キリメの放った戦術カードが、クモンの最後の生命体を墓地へと叩き落とした。
フィールドにある呪法の連動効果により残りライフはゼロ。投了宣言する間もない、一方的な蹂躙だった。
「はい、アタシの勝ち」
キリメがカードを手際よく片付けながら、あっさりとした声で試合終了を告げる。その声は勝利への優越感も、敗者への嘲りもない事実確認だ。
橋谷クモンは自分のデッキを見つめたまま、唇を噛んだ。
平日の夕方。学校帰りにボトムレスピットで待ち合わせて一戦だけプレイして帰る。それがクモンとキリメの最近の習慣になっていた。
クモンの方からキリメに頼み込んで始めた日課だ。全てはもう一度、ヒナタに弟子入りを願い出るため。ヒナタに言われた「身近な壁を乗り越える」という目標達成のためである。
もっとも、その目的はキリメには話していない。一緒に練習したいと言っただけだ。キリメはクモンの申し出にふーんと素っ気なく答えたくせに、翌日からきっちり店に来てくれるようになった。
そこまでは順調だったものの、成果はなかなか伴わない。未だ戦績はキリメの方が上だった。
小さい頃からの付き合いだからだろうか。クモンがブラフを張っても、キリメにはすぐに見透かされてしまう。手札に対応策があるように見せかけて攻撃を躊躇わせようとしても、躊躇なく踏み込まれて崩される。手なりでコンボパーツを揃えようとすれば、完成する一歩手前で的確に妨害が飛んでくる。
クモンの思考の癖を、キリメはよく知っているようだった。クモンがキリメをうまく焚き付けられるように、キリメもまたクモンの操縦方法を心得ている。
それでも、いつもは拮抗した勝負になる。キリメの読みが鋭くても、クモンにはクモンなりの意地と工夫があった。デッキの細部を毎回少しずつ変え、キリメの予測を外す角度を探り続けている。
だが今日は駄目だった。新しく組んだオリジナルデッキを試したのが裏目に出た。
コンセプトは悪くないと思っていたが、実戦に持ち込んでみると噛み合わない部分が多すぎた。欲しいカードが手札に来ない。来ても、マナが足りない。ようやく動き出した頃にはキリメの盤面が完成していて、なす術もなく轢き殺された。
一戦だけの約束だ。やり直しはない。今日の結果はこれで確定する。
「そういう時もあるって」
キリメの手がクモンの頭に乗り、くしゃくしゃと髪を撫でる。力加減は優しい。猫を撫でる時と同じ、キリメの得意な手つきだった。
「新しいデッキはさ、最初はそんなもんだよ。回して調整してけばいいじゃん」
声も優しかった。クモンを慰めようとしている声だ。
それが、駄目だった。クモンの奥でぐしゃりと何かが潰れる。
子供扱いされている。負けた上に、頭を撫でて慰められている。お前はまだ子供だから仕方ないよと、そう言われているかのようだ。
キリメにそんなつもりがないことは分かっている。ただいつものように世話を焼いているだけだ。昔からそうだった。舐めたことを言えば拳骨が飛ぶし、理不尽に思うことも何度もある。それでもキリメは自分を決して蔑ろにしない。手を差し伸べてくれる。
でも今は、それがたまらなく惨めだった。
クモンはキリメの手を振り払うように立ち上がった。椅子が後ろに傾ぎ、金属の脚が床を擦って甲高い音を立てる。
キリメが目を丸くした。
「おい、クモン――」
「帰る」
それだけ言って、クモンはデュエルスペースを抜ける。バッグもデッキケースもテーブルの上に置いたまま店を飛び出した。
走った。商店街のアーケードを抜け、薄暗い路地に入り、住宅街の方へと足を動かし続けた。
背後から追いかけてくる足音はなかった。
残されたデュエルスペースには、キリメとシラベだけがいた。
キリメはクモンが飛び出していったガラス戸を睨みつけ、唇を尖らせていた。
「なんだよ、あいつ」
カウンターの中では、シラベがストレージの整理作業をしながら一部始終を見ていた。
「そりゃあ、お前に負けた上に慰められれば恥ずかしくもなるわな」
シラベはニヤニヤと口の端を歪めながら言った。
「はぁ? アタシに負けるのがそんなに恥ずかしいってのかよ!」
キリメが噛みつくように声を荒らげる。拳がテーブルを叩いた。
シラベはカードの束を捌きながら、あの小学生のことを考えていた。
橋谷クモン。よく来る常連の小学生。カルメリエルの作ったグループチャットに参加していたり、ヒナタに付きまとっていたりと、いろいろ分かりやすいませたガキ。彼からたまに睨まれる理由を、シラベは知らないふりをし続けていた。
そんなクモン少年が、美人で巨乳の女子高生であるキリメと毎日対戦している。下心がないわけがないだろうと、少なくともシラベの目にはそう映っていた。
