カスレアクロニクル   作:すばみずる

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94 面白そうだったら起こして

 夕暮れのディーヴァ・アリーナは、昼間とは異なる表情を見せ始めていた。天井を照らす間接照明の色温度が暖色に切り替わり、フロア全体が琥珀色の光に包まれている。

 

 メインフロアの人口密度は昼のピーク時よりも落ち着いていた。家族連れの多くは夕食の時間帯に合わせて帰路についており、残っているのは夜の部に向けて滞留している客か、フードコートで腹ごしらえをしている層だ。

 

 人波を縫うようにしてシラベは歩く。

 

 その腕の中に、ミトラがいた。

 

 シラベの左腕にミトラの尻が乗り、右腕が背中を支え、ミトラの両腕がシラベの首に回されている。幼児を抱えた父親そのものの構図だが、抱えられているのは三十五歳の個人事業主であり、抱えているのは二十五歳のバイトだった。

 

 傍から見れば親子にしか見えないだろう。身長差と体格差がその誤解を全力で後押ししている。ミトラの体重は成人女性のものとは思えないほど軽く、シラベの腕への負荷は買い物袋と大差ない。

 

「もう帰っていいんじゃないの」

 

 ミトラの声がシラベの鎖骨あたりからくぐもって聞こえた。顔をシラベに押し付けたまま、ぼそぼそと呟いている。

 

「一通り回ったし。足疲れたし。眠いし」

 

「ガキかよ」

 

「うるさい。歩きすぎた。パンプスで来るんじゃなかった」

 

 カルメリエルが以前ワンピースに合わせるために用立てたパンプスは確かに見映えは良かったが、一日中施設内を歩き回るには不向きだったらしい。途中で足が限界に達したミトラが、ベンチに座ったまま動かなくなり、仕方なくシラベが抱え上げたのが十五分ほど前のことだ。

 

 ミトラが抵抗しなかったのが全てを物語っている。普段なら蹴りの一つも飛んでくるところだが、今日のミトラは素直にシラベの腕に収まった。疲労がプライドを上回ったのだろう。あるいは、今日一日の空気がそうさせたのか。

 

「まだ帰んねえぞ。ECのステージがあるんだから」

 

「……別に。興味ない」

 

「嘘つけ。さっき予告映像見てた時、目ぇ光ってたぞ」

 

 ミトラの額がシラベの胸にぐりっと押し付けられた。図星を突かれたごまかしらしい。

 

「あんたが見たいだけでしょ」

 

「俺だって疲れてるっつの。でもせっかく来たんだし、夜の部まで見て帰ろうぜ」

 

 ヒナタとの約束がある。夜のステージには、ミトラを連れて必ず来てほしい。その言葉の重さをシラベは忘れていなかった。

 

 ミトラは何も言わなかった。反論しないのは、了承の意思表示だ。シラベはミトラを抱えたまま、フロアの案内表示に従ってVMコロッセオの入場口へと足を向けた。

 

 

 *

 

 

 VMコロッセオの入場口は、メインフロアから一段下がった位置にあった。

 

 すり鉢状の円形構造物。昼間に外から見た時は巨大な置物のようにしか見えなかったが、実際に入場口に立つとその規模が改めて実感できる。コンクリートの壁面に沿って観客席へと続くスロープが伸びており、誘導スタッフが手際よく来場者を振り分けている。

 

 シラベがブレスレット型の入館証をスタッフにかざすと、端末が短い電子音を二度鳴らした。

 

「招待券でのご入場ですね。こちらのお席にご案内いたします」

 

 一般客とは別の通路に案内される。通された先は、ステージに対して斜め前方の位置にある区画だった。一般席よりも一段高い位置に設けられた座席は視界が開けており、円形フィールドの全体を見渡せる。関係者席、あるいはそれに準じる扱いなのだろう。既に何人か、身なりの良さそうな客も座っている。

 

 シラベは端の席に腰を下ろした。

 

 ミトラを降ろす──つもりだった。だがミトラの両腕はシラベの首から離れなかった。

 

 そのまま、ミトラはシラベの膝の上に収まった。

 

 正面からシラベの胴体にしがみつくような姿勢だ。シラベの胸に顔を埋め、両腕を首に回し、脚はシラベの腿の横にだらりと垂れている。コアラが木にしがみつく格好に近い。

 

「おい。ステージ始まるんだからちゃんと見ろよ」

 

「面白そうだったら起こして」

 

「寝んなよ」

 

「疲れた」

 

