそこから零れた声は、キリメのものではなかった。

 

 低く、熱く、獣の唸りを人語に翻訳したような声。

 

「──多対一か。悪くない場だ」

 

 ローブたちが身構えた。目の前の女子高生の纏う空気が、一瞬で変質したことを本能が警告している。

 

 キリメの口元が歪んだ。

 

「だがこの程度で落ちるとは、まだ弱いな我が主よ。少しばかり教育してやる」

 

 両手がキリメの胸の前で組まれた。指と指が複雑に絡み合い、印を形成する。

 

「──レーラズ・フィールド展開」

 

 空間が軋んだ。

 

 階段室のコンクリートの壁が、天井が、手すりが、その存在を失っていく。血色の光が全てを飲み込み、キリメの体を中心にして氾濫するように異界が広がっていく。

 

 踊り場にいたローブのみならず、階下の者たちすらもが、滴り落ちるその領域の圏内にいる事を思い知らされた。

 

 赤い瞳が、閉じ込められた獲物たちを見回す。

 

 キリメの唇が嗤い、戦乙女の声が鳴る。

 

「物足りんが、前菜代わりだ。喰らってやろう」

 

 

 *

 

 

 何階上がっただろうか。シラベの息は完全に上がっていた。太腿が鉛のように重く、肺が焼けるように痛む。非常階段の段差が、蛍光灯の無機質な光の中で同じ景色を延々と繰り返している。

 

 だが足は止まらなかった。止める理由がなかった。

 

 二十階の踊り場で、ローブの一団と遭遇した。シラベはレディ・ローマの力でレーラズ・フィールドを展開し、一人ずつ叩き潰した。場に出ればレディのスペックは圧倒的で、雑兵のデッキでは即時行動と飛翔の組み合わせだけで盤面が崩壊する。

 

 その三人目を倒した時、ローブの懐から見覚えのある二枚のカードがこぼれ落ちた。

 

 シラベは膝をつきながらそれを拾い上げる。『伝結晶聖女(クリスタライズ・セインテス)カルメリエル・ドゥブランコ』と『全てを喰らう大穴』。

 

 シラベの指が二枚のカードを包み込む。紙の下に、微かな温もりがある気がした。封印を解く方法は分からない。伝結晶はフルメタル神輿に残してきた。今更戻れない。だが今は、この二枚を持っているだけでいい。

 

 シラベは二枚のカードをデッキケースに仕舞い込み、再び階段を駆け上がった。

 

 二十五階。三十階。三十五階。足が攣りかけた。膝が笑っている。だが止まらない。

 

 四十階を過ぎたあたりで、階段が終わった。

 

 最上階。屋上への階段室に繋がるフロア。

 

 非常扉を押し開けると、広いフロアが広がっていた。最上階は下層のオフィスフロアとはどこか空気が違う。カーペットが敷かれ、壁には絵画が掛けられ、天井は高い。

 

 その廊下の突き当たり、屋上へ続く階段室の前に、一人の人影が立っていた。暗い色のローブに似合わないアッシュグレーの髪。

 

 亜修利ヒナタが、シラベを待ち構えていた。

 

 シラベは肩で息をしながら、廊下を歩く。走る余力は残っていなかった。一歩一歩、カーペットを踏みしめて、ヒナタの前まで辿り着く。

 

 数メートルの距離を取り、対峙する二人。ヒナタの目はボトムレスピットで最後に見た時と同じだった。空洞のような瞳。だがその奥に、あの時よりも深い陰が落ちている。

 

「ここまで来たか」

 

 ヒナタの声は静かだった。

 

「ここに来て、君に何ができる」

 

 問いかけだった。挑発ではない。試すような響きもない。ただ純粋に、答えを求めている声。

 

 シラベは呼吸を整えた。汗が顎先から滴り落ち、カーペットに染みを作る。

 

「ミトラを助ける」

 

 それだけだった。言い訳も理屈もない。修飾語のない、むき出しの宣言。

 

