インカムの向こう側が騒がしい。
ヒナタの耳に装着された小型のイヤホンには、運営スタッフ間の通信チャンネルが繋がっている。ステージ上の照明と音響を制御するブースの人間、フィールド内の機材を管理するエンジニア、そして客席の誘導担当。それぞれの声が入り混じり、一つの疑問を共有していた。
『──あの白髪の女の子の映像、どこから出したんですか? こっちのコンテンツサーバーに該当するデータ無いんですけど』
『投影システムのログにも痕跡が無い。パーティションの制御は全部うちで管理してるはずなんだが』
『マイクも全部管理してたよね? あの声どこから拾った?』
困惑が波紋のように広がっていく。ヒナタはフィールドに立ったまま、表情を動かさずにそれを聞いていた。
白髪の少女について、ヒナタもまた、あれについては何一つ知らなかった。演出の打ち合わせにあの少女の映像は含まれていない。
月山が仕込んだものだという推測は立つ。だが技術的な手段が分からない以上、スタッフが混乱するのは無理もない。
ヒナタは視線だけを動かし、傍らに立つカルメリエルを見た。
シスター服に後光を模した円環を背負った彼女は、観客席に向けた穏やかな微笑みを崩さないままでいる。だがヒナタが視線を向けたのを察知したのか、ヒナタに見える角度だけで僅かに首を傾けた。
「カルメリエル」
声を落とし、唇の動きが客席から読まれない角度で囁く。
「先ほどの映像。あの少女について、何か分かるかい」
「ええ」
囁くような声だった。客席の歓声に紛れて、ヒナタの耳にだけ届く音量。
「あの少女は精霊ですわね」
廊下で月山の後ろを歩く白髪の少女を見た時には得られなかった確信が、カルメリエルの一言で形を成した。ヒナタの推測は正しかった。月山シジマの傍にいたあの少女は、レヴェローズやカルメリエルと同じ、カードの精霊だ。
ヒナタは頷き、インカムのチャンネルを切り替えた。スタッフ全体の通信から、月山個人に繋がる回線へ。事前にこちらから指定した周波数だ。
「月山社長」
『おや、亜修利社長。何か問題でも?』
月山の声はいつもと変わらず穏やかだった。
「先ほどの少女──あの方が、おっしゃっていた万一の時のスタッフということでよろしいですね」
一拍の間。
『……あまり驚いていないようですね』
月山の声に、わずかな意外さが混じっていた。
ヒナタはその反応を注意深く咀嚼した。あまり驚いていない、と言った。つまり月山は、ヒナタがあの少女を受け入れる想定をしていなかったらしい。
「なるほど。月山社長はご存じだったようだ」
『失礼しました。本来であれば事前にお伝えすべきでしたが、彼女の登場はサプライズの一環でして──こちらの判断で差し込ませていただきました』
担当スタッフが困惑している以上、嘘なのは明白だ。だが月山がそう言うのであれば、それをこの場で追及する実益はない。
「承知しました。先ほどの少女はサポートと言っていましたが、彼女がゲストプレイヤーをリードしてくださるということですね?」
『ええ。ステージに上がった後はお任せください。彼女がきちんと導きますから』
「分かりました。では引き続き、進行していきます」
月山との回線を切り、スタッフ全体のチャンネルに戻す。
「各位、先ほどの白髪の少女の演出について報告する」
ヒナタの声が、インカムを通じて全スタッフに届く。ステージ上での微笑みは崩さないまま、声だけが業務連絡のトーンに切り替わっていた。
「あれは月山社長側が独自に用意したサプライズ演出だ。投影システムの異常ではない。安心して通常のオペレーションを継続して欲しい」
チャンネルの向こう側で、ざわめきが少し収まった。完全には納得していないだろうが、社長直々の説明があれば現場は動く。それでいい。
「それと、ゲストプレイヤーの準備が完了するまで、エリューズニルのプロモーション映像を追加で流してくれ。素材は先ほどのロング版をループで」
『了解しました。映像、回します』
パーティションに再びプロモーション映像が投影され始めた。先ほどの正式発表で使用したものの完全版だ。観客席からは拍手が上がる。追加映像だと受け取った客たちが、新たなコンテンツに歓声で応えている。
インカムのマイクをオフにし、ヒナタはカルメリエルに向き直った。
「ステージから降りて大丈夫だよ」
「あら。よろしいのですか? レヴェローズを残しても、物の役には立たないと思いますが」
