夜の商店街は静まり返っていた。シャッターの下りた店舗が並ぶ薄暗い通りを、シラベは肩を丸めて歩いていた。
レヴェローズの呪いによる倦怠感は帰路の間も容赦なくまとわりついていたが、牛丼屋で並盛りを腹に入れたことで多少は持ち直していた。糖分と塩分と炭水化物は貧乏人の味方だ。
その夕食の席には一応ヒナタも誘ってみたものの、これからまた会社に戻るからと深々と謝られてしまった。断られる前提だったものの、妙にしおらしくされると調子が狂う。
えっちらおっちら交通費を浮かせて歩いていると、ボトムレスピットの裏口が見えてきた。そして、その裏口の前に立っている人影も。
「契約者、やっと帰りか」
闇の中から、金色の髪が飛び付いて来る。レヴェローズだ。
ジャージ姿にコートを着た総督閣下は、シラベの姿を認めるなり満面の笑みで駆け寄り、そのまま正面からぶつかるようにして抱きついてきた。
衝撃。柔らかさ。高めの体温。風呂上がりらしい。
「出迎えてやったぞ。こんな遅い時間まで何をしていたのだ」
「犬か、お前は」
口では呆れつつも、シラベは抵抗しなかった。レヴェローズの頭をワシワシと片手で撫でてやる。金色の髪が掌の下で跳ね、紫の瞳が嬉しそうに細まった。
尻尾があったら千切れるほど振っているのが容易に想像できる。犬と言ったが、人懐っこさにおいてはゴールデンレトリバーに匹敵する。
抱きつかれたまま裏口を開けて中に入る。レヴェローズは離れない。シラベの腕に両腕を絡め、肩にもたれかかるようにして一緒にバックヤードを進む。
「飯はもう食ったよな」
「うむ。姉様が天ぷらを揚げてくれたぞ。舞茸が美味かった」
「羨ましいなおい。俺は牛丼だぞ」
「それもうまそうではないか。姉様はもう寝る支度をしているぞ。大穴も姉様の寝袋に潜り込んでいった」
「そうか。じゃあこれは明日食うか」
シラベは持っていた白い紙袋をレヴェローズに渡した。中身は帰りがけに商店街の外れの洋菓子店で買ったシュークリームだ。ヒナタから受け取ったバイト代の残りで、五個入りのセットを選んでいた。
レヴェローズは紙袋の中を覗き込み、紫の瞳を輝かせた。
「シュークリームか! 契約者、気が利くな!」
「冷蔵庫にしまっとけよ。明日みんなで食う分だからな、今食うんじゃねえぞ」
「心得ている! 丁度良かった、店長の機嫌が悪そうだったから、これがあれば──」
「誰の機嫌がなんだって?」
二階から、低い声が落ちてきた。
レヴェローズの背筋が音を立てて伸びた。紙袋を胸に抱えたまま、じりじりと階段の上を窺う。
薄暗がりから、小さな人影がのっそりと姿を現した。
ミトラだった。死んだ魚のような目がレヴェローズを射抜き、次いでシラベに移り、再びレヴェローズに戻る。
「ひぇっ」
レヴェローズは短い悲鳴を上げると、紙袋を抱えたまま階段を一段飛ばしで駆け上がり、ミトラの脇を猛スピードですり抜けていった。ドタドタと廊下を走る足音がシラベの部屋の方に消え、戸が閉まる音がした。冷蔵庫にしまえと言ったのに。シラベは逃亡に成功したポンコツを内心で羨ましく思った。
残されたのは、不機嫌そうなミトラの視線だけだ。暗い階段上に立つパーカー姿の店長は、腕を組んでシラベを見下ろしている。
シラベは喉元まで上がってきた、遅くなって悪いという言葉を飲み込んだ。
夕食は外で済ませると事前に伝えていた。支度に狂いが生じるという文句は出ないだろう。そもそも食事の支度はカルメリエルの担当だし。
裏口の鍵はシラベも持っている。帰りが遅くなったからといって誰かに迷惑がかかるわけではない。先のレヴェローズは何も言われなくても勝手に待ち構えていただけだ。どうにせよ、ミトラが気を揉む理由はない筈。
そもそも。ミトラが機嫌を損ねているのは、自分の帰りが遅いことが原因なのか。それは自意識過剰ではないか。単にレヴェローズの騒がしさに苛ついていただけかもしれないし、ゲームで負けた腹いせかもしれないし、あるいは夜更かしで眠いだけかもしれない。
