ミトラが化粧室に入ってから、もう三分は経っている。
シラベはアトラクションエリアの端にある化粧室の前で壁に背を預け、天井の照明をぼんやりと見上げていた。施設内を歩き回った疲労が脚に溜まっている。
普段ボトムレスピットのカウンターの中に立っているだけの生活では、こういう場所で終日動き回る体力は養われない。それでもシラベ以上に体力の無いミトラが率先して休憩を取りたがるため、疲労感はそれほど溜まっていなかった。
壁に寄りかかったまま、何気なく右を向いた。
ヒナタがいた。
「やあ」
いつからそこにいたのか。仕立ての良いスーツに身を包んだ長身の女が、シラベのすぐ隣の壁に同じように背を預けて立っていた。
腕を組み、片足を壁に預けた姿勢は絵になるが、こちらに何の断りもなく横に立つのはやめて欲しい。心臓に悪い。
「……脅かすな」
「脅かしたつもりはないよ。通りかかったら見慣れた顔がいたものだから」
ヒナタの声はいつもの調子に聞こえた。だがシラベは、その声が荒ぶる前に釘を刺しておくべきことがあった。
「言っとくけどな。お前がペアチケットをよこしてきたから二人でいるんだからな。変な勘違いするんじゃないぞ」
ミトラと二人きりでいることを、この偏執的なストーカーにやっかまれるのは面倒だ。自分のしでかした事であっても理不尽に怒りをぶつけるかもしれないという恐れをシラベは抱いていた。ここで嫉妬を爆発されたらせっかくの一日が台無しになる。
だが、ヒナタの反応はシラベの予想を裏切った。
「ああ。ミトラが楽しんでくれていればそれでいいさ」
あのヒナタが、ミトラが他の男と一日中一緒にいることに対して、この程度の反応で済ませている。初対面の時であれば手袋を顔面に投げてきただろうし、気心の知れた今でも「ミトラの隣は本来私の席なんだがね」くらいの嫌味は飛んでくるはずだ。
肩透かしを食らったシラベは、怪訝な目でヒナタの横顔を見た。
「先日送ってもらったデッキリスト、助かったよ。ありがとう」
ヒナタが話題を変えた。声は穏やかだったが、いつもの芝居がかった装飾がない。王子様ぶった言い回しも、ミトラへの愛を織り交ぜた大仰な台詞もない。シラベに対してなのだから、当然ではある。
「いつもバイト代貰ってるんだから当然だろ」
シラベは視線を正面に戻して流した。だが、ヒナタの声色に引っかかるものがあった。
遊びがない、とでも言うべきか。この女は普段、どんな真剣な話をする時でも言葉の端に余裕を持たせる。皮肉や自虐を混ぜることはあっても、洒脱に見せかけることで本心を隠す。それが処世術であると同時に、ヒナタという人間の性質でもある。
それが今日はあまり感じられない。言葉が素のまま出てきている気がする。
「……なんか今日お前変じゃねえか」
シラベは率直に指摘した。
ヒナタは少し間を置いた。壁に預けた後頭部を微かに動かし、天井を仰ぐ。
「大事な日だからね。気合が入っているだけだよ」
施設のオープン初日だ。社長として、数年がかりのプロジェクトが日の目を見る日。気合が入るのは当然だろう。シラベは一旦そう解釈した。
だが脳の奥で、やはり何かが引っかかっている。断片的な情報が、パズルのピースのように散らばっていた。これまでのヒナタの行動、見てきた情報が、シラベの口を開かせた。
「今日の夜のステージ」
シラベは壁に背をつけたまま、隣のヒナタに視線を向けた。
「お前、カードで対戦するのか」
ヒナタの表情が動かなかった。
肯定も否定もしない沈黙。だがその沈黙そのものが、シラベにとっては十分な回答だった。
理由を促されている気がした。なぜそう思ったのかを、説明しろと。シラベは言葉を選びながら考えをまとめていく。
「寝不足になりながらも、お前は俺との練習の時間を削ろうとしなかった。お前は自分自身の力量の足りなさを自覚し、それを今日までに補おうとしていたんじゃないか」
シラベは指を折りながら続けた。
