カラオケボックスの個室は、歌うためではなく盤面を広げるために占拠されていた。
もはや恒例となった光景だ。防音された小部屋のテーブルにはプレイマットが二枚敷かれ、ドリンクバーから持ってきたメロンソーダとアイスティーがそれぞれの持ち主の手元に置かれている。
テレビ画面は気が散るという理由で電源を切られており、光源を一つ失った部屋は外から漏れ聞こえる賑やかさから切り離されたかのようだ。
シラベは対戦を終えた盤面を片付けながら、背骨の裏側からじわりと染み出してくる倦怠感に歯を食いしばっていた。
レヴェローズの呪いだ。彼女のカードをデッキに入れずに対戦を行うたびに、生命力を搾り取られるような疲労が全身を覆う。一戦目はまだ耐えられる。二戦目で息が上がり、三戦目には机に突っ伏したくなる。今日は四戦目まで消化していた。徹夜した時に似た、脳の奥が溶け始めるような感覚が出始めている。
その溶けた脳にはレヴェローズの「なぜ私を使わないのだ」「契約者の浮気者」「一夫多妻か」という怨嗟なのかも分からない幻聴が染み込んでくる。対戦が終わるたびに音量が上がっている気がするのは気のせいだと思いたかった。メロンソーダの糖分が枯渇した身体に流れ込んでいく感覚に、かろうじて人間としての輪郭を取り戻す。
対面ではヒナタがノートにペンを走らせていた。対戦ごとに棋譜を記録し、問題点を洗い出す。この女の真剣さは相変わらずだ。初めてこの練習会に付き合わされた時から一貫して、ヒナタはカードの上達に対して一切の妥協を見せない。
シラベはメロンソーダのグラスを傾けながら、対面の女の様子をじっと見る。
いつものように身嗜みは整っている。アッシュグレーのショートヘアはいつも通りに整えられ、ワイシャツの胸元を虐待する形の良い膨らみも相変わらず眼福ものだ。
これだけ見れば通常営業だが、何かが違う。肌の色艶、だろうか。いつもの陶器のような張りが薄れている気がする。目元に隈は見当たらないが、頬の血色がわずかに冴えない。光の加減もあるだろうが、シラベの目にはどこか生気が削がれているように映った。
そういうことに気がつく程度には、この女の顔を見慣れてしまったらしい。不本意ではあるが、美人は三日で飽きるという言葉はシラベに実感は無かった。
ヒナタがペンを止めた。ノートから顔を上げ、シラベの視線を不機嫌そうな顔で受け止める。
「何をじろじろと見ているんだい」
声に棘があった。いつもの芝居がかった王子様口調ではなく、素で不機嫌な時の低い声だ。
「いや、別に」
反射的にそう返したが、シラベの視線は切れなかった。やはり、いつものヒナタとは何かが違う。ペンを持つ指先のどこかに力みがあるし、ノートに向かう姿勢にも余裕が欠けている。
普段のヒナタは、疲れていても疲れを見せない人間だ。それは矜持とか美学とかそういうもので、弱っている姿を他人に晒すくらいなら舌を噛むタイプだ。その鎧が薄くなっている。
「仕事、忙しいのか」
シラベは何気なさを装って訊いた。突っ込みすぎれば壁を作られる。かといって無視するのも据わりが悪い。世間話の延長で訊いてみた、くらいの温度感を目指した。
ヒナタは鼻を鳴らしてペンを胸元にしまい、椅子の背もたれに体を預けた。天井を仰ぎ、アイスティーのグラスを片手で傾ける。氷がカラカラと鳴った。
「ああ。近日中にオープン予定の施設があってね。そのオープニングイベントで展示の計画変更があったんだ」
「穏やかじゃねえな」
「急ピッチで当日のスケジュールを組み直して、関係各所に頭を下げて回って、技術チームと仕様を再調整して。ここ数日、まともに寝ていないよ」
淡々とした口調だったが、内容は軽くなかった。大規模施設のオープン直前に展示内容の変更というのは、現場にとっては爆弾を投げ込まれたに等しいだろう。それを社長自らが走り回っているとなれば、いよいよひっ迫していることが伝わる。
シラベは一瞬、労りの言葉をかけようとした。大変だな、とか。無理すんなよ、とか。
