平日の昼下がり。ボトムレスピットの店内には客の気配が皆無だった。
カルメリエルはレジの内側に立ち、帳簿の確認をしながら店内の様子を窺っていた。カウンターの上では大穴が黒い毛の塊と化して丸くなっている。冬毛のおかげで一回り膨らんだ身体は、目を閉じているとクッションと見分けがつかない。
大穴置き場のはずのシラベは店の用事で外出中だった。問屋への顔合わせと商店街の組合に用件があるとかで昼前から出ている。ミトラは二階に籠っており、残りのレヴェローズは店内のモップ掛けを任されていた。
そのレヴェローズの機嫌は、すこぶるに悪かった。
モップの穂先は床を拭いてはいたが、その動きには明らかに覇気がない。先端が床を撫でる軌道は雑で、同じ場所を何度も往復しては意味のない水跡を残している。
何より、その横顔が物語っていた。頬を膨らませ、眉根を寄せ、唇を尖らせた、どこからどう見ても拗ねている総督閣下の顔だ。
「いい加減、機嫌を直したらどうですか」
カルメリエルが帳簿から目を上げ、穏やかな声で妹を呼ぶ。
レヴェローズは頬を膨らませたままカルメリエルを向いた。
「直せと言われて直るなら苦労はせん」
「昨日言われて納得したではないですか。いつまで頬を膨らませているんです」
「契約者が薄情なのが悪い」
昨夜のことだ。夕食後、シラベとミトラから精霊たちに告げられたのは二つ。来月のある一日を店舗の臨時休業にすること。そしてその日、ミトラとシラベが二人で遊びに出かけるということ。
遊びに行くと聞いた瞬間、紫の瞳は輝いた。
「私も一緒に連れて行ってくれ!」
当然のようにそう申し出たレヴェローズを、ミトラは一言で切り捨てた。
「駄目」
「なぜだ! 店長だけで契約者を独り占めするな! 条約違反だ!」
「駄目ったら駄目。絶対駄目。二人で行ってくるから」
食い下がるレヴェローズに、シラベが追い打ちをかけた。
「そもそも貰ったチケットがペアチケット一枚だけなんだよ。二人しか入れないの。お前らの分は無い」
「我々は精霊なのだから、入り口を通る時だけ姿を消していれば問題無いぞ」
レヴェローズはジャージに包まれた豊満な胸を張って堂々と主張した。精霊としての存在の在り方を都合よく利用する発想だけは一丁前だった。
しかしシラベは首を横に振った。
「アミューズメント施設ってのはな、どこもかしこも監視カメラだらけだ。姿を消したり出したりするタイミングをミスればどうなるか分かったもんじゃない」
「む、ぐ。だが、どこかに隙が……」
「それに、こういうところは施設内では現金を触らないようなシステムも珍しくない。入場証でスキャンして施設内の飲食やアトラクションの会計を済ませるシステムだったら、入場証無しで中にいたって何も飲めない、食えない、遊べない。つまり無断侵入しても無駄だ」
現代社会の管理システムを懇切丁寧に教え込まれたレヴェローズは、その場では渋々黙った。
だが、納得はしていなかった。それが一晩経った今日になっても、こうしてモップを握ったまま不機嫌を撒き散らしているという次第だ。
「一緒に遊びに行きたいのに……契約者の薄情者め……」
モップを抱きしめるようにして呟くレヴェローズの背中は、捨てられた子犬のように哀れだった。
カルメリエルはやれやれと小さく溜め息を吐いた。
しかし。
一緒に遊びに行きたいという気持ちだけは、カルメリエルも同じだった。
以前の秋祭りの折。カルメリエルが計画した優勝賞品による国内旅行という望みは、フルメタル神輿の活躍を何故かミトラに否定されてしまったために潰えてしまった。
結果として店と地域のために働いたという結果だけはある。だがそれとこれとは別だ。カルメリエルだって、大好きなこの店のみんなと大手を振って遊びに行きたい。
ドゥブランコの聖女としては神算鬼謀を自負するものの、ボトムレスピットのカルメリエルは、たまには息抜きがしたい普通の──普通の、と言い切るには前科が多いが──女であった。
カルメリエルはふむ、と小さく呟いた。帳簿を閉じ、糸目の奥で何かを計算する。
そして、レジの横に置かれた店の固定電話の受話器を手に取った。
*
「……分かった、その方向で手配しておこう」
『ありがとうございます、ヒナタ様』
亜修利ヒナタは社用のスマートフォンを耳に当てたまま、施設内の通路を歩いていた。
「構わない。こちらも君たちなら不足はないからね。……ところで、一つ聞きたいんだが」
『あら、なんでしょうか?』
「この番号は君にも、ミトラにも教えていないはずなんだが?」
『ええ、はい。それが何か?』
当然のことのように答える声に、ヒナタは目頭を指で押さえた。コレのせいでいっぱい食わされた記憶はまだ消えずに残っているが、それにしたってやはり常識というものから逸脱した奴だと思わざるを得ない。
「……次は私用の番号に連絡して欲しい」
『善処致しますわ』