 ヒナタの瞳が揺れた。

 

 空洞の奥で、何かが灯った。微かな光。それが何という名前の感情なのか、シラベには分からない。どうでもいい。

 

 ヒナタの唇が、ゆっくりと弧を描いた。

 

 笑っていた。

 

 芝居がかった王子様の笑みでもなく、経営者の計算された微笑みでもなく、ストーカーの陶酔でもない。ただ一人の人間として、目の前の男を認めたような、静かな笑み。

 

 ヒナタは一歩、横に退いた。

 

 屋上への階段室に続く扉への道が、開かれた。

 

「私は、一度でも屈してしまった」

 

 ヒナタの声が、廊下の静寂に落ちた。

 

「社員たちを人質にされた時、私は刃向かえなかった。そうするしかなかった。だが、ミトラの前ではそんな言い訳は通用しない。あの子は、どんな理由があろうと膝を折った人間を許さないだろう」

 

 その声には、シラベが初めて聞く響きがあった。後悔だ。亜修利ヒナタという完璧に近い女が、初めて見せた後悔の色。

 

「私では合わせる顔がない」

 

 ヒナタはシラベの目を見た。

 

「ミトラのことは、頼んだよ」

 

 シラベは黙って頷いた。それからデッキケースを開き、二枚のカードを抜き出した。

 

『全てを喰らう大穴』と、『賭博都市の女帝レディ・ローマ』。

 

 ヒナタに差し出す。

 

「……これは」

 

 ヒナタの目が見開かれた。差し出されたカードと、シラベの顔を交互に見つめる。

 

「元々の相棒だろ」

 

 シラベの声は平坦だった。特にレディは活動できる精霊としてまだ必要かもしれない。だが、それ以上にヒナタの手にこのカードがあるべきだと思った。

 

 その一言で、ヒナタの表情が崩れた。

 

 完璧な仮面が罅割れ、唇が震え、目尻が潤み、それを必死に堪えるように顎を引いた。

 

 ヒナタの手が伸び、二枚のカードを受け取る。指先が触れた瞬間、レディ・ローマのカードから微かな光が瞬いた。精霊が元の主を認識したのかもしれない。

 

「……ありがとう」

 

 小さな声だった。いつもの芝居がかった響きが完全に消え去った、素のヒナタの声。

 

 シラベは踵を返し、屋上への扉に手をかけた。

 

「シラベ君」

 

 ヒナタが呼び止めた。振り返ると、ヒナタはローブの襟に手をかけていた。

 

「出来るだけ時間を稼ぐよ。下から追っ手が来ているだろうからね」

 

 ローブを、脱ぎ捨てた。

 

 暗い色の布地が床に落ちる。その下から現れた姿に、シラベは目を瞬いた。

 

 白と黒のツートンカラーで彩られた、露出度の高いハイレグ装束。網タイツに包まれた長い脚と、くびれたウエストが惜しげもなく晒されている。

 

 それはバニースーツだった。一瞬の内にうさ耳のカチューシャすら付ける余裕すら見せている。 

 

「……なんでそれをローブの下に着てんだよ」

 

「戦闘服だよ。これを着ている時の私は強い」

 

 

 

 覚悟の表れだよ、とヒナタは莞爾として笑った。あの狂乱のを思い出させるような、だがあの時よりもずっと覚悟を決めた笑み。でも俺に負けたじゃん、とシラベは言わなかった。

 

 階段の下から、複数の足音が響き始めていた。ローブの追っ手たちが最上階へ上がってきている。

 

 ヒナタはレディ・ローマのカードを右手に、大穴のカードを左手に構えた。

 

 最初の追っ手が廊下に姿を現した瞬間、ヒナタの声が響いた。

 

「レーラズ・フィールド展開」

 

 黒白の賭博場が廊下を塗り潰し、追っ手のローブ三人がまとめてフィールドに引きずり込まれた。レディ・ローマがヒナタの背後に浮かび上がり、くすくすと笑っている。

 