 ミトラの声は既に半分溶けていた。シラベの胸元に顔を埋めたまま、微動だにしない。ワンピースの裾からはみ出した足先が、もう靴を脱いでいることを示している。パンプスはシラベの足元に転がっていた。

 

 シラベは天井を仰ぐ。この体勢ではミトラの重みが腿と腹に集中するが、いかんせん軽い。膝の上に座布団を乗せている程度の感覚だ。身体的には残念ながら問題が無い。伝わってくる体温も心地よい。

 

 問題は体勢そのものではなく、公衆の面前で子供を抱っこしたまま着席している大人の絵面がどう見えるかという一点に尽きる。

 

 まあいい。親子連れなんてどこにでもいる。そう自分を納得させたシラベが、ステージの方に視線を向けたところで。

 

「っと。隣、スイマセン」

 

 隣の空席に、誰かが腰を下ろした。遠慮がちに声をかけながら着席する人間は珍しくもないが、シラベの耳がその聞き覚えのある声に反応した。

 

 顔を向けると、スカジャンの女がいた。その後ろには見覚えのあるガキの顔もある。

 

「キリメに、クモン。お前ら来てたのか」

 

 兼定キリメ。すぐ隣に座った彼女は、声を掛けられた瞬間にきょとんとした顔をシラベに向けた。三白眼が数回瞬きをし、それからシラベの顔を認識する。

 

「シラベ? えっ、なんでいんの」

 

「こっちのセリフだよ。ここ関係者席なんじゃないのか」

 

「そっちこそ。アタシらは招待券で来てるだけだっつの」

 

 キリメの後ろから、小さな人影がひょこりと顔を出した。

 

「シラベさん、こんばんは」

 

 橋谷クモン。ダウンジャケットに包まれた小学生は、キリメの隣に滑り込むように座った。リュックを膝の上に抱え、シラベに向かってぺこりと頭を下げる。敵愾心を抱いている相手だろうと咄嗟にこういう所作が出るのは、根が真面目な奴だとシラベは思う。

 

「二人で来たのか」

 

「ああ。クモンが誘ってくれて」

 

 キリメが親指でクモンを示しながら答える。その動作の途中で、キリメの視線がシラベの膝の上に固定された。

 

 シラベの胸にしがみついて微動だにしない小さな塊に、キリメは首を傾げる。

 

「……なんだその子」

 

 黒い髪が見えるだけで顔は完全にシラベの胸に埋まっており、ワンピース姿の小さな体がくっついている。キリメが疑問に思うのも無理はない。

 

「どっかで引っ掛けた? 条例違反?」

 

「お前が言うなよ」

 

 言い返しつつ、シラベは考える。

 

 変な疑いをもたれるくらいなら、ミトラの顔を見せてやるのが早い。キリメも店内でミトラを見掛けた覚えもあるだろう。だがそうなると、そもそも店でうろちょろしているこの子供は一体なんなのかという疑問も付いて回る。

 

 ミトラの正体──ボトムレスピットの店長であること──をキリメは知らない。キリメに限った話ではなく、店に通う客の多くはミトラと店長という肩書を結びつけていない。ミトラが店頭に立つ機会は限られているし、立ったとしても店長の家族の手伝いとか、適当に流してしまうだろう。

 

 詳細を言うのも面倒だ。

 

「知り合いの子と一緒に来てたんだよ」

 

 シラベは適当にでっち上げ、それから膝の上のミトラの肩を軽く叩く。

 

「ほら、挨拶しな」

 

 ミトラは動かなかった。シラベの胸に顔を押し付けたまま、石像のように固まっている。

 

 シラベとしてもその方が都合が良い。下手な顔見知りではない方が興味を抱かれないだろう。ミトラがその方向で乗ってくれたのは助かる。

 

 それに、店の常連が二人もいるこの状況で、シラベに抱っこされているところで顔を晒すわけにはいかないのだろう。ミトラの矜持がそれを許さない。

 

「悪い、疲れて寝ちまってて」

 

「ふーん」

 

 キリメはそれ以上の関心を示さなかった。子供が寝ているなら仕方ないか、程度の反応で、すぐに視線をステージの方へと戻す。

 

 クモンの方は一瞬だけシラベの膝の上のミトラを見つめていたが、キリメに倣ってステージに目を移した。

 

 シラベは内心で安堵し、膝の上のミトラの背中を軽く叩いた。大丈夫だ、バレてない。その合図を受け取ったのか、ミトラの指先の力がほんの少しだけ緩んだ。

 

 だが顔は上げなかった。

 

 

 *

 

 

 VMコロッセオの照明が落ちた。

 