善処。この女の口から出る善処ほど信用ならないものはない。だが追及したところで暖簾に腕押しだろう。通話を切り、ヒナタは社用スマホをスーツの内ポケットに仕舞った。
足を止め、目の前に広がる空間を見渡す。
ディーヴァ・アリーナ。デヴァローカコーポレーションが数年の歳月と莫大な資金を投じて完成させた、VR技術を中核に据えた体験型アミューズメント施設だ。
ヒナタは施設内の中央通路を歩きながら、各エリアの仕上がりを確認していた。来月のグランドオープンに向けて、内装の最終調整は佳境を迎えている。照明の色温度、動線の幅、案内表示の視認性。細部に至るまで設計通りに仕上がっているかを、ヒナタは自分の目で検分していた。
施設の準備自体は順調だった。各エリアのアトラクションは稼働試験を終え、飲食エリアのテナントも入居を完了している。スタッフの研修プログラムも最終段階に入っており、オープン当日に向けた体制は概ね整いつつある。
問題は一点。ヒナタはエリアを抜けていき、施設の中核に位置するステージエリアへと足を向けた。
VMコロッセオ。建築設計の段階からそう呼ばれていた円形のステージが、ヒナタの眼前にあった。
直径およそ三十メートルの円形フィールドを、すり鉢状の観客席が取り囲んでいる。フィールドと観客席の間には透明な特殊素材のパーティションが巡らされており、この素材がコンテンツの投影スクリーンを兼ねる。
フィールド上のプレイヤーは専用のグラスを装着し、VR空間の中で様々なコンテンツを体験する。そしてその映像が、透明パーティションにリアルタイムで投影される。観客席からは、フィールドの上にVRの世界がそのまま出現しているかのように見える仕組みだ。プレイヤーにとってはVRフィールドだが、観客からするとMR(複合現実)となっているのがVMコロッセオの名の由来だ。
今、そのフィールド上では適合試験が急ピッチで行われていた。
エインヘリヤル・クロニクルの3Dモデルデータが次々と投影され、パーティションの表面を彩っている。巨大な生命体のホログラムがフィールドの上に立ち上がり、翼を広げ、咆哮するモーションが再生される。機械タイプのカードが分解と再構築を繰り返すアニメーション。呪法の発動エフェクトが空間を歪ませる演出。
エデンパクトから提供されたデータを、ディーヴァ・アリーナのシステムに組み込む作業。月山が用意してきた3Dモデルやエフェクトデータは完成度が高かったが、施設側のハードウェアとの最適化にはやはり調整が必要だった。
ヒナタはその映像を、腕を組んで黙って見つめていた。
技術スタッフたちがフィールドの周囲で端末を操作し、投影の解像度やエフェクトのタイミングを微調整している。彼らの顔には疲労の色が滲んでいたが、手を止める者はいなかった。
「社長」
背後から声がかかった。ヒナタの秘書、丑屋だ。タブレット端末を抱えた彼女は、フィールドの試験映像を眺め続けるヒナタへ報告する。
「社長が急遽追加されたイベントについてですが、社長ご自身のスケジュールとの兼ね合いから、やはり夜のステージになると思われます。グランドオープン当日の昼間はメディア対応と来賓の案内が入っておりますので、イベント用のステージ枠を確保するとなるとこの形になるかと」
「夜で構わない。何時からのスタートになる?」
「十九時開始で調整中です。ステージ使用時間は準備含めて枠を取っておりますが、前後のコンテンツとの入れ替え時間を考慮すると余裕を持たせた方が──」
「任せる。ただ、演目のための余裕は必要だが、私のスケジュールにはゆとりを持たせる必要は無いよ。現場に最適な形で使い潰せるよう落とし込んでくれ」
横目で丑屋の顔を見るヒナタ。丑屋は頷き、タブレットに何かを打ち込んだ。
ヒナタはフィールドの上で咆哮する生命体のホログラムを見上げながら、胸の奥に沈んでいた重石の存在を改めて感じていた。
社長が独断で追加したイベント。その言葉の意味する重さを、ヒナタはこの場に立って初めて身体で受け止めていた。
通常であれば、施設のイベントの内容は半年以上前から企画され、各部門の合意を経て確定する。オープン当日ともなれば猶更だが、それを開業直前になって変更するというのは、組織として異常な事態だ。
現場の技術スタッフは外部から提供されたVR素材の適合作業に追われ、イベント企画チームはスケジュールの組み直しに奔走し、広報は告知内容の修正に頭を抱えている。
その全ての原因が、ヒナタの一存にある。
ミトラのために。あの小さなおもちゃ屋を守るために。ヒナタは自分の会社を掻き回し、社員に負担を強い、月山シジマという男の土俵に上がることを選んだ。
世界を掻き回すのはいつものことだ。ヒナタは内心で自嘲した。ミトラの為にと監視カメラを仕込み、ケーキに薬を盛り、ストーカーまがいの行為を重ねてきた過去を持つ女だ。今さら自社のスケジュールを一つ二つ捻じ曲げたところで、罪の総量は大して変わらない。
だが、それでも。