 0ターン目に盤面に置かれたのは、一枚の呪法カードだった。

 

「手札より『九脊界・戦乱葦野(ユグド・ミズガルズ)』を設置」

 


九脊界・戦乱葦野(ユグド・ミズガルズ)

 コスト:〈2〉〈闇〉〈闇〉

 タイプ:呪法

九脊界・戦乱葦野(ユグド・ミズガルズ)があなたのゲーム開始時の手札にあるなら、これがフィールドに出ている状態でゲームを開始してもよい。

・カードがいずれかから対戦相手の墓地に置かれるなら、代わりにそれを追放する。


 

 かつてヒナタを底知れぬ絶望へと追いやったカードが、いま一度彼女によって展開される。

 

 シラベは兆しを感じた。『九脊界・戦乱葦野(ユグド・ミズガルズ)』は二戦目以降の墓地対策カードとして優秀だ。だが今のヒナタのように、メインから搭載される場合もなくはない。

 

 そしてそういう使い方をされる場合、往々にしてろくでもない。

 

 ヒナタの初手が始まる。惜しげもなく投入された高額なルーン基盤が、たちまち彼女の切り札を君臨出せた。

 

「機械カード、『大穴への廃棄孔』。終わりだ」

 


『大穴への廃棄孔』

 コスト:〈4〉

 タイプ:機械

・〈X〉,〈T〉:対戦相手1人を対象とする。そのプレイヤーは、カードを1枚切削する。その後、これにより墓地にカードがX枚置かれるかするまで、この過程を繰り返す。


 

 起動した瞬間、指定した回数分だけデッキの上からカードが一枚ずつ墓地へいくだけの単純なカード。しかし今この場では、『九脊界・戦乱葦野(ユグド・ミズガルズ)』の効果により除外領域へと落ちていく。

 

 ヒナタが提示した1マナ分だけカードが墓地に置かれるまでデッキを送り続ける効果だが、墓地に行く前に全て除外されるため、そのたった一枚のカードが墓地に到達することは永遠にない。

 

 レーラズ・フィールドはその動作を狂いなく実行していき、しめやかに相手のデッキが消滅する。

 

 対戦相手のデッキが、引くカードがなくなった瞬間に敗北が確定する。デッキ破壊による特殊勝利。

 

 ローブの一人目が何も出来ないまま敗北した。フィールドが崩壊し、膝をつく相手を一瞥もせず、ヒナタは次の追っ手に向き直る。

 

「次」

 

 再びレーラズ・フィールドが展開される。同じコンボが起動し、同じ結末が訪れる。バニースーツが結界の燐光に艶めかしく輝き、カードを叩きつけるたびにウサギの耳飾りが揺れる。その姿は荒唐無稽を通り越してもはや一種の風格すら漂わせていた。

 

「ちょっと。私の活躍も残しておきなさい」

 

 レディ・ローマがヒナタの肩に寄りかかる。ヒナタはその仕草に微笑みつつも、淀みなくカードを操作していく。

 

 シラベはその光景を背に、階段室への扉を開けた。

 

 

 *

 

 

 都心の夜景が眼下に広がっている。電波塔の赤い光、ビル群の窓から漏れる無数の灯り。だがシラベの目にそれらは映らなかった。

 

 屋上の中央に、それはあった。

 

 祭壇。コンクリートの床の上に誂えられた、石造りの台座。表面には直線を組み合わせた文字のような装飾が刻まれ、台座の四隅には淡い光を放つ結晶体が据えられていた。

 

 その上に、ミトラが横たえられていた。

 

 黒いパーカー姿のまま、目を閉じ、両手を胸の上で組んだ姿勢。小さな体は祭壇の上であまりにも頼りなく、冬風に黒髪がさらさらと揺れるさまは、眠っているのか、それとも──。

 

「ミトラ!」

 

