カスレアクロニクル   作:すばみずる

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83 寝物語代わりにお聞きくださいませ

 喉が焼けるように痛い。唾を飲み込むたびに、紙やすりで内側を削られるような鈍い痛みが走る。

 

 幸いなことに熱は大したことはなかった。三十七度をわずかに超えた程度で、寝込むほどのものではないという思いすらある。

 

 だが身体は正直だ。頭はぼんやりとし、関節の節々が鈍く軋み、何をするにも億劫で仕方がない。スマホすら弄れないのは怠さゆえか、それともソシャゲのデイリーに追われることへの疲れゆえか。

 

 ミトラは自室の布団に横たわり、天井の木目を数えるという虚無の極みに興じていた。

 

 階下からは、くぐもった声や椅子の引きずる音が微かに聞こえてくる。週末の店舗大会だ。シラベが進行をやっているはずで、カルメリエルがレジを回しているのだろう。レヴェローズは接客補助か、あるいは大会に参加しているか、遊び惚けているか、元から期待していない。大穴はどうせシラベの肩の上だ。

 

 ミトラがいなくても店は回る。それはいつものことで素直に安心できる事実であり、同時にほんの少しだけ面白くない事実でもあった。

 

 ミトラの引いた風邪がうつるようなものかは分からない。喉風邪の原因が細菌なのかウイルスなのか、あるいは単なる乾燥なのか、病院に行っていないミトラには判別がつかない。だが万が一でも店の人間に感染させれば、最悪の場合シラベがダウンしてしまえば営業そのものが崩壊する。それだけは避けなければならなかった。

 

 だから部屋に閉じこもり、一人で安静にする。それが最善とミトラが決断を下して二時間。その静寂が、ピンク色の聖女によって破られた。

 

「失礼いたしますわ」

 

 ノックもそこそこに戸を開けて入ってきたカルメリエルは、片手に洗面器、もう片方の手にタオルと着替えの一式を抱えていた。シスター服にエプロンを重ねた完全武装は、病人の世話をする気満々の構えだ。

 

「来なくていいって言ったでしょ。うつるかもしれないのに」

 

「私は精霊で、機械で生命体ですもの。ご心配なく」

 

「根拠が薄い。あんたが平気でも媒介するかもしんないのよ」

 

「根拠の有無に関わらず、ミトラ様をお一人にしておくわけにはまいりません。さ、少し楽な格好になりましょうね」

 

 カルメリエルは有無を言わさず布団の横に膝をつくと、ミトラのパジャマの首元に手を掛けた。

 

「ちょ、何」

 

「汗をかいていらっしゃるでしょう。このまま放っておくと冷えて悪化しますわ」

 

 細く白い指がボタンを一つ、二つと外していく。ミトラは抵抗しようとしたが、億劫な身体は思ったように動かない。手を振り払おうにも、カルメリエルの手つきは看護師のそれのように手慣れていて、抵抗の隙間を与えてくれなかった。

 

「やめ……自分でやるから」

 

「はいはい。では腕を上げてくださいませ」

 

 結局、半ば強引に上半身を脱がされ、タオルで首筋から背中にかけてを拭かれた。悔しいことに、それは確かに気持ちが良い。汗で張り付いていた肌が解放され、清潔な空気に触れると、淀んでいた気分が少しだけ晴れる。

 

 新しいパジャマに着替えさせられ、ミトラが改めて布団に潜り込むと、カルメリエルは満足げに頷いてタオルを片付けた。

 

 これで帰るだろう。そう思ったミトラの期待は、次の瞬間に裏切られた。

 

 カルメリエルが布団の横に座ったまま、動かない。それどころかエプロンを外し、自らも横になろうとしている。

 

「何してんの」

 

「添い寝ですわ」

 

「いらない」

 

「お一人で寝るよりも、人の温もりがあった方が安心して休めるものですよ」

 

「あんたらが来るまでずっと一人で寝てきた実績を舐めないで。全然平気」

 

 ミトラは布団を引き上げてバリケードを築こうとしたが、カルメリエルは涼しい顔でその端を持ち上げ、するりと侵入してきた。ミトラの細い体が押しやられそうになるのを、カルメリエルの回した腕が引き寄せて逃がさない。そして何より、布越しに伝わってくるカルメリエルの体温と、隠しようもない柔らかな質量の圧迫感が、ミトラの狭い安住の地を容赦なく侵食した。

 

「あんたさぁ」

 