フィールドの隅で、素材の適合エラーに頭を抱えている技術スタッフの姿が目に入る。彼の疲労した横顔を見て、ヒナタの胸に針が刺さった。あの男の残業は、ヒナタの判断が生み出したものだ。
「丑屋くん」
「はい」
「技術チームに差し入れを人数分手配しておいてくれ。それと、イベント作業に参加しているスタッフに特別手当を出す準備を」
「承知しました」
金で解決できる問題ではない。だが、金すら出さないよりは遥かにマシだ。
丑屋が離れていった後、ヒナタはフィールドの縁に立ち、パーティション越しに投影されるVR映像を見つめていた。
エインヘリヤル・クロニクルのカードが、立体となって空間を埋め尽くしている。あの狭いボトムレスピットのテーブルの上では紙の束に過ぎなかったものが、ここではビルほどの大きさで目の前に聳え立つ。
この場所で、ヒナタは戦うことになる。
私用のスマートフォンが、スーツの胸ポケットの中で振動した。
ヒナタはフィールドから離れ、通路の奥へと歩いた。丑屋の視界から外れる位置まで移動してから、スマホを取り出す。
シラベからだった。メッセージアプリに短いテキストと、添付ファイルが一つ。
『例のカードプールで組んでみた。お前が扱いやすそうなやつ。リスト添付する』
ヒナタはVRイベントで使用できるカードプールをシラベに送り、その中でのデッキ構築を依頼していた。VR対戦で使用可能なカードは、エデンパクト側から提供された3Dモデルデータが存在するものに限られる。通常の紙のカードとは異なるプールの中で、最適な構築を行う必要があった。
自分で作り上げたデッキで戦いたいという思いはヒナタにもあった。だが、元よりゼロからの創造はヒナタの得意とするところではない。これまでの練習においても、誰かが組んで大会で成績を残したいわゆる環境デッキを金の力に物を言わせて組み上げて使ってきただけであり、調整程度ならまだしも完全新規の構築は今はまだ手に余る。
この頼みをした時、シラベは訝しそうにしていた。なぜ特殊なカードプールでのデッキ構築が必要なのか。ヒナタは多くを語らなかったが、君にしか頼めないとだけ伝えた。シラベはそれ以上は追及せず、了承してくれた。
ヒナタは添付されたデッキリストを開いた。六十枚の構築を目で追いながら、シラベの意図を読み解いていく。ヒナタの練度が高いアーキタイプを軸に、限定されたカードプールの中でも柔軟性を確保した構築らしい。メインの勝ち筋が潰された場合のサブプランも用意されている。少しシラベの趣味に寄っているところも見受けられるが、それも対戦を重ねたヒナタであれば意図を組みやすい。
ヒナタはスマートフォンの画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
先ほどのカルメリエルとの電話で、シラベはミトラにチケットを見せており、会場に連れてきてくれることは確認できた。
それだけではない。カラオケ店にて何度もレヴェローズの呪いに耐えながら対戦相手を務めてくれた。棋譜を書き直し、所見を添え、ヒナタのプレイングを磨き上げてくれた。そして今、限られたカードプールの中でヒナタに最適なデッキを組んでくれている。
シラベの中で、ヒナタへのこの行動がどう映っているかは分からない。仕事の一環だと思っているのか、あるいは秘密をバラされたくない一心なのか。だがどちらであっても、あの男は文句を言いながらも手を抜かない。
ミトラほどではない。当然だ。ヒナタの心の大部分はミトラという一人の女に捧げられており、それ以外の人間に割けるキャパシティはわずかだ。
だが、そのわずかな領域の中で、シラベに対する親愛の情は確かに育っていた。
友人と呼ぶことを、ヒナタはもう躊躇わない。この男は友人だ。信頼に足る、得難い友人。
初見時は思い込みからミトラを取られると危惧したものだが、今は違う。ミトラが頼るのも理解出来た。それゆえに、自分とミトラとの間に最も高く立ち塞がる壁であると思い知った。
間違いなく恋敵だ。だが、憎悪は無い。友人と思う気持ちとの矛盾も感じない。
自分とミトラとの間に挟まろうとするあらゆるものを処分しなければならないと思っていた。だがヒナタはその切っ先をシラベに向けることを、もう考えていなかった。
自身の心境の変化を、ヒナタは敢えて分析しない。今は今のままでいい。全ては終わってからだ。
親愛なる友人が、これほどまでに助けてくれている。愛する人のためにも。シラベの厚意に報いるためにも。絶対に、勝たなければならない。
ヒナタはスマホの画面にもう一度目を落とし、礼を返信してから仕舞い込む。
通路の向こうでは、丑屋がタブレットを片手にスタッフと打ち合わせをしている姿が見えた。ヒナタは足早にそちらへと向かう。
やるべきことは山のようにある。一つ一つ、片付けていくだけだ。
フィールドの上では、エインヘリヤル・クロニクルの生命体たちが、本番を待つように静かに佇んでいた。