「エインヘリヤル・クロニクルのステージは、パンフレットにシールを上貼りして追加されてる。つまり印刷後、急遽ぶち込まれた案件だ。前に言っていた計画変更ってこれだろ」
ヒナタはシラベに目を合わせない。天井を見上げたまま、何も言わない。
「頼まれていた限定カードプールも、その中身は比較的新しいカードが多かった。宣伝も兼ねているデカい箱での対戦なら、古いカードや分かりにくいのを除いて限定した環境下にするのも分かる。何より、ミトラも知らないようなカードプールでの対戦をお前が準備するなんてよほどの事態だ」
「……」
「俺に頼ってまでミトラを呼びたがったのは、お前がカードで活躍する場を見せたかったんじゃないか。単純にミトラにモーション掛けたいなら、オープン時のクソ忙しい時じゃなくて落ち着いてから貸切でもなんでもお前ならさせるだろうしな」
シラベは最後に一つ付け足した。
「あとは勘」
互いに黙り込んだまま、時が流れる。
ヒナタが小さく息を吐いた。自嘲とも感嘆ともつかない、短い吐息だった。
「まぁ。だいたいお察しの通りだ」
ヒナタは壁から背を離し、シラベの方に体を向ける。腕を組み直し、その目がシラベを真っ直ぐに見据えていた。
「ボトムレスピット近くの商店街、あそこの再開発計画を知っているかい」
「再開発? ……ああ」
シラベの立場では、風の噂程度だ。時折顔を出す組合でそういう類のことを言っていたかもしれないが、あくまで代理の立場のシラベでは踏み込むことじゃないと距離を取っていた。
「あの商店街を含む区画が、再開発の対象になっている。主導しているのはエデンパクトという不動産会社だ。計画が進めば、既存の店舗は取り壊される」
シラベの頭の中で、もう一つのピースが嵌まった。
「ボトムレスピットも、か」
「ミトラは以前こう言っていた。あの場所から無くなったら、そのまま畳んで終わり、と」
ヒナタの声は淡々としていた。だが、その態度の下に横たわっているものの重さを、シラベは感じ取っていた。
「私はそれが嫌だから、邪魔することにした」
「誰に頼まれた訳でもないのに、ご苦労なことだな」
「愛情に理由をつける方が無粋だろう?」
ふふん、と自慢げに語るその姿だけは、いつものヒナタの様子に重なる。だが憂いている事実は彼女の表情を暗くさせる。
「私は計画の修正案を相手方に持ち込んだ。既存店舗を残す形でのリノベーションプランだ。それを検討するための条件を、先方はつけてきた」
「条件」
「今夜のVRステージでの対戦。私が勝てば計画修正。負ければ予定通り」
シラベは顔をしかめた。
「……頭の悪いホビー漫画の悪役みたいな真似する奴だな」
「同感だよ」
「まぁ、頑張れよ」
それ以上の言葉は出てこなかった。シラベにできるのは練習に付き合うことと、デッキを組んでやることだけだ。そのどちらもすでにやり終えている。あとはこの女が勝つのを信じるしかない。
ヒナタは微かに口元を緩めた。だが、その笑みはすぐに別の色を帯びた。
「もちろん頑張るさ。私も清い体でミトラと関係を結びたいからね」
「……どういう意味だよ」
シラベの声が低くなった。清い体。その言い回しは冗談で使う言葉ではない。
「私が負ければ、賭けの代償として個人的な時間を提供することになっている。相手方の男にね」
ヒナタの声は平坦だった。感情を殺しているのではなく、すでに覚悟の上で受け入れた人間の声だった。
シラベは黙った。
脳裏に浮かんだのは、カラオケのソファで眠りに落ちたヒナタの顔だった。疲労と苛立ちを削ぎ落とされた、無防備な横顔。
今のヒナタの顔を見る。狂愛で象られた美しい顔には、責任感とでも呼ぶべきものが塗布されていた。
この女が、そんな代償を背負って戦いに臨もうとしている。ミトラの店を守るために。
舌打ちが出た。
