春の朝は冷たい。だがディーヴァ・アリーナのエントランスホールに一歩踏み込んだ瞬間、空調の温もりがキリメの頬を撫でて冬の名残を吹き飛ばした。
天井が高い。見上げれば巨大なLEDパネルが虹色のグラデーションで施設のロゴを映し出しており、エントランスの床は鏡面仕上げの石材が足元を光らせている。柱一本のデザインに至るまで金が掛かっているのが素人目にも分かった。
キリメはスカジャンのポケットに両手を突っ込んだまま、物珍しさと居心地の悪さが半々になった顔で周囲を見回していた。
こういう場所には縁がない。テーマパークの類は小学校の遠足で行ったきりだし、ゲームセンターならともかく、こんな大規模アミューズメント施設のオープン初日に来るような人種ではなかった。
「キリメ姉、あっちだって。受付こっち」
クモンがキリメの袖を引いた。ダウンジャケットに包まれた小さな背中が、人の流れに慣れた足取りでエントランスの奥へと進んでいく。
クモンがディーヴァ・アリーナの招待券が手に入ったから、一緒に行こうと誘われたのがここに来た経緯だ。
どういう経緯でチケットを手に入れたのか、クモンは教えなかった。いくら訊いても「ちょっと貰った」としか答えない。怪しいと思ったが、小学生が違法な手段でチケットを入手するはずもないし、春休みで暇を持て余していたのも事実だった。
受付カウンターに招待券を差し出すと、スタッフがにこやかにブレスレット型の入館証を二つ渡してくれた。シリコン製のバンドにICチップが埋め込まれているらしく、これで施設内のアトラクションのスコア管理や飲食の会計が出来るという説明を受けた。
ブレスレットを手首に巻きながら、キリメはエントランスの外をちらりと振り返る。
ガラス越しに見える屋外には、一般入場客の行列が建物の角を曲がって見えなくなるまで続いていた。オープン初日の朝から並んでいる人々の列は長く、先頭あたりの客はキャンプ用の折りたたみ椅子まで持ち込んでいる。
招待券組であるキリメとクモンは、その行列を尻目にすんなりと入場できてしまった。
一般参加はしたくないなと素直に思った。春先とはいえ寒空の下、あの列に並んで何時間も待つのは想像するだけでうんざりする。だが同時に、なんだかズルをして先に入っている気がして、並んでいる人たちに対して申し訳なさが胸の隅をちくりと刺した。
「キリメ姉、こっちこっち!」
クモンはそんなことを微塵も気にしていなかった。キリメの手をぐいと引いて、メインフロアへと繋がるゲートを潜り抜けていく。
メインフロアは入り口側から見てワンフロア下がっており、体育館を何個も並べたような広大な空間を見渡すことが出来た。複数のエリアに区画分けされているらしい。案内図を見ると、アトラクションエリアやゲームコーナーを中心として飲食店のテナントが軒を連ねるフードコート、物販コーナー。フロアの目立つ場所にはすり鉢状の円形構造物がどんと鎮座している。
「うわ……すっげぇ」
キリメの口から、素直な感嘆が漏れた。
クモンが嬉しそうに笑って、アトラクションエリアへの通路を指差す。
「よし、じゃああっちから行こう!」
そこからは、二人で施設を回った。
VRブースでは専用のゴーグルを被り、手足に巻いたコントローラーで仮想空間を体験できた。深海を泳ぐコンテンツではクモンが歓声を上げ、宇宙遊泳のシミュレーションではキリメが思わず足元を確認してしまった。
ゲームコーナーではeスポーツ大会も開かれる格闘ゲームとコラボしたブースで腕試しと称した木人が並んでいた。投影されたキャラクターと戦うと言う体裁のパンチングマシンで、キリメが現状1位のスコアを出した事に二人で手を叩いて喜んだ。
フードコートでは観光地価格のメニューにキリメは慄いたものの、クモンは臆せずに限定メニューを次々と頼んでいく。