だが、口を開きかけて止まった。
ヒナタの目を見る。それは弱っている人間の目ではなかった。疲労の色はあるようだが、その疲労の底にあるのは憔悴ではない。
苛立ちだ。それも、自分自身に対するもの。やるべきことをやりきれていない自分への、鋭く内側に向いた刃。
シラベはこの種類の目を知っている。こういう時に「大変だね」は要らない。慰めは刺さらないし、下手をすれば逆に苛立たせる。
「経営者が自分で動き回ってどうすんだよ」
シラベはわざと憎まれ口の体裁で言い放った。
「だいたい辛いのは現場の人間だろ。社長が走り回ったって、現場の負担が消えるわけじゃねえ。むしろ上がウロチョロしてると余計に気ぃ遣うんだよ、下の人間は」
前職の記憶が舌に乗った。言いながら、これは半分くらい自分の元上司に対する恨み言だな、とシラベは自覚していた。だが今この場では、こっちの方がヒナタに刺さる。
案の定、ヒナタは天井から視線を戻し、シラベの顔を見た。
「そうだろうね」
自嘲が滲んだ声だった。グラスの縁を指先でなぞりながら、ヒナタは小さく息を吐く。
「社長業としては失格だ。トップが走り回るのは歪みを作る。分かっているさ」
一拍。
「それでも、社員の負担を少しでも減らしてやりたいんだよ。私の判断で変更を決めたんだ。その尻拭いを部下にだけ押し付けて、自分だけ澄ました顔で椅子に座っているほど、私は図太くなれない」
声に虚飾は一切なかった。亜修利ヒナタという人間の、剥き出しの地金がそれらしい。
シラベは黙る。それがこの女の基底であるなら、それ以上は関知しない。
代わりに、別の角度から切り込んだ。
「だったらせめて、こんなカードの時間は減らして寝ろよ」
シラベはソファの座面をぽんと叩いた。大穴を呼ぶときのようだ。
「ここでいいから横になってろ。フリータイムだから遠慮することはねえぞ」
そもそも私が部屋代を出しているんだけどね、と。そういう類のツッコミをシラベは期待していた。
だが、そうはならなかった。ヒナタの表情が強張る。
「ダメだ。今この時間は一分一秒でも無駄にできない」
即答だった。声に迷いがない。その気迫にシラベは一瞬面食らった。
カードゲームの練習にそこまでの執着を見せるヒナタは珍しくない。だが今日のそれは、いつもの向上心とは質が異なる気がした。無駄にできない、という言い方には、締め切りに追われている人間のような切迫感がある。
進捗を気にするものでもなし、何に追われているというのか。
しかし、追及してもこの女は答えないだろう。気にはなるものの、本業が関わるのであれば私情とは別の問題が出てくる。そこを無理にこじ開けることは友人といえど難しい。
シラベは口をつぐみ、代わりにヒナタの手元に視線を落とした。
開きっぱなしのノート。棋譜が記されたページの後半部分に、シラベの目が留まる。
シラベは溜め息を一つ吐いた。呆れを隠さない溜め息は、ヒナタにも伝わることだろう。
ヒナタのノートを手に取る。ヒナタが何か言いかけたが、シラベはそれを無視して指先で示した。
「一分一秒も無駄にできないって言ったくせに、これ何だよ」
ヒナタの目がノートに向き、そこに刻まれた自分の醜態を見せつけられる。
几帳面な筆致で盤面の推移が記録されていたのは二戦目の頃までだ。三戦目の途中あたりから字が崩れ始めている。文字の間隔が不規則になり、途中から詰め込むように無理が生まれる。四戦目に至っては判読が困難なほどに崩壊している部分すらあり、ごまかして斜線が引かれている。
居眠りしかけていた人間がペンを持ったまま意識を飛ばした時に出来る、あの特有の筆跡だ。
アッシュグレーの髪の下で、耳の先がじわりと赤く染まっていく。
「ミミズが這ってんぞ。こんなんでまともに考えられてるかよ」
「…………」
ヒナタは唇を引き結んだまま、顔をそむけた。反論の余地がないことを本人が一番理解しているのだろう。普段なら洒脱な切り返しの一つも飛んでくるところだが、今はただ黙っているだけだった。