どう対応すればいいか分からないままでいると、ミトラが口を開いた。
「お茶、飲む?」
「お、おう」
反射的に頷く。断る理由がない。断るのも怖い。
「持ってくるから、そっち座ってて」
ミトラは一階のデュエルスペースの椅子を顎でしゃくる。少し前にはおそらく三人と一匹が夕食を食べたであろう場所は、今は暗くどこか寒い。
シラベは言われるままにデュエルスペースの椅子に腰を下ろして待っていると、ほどなくバックヤードのカーテンが揺れ、ミトラが盆を持って出てきた。盆の上には急須と湯呑みが二つ、それと小さな茶筒が乗っている。
「手伝う」
「いいから座ってなさい」
ぴしゃりと言い返され、シラベは椅子に縫い止められた。
ミトラはテーブルの上に盆を置き、茶の準備をし始める。バックヤードの電気ポットも持ち出してきて、慣れた手つきで湯を急須に注ぐ。
普段この手の仕事はカルメリエルがやっている。ミトラ自身がお茶を淹れるのを見るのは珍しい。とはいえ、シラベたちが来る前だってミトラは彼女と従業員一名で回していたのだ。やろうと思えば不足は無いのはシラベにも納得出来た。
湯呑みに薄い緑色の液体が注がれる。二つ。一つをシラベの前に置き、もう一つを自分の手に取る。
そして、ミトラは当然のようにシラベの膝の上に腰を下ろした。いつものことだ。
だが今日は、座り方が違った。
普段のミトラはシラベに背中を預ける形で座る。背もたれの延長としてシラベの胴体を利用する遠慮のない座り方だ。
それが今日は、横向きになっていた。
ミトラの肩がシラベの胸に触れ、膝を揃えた脚がシラベの太腿の上を横切っている。密着している面積はいつもより少ない。だが、この座り方だとミトラの顔がシラベの視界に正面から入る。
横向きに座ったミトラの顔が、シラベの顎のすぐ下にある。俯けば目が合う距離だ。ミトラのまつ毛の一本一本が数えられそうなほど近い。
シラベは意識して視線を逸らし、自分の湯呑みを手に取った。一口含むと、胃の腑に温もりが落ちていく。少し冷えた身体に入る茶は、実家に帰ったような妙な安堵感があった。
無言で茶を啜る。
ミトラも黙っている。小さな両手で湯呑みを包み込むようにして、ちびちびと飲んでいる。横向きに座った体勢では背もたれがないから、上体が少し不安定だ。
「背もたれ」
「えっ?」
シラベの考えを読み取ったかのように、ミトラがぼそりと呟いた。
聞き返したシラベの腕を、ミトラの手がぺちんと叩いた。痛くはない。ミトラの平手は蚊が止まったのと大差ないが、その意図は明確だった。
シラベは咄嗟にミトラの腰に腕を回した。
パーカー越しでも分かるほどに華奢な腰を、シラベの腕が支える。ミトラの身体が傾ぎかけていたのが安定し、シラベの腕を軸にして体重が預けられる。
「ん」
ミトラは満足そうとも不満そうとも取れない曖昧な声を漏らし、シラベの腕に身体を委ねた。
シラベの心臓が僅かに強く打ったが、それを表に出すような真似はしなかった。湯呑みを持つもう片方の手に意識を集中させ、何事もないように茶を啜る。
しばらく、お茶を飲む音だけが店内に響いた。
ミトラの体温が腕越しに伝わってくる。小さな身体だ。自分以上の人生を詰め込んでいるにしては、あまりにも軽くて小さい。風が吹いたら飛んでいきそうだと、シラベはいつも思う。
ミトラが口を開いた。
「最近、店が休みだと、どっか行ってるけど」
声は平坦だった。問い詰めるような調子ではない。ただ事実を述べているだけの、いつもの気怠い声だ。
「ああ。オオタさんと中古屋巡りしたりな」
シラベは茶を一口含んでから答えた。嘘ではない。四国無双で一戦交えて以来、連絡先を交換したオオタとはリサイクルショップを回ったことは実際にある。ソロモン王の壺を見つけたのもその一環だ。ただし、ヒナタとのカラオケ練習会がそれよりも高い頻度で行われていることは言わなかった。