「おい、言いたかないが今日はあんま余裕無いんだぞ。少しは遠慮しろ」
テーブルに乗せられた色とりどりの甘味の塊が乗ったスイーツドリンクや欲張りに盛られた粉ものたちを前に、キリメはクモンに苦言を呈する。
だがクモンはキリメの言葉にピンと来ていないようだった。
「なんで? キリメ姉ダイエット中?」
「アタシは筋肉のせいで重――ちげえよ! カロリー計算の話なんざしてない! カネ! 値段! 高い!」
キリメが噛みつくように言うと、ようやくクモンは理解した。
「大丈夫だよ、今日お年玉持ってきたから足りるって」
クモンはそう言って、キリメの前にたこ焼きやスイーツを寄せてからまた席を立つ。
「キリメ姉は他になんか食べたいのある? 飲み物と一緒に取ってくるけど」
「……なんだ? クモンお前、アタシに奢るつもりかよ」
弟分の金をせびって物を食べるほどキリメは落ちぶれているつもりはない。それとも余裕が無いと言ったのを真に受けて本当に無一文だとでも思っているのか。
キリメが今月買う予定だった服飾品をいくらか諦める算段をしている一方で、クモンは何故睨まれているのか理解出来ないとばかりに首を傾げる。
「え、だって。僕が行こうって言って来てもらったんだし。呼んだ側が払わないとダメでしょ」
あっけらかんというクモンに、キリメは言葉を失う。そもそも招待券をクモンが使っている以上、そこで来てもらった云々のをチャラにすればいいものを、追加で接待のようなことをするのは過剰だろう。
「お前、なんか変なものでも食ったか?」
「なんだよそれ。食べたいの無いなら適当に飲み物持ってくるから」
クモンはそう言い残し、また売店に歩いていく。
そんなクモンの背を見ながら、キリメは思い返す。そういえば、クモンと遊びに行く時は、大抵がキリメが引っ張り回していた。そういう時の飲食代は年上のキリメが面倒を見ていたし、今日だってそのつもりだった。
だがクモンはどうやら、キリメの様子を見ていた結果、主導権を握っている側が払うべきだという学習をしていたらしい。
「……影響されやす過ぎだろ」
弟分の成長ツリーの歪さをどうするべきか、そもそも手を加えてやる必要があるのか。キリメは少し考えたあとに投げ捨てて、目の前のたこ焼きに爪楊枝を刺した。
施設内を歩いていてキリメが気づいたのは、スタッフの服装にばらつきがあることだった。
ポロシャツとビブスに統一された通常のスタッフに混じって、明らかに場違いな派手な格好をした人間がちらほらと歩いている。
最初は客かと思ったが、違った。彼女たちは来場者と一緒に写真を撮ったり、施設の案内をしたりしている。
漏れ聞こえる話を聞くと、施設公認のコスプレイヤーらしい。施設に入っているコラボ企画のIPキャラクターに扮した者たちが、フロアのあちこちでポーズを取り、来場者たちのカメラに収まっていた。
漫画やアニメに疎いキリメでも見覚えのあったキャラクターもいる。テレビで放送されていた人気アニメのヒロインらしい衣装の女性が、子供たちに囲まれてしゃがみ込んでいる。
クモンの足が止まった。
キリメはクモンの隣に並び、少年の視線が釘付けになっている方向を見た。呆れた。また美人に見惚れているのかと。
だが、その視線の先を辿っていくと、呆れは困惑に変わった。
フロアの一角に、四人の人影があった。
先頭を歩いているのは全身甲冑の騎士だった。銀色の金属板のような衣装で全身を覆い、兜のバイザーの奥に人間の顔が見え隠れしている。その目立つ風貌に来場者たちは二度見し、時折写真を撮られている。
その姿はキリメに見覚えがあった。『弱者狩りの聖騎士』、エインヘリヤル・クロニクルのエントリーセットには必ず入るような、有名な中堅生命体だ。
