カスレアクロニクル   作:すばみずる

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84 昔はもっと、するっと入れたのに

 大穴はカルメリエルの膝の上に仰向けで寝転がり、ドライヤーの温風を腹いっぱいに浴びていた。毛の根元にまで染み渡る乾いた熱が心地良く、ぐにゃんとだらけていた。

 

 大穴は猫の姿ではあるが、水気を怖がることなく風呂に入っている。大体はミトラとカルメリエルが入る時に一緒に潜り込むが、今日は外の散歩から帰るのが遅れてしまったため、レヴェローズと一緒に入ることになった。

 

 大穴としてはあの騒がしい金髪に雑に洗われ、何度か湯船に頭を沈められかけるのが不満だったが、猫の姿では満足に体を洗えないため享受するしかない。風呂上がりにカルメリエルがドライヤーをしてくれるのだけが救いだった。

 

 カルメリエルのドライヤーは丁寧だ。温風の角度を変えながら毛並みの流れに沿って乾かしていき、時折、指先で根元を掻き分けて中まで風を送り込んでくれる。この女の手つきには隙がなく、毛の一本一本に行き届く手入れの確かさがあった。キリメの撫で技とはまた方向性の異なる心地よさだ。

 

「はい、出来上がりですわ。ふわふわになりましたわね」

 

 ドライヤーのスイッチが切れ、静寂が戻る。カルメリエルの指が大穴の頭頂部をくるりと一撫でし、それが合図のように大穴は膝から飛び降りた。

 

 洗面所の前を通り過ぎようとした時、ドタドタと廊下を走る足音が聞こえた。レヴェローズだ。湯上がりのレヴェローズはラフな薄着姿の状態で、シラベの部屋の突撃していた。

 

「契約者? ……いないではないか」

 

 大穴も視線を向ける。シラベの部屋は電灯がつけっぱなしで、こたつに湯飲みが置かれている。人がまだそこにいるはずの痕跡が残っているのに、布団の上にも座椅子の上にもシラベの姿はない。

 

 レヴェローズは首を傾げたが、数秒も考えずに興味を切り替えた。キッチンへと向かいやいなや、冷蔵庫の扉を開ける音が響く。がさごそと中を漁る音がしばらく続き、やがてレヴェローズの不満げな声が廊下にこだました。

 

「アイスが無いな。買ってくるぞ」

 

 カルメリエルやミトラの返事を待たず、レヴェローズはジャージの上着を羽織り階段を降りていった。

 

 足音が遠ざかり、静かになった。大穴はレヴェローズの去った廊下を振り返り、それからのそのそとシラベの部屋へ向かった。戸は開きっぱなしだ。

 

 中に入り、こたつの周囲を一周する。布団の中にも潜ってみるが、やはりシラベはいない。

 

 だが、大穴の猫を模した感覚器官はシラベの気配を捉えていた。

 

 猫の鼻が拾ったのは、微かに残るシラベの匂いだ。相棒の匂いはよく覚えている。部屋の窓付近から、それは残っているように感じた。

 

 大穴が窓辺に近づくと、古い木枠の窓はわずかに開いていた。そこから忍び込む冷たい夜風の中に、シラベの匂いが混じっている気がした。

 

 窓枠に前足を掛けた大穴は、外を見上げる。

 

 ボトムレスピットの建物は木造二階建てだ。二階の窓のすぐ横には、古びた雨どいが壁に沿って屋根まで伸びている。錆びた金具で固定されたそれは、人間が登るには心許ないが、猫一匹の体重であれば十分に耐える。

 

 大穴は窓枠から雨どいへと移った。爪を引っ掛け、後ろ足で壁を蹴る。猫の身体が備える軽さと柔軟性を存分に使い、するすると垂直の壁面を登っていく。途中、留め金が軋んで嫌な音を立てたが気にしない。

 

 雨どいの上端を越え、瓦屋根の縁に前足が掛かった。ひょいと身体を引き上げ、屋根の上に立つ。

 

 冬の夜空が広がっていた。

 