カルメリエルが小首を傾げた。
本来の段取りでは、ドゥブランコ姉妹のどちらか一方がヒナタの傍に残り、もう一方がゲストプレイヤーのVRステージの操作マニュアルを手元でサポートする手筈だった。
エリューズニルのVR版は未発表のシステムであり、紙のカードとは操作体系が異なる。現地での対応は必須だったが、月山側がそれを申し出たなら被る役職は不要になる。
「もともと、私は仕様書を十分に読み込んでいるからね。サポートは必要ないよ」
少し離れた場所でカメラに向かってポーズを取っているレヴェローズが、妹のくしゃみでもしたかのようにこちらを一瞬振り返ったが、すぐに来場者の声援に引き戻されていった。
それに、とヒナタは言葉を継いだ。
脳裏に、一つの顔が浮かんだ。カラオケボックスで疲労困憊になりながらも付き合ってくれた男。
彼が同じ立場でも残すのはレヴェローズで、カルメリエルを浮かすことだろう。
「──君は自由にしておいた方が、面白そうな気がするからね」
カルメリエルはヒナタの言葉にまぁ、と呟き、笑みを浮かべた。
「お心遣いに感謝しますわ、ヒナタ様。では、ご武運を」
カルメリエルは深く一礼し、その場を後にする。その背中を見送りながら、ヒナタは自分が何を解き放ったのかを考えないようにした。
さて。
ヒナタは深呼吸をした。露出した腹部に冷たい空調の風が当たり、鳥肌が立つ。ヴェルガラの装いは、空調の効いた室内には不向きだった。
だがこの身を晒している意味は、見てくれだけではない。
観客席にはミトラがいる。
あの気怠げな目が、今この瞬間、ステージの上を見ているかもしれない。見ていないかもしれない。シラベを枕に眠っているかもしれない。どちらでも構わない。
想い人がここにいるという事実だけで、ヒナタの闘志は萎える事を知らない。
*
関係者通路は、表のフロアの賑わいが嘘のように静かだった。
コンクリートの壁。むき出しの配管。蛍光灯の白い光。橋谷クモンは、スタッフに案内されるままその通路を歩いていた。
足が震えている。自覚はあるが、止められない。
名前を呼ばれた瞬間から、心臓がずっとおかしい。ドクドクと鳴る音が耳の奥で反響して、スタッフの説明が半分くらいしか頭に入ってこない。
ステージに上がること。VRグラスを装着すること。デッキは既に用意されており、教えてもらいながらプレイできること。
断片的に拾った情報を頭の中で並べ直しながら、クモンは通路の突き当たりにある小部屋に通された。
待機室、と呼ぶには簡素すぎる空間だった。パイプ椅子と小さなテーブルがあり、テーブルの上には、VRグラスと紹介されていた機器が一つ置かれている。
「こちらでお待ちください。準備が整いましたらお呼びします」
スタッフが一礼して去り、ドアが閉まった。
一人になった。
クモンはパイプ椅子に座り、膝の上で両手を握り締めた。指先が冷たい。
ヒナタさんと、この舞台で対戦する。
その事実が、脳の表面を何度も滑っては沈んでいく。理解はしている。だが実感が追いつかない。
弟子にしてほしいと言ってから、まず身近な壁を越えろと言われた。キリメとの毎日の対戦を重ねて、いつかもう一度ヒナタの前に立つつもりだった。
それが今日だ。それも、こんな大勢の観客がいるステージの上で。
テーブルの上のVRグラスに手を伸ばす。軽い。思ったよりも小さくて、普通の眼鏡と大差ない形状をしている。レンズ越しに見える世界がどんなものかは分からないが、先ほどパーティションに映されていた映像を思えば、紙の盤面とは全く別物だろう。
グラスを付けたクモンは目を閉じた。深呼吸をする。落ち着け、と思うたびに心臓の音がやかましくなっていく気がする。
堪えきれず目を開けた時、クモンの視界の隅に、白いものが映った。
「やあ」
パイプ椅子のすぐ横に、少女が立っていた。
白い髪。金の瞳。白いワンピース。小柄な体躯。先ほどパーティションに投影されていた──あの白髪の少女が、目の前にいた。
クモンは椅子から飛び上がりそうになった。だが、少女がさも当然とばかりにその場にいる堂々たる姿が、反射的な恐怖を薄らがせた。
「……あ、あの」
声が裏返りそうになるのを堪え、クモンは少女の顔を見た。唇の端が柔らかく持ち上がっていた。
「チケット、ありがとうございました。ええと……」
とっさに出たのは、感謝の言葉だった。あの日公園で――いや、あの不思議な空間で少女に出会っていなければ、ここに来ることはなかった。この機会にも恵まれなかった。感謝してもしきれない。