 ミトラは布団の中でもぞもぞと身を捩りながら、声を絞り出した。喉が痛むことも忘れて言い返さずにはいられなかった。

 

「カードの設定と性格、変わってきてない?」

 

「あら。どういう意味でしょう」

 

「あんた、姉を謀殺するようなキャラでしょ。慈愛の聖女ヅラして裏で糸引いて、国を売って、身内すら手に掛ける腹黒女。それがなんで添い寝までする甲斐甲斐しさ出してんのよ」

 

 言ってから、ミトラは少しだけ考えた。

 

 これはデリカシーの無い発言だっただろうか。カルメリエルがシラベに負けて以来、ずっと真面目に働き、ミトラの世話を焼き、店の経営を支えてきたのは事実だ。その献身を、ゲームの背景ストーリーで描かれた陰謀と同一視するのは、少し酷かもしれない。

 

 彼女は精霊だ。カードの設定がそのまま人格になっているわけではないのかもしれないし、あるいはなっていたとしても、ここでの生活の中で変質しているのかもしれない。

 

 そんなことを逡巡しているうちに、ミトラの身体がふわりと浮いた。

 

「えっ」

 

 身を起こしていたカルメリエルの両腕が、ミトラの小さな体を抱え上げていた。精霊の腕力は見た目に反して強大で、ミトラ程度の体重など布団ごと持ち上げるのもたやすいのだろう。

 

 次の瞬間、ミトラの後頭部に柔らかいものが当たった。

 

 膝枕だ。

 

 カルメリエルは居住まいを正して、ミトラの頭を自分の太腿の上に乗せていた。パジャマ越しのミトラの視界には、シスター服に包まれた豊満な胸元が天蓋のように覆いかぶさっている。ミトラの顔のすぐ上、服の布地が僅かに重力に従って垂れ下がり、その奥の暗がりには想像力を刺激する深い谷間が潜んでいることを予感させた。

 

 カルメリエルの表情は、この角度からでは見えない。かろうじて顎のラインが見えるだろうか。

 

「私がそのような選択を行ってきたのは、自分の国を守るためでしたから」

 

 頭上から降ってくる声は、いつもの鈴を転がすような響きとは少し違っていた。穏やかではあるが、どこか遠くを見つめているような、記憶の底を覗き込んでいるような声だった。

 

 カルメリエルの指先が、ミトラの黒髪をゆっくりと梳き始める。毎朝の手入れよりも、ずっと緩慢で、ずっと丁寧な手つきだった。

 

「あんたのせいで滅んだじゃん、国」

 

 ミトラは胸越しに突き返した。ドゥブランコ帝国の末路はエインヘリヤル・クロニクルの背景ストーリーにおいて明確に語られている。カルメリエルが内通した海洋融合連合ヴラフマによって帝国は蹂躙され、王家は崩壊した。聖女が国を売った結末だ。

 

「ええ。そのようですわね」

 

 カルメリエルの返答には、意外なほど感情の起伏がなかった。彼女が精霊としている時間軸というべきか、自認というべきものは、設定上の帝国崩壊の時系列はずれている。ドゥブランコ三姉妹がフィーチャーされたパックに収録された時点のカルメリエルにとって、帝国の滅亡は未来の出来事だ。

 

「寝物語代わりにお聞きくださいませ」

 

 カルメリエルの指が、ミトラのこめかみを優しく撫でた。

 

「ヴラフマとの戦争では、勝ち目がないと最初から分かっておりました」

 

 ミトラは黙って聞いていた。喉が痛いのを口実に、相槌を打たないことにした。

 

「海中に拠点があるヴラフマに対して、ドゥブランコは攻め手に欠いておりました。海に潜む敵の本拠を叩く手段が無い以上、延々と防衛戦を強いられるのみ。兵力も物資もじわじわと削られていくのは時間の問題でした」

 

 カルメリエルの声は淡々としていたが、そこには乾いた諦念のようなものが底に沈んでいた。

 

「ただ、一つだけ希望がありました。長女、ヴェルガラ姉様が率いる戦線のみが、ヴラフマの侵攻を押し返しておりました」

 

 ヴェルガラ・ドゥブランコ。ドゥブランコ王家の第一王女にして、戦乙女ともあだ名される最強の戦姫。機械を喰らい伝結晶へと変換し、自らの力を際限なく膨張させていく。フィールドの機械を生け贄に捧げるたびにCCが積み上がっていくあのカード効果は、ストーリー上でも文字通り暴力の化身として描写されていた。

 

「ヴェルガラ姉様に全てを託せば、あるいはヴラフマの首魁を討てたかもしれません」

 