 観客席のざわめきが一斉に静まり、暗闇の中に浮かぶのは円形フィールドを囲む透明パーティションだけだ。ガラスとも樹脂とも異なる特殊素材の表面が、微かに青白い光を帯びて輪郭を描いている。

 

 フィールドの中央にスポットライトが一本落ちた。

 

 そこに立つ男性MCが、マイクを手にゆっくりと口を開く。

 

「皆様、本日はディーヴァ・アリーナのグランドオープンにお越しいただき、誠にありがとうございます」

 

 拍手が湧いた。MCは一礼した後、声のトーンを上げる。

 

「夜の特別ステージ。まずは皆様にお届けしたい、とっておきのニュースがございます」

 

 パーティションの全面に映像が投影された。

 

 暗い画面の中に、見覚えのある紋章が浮かび上がる。九つの枝を持つ世界樹の意匠。その根元に刻まれた、古めかしいルーン文字のようなロゴタイプ。

 

 エインヘリヤル・クロニクル。

 

 ロゴが砕け散り、その向こうから新しい画面が姿を現した。スマートフォンの筐体を模したフレームの中に、カードゲームの盤面がフルCGで再現されている。

 

「エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉──スマートフォン向け新作アプリの正式発表です!」

 

 会場がどよめいた。

 

 ティザーサイトはネット上にあり、様々な情報は出回っていた。だが具体的なゲーム画面やリリース時期についての情報はこれまで伏せられており、噂と憶測だけが先行している状態だった。夜まで残った気合の入ったプレイヤーなら感嘆の吐息の一つも出る。

 

 パーティションに映し出されるプロモーション映像。カードの効果処理がアニメーションで演出され、生命体がフィールド上を駆け、戦術カードの発動が派手なエフェクトを伴って再現されている。紙のカードでは表現しきれない臨場感が、映像の隅々にまで詰め込まれていた。

 

 シラベは映像を目で追いながら、頭の中で描かれているカードの情報を基に棚卸しをしていた。カードプールの広さ、操作のテンポ感、エフェクトの質。短い映像の中から読み取れる情報を拾い上げていく。

 

 予想通り、ヒナタから受け取ったカードプールはこのアプリが準拠している。対戦のテンポは紙より早そうだ。効果処理の自動化による恩恵だろう。だが処理の解決が紙と同じに出来るかどうかは、この映像だけでは分からない。裁定が紙と違えば、別のゲームになりかねない。

 

(俺のスマホでも動くかな、これ)

 

 切実な心配が頭を過る。ミトラから支給されている中古のスマートフォンは、最新ゲームを動かすにはスペックが怪しい。動いたとしてもバッテリーの消耗が恐ろしいことになるだろう。

 

 シラベの胸元で、ミトラの顔がわずかに動いた。

 

 埋めていた顔を少しだけ横にずらし、片目だけでパーティションの映像を覗いている。寝ていたふりはどこへ行ったのか、その目は映像の細部を追っている目だった。

 

 映像が切り替わる。エリューズニルの配信開始予定日。事前登録のQRコード。そしてオリジナルカードの先行収録情報。

 

「カードプールは紙と同期させねえのか? wiki見るのめんどくさそうだな」

 

 シラベの独り言をよそに、興奮した様子のキリメがシラベに話し掛ける。

 

「今の見たか? なんかすごそうじゃん」

 

「ん、ああ。演出すげえな。紙のイラストとは印象変わるだろ」

 

「実際に遊べんのかな。ちょっとやってみたいかも」

 

 キリメの声には素直な期待が滲んでいた。ボトムレスピットで紙のカードに触れていた人間にとって、そのデジタル版となれば興味を惹かれない方がおかしい。

 

 プロモーション映像が終わり、会場に拍手が広がった。MCが再びフィールドの中央に戻る。

 

「さて、続きまして──本日のメインイベントでございます」

 

 照明がさらに絞られ、フィールド上のスポットライトが一点に集中した。

 

「エインヘリヤル・クロニクル〈エリューズニル〉の先行体験を兼ねた、VRステージを使用したスペシャルエキシビションマッチ!」

 

 パーティションに新たな映像が映し出される。VR空間内に再現されたカードゲームの盤面。だが先ほどのスマートフォン版とは規模が違う。フィールド全体が三次元のバトルフィールドとして構築されており、カードから召喚された生命体が実物大のスケールで投影されている。

 

 これが先ほど昼間に体験してきたブースの延長線上にあるものだと理解した客たちの興奮が伝播していく。

 

「一人目のプレイヤーをご紹介いたします」

 

 MCが右手をフィールドの入場口へと差し向けた。

 