その騎士に先導されるように、三人の女性が続いていた。
一人目。
紫の瞳。水晶のような髪飾りで留められた金髪。灰色の軍服を片肩に羽織り、腰には紫色の六角形の結晶を模した装飾品。胸元を大きく開けた赤い装束の下には、重力に喧嘩を売るかのような質量が自己主張していた。
レヴェローズだった。
キリメの脳がフリーズした。ボトムレスピットでいつも見るのはヨレたTシャツやジャージ姿だ。ファッションセンスという概念から最も遠い場所にいた女が、今この瞬間、エインヘリヤル・クロニクルのカードイラストそのままの装いで施設のフロアを闊歩している。
しかも、似合っていた。
キリメが知るレヴェローズは、威厳を口にする割に中身が伴わない騒がしいポンコツだった。だがこの軍服と結晶に彩られた姿は、冗談のように板についている。背筋がいつもより伸び、歩幅が大きく、紫の瞳には誇りに満ちた光が宿っている。まるで別人のようでもあり、これが本来の姿なのだと言われれば納得してしまいそうでもあった。
二人目。
ピンク色の長い髪。タイトなシスター服に身を包み、糸目が穏やかに細められている。
カルメリエルだ。衣装自体はボトムレスピットで日常的に見ているものと変わらない。だが、彼女の背後に異質なものが浮かんでいた。
エメラルドグリーンの結晶で彩られた円環。直径は彼女の肩幅の倍ほどあり、後光を模したような荘厳なデザインが施されている。どういう仕掛けなのか、円環はカルメリエルの背中のすぐ後ろに浮いているように見えた。小型のドローンか何かで支えているのかもしれないが、結晶の輝きが照明を受けて緑色の光を散らしている様は、神秘的と言うほかなかった。
三人目。
キリメは目を凝らした。
漆黒の肌。長い黒髪が腰まで垂れ下がり、その一部が猫耳のようにも見える跳ね方をしている。ぼろ衣のような薄い布を身に纏った小柄な体躯。顔立ちは整っているが、どこか野性的な雰囲気がある。そして──小柄な体格に不釣り合いなほどの、豊かな胸部の膨らみ。
見覚えがない、はずだった。
エインヘリヤル・クロニクルのキャラクターは全部を把握しているわけではないし、この少女のコスプレ元が何のカードなのかもキリメには分からなかった。
だが、奇妙な既視感があった。あの黒い瞳の色。あの小柄な身体の佇まい。どこかで──ずっと近くで──
少女がこちらを見ていた。
来場者やスタッフの行き交うフロアの中で、漆黒の少女の視線だけがキリメに向けられている。
じっと、瞬きもせずに。それは不気味でもあるかもしれなかったが、不思議とキリメの警戒心は疼かなかった。
キリメがその視線に気づいたように、レヴェローズも少女の目線の先を追いかけた。少女の手を引こうとして、その視線の先にキリメとクモンがいることに気づく。
「おお! キリメとクモンではないか!」
レヴェローズが手を振りながら近寄ってきた。軍服の裾が歩くたびに翻り、来場者たちが何事かと振り返る。カルメリエルと漆黒の少女もそれに続いた。
「レべさん! カルメリエルさん! すっげぇ、かっこいい!」
クモンが目を輝かせて二人の装いを見上げている。特にレヴェローズの軍服姿のある一部分に視線が集中していた。この少年の年上好きは、衣装が変わっても発揮されるらしい。
キリメはクモンの隣で、まだ戸惑いの中にいた。
「……なんでここでこんな格好してんの」
「少しばかり伝手がありまして」
「伝手?」
カルメリエルに向かって、キリメは率直に訊いた。彼女はいつもの糸目を細めて、穏やかに答えた。
「今日限りですが、こちらの施設のスタッフとしてお手伝いをさせていただいておりますの。コスプレという文化は初めてでしたけれど、オオタさんに色々と教えていただいている最中ですわ」