 シラベが駆け出そうとした足を、声が止めた。

 

「止まって」

 

 祭壇の傍らに、仮面のローブの女が立っていた。ボトムレスピットでシラベを完封した、あの女。白い仮面の奥から覗いていた瞳が、夜景の光を受けて冷たく光っている。

 

「またお前か」

 

「また私。しつこいのね、あなたも」

 

 女の手が仮面にかかった。白い磁器のような仮面が、ゆっくりと外されていく。

 

 金色の髪。紫の瞳。高い鼻梁と、気位の強そうな唇。それはどこかレヴェローズに似ていた。

 

 瓜二つではない。年齢を重ねた、あるいはより完成された造形。レヴェローズの面影を残しながら、そこには冷徹さと威厳が宿っている。

 

 人間離れした美貌は、おそらくこれ自体が精霊なのだとシラベに思い知らせてくる。だがシラベが知る限り、レヴェローズと似た生命体カードなど存在しない。

 

「お前は……」

 

「じきに、この世界は九脊界と繋がる」

 

 シラベの疑問を遮るように、女の声は屋上に響いた。宣告でも予言でもなく、ただ確定した事象を読み上げるような口調。

 

 女は祭壇の縁に指を滑らせ、刻まれた紋様をなぞった。その指先が触れるたびに、紋様が淡く発光する。

 

「精霊が現れていたのは、その兆し。かの世界との境界が薄くなっている証拠よ。レヴェローズとカルメリエル、彼女たちは過去からの参加者ゆえにカードに描かれた存在が肉体を得て、この世界に顕現した。ここが九脊界へ連なるものになるのは時間の問題」

 

「何が言いたい」

 

「ミトラ、ヒナタ。精霊と縁を持ったプレイヤーたち。彼女たちもまた、変わる定めにある」

 

 女は祭壇の上のミトラを見下ろした。

 

「この世界のエインヘリヤル・クロニクルには七つのカードタイプが存在する。生命体、機械、呪法、戦術、戦略、ルーン。そして近い将来、八つ目のタイプが加わることになる」

 

 紫の瞳がシラベに向けられた。

 

「渡界者」

 

 空気を裂くように吐かれる言葉。シラベに馴染みは無い。だが覚えていた。目の前の女が使っていたカードはそう呼ばれていた。

 

「精霊と共にある者が、九脊界との接続に伴いカードとしての属性を獲得する。私のように。戦場となるこの世で英雄となり、歴史として刻まれる。次の世界でそうあれと形作られるために」

 

 女は両手を広げた。ローブの裾が翻り、その下から鎧のような装束が覗く。

 

「この無垢な世界で私は今度こそ軍勢を作る。この退屈な輪廻を止めるための、圧倒的な力が要る。その為に、強力な渡界者となるこの子の力が必要」

 

 祭壇の紋様が一斉に輝きを増した。ミトラの体を包むように光が立ち昇り、彼女の輪郭が淡く発光し始める。

 

 女はシラベを指差す。

 

「あなたも、渡界者となる。でも弱い。その希少性に見合わない。後の世界に存在しても、あなたは不要の烙印を押される」

 

 その紫の瞳で見てきたかのように、女は語る。

 

「私が彼女を使って九脊界を押し返し、その繋がりを断てば、あなたも組み込まれずに済む。この世界で終わることが出来る」

 

 だから、立ち去れと。全て説明を終えたかのように、女は黙り込む。

 

「……はぁ」

 

 シラベの乱れていた息は整っていた。

 

「何言ってるか分かんねえ。説明下手過ぎるだろ。そのツラしてる奴は総じてポンコツなのか?」

 

 蹴っ飛ばすようなシラベの言葉に、女は不機嫌そうに眉根を寄せる。

 

 疲労していた膝が、中途半端な休憩のせいで震え始めていた。恐れのせいではない、とシラベは信じる。

 

 デッキケースから、最後の精霊のカードを手に取る。

 