「でも」

 

「ええ」

 

 カルメリエルの指が一瞬だけ止まり、また動き出す。

 

「ヴラフマを滅ぼした後、最強の伝結晶を纏ったヴェルガラ姉様の他に、ドゥブランコの何一つが残っていないかもしれない」

 

 ミトラは天井に広がるカルメリエルの胸元を見つめながら、その理屈を頭の中で咀嚼した。

 

 全てを喰い尽くして一人だけ最強になる。それはカードゲーム的に言えば盤面を犠牲にして一体だけを巨大化させるオールインの戦術だ。だがフレーバーとしてのドゥブランコ帝国にとっては、国土も民も軍も全てが一人の女の養分にされるということを意味する。

 

「最悪の場合。最強の伝結晶を持ったヴェルガラ姉様が、誰かにその力を託して討ち死にされたなら。『伝晶』の効果で、その膨大な伝結晶は誰とも知れない一兵卒にすら移動し得るでしょう。王家の血筋でもなく、統治の器も持たない何者かが、最強の力だけを手にする」

 

「……国の形が無くなる、ってこと」

 

「その通りです」

 

 カルメリエルの声が、わずかに低くなった。

 

 ミトラはカードゲーマーとしてその状況を想像した。ヴェルガラというカードの能力を知っている身としては、カルメリエルの懸念は分からなくもなかった。

 

 コスト2で場に出て、機械を食って無限に太れるヴェルガラ。その彼女が死んだ時、伝晶の効果で全てのカウンターが任意の機械・生命体に移る。移った先がどんな雑兵であろうと、数十個ものカウンターを背負った化け物が誕生する。

 

 それがカードゲームの盤面ならば強い。だが国家運営のメタファーとしては、なるほど恐ろしい話だった。

 

「ドゥブランコを残すために、安全な負け方をする必要がありました」

 

 カルメリエルはそう言い切った。

 

「負けを選ぶ、ね」

 

「はい。ヴラフマと講和を結び、領土の一部を割譲してでも、国の骨格だけは残す。そのためには、勝ち続けるヴェルガラ姉様の存在が邪魔になる」

 

 ミトラは口を挟まなかった。このストーリーは知っていた。ミトラが知っているのはヴェルガラ側の視点だ。

 

 ヴェルガラは密かに、伝結晶の力を特定の個人に依存させない汎用強化装置の開発を主導していた。『結晶育成槽(クリスタル・グロース・タンク)』。毎ターン機械・生命体にCCを乗せるあのカードは、ストーリー上では一人に力を集中させるのではなく、軍全体を底上げするための技術として構想されていた。

 

 それが完成すれば、ヴェルガラ一人に全てを賭けなくても勝てる道が開ける。だがヴェルガラは、その開発計画をヴラフマへの情報漏洩を恐れてカルメリエルにすら共有しなかった。

 

 あるいはヴェルガラは、カルメリエルとヴラフマの内通を予見していたのか。

 

 だが胸襟を開いて共有していれば、カルメリエルが勝ち目がないと見切りをつけることはなかったかもしれない。

 

 そのすれ違いが、歯車を狂わせた。

 

 カルメリエルの声が続く。

 

「私は秘密裏にヴラフマとの会談を重ねました。国が残る形での講和を、どうにか画策して」

 

 ミトラは目を閉じた。この先の展開を、彼女は知っている。カルメリエルの指がミトラの髪を梳く動きが、ほんの一拍だけ乱れた。

 

「そしてその会談の場で、密約の証として託されました。精神支配の神器、シルヴァルナを」

 

 ヒンヤリとした静寂が、薄暗い部屋に沈む。

 

 シルヴァルナ。あのカードだ。ミトラのお気に入りのデッキの切り札として愛用し、カルメリエルの能力でデッキトップに何度も戻しては起動し続けた、あの性悪な支配の神器。

 

「これでヴェルガラ姉様を処理しろ、と。そう仕向けられたのか、あるいはその時点で既に私自身がシルヴァルナの影響下にあったのか。正直なところ、それは私にも分かりません」

 

「……」

 

「操られていたのだとすれば、少しは気が楽なのかもしれません。そう思うこと自体が一つの逃避のような気もいたしますわ。末路を知って尚、あの機械を未だ敬愛する想いを抱いてしまっているのですけども」

 

 カルメリエルの語り口は穏やかなままだったが、その穏やかさの質が変わっていた。鈴の音に似た響きの底に、錆びた金属がこすれるような不穏さが混じり始めている。

 

