カスレアクロニクル   作:すばみずる

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82 楽しみにしているよ、少年

 週末のボトムレスピットは、いつも通りの熱気と紙の匂いに満ちていた。

 

 デュエルスペースの長机には老若男女のプレイヤーたちがひしめき合い、そこかしこから「ドロー」「レスポンス」の声が飛び交っている。スイス式トーナメントの全五試合。この狭い空間がひと時の間は闘技場と化す、おなじみの光景だ。

 

「対戦ありがとうございました」

 

 亜修利ヒナタは対面のプレイヤーが投了のサインを出すのを確認し、静かにカードを手元に引き寄せた。

 

 五戦全勝。文句のつけようがない結果である。

 

 本来であれば、この勝利の歓喜を真っ先にぶつけたい相手がこの場にいるはずだった。ミトラ。あの気怠げで辛辣で、それでいてカードを捌く指先だけは誰よりも鋭い、愛しの店長。

 

 だが、彼女の姿は今日の店内のどこにもない。風邪だそうだ。昨日から喉が痛いとかなんとか言って二階に籠もっているらしい。

 

 ヒナタの脳裏には、毛布に包まって不機嫌な顔をしているであろうミトラの姿がありありと浮かぶ。普段の冷徹な態度の裏に隠れた、体調を崩した時だけ見せる無防備な弱さ。見舞いに押しかけたい衝動を堪えるのに、ヒナタは相当の精神力を消費していた。

 

 しかし、一方で好都合でもあった。ミトラが出場していない大会で全勝できたという事実は、愛の力の無い自分であっても勝てる証左と言える。彼女のいない場所でも勝ちきれる実力が身についているという確信を、ヒナタは盤面の片付けをしながら静かに噛み締めていた。

 

 カードゲームに愛なるものが影響するかどうかにおいて、ヒナタは一切目を向けていない。

 

「えー、本日の店舗大会、全勝優勝は亜修利ヒナタさんでした。おめっとさん」

 

 シラベの気怠げな声が店内に響く。肩に漆黒の毛玉を乗せた男は、片手に大会結果の集計用紙をひらひらとさせながら、もう片方の手で缶コーヒーを口に運んでいた。

 

「全勝者のデッキリストを記録するんで、ヒナタ、カードを並べてくれ」

 

「ああ、もちろんだとも」

 

 ヒナタはデッキから六十枚のカードを取り出し、テーブルの上に種類ごと整然と並べていった。ルーン、生命体、戦術、戦略、呪法。それぞれのカテゴリに分けて配置する手つきは、この店へ不法侵入する以前、ルールも知らなかった頃とは比較にならないほど手慣れたものになっていた。

 

 シラベがカウンターから出てきてスマートフォンを構える。画角を確認するように少し屈み、テーブル全体が収まる位置を探っている。ヒナタは並べ終えたカードの位置を微調整しながら、シラベの表情を窺った。

 

 シラベの目が、カードの配列をなぞるように動いている。彼は何も言わないが、その眼差しにはヒナタの構築を吟味している色が確かにある。

 

 ヒナタ自身、今日のデッキは奇をてらったものではないと自覚していた。メインの除去と打ち消しの配分、フィニッシャーの選定、コスト設計。いずれもシラベとの練習対戦を通じて磨き上げた、堅実な構築だ。派手なコンボや一発逆転の奇策はない。その代わり、どの対面にもそれなりの回答を用意できる、隙の少ない六十枚に仕上がっている。

 

「撮るぞ」

 

「どうぞ」

 

 シャッター音が二度鳴り、シラベはスマホの画面を確認する。

 

 もう一度、広げられたヒナタのデッキを見て、彼は小さく頷いた。

 

「悪くないな」

 

 独り言のように呟かれたその一言で、ヒナタは満足した。相応の苦労を掛けている相手が賛辞を述べるなら、それは喜ばしいことだろう。

 

「優勝賞品のパック、置いとくぞ」

 

 シラベはブースターパックの束をテーブルの端に置くと、さっさとカウンターの中へ引っ込んでいった。もこもこに膨らんでいる大穴が、シラベが動くのに合わせて尻尾を揺らす。

 

 ヒナタは並べたカードを丁寧に束ねつつ、ふと視線を感じて顔を上げた。

 

「ヒナタさん、すごいです。全勝なんて」

 

 テーブルの端から、真っ直ぐな目がヒナタを見上げていた。

 