「本施設の運営会社、デヴァローカコーポレーション代表取締役──亜修利ヒナタ様です!」

 

 入場口からスポットライトの帯が伸び、その光の中に人影が現れた。

 

 最初に目に飛び込んできたのは、肌の露出だった。

 

 金属の装飾パーツが鎖骨から肩を覆い、チョーカーからぶら下がる紅色の結晶を模したアクセサリーが胸元で揺れている。そしてその胸元を覆っているのは、布面積という概念を放棄したかのようなビキニ型の胸当てだけだった。腹部は完全に露出し、鍛えられた腹筋のラインが照明に照らされている。腰回りには紅色の結晶と半透明の布地が垂れ下がり、太腿の付け根あたりまでしか隠していない。

 

 ヴェルガラ・ドゥブランコ。ドゥブランコ王家の第一王女にして最強の戦闘狂。そのカードイラストを忠実に再現した衣装を身に纏った亜修利ヒナタが、長い脚でフィールドに踏み出した。

 

 その両脇に、二つの影が従っている。

 

 赤い装束に灰色の軍服。金色の髪を靡かせたレヴェローズ・ドゥブランコが、姉の隣を堂々と歩いている。反対側にはシスター服に後光の円環を背負ったカルメリエル・ドゥブランコが、穏やかな微笑みを湛えて続いていた。

 

 ドゥブランコ三姉妹の揃い踏み。そのキャラクターを知る者も知らぬ者もいるだろうが、ビジュアルだけで破壊力満点の様子に会場が沸いた。歓声と拍手が入り混じり、スマートフォンのフラッシュが無数に瞬く。

 

 シラベの隣で、キリメが素っ頓狂な声を上げた。

 

「うわぁ」

 

 それが衣装の過激さに対するものか、三姉妹の登場に対するものか、あるいはその両方か。キリメはヒナタに釘付けになっている。

 

 クモンもまた、キリメの陰で目を見開いていた。顔が耳まで赤い。ヒナタの姿に動揺しているのは明白だったが、小学生にあの衣装を直視させるのは教育上問題があるのではないかとシラベは一瞬考える。

 

「何やってんだあのバカ」

 

 シラベの口から呆れが漏れた。だがその手は既に動いていた。

 

 上着の内ポケットからスマートフォンを抜き出し、カメラアプリを起動する。フィールドに向かってレンズを向け、シャッターを切った。

 

 画面を確認する。白い。パーティションの特殊素材が照明を反射し、ヒナタの姿が白飛びしていた。

 

 角度を変えて二度目。今度はパーティション表面の投影映像とヒナタの実像が重なり、何が何だか分からない絵面になった。舌打ちが出た。

 

「……これ撮れねえな」

 

「何やってんのよ」

 

 シラベの胸元から、冷たい声が上がってきた。

 

 ミトラだ。片目でステージを覗いていた彼女は、シラベがスマホを構えているのを見咎めたらしい。寝ているふりはもう完全に放棄していた。

 

「いや、記録用に……」

 

「嘘つき。あんた今、ヒナタの写真撮ろうとしたでしょ」

 

「記録用だっつってんだろ。店舗ブログに載せてもいいだろこれくらい」

 

「ふーん」

 

 ミトラの声の温度が二度ほど下がった。だがそれ以上の追及はなかった。シラベの胸に顔を埋め直し、ステージの方に片目だけを向けている。

 

 その目は、フィールドを歩くヒナタの姿を、静かに見つめていた。

 

 ヒナタがフィールドの中央に立ち、MCからマイクを受け取った。パーティション越しでも分かる堂々とした佇まいは、カードゲーマーのそれというよりは舞台役者のそれに近い。

 

「本日はお集まりいただきありがとうございます。デヴァローカコーポレーション代表の亜修利です」

 

 ヒナタの声がスピーカーを通じて観客席に響いた。いつもの芝居口調は封印されており、声音はあくまでフォーマルだ。だがその中に、シラベの耳だけが拾える熱がある。ボトムレスピットやカラオケボックスで何度も聞いた、カードゲームについて語る時だけ現れるあの真剣さだ。

 

「今夜のスペシャルマッチは、先ほどご紹介したエリューズニルの映像を活用した施設独自の演出と共にご覧頂きます。そして──」

 

 ヒナタは一拍、間を置いた。

 

「二人目のプレイヤー。私の対戦相手は、本日この会場にお越しのお客様の中からお一人に、お願いしたいと思います」

 

 会場に再びどよめきが走った。この大舞台での対戦に、一般客が参加できる。エキシビションマッチの常套手段ではあるが、それでも観客の興奮を煽るには十分だった。

 