伝結晶聖女(クリスタライズ・セインテス)カルメリエル・ドゥブランコ』。

 

 シラベはそのカードを額の前に掲げた。言葉にならない想いを、カードの中に眠る精霊に向けて注ぎ込む。

 

 この姿になっていて通じるものがあるのか、シラベには分からない。だが祈るしかない。今の自分に打ち負かす相手に強制を施すには、精霊の力が必要だった。

 

 はたして願いは届いたのか。カードが熱を帯びる。声は無い。だが確かにそこにいるカルメリエルの気配が、シラベの指先を通じて伝わってくる。いつもの微笑み。いつもの底知れなさ。そして、いつもは見せない、確かな温かさ。

 

 カードから光が溢れた。

 

「──レーラズ・フィールド展開」

 

 シラベの声は静かだった。

 

 屋上の夜景が消えた。空も、ビル群も、ミトラを乗せた祭壇も。全てが色のない光に塗り潰され、シラベと女だけが取り残される。

 

 女の紫の瞳が見開かれた。

 

「封印されたカードでフィールドを──」

 

「うるせえ。やるぞ」

 

 シラベはデッキを構えた。

 

 ◇

 

 フィールドが崩壊した時、シラベは倒れなかった。

 

 立っていた。膝は笑い、視界は霞み、全身の筋肉が悲鳴を上げていたが、立っていた。

 

 女は、消えていた。ローブだけが、屋上のコンクリートの上に脱ぎ捨てられたように残されている。

 

 祭壇の光は消え、ミトラは屋上の床の上に横たわっていた。

 

 シラベは崩れるように駆け寄り、ミトラの体を抱き起こした。

 

「ミトラ。おい、ミトラ」

 

 小さな体は冷えていた。屋上で風に晒され続けた肌は氷のように冷たい。だが呼吸はある。胸が微かに上下している。

 

「……うる、さい」

 

 掠れた声。死んだ魚のような目が、うっすらと開いた。

 

「寝てたのに……起こすな、馬鹿……」

 

 強がるような、いつもの声。気怠げで、不機嫌で、愛想のかけらもない。いつもの、ミトラの声。

 

 シラベの腕に力が入る。冷え切った小さな体を、強く抱き締めた。

 

 ミトラは抵抗しなかった。口では文句を言いながら、体は離れようとしない。

 

 二人の顔が近づいた。ミトラが見上げ、シラベが見下ろす。死んだ魚の目と、疲弊しきった目が交差する──

 

 

 』

 

 ◇

 

 

 夜。ボトムレスピット二階、ミトラの部屋。

 

 布団の上にはコピー用紙の束が散乱し、部屋の隅では簀巻きにされたカルメリエルが芋虫のようにもぞもぞと身じろぎしていた。シスター服ごと毛布でぐるぐる巻きにされ、両腕も両足も封じられている。唯一自由な顔面だけが、茹で蛸のような赤さで天井を向いていた。

 

 その簀巻きの上に、ミトラが座っていた。座布団代わりである。

 

「にゃあ」

 

 大穴が簀巻きの端に丸くなり、冬毛を膨らませて目を細めている。温かいクッションくらいにしか思っていない。

 

「あ、次のページはこれだな。ほら」

 

 レヴェローズがコピー用紙の一枚をミトラの前に突き出した。あぐらをかいた膝の上には、印刷された原稿が山のように積まれている。

 

「えーと。『シラベの額がミトラの額に触れた。近い。息がかかる。互いの呼吸が混じる距離。どちらが先だったのかは分からない。唇が重なった──』」

 

「やめてくださいまし……本当に……後生ですから……」

 

 簀巻きの中からカルメリエルのか細い悲鳴が上がった。身をよじるが毛布の拘束は完璧で、芋虫が暴れているようにしか見えない。

 

 事の発端は一時間ほど前。カルメリエルが帳簿作業に使っていたパソコンを、レヴェローズが触ったことにあった。犬の動画でも見ようとしたらしい。

 