 橋谷クモン。この店の常連である小学生だ。

 

 対戦結果の集計を見る限り、彼の今日の戦績は一勝四敗。決して良い成績ではないが、負けを引きずるような暗さは表情にはなかった。むしろ、ヒナタの勝利を心底からの純粋な賞賛として口にしている。

 

「ありがとう、クモン君。だが、私もまだまだ努力の途上だよ」

 

 ヒナタは社交辞令ではなく本心からそう答えた。

 

 全勝できたのは事実だが、今日の参加者にミトラは含まれていない。シラベも不参加だ。明確な格上がいない状態での全勝に、過度な自信を持つほどヒナタは蒙昧ではなかった。

 

「でも五戦全部勝つなんて、僕には全然できないです。ヒナタさんってカードを始めたのが最近だって聞いたけど、どうしてそんなに強くなれたんですか?」

 

 クモンの問いは率直だった。子供特有の遠慮のなさと、目上の人間への素朴な畏敬が綯い交ぜになった声。ヒナタはデッキケースの蓋を閉じながら、わずかに口元を緩めた。

 

「日々の研鑽に尽きるね。信頼できる友人と繰り返し対戦し、反省し、改善を重ねていく。カードの知識も大切だが、それ以上に実戦の中で得る経験というものは何物にも代えがたい」

 

 友人。その単語を口にした時、ヒナタの脳裏に浮かんだのは、カラオケボックスの薄暗い個室でレヴェローズの呪縛に蒼い顔をしながらもデッキを並べ続けていたシラベの姿だった。

 

 名前は出さなかった。あの怠惰な男を公の場で褒めちぎってやる義理はないし、何より彼自身がそういう扱いを嫌がるだろう。だが、ヒナタの急速な成長がシラベとの地道な練習対戦によって支えられているのは、ヒナタ自身が一番よく分かっていることだった。

 

 クモンは友人という言葉を咀嚼するように小さく頷いていた。

 

 だが、その表情が次第に変化していく。純粋な感心の色が薄れ、代わりに何かを決意するような、腹の底に力を入れた目つきへと移り変わっていった。

 

「ヒナタさん」

 

 クモンが姿勢を正した。背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃え、わずかに上気した頬でヒナタを真っ直ぐに見つめる。

 

「僕を、弟子にしてください」

 

 デュエルスペースの空気が一瞬だけ止まった気がした。

 

 周囲のプレイヤーたちは各々の片付けに忙しく、誰もこちらに注意を払っていない。カウンターの中ではシラベがノートパソコンに向かい、大穴は肩の上で微睡んでいる。

 

 静かな告白だった。声量こそ控えめだが、そこに込められた熱量はヒナタの肌を確かに灼いた。

 

「弟子、とは」

 

「ヒナタさんの練習相手になりたいんです。一緒にデッキを考えたり、対戦して教えてもらったり。日々の研鑽が大事なんですよね。僕も、ヒナタさんと一緒に経験を積んでいきたいです」

 

 言葉だけを切り取れば、カードゲーマーとしての師弟関係の申し出だ。先に言った理屈をなぞっているし、向上心の発露として健全ですらある。

 

 だが、ヒナタは察していた。クモンがこちらに向けている視線の質が、単なる尊敬や憧憬のそれとは異なるものが混ざっていることを。

 

 ボトムレスピットに通う中で、ヒナタはこの少年の遍歴を断片的に聞き知っている。金髪の店員に惹かれ、次にピンク髪のシスターの小間使いとなり、そして秋祭りの夜に自分が受け止めたあの瞬間から、矛先がこちらへ移った。

 

 要するに、この少年は年上の女性に対して極めて感化されやすい体質なのだ。それがカードゲームの上達欲と混線し、弟子入りという形に昇華されている。本人にその自覚があるかどうかは分からないが、ヒナタの目には一目瞭然だった。

 

 さて、困った。

 

 ヒナタは内心で溜め息をつきながら、クモンの真剣な眼差しを正面から受け止めていた。

 

 この手の好意はヒナタにとって珍しいものではなかった。端正な容姿と自らが選んだ男装という異質な出で立ちは、性別を問わず人の目を引く。オフィスで部下を動かしている時も、取引先との会食の席でも、自分に向けられる視線の種類を弁別する能力はとうに身につけている。

 