 膝枕の上で、ミトラにはやはりカルメリエルの表情を確認できない。だが空気が変わったのは肌で感じ取れた。風邪で鈍った五感でも分かるほどに、カルメリエルの纏う気配が重みを増していた。

 

「で。何が言いたいのよ」

 

 ミトラは膝枕の上から、半ば無理やりに話の流れを断ち切った。

 

 このまま聞き続けていると、もっと深い闇の底を覗かされそうな予感がしたからだ。風邪で弱っている時に聞くには、あまりにも重い話が引きずり込まれてくる気配がある。

 

 カルメリエルの手が、ミトラの額にそっと触れた。熱を確かめるように。あるいは、ただ触れたかっただけなのかもしれない。

 

「私は、自分の国が好きなのです」

 

 唐突に響いたその言葉は、先ほどまでの陰鬱なストーリーの文脈からは少しだけずれていた。

 

「自分が属するもの。自分が認めるもの。機械聖教の教えも、それで平和が保たれるならばと信仰していたに過ぎません。信仰も、謀略も、結局はそのための手段でした」

 

 カルメリエルの指がミトラの前髪を整える。日課の延長のような自然な仕草で、しかしその指先にはいつもより少しだけ力がこもっていた。

 

 頭上から降ってくる声は、再び穏やかさを取り戻していた。だが、その穏やかさの中にはさっきまで無かったものが混じっている。穏やかだが、揺るぎない。いつもの甘さの混ざる毒のような言葉とは違う。

 

「ですから、この店の主であり、私の持ち主である貴方を大切にすることは、私にとっては何らおかしなことではございません」

 

 ミトラは膝枕の上で、ぱちぱちと瞬きをした。

 

「……国を滅ぼした聖女の忠誠心って、あんまり信用出来ないんだけど」

 

「ごもっともですわね」

 

 カルメリエルはくすりと笑った。その笑い声が妙に近く感じ、ミトラの頬が少しだけ熱くなった。風邪のせいだと思うことにした。

 

「ですが、今の私には滅ぼすべき敵もおりませんし、密約を結ぶ相手もおりません。あるのはこの小さなおもちゃ屋と、怠惰な店員と、お行儀の悪い妹と、可愛い黒猫と、厄介な常連客と。そして」

 

 指がミトラの額から離れ、頬に移った。ひんやりとした指先が、風邪で上気した肌の上を滑っていく。

 

「大切な我が主、ミトラ様ですわ」

 

「前科持ちの割に、殊勝なこと言うわね」

 

 ミトラは目を閉じた。カルメリエルの膝は思ったよりも座りが良く、太腿の肉の弾力が後頭部を適度に支えてくれている。さっきまで鬱陶しいと思っていたはずの体温が、今は心地よい気がした。

 

 この女の過去がどうであれ、今ここで髪を梳いてくれている手は、ミトラにとって確かに温かい。十五年間この店を一人で守り続けてきたミトラに対して、真正面から守りたいと言ってくれた存在だ。信用はしていない。していないが、その言葉の響きは悪くなかった。

 

「……三十分だけ」

 

 ミトラは小さく呟いた。

 

「三十分だけ、このままでいい。それ以上はシラベが悲鳴を上げるでしょうから、戻りなさい」

 

「かしこまりましたわ」

 

 カルメリエルの声には微かな喜色が滲んでいた。その感情の漏洩を、ミトラは聞き逃さなかったが、指摘はしなかった。

 

 代わりに目を閉じ、カルメリエルの膝の上で意識を手放す準備に入る。

 

 階下から、大会の進行を告げるシラベの気怠い声がかすかに届いてくる。椅子の脚が床を擦る音。カードやスリーブが擦れ合う音。休日のボトムレスピットの、騒がしくも平穏ないつもの午後の音だ。

 

 三十分だけ、カルメリエルの好きなようにさせる。従業員の要望を叶えてやるのも経営者として大切なことだろう。そう自分に言い聞かせたミトラが寝息を立て始めたのは、目を閉じてから二分も経たないうちのことだった。

 

 カルメリエルは眠りに落ちたミトラの寝顔を見下ろし、糸目の奥でわずかに瞳を覗かせた。

 

 エメラルドグリーンの瞳は穏やかで、深く、そしてどこまでも底が知れない。

 

 彼女はミトラの黒髪を梳く手を止めず、ただ静かに微笑んでいた。

 

 三十分が過ぎても、カルメリエルがミトラの部屋を出ることはなかった。

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