カルメリエルの視線が、来場者たちからの写真撮影に応じている全身甲冑を指し示した。
キリメは甲冑の中を凝視した。バイザーの隙間から覗く顔は、確かに見覚えのある気弱そうな青年のものだった。
オオタ。あの四国無双の体験会でも戦った常連客だ。普段は物静かで、店でもシラベやキリメと話していなければ基本一人だった。その男が、全身銀色の甲冑を纏い、施設のフロアを堂々と闊歩している。
人間分からないものだ。キリメはポーズを決めているオオタの騎士姿から無理矢理視線を外す。
「コスプレって言っても、カルメリエルさんはいっつもコスプレみたいな恰好じゃん。そっちは普段通りでしょ」
「まあ、ひどい言い様ですこと。事実ですから仕方ありませんが」
カルメリエルはくすくすと笑う。事実とは言うものの、彼女の背負う後光のような器具は見たことが無い。どうやらケーブルが背中に伸びているようだが、いったいどのように背後の空中を漂っているのか見当も付かない。
キリメが頭の中で状況を整理しようとした、その時。
ぐい、と。手を引かれた。キリメの右手が、小さな力で下に引っ張られている。
見下ろすと、漆黒の少女がキリメの手首を掴んでいた。
黒い瞳がキリメを見上げている。無表情ではあったが、その眼差しには切実な何かが宿っていた。言葉はない。声も出さない。ただキリメの手を握って、じっと見つめている。
「え、えっと……」
キリメは困惑した。この少女が誰なのか分からない。エインヘリヤル・クロニクルのキャラクターのコスプレをしているらしいが、元のカードを知らないキリメには判断がつかない。
少女はキリメの手を離さなかった。それどころか、掴んだキリメの手を持ち上げ、自分自身の頭の上に乗せた。
黒い髪の感触が、キリメの手のひらに伝わった。ウィッグではないらしいが、何故か冷たく感じる。太くて艶のある黒髪が、キリメの指の間をすり抜けていく。
撫でろ。
少女は一言も発していないのに、その要求だけは明確に伝わってきた。
キリメは戸惑った。こういうの、触っていいのかも怪しい。コスプレイヤーに無断で触るのはマナー違反だとネットで見た気がする。そうでなくても化粧をしているところを触ってはダメではないか。
だが少女の方から手を引いてきたのだから、許可は出ているということだろうか。
とりあえず、撫でた。
指先で頭頂部をくるくると掻くように。力を入れすぎず、毛並みの流れに逆らわないように。家で飼っていたぶち猫で培った技術が、無意識のうちに指先に乗った。
少女の表情が変わった。
目が細まった。切れ長の黒い瞳が弧を描き、口元がわずかに緩む。硬質な無表情が溶けて、心地よくしているのが分かる。
猫のようだ、とキリメは思った次の瞬間、少女がキリメに抱きついた。
小さな身体がキリメの腹部にぶつかり、細い両腕が腰に回される。ぼろ衣の下の肌は驚くほど冷たかったが、抱きつく力は存外に強かった。キリメの腰骨に頬を押し付けるようにして、少女は動かなくなった。
キリメは片手を宙に浮かせたまま固まった。もう片方の手は少女の頭の上に乗ったままだ。
なんだこれ。なんだこの状況。
助けを求めてカルメリエルの方を見ると、シスター服の聖女は何も言わず微笑んでいた。糸目がいつもより細い。楽しんでいる顔だ。
レヴェローズは少女とキリメを見比べて、妙に得心がいったような顔をしている。クモンはぽかんと口を開けていた。
「……あの、この子」
キリメがカルメリエルに訊こうとした声は、腰に抱きつく少女のぐりぐりという頭の動きに遮られた。
撫でている手の下で、少女の喉の奥から低い音が聞こえた気がした。気のせいだろうか。それはゴロゴロという、猫が満足した時に出すあの重低音に似ていた気がした。
カルメリエルは微笑んだまま、何も言わなかった。