 だが相手が小学生となると話は別だった。好みの外縁をなぞってはいるが、それを好みの内側に入れてはいけないものだという理性はヒナタの中にもあるにはある。

 

 この少年を傷つけるつもりは毛頭ない。だが、ヒナタの心はミトラただ一人に捧げられており、それ以外の人間に対する恋愛感情のキャパシティは完全にゼロだ。たとえクモンが齢を重ね精悍な青年に成長したとしても、ヒナタの答えが変わることはないだろう。

 

 とはいえ、無碍に断れば角が立つ。この少年はボトムレスピットの常連客であり、ミトラの収入源の一因子と言える。下手に傷つけて常連が離れるような事態を招くのは、ヒナタ自身にとっても不利益だ。

 

 どうにか軟着陸させる方法はないものか。ヒナタの思考が高速で回転する中で、記憶の引き出しが一つ、開いた。

 

 先日、ボトムレスピット周辺の調査の最中で会ったクモンと、そこに連れ立っていた相手。

 

 兼定キリメ。あの気の強そうな少女だ。

 

 二人は幼馴染だと話していた覚えがある。並んで歩く姿はごく自然な距離感で、長い付き合いから来る遠慮のなさがそこにはあった。

 

 ヒナタの脳裏で、二つの情報が結びつく。

 

 クモンがヒナタの容姿に心を奪われるほど感受性が強いのならば、近くにいるキリメの魅力にも反応して然るべきだ。あの少女にはやや粗野な振る舞いが出ることがあるものの、年齢の割には恵まれている女性的な体型は隠しきれない。客観的に見れば十分に異性の目を惹く素材だ。

 

 だが、あの時のクモンにそういった反応は一切なかった。

 

 幼馴染。そこにこそ盲点がある。生まれた時から隣にいる存在は、あまりにも近すぎて輪郭がぼやける。空気のように当たり前にそこにある人間の魅力に気付くのは、多くの場合、何かの契機を経てからだ。

 

 であれば、クモンとキリメが何かを通じてより密接に関わるように仕向ければ、新しい角度からキリメを見る機会が生まれるのではないか。たとえば、そう。同じゲームなど最適ではないだろうか。

 

 対戦という行為は人間の素の部分を否応なく曝け出す。勝負所での表情、追い詰められた時の声、逆転した時の歓喜。そういった一つ一つが、幼馴染という慣れ親しんだ関係の中に新鮮な彩りを差し込んでくれるはずだ。

 

 我ながら名案だ。ヒナタは内心で自賛した。キリメ本人がこの場にいないのを良いことに勝手な方程式を頭の中で組み立てている自覚はあったが、それはそれ。最適な着地点を導き出すのは経営者の本能だった。

 

 ヒナタは一つ咳払いをしてから、期待に目を輝かせるクモンへと向き直った。

 

「クモン君。その志は素晴らしいと思う」

 

 まず肯定から入る。これは交渉の鉄則だ。

 

「だが、練習相手というものは実力の釣り合いが取れる者同士が望ましい。互いの手の内を理解し合える、対等な立場で切磋琢磨してこそ、双方の成長に繋がるものだ」

 

「う……はい……」

 

「今日の君の戦績は一勝四敗だったね。私は五戦全勝だ。率直に言って、現時点ではまだ差がある」

 

 クモンの表情がわずかに曇る。ヒナタは間髪入れずに言葉を継いだ。

 

「誤解しないでくれ。差があること自体は恥ではない。私だって、始めたばかりの頃はミトラに何十回と負け続けたものだよ」

 

 ミトラの名前を出す時だけ、声に無意識の甘さが混じるのは仕方がない。彼女には何度叩きのめされたか。だが、その敗北の一つ一つが今日の全勝を支えているのだと思えば、負けた記憶ですら愛おしかった。

 

「それに、私自身もまだ努力の最中でね。手加減をしたり、様々なデッキを使い分けて多角的な練習に付き合うような器用さは、正直なところ持ち合わせていないんだ」

 

 これは嘘ではなかった。ヒナタの構築力とプレイングは急速に向上しているが、それは自分のやり方に合わせた上での練度が上がっているだけで、幅広い対応力という点ではまだ発展途上だ。シラベやミトラのように初心者のレベルに合わせたプレイや、行動の言語化を駆使しながら相手を育てるような芸当は、今のヒナタには荷が重い。

 

「なので、提案なのだが」

 