 星はまばらだ。商店街の灯りが空を薄く染めて星を隠している。だが、眼下には小さな商店が連なる通りが見え、その向こうには住宅街の屋根が月明かりの下にうねるように続いていた。

 

 風が毛並みを撫でる。風呂上がりの温もりが冬毛の下にまだ残っていて、外気の冷たさとの温度差が不思議と快かった。

 

 大穴は屋根の上を歩いていく。瓦は冷たいが、猫の肉球には問題ない。

 

 ボトムレスピットの屋根には、物干し台が設置されている。二階の廊下の終端から出られる小さなバルコニーから上がれる空間で、普段はカルメリエルやシラベが洗濯物を干している場所。

 

 その物干し台と、屋根の傾斜が作り出す三角形の隙間。そこにシラベがいた。 毛布を一枚敷いて、仰向けに寝そべっている。

 

 物干し台を支える足場を覆うトタンが目隠しになり、入り口部分の狭い箇所から覗き込まないと見えない空間だ。ちょうど人間一人が寝そべれる程度の細長い空間が出来ている。

 

 シラベの片手にはスマートフォンが握られており、画面の青白い光が彼の照らしていた。もう片方の手は頭の後ろに組まれ、枕の代わりにしている。上着は着ているようだが、寒くないのかと大穴は思った。人間の体温調節は猫の身にも全てを飲み込む穴にもよく分からない。

 

 いまだ大穴の存在に気付いていないシラベの足元から、大穴は彼の身体の上を歩き始めた。

 

 脛の上を、膝を、太腿を。一歩ずつ確かめるように前足を置いていく。シラベの身体は固い。冬毛越しでも分かる人間の骨と筋肉の感触だ。腹を越え、胸の上に辿り着くと、大穴はそこで身体を丸めた。

 

 シラベの心臓の上。鼓動が猫の腹全体を通じて伝わってくる。安定した、穏やかなリズム。大穴が一番好きな音だった。

 

「……見つかっちまったか」

 

 スマホの画面から目を離し、シラベが小さく笑った。

 

 拗ねたような言い振りだが、嫌がっているわけではない声。スマホを置いたシラベの手が伸び、大穴の背中を上から包むように撫でた。いつもの雑な手つきだが、指のひらには体温があり、力加減には力任せでない柔らかさがあった。この男なりに手を抜いていないことは大穴にも分かる。

 

 シラベは片手で大穴を胸の上に抱え直し、仰向けのまま猫を仰ぎ見た。

 

「レヴェローズには言うなよ。あいつがここを知ったら絶対落っこちるからな」

 

「なん」

 

 大穴は短く鳴いた。

 

 秘密だ。相棒だけが知っている場所であり、相棒に教えてもらった隠れ家。その事実が、小さな猫の胸の中で温かく灯った。

 

 シラベの手が大穴の顎の下を掻く。大穴はゴロゴロと喉の奥で重低音を鳴らし、シラベに身を委ねた。

 

 頭上の物干し台の隙間から、薄い雲の掛かった空、そしてその向こうに月が霞んでいる。街の灯りに紛れて見えづらいが、大穴の目には淡い輪郭がはっきりと映っていた。

 

 このまま二人きりで、夜が更けていく。そう思っていた時、ぎぃ、と音がした。

 

 バルコニーに通じる扉が開く気配。そして、パタパタと軽い足音が近づいてくる。バルコニー用のサンダルを引っ掛けて歩く音だ。

 

 シラベの身体が強張った。大穴を胸の上に押さえつけるようにして息を潜める。

 

 大穴もまた、本能的に身を低くした。シラベの心臓の鼓動が、さっきよりも少しだけ早くなっているのが前足に伝わってくる。

 

 足音が物干し台の辺りで止まった。何かを干しているらしい。布をはたく音と、金属のハンガーが擦れる音が数回。

 

 干し終えた後、足音が止まった。大穴の耳がぴくりと動く。

 

 足音が方向を変えた。物干し台から離れ、バルコニーの縁に向かって、パタパタと近づいてくる。

 

 まっすぐ、こちらへ。

 

 シラベの呼吸が止まった。

 