 ヒナタがMCにマイクを渡し、MCが観客席を見渡す。

 

「それでは、対戦相手の方のお名前を発表いたします──」

 

 MCの手元にあるカードが、スポットライトに照らされる。

 

「──橋谷クモン様!」

 

 キリメの隣で、小さな体が跳ねた。

 

「えっ」

 

 クモンの声が裏返った。リュックを抱えた手が強張り、キリメが隣の少年を見やる。

 

「クモン、お前──」

 

「う、嘘だろ」

 

 クモンの顔から血の気が引いていた。いや、引いた次の瞬間には逆に赤くなっていた。白と赤が交互に入れ替わる信号機のような顔色の変遷を経て、小学生は完全に固まってしまっていた。

 

 スポットライトが客席を走査し、関係者席の方角を照らし出す。

 

 シラベはクモンの横顔を見た。目を見開き、口を半開きにし、理解が追いつかない表情で硬直している。

 

 数時間前、ヒナタから明かされた情報をシラベは思い出す。この対戦はヒナタの言うところの賭けの対象になっている筈だ。負ければクズに個人的な時間を提供するとシラベは認識している。

 

 その戦いに、小学生を選出する意味が分からない。賭けの相手本人が登壇しないのは、カードの腕に自信が無いからという理屈で分かる。だが、仕込みでも何でもなさそうなクモンを祭り上げるのはどういうことだ?

 

 決定権がヒナタにあり、賭けをぶち壊すために選んだのか。あるいは小学生相手ならヒナタも手加減すると考えたのか。クモンが頭で生じさせているパニックとは別種の困惑が、シラベの頭にあった。

 

『急に選ばれてビックリしちゃったかな?』

 

 会場に響き渡ったのは、先ほどのMCのものとは違う。男のような、女のようでもある、中性的な声。

 

 シラベがステージを見やると、ステージを覆うパーティションに、白髪の少女の姿が投影されていた。その少女の口の動きに合わせて、アナウンスがされている。

 

『でも大丈夫、ボクがサポートしてあげよう。さぁおいで、クモン君』

 

 その言葉と共に、白髪の少女はふっと姿を消す。照明の無いステージの端で何人か走るような人影が見えたが、シラベにはそれ以上は分からない。

 

「今の、演出……だよな? あれも収録カードなのか? 見たこと無いけど」

 

「いや、違う。あいつは収録されるわけがない」

 

 クモンの名が高らかに呼ばれた事に未だ驚きが隠せないキリメが独り言のように呟き、シラベがそれを否定する。

 

 急な否定の言葉に、キリメは眉根を寄せる。

 

「カードプール知らないのに断言するじゃん。そんなにあり得ないのかよ」

 

「……マジで昔のカードなんだよ。『全てを喰らう大穴』とほぼ同期に出て以来、そっから再録されてねえんだ。そんな古いカードが最新アプリで収録される訳が無い」

 

 既にヒナタからカードプールを見せられているから、とはもちろん言えない。だがシラベが語った事も嘘では無かった。先ほど投影されていた少女は黎明期のカードであり、エインヘリヤル・クロニクルにストーリーが生じ始めた狭間に生まれたものだ。

 

 レヴェローズたちが存在していた『戦乱葦野(ミズガルズ)』とは異なる脊界、『淫蕩白野(ヴァナヘイム)』に住まう、ろくでなしの一柱。

 

「『白き円環の(グウェンディ)ノルドリッチ』。……でも、なんであいつが今出てくる?」

 

 美少女カードという概念が無かった頃において、肖像画のような筆致であっても美麗に描かれた珍しいカード。性能に派手さは無いものの未だ上位互換は出ていないのは、開発チームでもある種の基準になっているのかもしれない。

 

 ヒナタを取り囲む異様な状況が漏出していくような状況に、シラベの中で緊張感が高まる。抱いていたミトラの背を無意識に強く掴んでしまうが、ミトラは何も言わない。

 

「クモン」

 

 シラベは自分の頭を無理矢理動かし、固まったままのクモンに声をかけた。クモンの目がシラベに向く。震えている瞳は今にも意識を失いそうだ。

 

「行ってこい」

 

 そう言ってやるしかない。呼ばれてしまっているのはクモンだ。ここでヒナタについての何かを語ったところでどうにもならない。

 

 改めて声を掛けられてようやく気を持ち直したのか、クモンは唇を結び、一つだけ頷いた。リュックを椅子の上に置き、立ち上がる。

 

「おい、クモン! ……マジかよ」

 

 キリメは呆然とした顔で、クモンを見送ることしか出来なかった。

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