「ふざけた真似すんなよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。ヒナタに対してか。その条件を飲ませた相手方の男に対してか。あるいは、今の今までそんな事情も知らずにのんびりデッキを組んでいた自分自身に対してか。
不意に、シラベの視界が陰る。
彼女の手が、シラベの頭の横の壁に叩きつけられていた。
シラベの身長の方が少し高いはずだが、壁に寄りかかった姿勢とヒナタのヒールのある靴のせいで、目線はほぼ同じ高さだった。至近距離にヒナタの顔があった。アッシュグレーの髪と、整った顔が視界を埋め尽くす。
シラベとヒナタの胸元は完全に密着していた。ワイシャツ越しに押し付けられる柔らかさと体温が、シラベとの距離を隙間なく塞いでいた。
「少し話しすぎた」
ヒナタの声が近い。吐息が唇に触れるほどの距離だ。
「君との密会はほどほどにしないと、ミトラがヘソを曲げてしまうかな」
細い指先が持ち上がり、シラベの唇に乗せられた。人差し指の腹が唇を軽く押さえ、しぃ、とジェスチャーをする。
シラベは目の前の顔をじっと見返した。心臓がうるさい。それは認める。だが、この女にペースを握られるわけにはいかない。
「そう言うんなら。こういうことは、ミトラにやれよ」
唇に乗った指を、視線だけで示す。
「お前の言う通り、こうやってるのがミトラに見つかって、またミトラの機嫌が悪くなったらどうすんだよ」
ヒナタの目が一瞬だけ揺らいだ。それからゆっくりと微笑んだ。いつもの芝居がかったそれとは違う、もっと静かな笑みだった。
「そうだね」
ヒナタの唇がシラベの耳元に寄った。ワイシャツの布越しに伝わる心臓の鼓動が、ヒナタのものなのか自分のものなのか判別がつかなくなった。
「でも、こうして君で試すのはミトラにしてあげる時の良い練習になるし」
囁き声が鼓膜を震わせる。
「私自身は、君にこうすることは嫌いではないよ」
耳の奥が熱くなった。言い返そうとした言葉が喉に詰まる。この距離で、この声で、この体温で囁かれて平静を保てるほど、シラベは鉄で出来てはいなかった。
ヒナタはシラベから離れた。壁に押し付けていた手を下ろし、一歩後退る。
「何はともあれ、だ」
声が通常の距離に戻った。だがその目は、先ほどまでの静かな笑みを残したまま、シラベを真っ直ぐに射抜いていた。
「夜のステージには、必ず来てほしい。ミトラを連れて、ね」
それだけ言い残して、ヒナタは踵を返した。スーツの背中がフロアの人混みに溶け込んでいく。すれ違う来場者たちがヒナタの姿に振り返っているのが視界の端に見えたが、ヒナタは誰の視線も受け止めずにまっすぐ歩いていった。
シラベはその背中が完全に見えなくなるまで、壁に背をつけたまま動けなかった。
やがて、ずるずると壁に沿って腰が落ちた。
床の冷たさが尻を突き抜ける。座り込んだ格好のまま、シラベは両膝の上に腕を置き、額を腕に押し付けた。
「……心臓に悪い真似しやがって」
胸の奥で暴れている鼓動が、なかなか収まらなかった。
あの女は分かってやっている。自分がこういうことをされたら動揺するということを。というか、対人経験を積んでいようがいまいが、人前で男装の美女に壁ドンされて耳元で囁かれて平気でいられる人間なんて存在しない。少なくともシラベには無理だった。
何故自分を動揺させる必要がある? その疑問が浮かぶが、シラベは答えられない。
呼吸を整える。数を数える。一、二、三。心拍が落ち着いていくのを確認してから、シラベはゆっくりと立ち上がった。
示し合わせたように、化粧室のドアが開き、ミトラが出てくる。
「お待たせ。……何してたの、座り込んで」
「いや、ちょっと疲れて」
「だらしない。ほら、次行くわよ」
ミトラの小さな手がシラベの手を掴んだ。握るのではなく、引っ張る。有無を言わさない店長の手つきは、今はありがたい
シラベはその手に引かれるまま歩き出した。
『ミトラには内緒にしておいてくれ』。
ヒナタの指先の感触が、まだ唇に残っていた。