それなのに、当のキリメはクモンは普通に弟分として扱っている。たまにクモンが華々しい勝利を見せようともキリメの態度が変わらず暖簾に腕押し。小学生のクモンにとっては勝利とは劇的なものであると一事が万事考えるかもしれないが、キリメとしては練習のつもりなのだから、一度の勝ち負けで態度が変わらないのは当然の態度だろう。
そして勝敗に重きを置く小学生が今日は散々に負け、その負けて悔しいところを察されて頭を撫でられ慰められたとなれば──ガキのプライドだろうと、それは傷つく。
だがそんな分析をキリメに教えてやる義理はなかった。
「あんまり弄んでやんなよ」
シラベはそれだけ呟いて、ストレージの整理に戻った。
「はぁ!? どういう意味だよそれ! おいシラベ! 無視すんな!」
キリメの怒声がデュエルスペースに響いたが、シラベは聞こえないふりをしてカードを仕分け続けた。
大穴がシラベの肩の上でにゃあと一声鳴いたのは、呆れなのか同意なのか判別がつかない。
*
走るのをやめたのは、息が上がったからだった。
クモンは住宅街の外れにある小さな公園に辿り着き、ベンチに腰を下ろした。
冬の夕暮れは早い。空はもう紺色に沈みかけていて、公園の街灯がぽつりと灯り始めていた。遊具のブランコが風に揺れて、錆びた鎖がきしきしと鳴っている。
荷物を置いてきたことに今さら気がついた。バッグもデッキケースも、全部あの店にある。学校の教科書も入っている。明日の授業のことを考えると取りに戻らないとまずいが、今すぐキリメの顔を見る気にはなれなかった。
迷うクモンのポケットの中で、スマホが震えた。
取り出して画面を見る。キリメからのメッセージだった。
『荷物はアタシの家に持ってくから』
『後で取りに来いよ』
それだけだった。怒っている様子もなければ、さっきのことを責める文面もない。クモンが荷物を忘れて飛び出したことも、無言で去ったことも、キリメはただ受け流して、いつも通りに世話を焼いてくれていた。
スマホをポケットに戻し、クモンはベンチの背もたれに頭を預けた。紺色の空を見上げる。星はまだ見えない。
自分は何をやっているのだろう。ヒナタさんに認められたくて毎日練習しているのに、キリメ姉にすら勝てない。新しいデッキを組んでも回らない。負けて、慰められて、それに腹を立てて逃げ出して。
情けなさがゆっくりと身を焦がしていく。
公園の柵の向こうを、人が通り過ぎた。
クモンは意識を向けなかった。夕暮れの住宅街を歩く人間など珍しくもない。視界の端で、スーツを着た男がスマートフォンを耳に当てて歩いているのがぼんやりと映ったが、それだけだった。
男が不意に足を止めた。
クモンの座るベンチの前を通り過ぎる手前で、男の歩みが一拍だけ途切れた。スマホを耳に当てたまま、視線だけがちらりとクモンの方に向けられる。
「ああ、あの子供か」
男の声は低い。耳に当てられたスマホからは、何の音も発されていない。
「あれでいいのか」
呟いて、男は再び歩き出した。スーツの背中が夕闇に溶けていく。
クモンはそれを記憶に留めることもなく、ベンチに腰掛けたまま、紺色の空をぼんやりと見上げていた。
*
濃紺だった空が、オレンジに染まっている。
いつ目を閉じたのか、閉じたのかすら定かではない。気がつくと、クモンの景色が変わっていた。
ベンチの下にあったはずの砂利混じりの地面が消え、代わりに青い草が足元に広がっていた。公園の柵も、街灯も、ブランコも無い。見渡す限りの草原が、夕焼けとも朝焼けともつかない橙色の光に照らされて、どこまでも続いている。
クモンは草原の中にある岩の上に腰掛けていた。先ほどまで座っていたベンチの代わりに、苔の生えた平たい岩が尻の下にある。
「……えっ」
声が出た。頬をつねる。痛い。夢ではない。
周囲を見渡す。地平線まで草原。空は広く、雲が低い。風が吹くたびに草が波のようにうねり、遠くで名前も知らない鳥が鳴いている。
ここはどこだ。公園にいたはずなのに。
混乱して首を回すクモンの視界の端に、白いものが映った。正面を向く。
「やぁ」
草原の上に、少女が立っていた。
いつの間にいたのか分からない。さっきまで確かに誰もいなかったはずの場所に、当然のような顔をして立っている。
白い髪が風に揺れている。金の瞳。顔立ちは整っていた。年齢はクモンと同じくらいか、少し上か。大人びた雰囲気と子供っぽい表情が矛盾したまま同居していて、不思議な印象を与える。
白いワンピースのような服を着ている。よく見ると衣服というよりも布を巻きつけたような古風な装いで、肩と腕が露出していた。