 隙間の入り口、上縁の向こう側から、にゅっと小さな顔が逆さまに覗き込んできた。

 

 黒い髪が重力に従って垂れ下がり、死んだ魚のような瞳がシラベと大穴を捉えている。

 

「何やってんの。そんなところで」

 

 ミトラだった。風邪を引いていたのも数日前。すっかり元気を取り戻しているが、気怠げな顔は変わっていない。

 

 逆さまの顔はひどく間の抜けた角度で二人を見下ろしており、糾弾というよりは困惑に近い表情をしていた。

 

 シラベは観念したように長い息を吐いた。

 

「……いや、ちょっと一人になれる場所が欲しくてさ」

 

「はん。いい年して秘密基地ごっこやってんじゃないわよ」

 

 呆れきった声がバルコニーの上から降ってくる。ミトラの逆さまの口元には、軽蔑とも微笑みともつかない曖昧な歪みが浮かんでいた。

 

 シラベは何も言い返さなかった。言い返せる言葉が存在しないのだろう。二十五歳の成人男性が屋根裏の隙間で毛布まで持ち込んでスマホを弄っていたという事実は、どう取り繕っても秘密基地ごっこと名称をつけるしかなかった。

 

 ミトラの顔が上へと引っ込む。代わりにスリッパを脱ぐ音がして、バルコニーの縁に足が掛かった。

 

 小さなつま先が、隙間の入り口を探るように宙を蹴っている。屋根の傾斜と物干し台の隙間はミトラの体格なら入れるはずだが、足場が不安定だ。パーカーの裾が引っかかり、身体が傾ぐ。

 

「っと」

 

「おい、危ねえ」

 

 シラベは胸の上の大穴を隣に下ろすと、身体を起こして隙間の入り口に手を伸ばした。

 

 宙でじたばたしているミトラの脚を抱え込み、もう片方の手で腰を支えて、ゆっくりと引き込んでやる。ミトラの軽い体がシラベの腕の中にすっぽりと収まった。

 

「昔はもっと、するっと入れたのに」

 

 ミトラが不満げに呟く。ぶかぶかのパーカーの裾を直しながら、狭い空間に身体を馴染ませようとしている。

 

「ミトラも来てたのか? ここ」

 

 シラベが驚いたような声を出した。

 

「子供の頃に、たまにね」

 

 ミトラはシラベの首に腕を回し、物干し台と屋根の間から覗く外を見つめている。

 

「親が下で店やってて手伝いたくない時とか、一人になりたくなるとここに上がってた。自分以外に来る奴がいるとは思わなかったけど」

 

 その声からは、いつもの毒も気怠さも削ぎ落とされている。昔を懐かしむような、自分の言葉を噛みしめるような様子だ。

 

 大穴の目には、シラベに受け止められているミトラの横顔が見えていた。夜の薄明かりの中で、年齢を忘れさせる幼い輪郭。だがその表情は子供のそれではない。

 

 安心しきった顔だ、と大穴は思った。

 

 ずるい。

 

 大穴は相棒との秘密の場所を取られたような不満を覚えていた。

 

 ここはシラベが黙っていろと言った場所だ。二人だけの秘密のつもりだった。なのに、ミトラはそれよりもずっと前からここを知っていた。大穴の方が後から来た部外者だったのだ。

 

 この理不尽を、猫の脳はうまく処理できなかった。言語化しようにも語彙が無い。ただ、むっとした感情だけが胸の中で丸い毛玉のように転がっている。

 

 大穴はシラベの胸の上を目指して毛布を踏みしめた。前足をシラベの腹に掛け、胸板をよじ登ろうとする。二人の間に割り込み、相棒の体温を取り返す。そういう単純な動機だった。

 

「あ、大穴もいたんだ。おいで」

 

 だが、大穴の意図を読み違えたミトラの手が先に伸びてきた。

 

 甘えに来たと思ったのだろう。ミトラの小さな両手が大穴の胴を掬い上げ、自分の胸元へと抱き寄せた。

 

「あったかいしもふもふ。シラベには勿体ないわ」

 