「ふーん」
ミトラの相槌は短かった。湯呑みの中を覗き込むように視線を落とし、それから何かを考えるように沈黙が数秒。
「どっかで日雇いのバイトでもしてるんじゃないの」
シラベの手が一瞬止まった。
ヒナタとの練習会で、謝礼を受け取っているのは事実だ。バイト代という名目で渡されるそれは、日雇いと言い換えても大筋では間違っていない。レヴェローズのいないデッキを使うたびに全身の精気を吸い取られるのだから、肉体労働と大差ない消耗だ。
言葉が詰まる。疲労は隠したつもりだったが、ミトラの勘の鋭さを侮っていた。
「うちの給料、少ないから。そういうのするのは、まぁ仕方ないけど」
ミトラの声には責めるような色はない。だが感情の行き場のなさを、シラベは聞き取っていた。
怒っているわけではない。責めてもいない。だが、何かを持て余している。名前のつけられない感情が、ミトラの中で行き先を探しているのが伝わってくる。
シラベは湯呑みをテーブルに置いた。ジャケットの内ポケットから、茶封筒を取り出す。
「これ」
ミトラが視線を上げた。
シラベは茶封筒の中からチケットを抜き出し、ミトラの前に差し出した。
光沢のある厚紙に、洗練されたデザインのロゴが印刷されている。近日オープン予定のアミューズメント施設の名前と、招待券という文字。
「中古屋のくじで当たったんだよ。新しく出来るっていう施設の招待券」
「…………」
ミトラはチケットを受け取り、薄暗い店内の明かりに透かすようにして文面を読んだ。
「こういう施設に遊びに行く機会もあんまり無いだろ。たまには行くか?」
シラベの声は努めて軽かった。
ヒナタから預かったものを、自分の手柄のように渡すことへの後ろめたさは多少ある。だがヒナタからは、自分から渡すとミトラが照れてしまうだろうから、シラベからのプレゼントとして良きように渡して欲しいと言われていた。
あの女の計算がどこまで正しいかは知らないが、少なくともヒナタから直接渡されるよりはミトラの抵抗が少ないだろうという読みには同意できた。
ミトラはチケットを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「これ、ペアチケットなんだ」
ぼそりと呟く。
「ん。あぁ、そうなのか。じゃあレヴェローズたちは留守番だな」
シラベは初めてそれに気がついたふりをした。チケットの隅に小さく印字された『2名様ご招待』の文字。ヒナタが如何なる意図でそのように用意したのかは読めないが、わざわざ確認した上で渡されたのはこれ一枚なのだから間違いはない。
ミトラは数秒の間、チケットの文字を見つめていた。
それからこくん、と。小さく頷いた。
「決まりだな」
ミトラの身体から硬さが抜けたことに、シラベは安堵の溜め息と共に言う。
「まぁ、こういうくじを引くくらいの余裕はあるからさ」
裕福とは口が裂けても言えない。ヒナタの謝礼が助かっている実情もある。傍から見れば搾取されているのかもしれない。
それでも自分にはここしかない。他があったとしても、ここを選ぶ。そういう確信はあった。
「俺に不満はねえよ」
ミトラの視線が、ゆっくりとシラベの顔に向かう。
暗い店内で、カウンター近くを灯す光だけがミトラの横顔を照らしている。気怠げな目の奥に、何かが揺れた気がした。
ミトラの口元が、ほんの少しだけ形を変えた。
「じゃあ。また明日から、安い給料で扱き使ってあげる」
不機嫌の皮が剥がれた下から覗いたのは、ひどく控えめな、だが確かな笑みだった。
それを見た瞬間、シラベの腹の底で何かがほどけた。軋んでいた身体が、茶の温もりと膝の上の体温に溶かされて、少しだけ楽になった気がした。
「お手柔らかにな、店長」
シラベはそう返して、冷めかけた茶の残りを飲み干した。膝の上のミトラは何も言わず、互いの湯飲みに二杯目を注ぐ。
一杯ごとに味が薄くなるぬるま湯を、シラベは飲み続けた。