クモンの視線が、無意識に少女の胸元に吸い寄せられた。
その胸は平坦だった。完膚なきまでに平坦だった。ワンピースの布地は胸元で何の起伏も描かず、ストンとまっすぐに腰まで落ちている。クモンの心を動かす要素がこの少女の胸部には存在しなかった。
その歪まされた性癖に基づく思考が顔に出ていたのだろうか、白髪の少女がむっと眉を寄せた。
「キミ、そんな風に露骨だと女の子から嫌われるよ」
声は澄んでいた。少年のようでもあり少女のようでもある、不思議な中性的な響き。
やはり聞き覚えのない声だったが、そんな声色よりも内容の方がクモンには重要だった。
女の子から嫌われる。その言葉が、クモンの胸にぐさりと刺さった。これまで想いを寄せてきた女性たちの顔が浮かぶ。何故か一緒にキリメも出てきたが、クモンには分からない。
クモンの顔が曇ったのを見て、白髪の少女は小首を傾げた。目を瞬かせ、それからふっと表情を柔らかくする。
「嫌われたくはないみたいだね」
「あ、当たり前だろ」
「それなら、もう少し取り繕うすべを学ぶべきだよ。キミは顔に出やすい性質のようだから」
少女がクモンの頬に触れる。まるでそこにクモンの心が書いてあるかのように示すその態度に、クモンは目を逸らした。
「なるほど、なるほど。なかなか前途多難な恋路を歩いているじゃないか」
「ッ!?」
何かを言い当てるような雰囲気にクモンは少女の手を振り払おうとするが、空を切るだけに終わる。少女はいつの間にかクモンから一歩離れていた。
「そう邪険にしないで欲しいな。ボクはキミの味方だよ」
「味方って、なんで、急に」
「キミに限った話じゃない。キミみたいなヒトに、ボクは味方することにしているんだ」
薄い胸に手を当てて、自己紹介でもするかのように言う少女。異常に放り込まれて機能が止まりかけていたクモンの脳でも、その言葉が胡散臭いものだとよく分かった。
クモンの警戒心に気付いた少女が、どうしようかなと呟いて考え込む様子を見せる。クモンが口を開くより先に、少女は再びクモンの懐へ踏み込んだ。
「よし。じゃあ、味方と信じてもらえるように、キミのためになることをしてあげる。ボクがキミを占ってあげるよ」
「占い?」
「恋占いだよ。いまのキミには必要なんじゃないかな?」
少女はにっこりと微笑む。
恋占いなどというものは、クモンに縁遠いものだった。血液型がどうだの、星座がどうだと言うものよりも共感が難しい。クラスの女子がきゃあきゃあと騒いでいるのがバカらしいと思ったことすらある。
そんなクモンでも、目の前の少女が言った占いという言葉の重さは、不思議と理解してしまった。
いつの間に、どこから取り出したのか、少女の右手に短い杖が握られていた。木製の軸に、先端だけが淡く光っている。
「キミの杖を借りるわけにはいかないからね」
よく分からないことを呟いた後、少女は目を閉じた。
杖先を顔の前でくるくると回し始める。草原の風が少女の白い髪を巻き上げ、唇が何かを紡いでいた。言葉のような、歌のような、クモンの耳には意味を結ばない音の連なりだ。
数秒か、数十秒か。曖昧な時の流れの後、少女の瞼が開いた。杖が止まる。
「視えたよ」
少女は自身の懐から、一枚の紙片を取り出した。
「これに行けば、キミの憧れの人に近付けるだろう」
少女の指先から紙片が差し出される。クモンは戸惑いながらもそれを受け取った。
光沢のある厚紙。洗練されたロゴ。『ディーヴァ・アリーナ』と読めたそれは、近日オープン予定のアミューズメント施設の招待券だった。
「くれるの?」
クモンが顔を上げる。しかしそこに、少女はいなかった。
草原も、岩も、橙色の空も。全てが消えていた。
クモンは公園のベンチに座っていた。街灯の白い光が地面を照らし、錆びたブランコが風に揺れている。紺色の空には、いつの間にか一番星が微かに瞬き始めていた。
だが手の中には、招待券があった。夢ではない証拠が掌の上にある。
クモンはしばらくの間、その券面を見つめていた。冬の風が公園を吹き抜ける。頬が冷たかったが、手の中の紙片だけは少女の温もりが残っているかのようだった。
不意に、ポケットの中でスマホが震える。キリメからの追加メッセージだ。
『おい、返事しろよ』
クモンは招待券をジャケットの内ポケットに大事にしまい込んでから、スマホを取り出して返事を打った。
『今から取りに行く。ごめん』
送信して、立ち上がる。キリメの家は公園から遠くない。頭の中で地図を思い浮かべながら、クモンは歩き出した。
さっきまでの惨めさは消えていない。だが内ポケットの中の紙片は、足を前に出す力をわずかに与えてくれていた。