 ヒナタはクモンの目線の高さに合わせるように少しだけ身を屈めた。少年の目線が自分の顔より下に行きそうになるのを、少しだけ身じろぎして躱す。

 

「私に弟子入りする前に、まずはより身近な壁を乗り越えることを目標にしてみてはどうかな」

 

「身近な壁……?」

 

「キリメ君だよ」

 

 名前を出した瞬間、クモンが一度だけ目を瞬いた。

 

「彼女は最近めきめきと力をつけている。この店での対戦を見ていても、成長速度は目を見張るものがあるね。だが──」

 

 ヒナタは人差し指を一本立てた。

 

「傍から見ていると、君とキリメ君との実力差はそれほど大きくはない。五分五分か、僅かにキリメ君が先を行く程度だろう。つまり、全力でぶつかれば十分に勝負になる相手だ」

 

 クモンは黙ってヒナタの言葉を受け止めている。真剣に聞いている目だった。

 

「対等な相手と繰り返し戦い、互いの弱点を突き合い、構築を練り直していく。その過程こそが、先ほど私が言った『日々の研鑽』の意味するところだよ。キリメ君と対等に渡り合えるようになった時、その時にもう一度、私への弟子入りが本当に必要かどうか考えてみるといい」

 

 語り終えたヒナタは、クモンの様子を伺う。

 

 クモンの視線がテーブルの木目に落ち、それからゆっくりとヒナタの顔へと戻ってくる。

 

「キリメ姉とかぁ」

 

 口にした声は、少し不思議そうな響きを帯びていた。

 

 断られたことへの落胆が皆無とは言わないだろう。だが、それ以上に、ヒナタの言葉が指し示した道筋を咀嚼している顔だった。幼馴染を遊び相手としては見ていても、練習相手として意識したことがなかったのかもしれない。近すぎて見えていなかったものが、第三者の言葉によってわずかに輪郭を帯び始めている。

 

 ヒナタはその表情の変化を逃さず、内心で静かに微笑んだ。悪くない反応だ。

 

「頑張ってみます」

 

 クモンがぐっと拳を握り、背筋を伸ばして言い切った。その声には先ほどの弟子入り志願の時と同じ、腹の底に力を込めた響きがある。

 

「キリメ姉に勝てるようになったら、また来ます」

 

「ああ。楽しみにしているよ、少年」

 

 ヒナタは立ち上がり、クモンの頭にそっと手を置いた。少年の硬い髪を一撫でして、それだけだ。

 

 クモンの頬がほんのりと赤く染まるのを確認し、ヒナタは手を離した。これ以上は残酷だろう。

 

 弟子入りを断った代わりに、より健全な目標を指し示してやれたのではないか。キリメという存在がクモンにとって何に変わっていくのかは、二人の問題であってヒナタの管轄ではない。

 

 だが、少なくとも方向性としては悪くないはずだ。自分が引き受けるよりは遥かに。

 

 クモンが意気揚々とデュエルスペースを後にするのを見送り、ヒナタはパイプ椅子に深く腰を下ろした。店を出ていく小さな張り切る背中は、少し前に比べて頼もしく見える。

 

「何を企んでいるんだ、お前」

 

 カウンターの方から気怠げな声が飛んできた。

 

 シラベだ。パソコンでの作業を終えた彼は、肩の上の大穴を片手で撫でながら、ヒナタの方を半眼で見ている。

 

「企みなど。私はただ、求められた助言を誠実に返しただけだよ」

 

「本当かよ。あの小学生に何か吹き込んだだろ」

 

「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。健全な人間関係と、互いの成長を促すための方策だ」

 

「お前が健全って言えた口かよ」

 

 シラベは溜め息を吐くと、興味を失ったようにノートパソコンを畳んでバックヤードに向かう。大穴が肩の上でにゃあと鳴いた。

 

 ヒナタはその素っ気ない反応にくすりと笑い、優勝賞品のブースターパックを手に取った。封を切る指先は軽やかだった。中身がどんなカードであろうと構わない。今日はいい日だ。

 

 五戦全勝。弟子入り志願という名の小さな嵐を穏やかに着地させた達成感。そして何より、ミトラの風邪が治った暁には、この結果を携えて彼女の前に立てるという事実。

 

「早く治りたまえよ、マイ・プリンセス」

 

 唇の端に浮かんだ笑みは、いつもの芝居がかったそれとは少しだけ違う、穏やかな輝きを帯びていた。

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