後悔、というほど大げさなものではない。だが、シラベの胸中にはなんでこうなったという疑問符が盛大に乱立していた。
ディーヴァ・アリーナの壁際のベンチに腰を下ろしたシラベの隣では、ミトラがパンフレットを広げて次の行き先を吟味している。
さすがに人前でシラベの膝に座るような真似はしなかったが、こうしてベンチで休憩する度にシラベの腕に頭を預けてきた。どうせ周囲からは子供の面倒を見ている程度にしか思われまいと、シラベはもたれられることを受け入れてじっとしている。
ワンピースでめかし込んだミトラは、口では「別に」「普通」「まあまあ」としか言わないものの、施設内のアトラクションをよく楽しんでいるのは明らかだった。VRコンテンツを体験した時には声こそ上げなかったが、ゴーグルを外した直後の瞳がいつもより少しだけ大きく開いていたし、体感型のリズムゲームでは淡々とハイスコアを叩き出し、スタッフに拍手された時だけわずかに耳を赤くしていた。分かりやすい奴だ。
パンフレットの地図を指でなぞりながら、次に行くエリアをあれこれ検討している横顔は、三十五歳というよりは遠足の行程表を睨んでいる小学生のそれに近い。
そこまでは良かった。シラベも楽しんでいるし文句は無い。
問題は、フロアの向こう側を悠然と歩いている金髪の軍服女だった。
レヴェローズ・ドゥブランコ。赤い装束に灰色の軍服を肩掛けにし、腰には紫の結晶をぶら下げて、カードイラストそのままの格好で来場者たちの写真撮影に応じている。その隣にはシスター服のカルメリエルが後光を模した円環を背負って微笑んでおり、さらにその後ろには漆黒の肌の少女が──あの格好は大穴だ、間違いない──ぼろ衣を纏って歩いている。
シラベは額に手を当てた。
今朝のことを振り返る。
出発前、精霊たちの態度はやけに素直だった。シラベが着替えている最中からレヴェローズとカルメリエルは大穴を抱えて額を寄せ合い何かを話していたのだ。
いつもなら文句をぶつぶつ言って来そうな場面で嫌に静かだったのだから、その時点で追求するべきだった。しかしシラベ自身も身支度をしなければならず、分かりやすくしでかしていなければそうそう口出しは出来ない。
そうこうしている内に駄々をこねていたはずのレヴェローズはカルメリエルたちと共に、碌な挨拶もせずにこにこと上機嫌で裏口から消えていったのだ。
当然、怪しいとは思っていた。いつもと違う行動はお互い様だが、レヴェローズたちが企むとなるとまぁまぁろくでもない結果に結びつきかねない。
しかし休業日に精霊たちがどこかへ遊びに行くこと自体は問題ないのだ。ボトムレスピットに一日中いる義務もないし、カルメリエルが一緒なら大惨事にはならないだろうと判断した。
甘かった。まさかディーヴァ・アリーナに先回りしているとは。しかもコスプレイヤーとして施設のスタッフに紛れ込んでいるなんて思いもしなかった。
十中八九、カルメリエルの仕業だろう。どうにかしてヒナタに渡りをつけて取引を持ち掛けたに違いない。
ヒナタの立場と店の中でそういうことが出来るのは消去法で奴らだけだ。大穴は言わずもがな、レヴェローズに何を期待するというのか。
「別に暴れてるわけでもないし、いいんじゃないの」
ミトラがパンフレットから目を上げず、シラベの肩にもたれかかったまま言う。
「なんか夜からエインヘリヤル・クロニクルのイベントもやるみたいだし。それに対応できるコスプレイヤーは、ヒナタも欲しかったんでしょ」
ミトラの視線がパンフレットの端に印刷されたイベントスケジュールを示していた。夜の部としてスペシャルステージの文字が載っている。
どうやらテープで重ねて修整してあるようで、ひょっとするとカラオケで漏らしていた変更云々のはこれのことだろうか。急遽エインヘリヤル・クロニクル関係の賑やかしが必要になったとなると、たしかに急には対応出来ないかもしれない。