 だが開いたブラウザはカルメリエルが直前まで開いていたページを記憶しており、とある小説投稿サイトのユーザーページが立ち上がった。

 

 いくつかあった執筆中小説の中から、レヴェローズは面白そうな匂いのするものをかぎ取る。冒頭に『午後三時のボトムレスピットに客はいなかった』と書かれたそれは、明らかに自分たちをモデルにした小説だった。

 

 ボトムレスピットが謎の集団に襲撃される。カルメリエルがミトラを庇い、大穴がカードに封じられ、ヒナタが裏切り、ミトラが攫われる。シラベがフルメタル神輿で六本木に殴り込み、最後はミトラを助け出してキスをする。

 

 レヴェローズは姉の知らなかった一面を面白がり、全文をコピー用紙に印刷してミトラの部屋に持ち込んだ。その後、呼ばれたカルメリエルがミトラの部屋のドアを開けた瞬間、原稿を手にしたミトラとレヴェローズの顔が出迎えた時の、あの聖女の顔面蒼白ぶりは筆舌に尽くしがたいものがあった。

 

『仕事中にサボって小説書いてた罰よ。レヴェローズ、巻きなさい』

 

『了解した店長』

 

 ミトラの命令は絶対であり、レヴェローズの実行力は無駄に高かった。

 

 そして現在に至る。

 

「しかし姉様、これはなかなか面白い脚本ではないか」

 

 レヴェローズは次のページをめくりながら、感心したように頷いた。

 

「私の出番が少ないのが大いに不満だし、途中でカードにされて退場するなどという扱いは断固として抗議するが、まあ最後に契約者が勝てたのは良かった。うん。良かった」

 

 小学生の読書感想文のような一言だった。

 

「私の顔に似ている悪役というのはどういう意図があるのだ? 他に設定資料集など書いているのではないか?」

 

「もう読まないでくださいお願いですから──」

 

「却下」

 

 ミトラが簀巻きの上で足をぶらぶらさせながら、別のページを手に取った。

 

「あんた、こういうこと考えてたんだ」

 

 ミトラの声には悪意のない笑いが含まれていた。いつもの死んだ魚のような目ではなく、心底面白がっている子供の目。三十五年間で何回出たか分からないほどレアな表情だった。

 

「私はっ、その、あくまでひとつの想定といいますか、可能性として」

 

「授業中に乗り込んでくるテロリストの妄想してる中学生みたい」

 

「ふむ。姉様は最終局面に契約者の相棒になれる展開を書きたかったのか、それとも店長を助ける役になりたかったのか、どっちなのだ? 契約者は私のだが、まぁ妾にというなら口を利いてやらんでも」

 

「やめなさいレヴェローズやめなさいお願いだから!」

 

 カルメリエルは簀巻きの中で全身をくねらせて悶えた。顔を両手で覆い隠すことすらできず、茹で上がった赤面が蛍光灯の下に晒されるしかなかった。糸目はきつく閉じられ、耳まで真っ赤に染まり、普段の慇懃無礼な微笑みの欠片もない。

 

「ミトラ様、お願いですからもう許してくださいまし……」

 

「まだ半分も読んでないんだけど。全部で何ページあるんだか」

 

「それは、帳簿の時間の合間にこつこつと──いえ! 何でもありません! サボっておりません!」

 

「サボってたじゃない」

 

「…………」

 

 カルメリエルは観念したのか、簀巻きの中で完全に動きを止めた。姉として威厳は地の底まで沈み、単なる置物として転がっていた。

 

 大穴が簀巻きの上でくるりと向きを変え、カルメリエルの赤い顔にぺたりと前足を乗せた。

 

「にゃあ」

 

 慰めているのか、自分の出番が少ないことについての抗議なのか、猫にしか分からない一鳴きだった。




※この話はエイプリルフールネタです。本編とは関係ありません※
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