少女は目を丸くし、それからくすりと笑った。
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
中性的な声だった。ステージのスピーカー越しに聞いた時よりも、近くで聞くと少し幼い響きがある。
「ボクのことはノルちゃんと呼んでくれると嬉しいな」
「ノル……ちゃん」
呼んでみると、少女──ノルは、満足そうに頷く。
クモンの緊張は消えていなかった。だが、ノルの纏う空気には敵意がない。少なくとも、クモンにはそう感じられた。
「あの、ノルちゃん。僕が選ばれたのって……ヒナタさんの知り合いだから、ですか?」
クモンは少なからず、そうであって欲しいと思っていた。同じ席にはキリメも、シラベもいる中。それを差し置いて選ばれた理由を、クモンは欲していた。
だがノルは首を横に振る。
「いや。彼女はリストの中から無作為に選ぶよう指示を出していたよ」
小さな何かが萎んだ気がした。
ヒナタがクモンを選んだのではない。クモンは自分がダイスを転がしてたまたま出たに過ぎないと、薄っすら気付いていた事実に歯噛みする。
「彼女は幸運だよ。いまここに至ってもなお、一番勝ちやすい相手が選ばれるのだから」
ノルの声には感心のようなものが滲んでいた。
一番勝ちやすい相手。その言葉が、クモンの胸を刺す。
ヒナタにとって与しやすい対戦相手。知っていた。分かっていた。店舗大会の常連たちの中でも、自分の実力が下の方にあることは自覚している。キリメにすら勝ちきれていないのだから。
でも改めて、他人の口からそう言われると、胃の底に石を落とされたような重さが沈む。
「……うん」
「でも大丈夫」
沈む声が出るより先に、ノルの声がすぐ傍で聞こえた。
いつの間にか、ノルはクモンの横に来ていた。パイプ椅子を半分押し退けるように腰掛けて身を寄せ、クモンの腕に両腕を絡ませてきた。
華奢な腕がクモンの二の腕を挟み込み、白い髪がクモンの肩に触れた。
「ボクがキミを導いてあげよう」
囁くような声。耳元で吐息が動いた。
クモンは湿った吐息の感覚に身じろぎする。それは心地悪いものではなかったが、良いというには何かが違う。
ノルの体は薄かった。腕に絡みつく腕は細く、密着した胴体から伝わるものは平坦で、クモンの感受性を刺激するものが何一つない。
「導くって、対戦の手伝いをしてくれるってやつ?」
「ああ、うん。そうだね。キミが勝てるようにしてあげよう。ボクも君に勝って欲しいからね」
勝って欲しい、という言葉に、クモンは少し違和感を覚えた。
ノルは、おそらくスタッフなのだろう。スタッフが客に対して楽しんで欲しいというのは分かる。今日一日、施設で遊んでいてクモンは実感していた。ここのスタッフたちは皆、お客のために頑張って働いている。
でも勝って欲しいというのは、今日見て来たスタッフの応対とはどこか、ズレを感じる。
「……なんで、勝って欲しいの?」
ノルはクモンの腕にしがみついたまま、ふぅん、と鼻を鳴らした。
「そうだねぇ」
曖昧な返事だった。クモンの腕を抱えたまま、ノルのもう片方の手がワンピースのどこかに伸びた。
細い指先が引き出したのは、一本の杖だった。初めて会った時にも取り出していた、小ぶりな杖だ。
ノルはそれを目の高さに掲げ、しばし眺めた。くるくると達者に指先で回し、光に透かし、それから何かを確認するように表面を撫でる。
それをワンピースの中に仕舞い込み、ノルは流し目でクモンを見た。
「ボクが願いを叶えてもらった、その対価だから」
「対価?」
「それと、新しい杖が欲しいから」
クモンには、その言葉の意味が分からない。見つめてくるノルに追及するのも、憚られる雰囲気があった。
「よく分かんないけど……でも。ヒナタさんに勝てるなら、勝ちたい」
それが助けられたものであっても。自分のデッキでなくても。この舞台でヒナタに勝つということは、自分にとって大きなものであるとクモンは直感していた。
「うん。いい子だね」
ノルはにっこりと笑う。その口の端が、ほんの少しだけ過剰に持ち上がっていたことに、クモンは気づかなかった。
ノルの舌先が、薄い唇の上をゆっくりと一周したことにも。
白髪の少女はクモンの腕に頬を寄せたまま、淡い瞳の奥で何かを値踏みするように、少年の横顔をじっと見つめていた。