「んぐるん」

 

 抗議の一声を上げたが、ミトラの腕の中は悪くない感触だった。シラベの硬い胸板と違い、薄いが柔らかいものがしっかりとある。

 

 悪くはない。悪くはないが、やや不満だ。

 

 相棒の胸の上で鼓動を聞きたかったのに、横取りされた。ミトラの心臓の音も悪くはないが、大穴にとって一番はシラベだ。

 

 しかし。ミトラが大穴を抱え込んだその体勢のまま、シラベの腕がミトラの背に回された。

 

「猫吸いするのはいいが、頭ぶつけんなよ」

 

 大穴を抱くミトラを、シラベがまとめて腕の中に収めている。

 

 狭い隙間だ。二人と一匹が寝そべようとすれば、もうほとんど身動きが取れない。だがその窮屈さの中で、大穴はシラベの腕の温もりを確かに感じていた。ミトラ越しに伝わってくる相棒の体温。片方の耳にはミトラの心臓。もう片方には、シラベの腕から伝わる鈍い脈動。

 

 まぁ、良しとしよう。大穴は力を抜いた。ミトラの腕の中で丸くなり、目を閉じる。喉の奥が自然と鳴り始める。低く、穏やかな重低音。

 

 周囲の目から遮断してくれるトタン板が夜風を受け、かすかに音を立てていた。屋根の上には冬の空気が澄んで満ちており、人間たちの吐く白い息が狭い隙間の中で混じり合っている。

 

「そういえば、なんでここに人がいるって分かったんだ?」

 

「ないしょ。ま、カルメリエルやレヴェじゃすぐには分かんないでしょうから安心しなさい」

 

 二人の囁くような声を聞きながら、大穴はうとうとと微睡みの淵に落ちかけていた。

 

 ミトラの指先が大穴の背中を緩慢に撫でている。その手つきはキリメほど巧みではないし、シラベほど雑でもない。ただ手元にあるものを無意識に撫で続けているだけの、力の抜けた優しい動きだった。

 

 遠くで、足音が聞こえた。

 

 店の前の通りを歩く音だ。コンビニのビニール袋がカサカサと擦れ、独り言のような鼻歌が夜風に乗って聞こえてくる。

 

「あ。レヴェが帰ってきた」

 

「アイス買ってくるとか言ってたな。寒いのによくやるよ」

 

 ミトラの囁きに合わせて、シラベの声も小さい。

 

「ったく、戻ったらまた部屋にいないって騒ぎ出すのか」

 

「降りてって相手してあげなさいよ。あ、毛布はこのままでいいわよ。久々にここにいたいから」

 

「いい年して秘密基地ごっこがなんだったって言ってた、さっき?」

 

「あんたのはごっこ遊び、私のは懐古。年季が違うわ」

 

 言い合いながら、シラベの手はミトラの背から離れなかった。ミトラもそこから動く気配がない。大穴もまた、目を閉じたまま微動だにしなかった。

 

 下の方で裏口の扉が開く音がした。レヴェローズの声が二階へと駆け上がっていく。

 

「契約者ー! 戻ったぞー! チョコミントが半額だった、分けてやるから感謝しろー!」

 

 ドタドタと廊下を走る音。シラベの部屋の戸をまた明け放ったような響き。そしてその後、怒気を含んだ声がする。

 

「おい! どこ行った契約者! さっきもいなかったではないか! こたつの電源がつけっぱなしだぞ!」

 

 屋根の上の三者は、息を殺して沈黙を共有していた。

 

 ミトラの口元がわずかに歪んでいるのが、大穴の耳の位置から見えた。笑いを堪えている顔だ。シラベも似たような顔をしているのだろう。相棒の腕に微かな震えが伝わってきている。

 

 やがてレヴェローズの捜索活動が一階へと移動していく足音を聞きながら、大穴は意識を手放した。

 

 ミトラの体温。シラベの腕。冬の夜風と、物干し台の軋み。遠ざかるポンコツの声。

 

 それらが全部ごちゃ混ぜになった揺り籠の中で、黒猫は眠りに落ちた。

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