「だからって、身元不明の輩を入れるなよ……」
シラベは深い溜め息を吐いた。あの三人の正体を知っているのはボトムレスピットの関係者だけで、施設のスタッフから見れば素性の分からないコスプレイヤーだ。セキュリティ的に問題がないのかと頭が痛くなるが、ヒナタが許可しているなら外野が口を出す筋合いでもない。
しばらく頭を抱えていたシラベだったが、フロアの向こう側で写真撮影に応じているレヴェローズたちを改めて観察した。
レヴェローズは来場者たちに囲まれて嬉しそうにポーズを取っている。カルメリエルは穏やかな笑顔で子供たちの相手をしていた。大穴は──漆黒の少女の姿のまま、どこか見覚えのあるシルエットのお客に抱きついているらしい。あまり迷惑を掛けないで欲しいのだが。
楽しそうだという素直な感想を口に出す気はなかったが、精霊たちが施設の客や他のスタッフと問題なく交流できている姿を見て、シラベの肩の力が少し抜けた。
案外あいつらは、アテンドする業務がよく向いているのかもしれない。
「まぁ、近寄らなければいいか」
シラベの出した結論に、ミトラも頷く。
「あいつらが来ちゃったら、いつもと同じだしね」
ボトムレスピットの二階で全員がひしめき合っている、あの騒がしい日常。せっかく外に出てきたのに、結局いつものメンバーが集合してしまうのは、ミトラとしても面白くないのだろう。
「せっかく……だし……」
ミトラの声が尻すぼみに消えた。パンフレットに顔を埋めるようにして、語尾がぼそぼそと聞き取れない。
シラベはその後半を聞き取れなかった。代わりに別の懸念が頭を占めていた。
「ああ、あいつらに近寄って、またレヴェローズがいつもの調子で抱きついてきてみろ。周囲の人間に写真撮られでもしたら絶対面倒なことになるぞ」
シラベの声が苦みを帯びた。周囲の客が善人しかいないとは到底思えない。
「コスプレイヤーが一般客に抱きついてる動画がネットに流れたら施設の評判に関わるし、俺も掲示板の賑やかしにはなりたくない」
「……そーね。その心配が妥当だわ」
ミトラの声のトーンが、微かに変わった。何かを期待して、そしてその期待が外れた時の声だ。シラベはその変化を無視した。ミトラの表情はパンフレットに隠れて見えないので気付いていない。そういうことにする。
「まぁ、夜までのんびり見て回るんなら、あいつらの行動範囲には被らないだろ」
シラベはベンチから立ち上がり、もたれかかる相手がなくなり不機嫌そうな顔をしたミトラの前に立つ。
ミトラがどう思っているかは知らない。そういうことにしていると自分で決めている。
なので、これは相手の思いを斟酌したものではない。自分がやりたいようにやっているだけだ。
「それまでは二人で見て回ろうぜ」
ミトラの手を握る。
小さな手だった。ワンピースの袖口から覗く細い手首。華奢な指。デヴァローカコーポレーションを訪問した時のエレベーターの中でこの手を握った感触を思い出した。
あの時は汗ばんでいたミトラの掌が、今日はひんやりと乾いている。
ミトラの身体が一瞬だけ強張った。
パンフレットで顔を隠したまま、ミトラは俯いていた。耳の先だけが、ワンピースの色彩との対比で鮮やかに見えた。
ぎゅ、と。握り返す力が返ってくる。
ミトラは顔を上げなかった。パンフレットを片手で持ち直し、もう片方の手でシラベの手を握ったままこくんと頷く。
「……次、あっちのエリア。まだ見てないやつがある」
声はいつもの気怠い平坦さを装っていたが、握り返す指先の力だけは嘘をつけなかった。
シラベはミトラの手を引いて歩き出す。展示品の間を抜け、まだ足を踏み入れていないアトラクションエリアへと向かう。
手を繋いだまま歩く二人の姿は周囲の来場者たちの目には親子のように映っているかもしれない。
そう思われることをミトラは嫌がるかと一瞬考えたが、握られた手は離れなかった。