シラベはノートをテーブルに戻し、自分の隣のソファの座面をポンポンと叩いた。
「ほら、寝てろ。俺だってポンコツの呪いもあるし、休憩させろ」
レヴェローズの呪いによる疲労は本物で、四戦分の消耗は相当なものだった。嘘ではない。それを休憩の口実にしているのは露骨だが、ヒナタにとってギリギリ許容できる口実にはなっているとシラベは見込んだ。
ヒナタは数秒の間、シラベの顔とソファを交互に見比べる。
それからゆっくりと立ち上がり、シラベの傍に腰を下ろした。上体を倒し、安っぽい座面に横になる。すらりとした長い脚が端からはみ出しているが、身体を少し丸めればなんとか収まった。
ワイシャツの胸元をぎゅっと片手で押さえ、ヒナタがシラベを見上げる。ヒナタにしては珍しい、拗ねたような目つきだった。
「……襲うなよ」
「しねえよ」
即答した。何を警戒しているのかと呆れるが、この女にとっては口に出すことが大事なのだろう。あるいは、そうやって軽口を叩くことで横になる気恥ずかしさを誤魔化しているのか。
ヒナタは目を閉じた。警戒していたような彼女だったが、その抵抗はあっけないほど短命だった。
三十秒も経たないうちに、呼吸のリズムが変わった。深く、規則的な吸気と呼気。唇がわずかに開き、そこから小さな寝息が漏れ始める。眉間の力が抜け、先ほどまであった苛立ちも疲労も消えた、無防備な顔がそこにあった。
シラベは寝落ちたヒナタをしばらく眺めてから、視線をテーブルの上のノートに戻した。
ひどくなっているのは三戦目からだ。序盤の展開と終盤はまだ読めるが、途中から筆致が乱れた後に記録が飛んで抜けている個所がある。これではヒナタ流の練習方法に狂いが出るだろう。
「しゃーねーな」
幸い、シラベの記憶力はカードゲームに関してだけは異常な精度を誇っている。何ターン目にどのカードが出て、どの順番で効果が積まれたか。その日のうちであれば盤面の推移は脳裏に刻まれている。
シラベはノートの新しいページを開き、ヒナタのペンを彼女の胸元から拝借して書き始めた。
ミミズが彼女の指を乗っ取ったあたりのターンを起点に盤面を再現していく。自分とヒナタのプレイングとその思考の理由を、可能な限り正確に記した。
ついでに自分にとっての整理も兼ねて、棋譜の横に所見を書き足す。このターンでの除去の切り方は適切だった。ただし次のターンで相手が出した生命体には迷いが出た。手札に打ち消しがあったはずだから、ここで切っておけば盤面の主導権を渡さずに済んだ、等々。
四戦目の分も同様に記録していきつつ、シラベは思った。こんな地味で面倒な作業をやっている甲斐があるからか、この女のプレイングは確実に良くなっている。初めて対戦した時は色んな意味で別人だったのでノーカウントとしたいが、そこから少し後のまともな狂人になってからカウントしても別人だ。
ルールの裁定ひとつでいちいち立ち止まるテンポの悪いプレイヤーが、今では盤面の三手先を読んで動いている。構築をやらせても勘所は良い。環境への理解が深まり、読み合い意識が板についてきた。
寝不足でミミズを量産するほど追い詰められていても、三戦目の序盤までの棋譜は正確だったし、プレイ自体に狂いは無かった。手が覚えているというやつだろうか。反復練習の成果が指先に刻まれている。
賛美の言葉を直接かけるのは種々の感情から憚られるものの、シラベはヒナタを認めていた。
ペンを走らせるシラベの隣で、ヒナタは静かに眠り続けている。隣の部屋からは別の客の歌声が壁越しに響いており、およそ安眠とはかけ離れた環境だ。それでもヒナタは少女のように穏やかな寝息を立てている。
シラベはノートの最後に一行だけ書き足した。
『全体的に判断速度が上がっているのは良し。あとは体調管理の問題。デュエル筋を育てろ』
ノートを閉じ、もう一度眠るヒナタの顔を見る。そしてシラベ自身もソファの背もたれに頭を預けて、目を閉じた。
レヴェローズの怨念が未だにしがみついてきている気がしたが、それにはもう慣れてしまっていた。