プロモーション映像がパーティションを彩る中、シラベはスマートフォンの画面を操作していた。
検索窓に打ち込んだのは『白き円環のノルドリッチ』。非公式Wikiのページがすぐにヒットし、カードの画像とテキストが画面に表示された。
シラベはスマホをキリメの方へ傾けた。
「さっき言ってたやつ。パーティションに映ってた少女がこれだ」
キリメが画面を覗き込む。
カードのイラストには、白い髪を無造作に垂らした少女が描かれていた。白いローブを纏い、片手に細い杖を携え、金色の瞳でこちらを見つめている。油絵めいた重厚なタッチで描かれているが、黎明期のカードにしては可愛らしさを焦点が当てて描かれているのが分かる。
『
コスト:〈水〉〈闇〉〈闇〉〈風〉
タイプ:生命体─唯一
・〈T〉:プレイヤー1人を対象とする。そのプレイヤーは、カードを1枚無作為に選んで捨てる。あなたのターンの間にのみ起動できる。
[3/5]
「白とか言ってるのに闇属性濃いじゃん」
「よくある」
キリメはイラストとテキストを交互に見比べ、カードゲーマーとして率直な疑問を口にした。
「で、これって強いのか?」
シラベは首を横に振った。
「微妙。ただ、こいつの場合は強い弱いというよりは、基準に近いと言うべきだと思う」
「基準?」
「カードの性能には、開発が意図的に超えさせないラインがある。このカードが出たのはおおよそ三十年以上前で、四マナで水・闇・風の三属性拘束という重い条件がある代わりに、3/5のステータスでメリット能力持ち。この組み合わせは今でも上位互換は存在しない」
キリメが三十年という数字を聞いて瞠目する。
「三十年って。ECってそんな前からあんの?」
「お前が生まれる前からあるよ。で、問題はそこじゃなくて。長い間、開発が同じコスト帯でこいつを超えるスペックのカードを刷らなかったってことだ。コスト対性能の限界値として、意図的に守られてる」
無論、ぶっ壊れカードというものは往々に登場してきている。ノルドリッチと同じ数のマナを払えばより高性能な生命体はいくらでもいる。
だが水と闇と風の三属性四マナの生命体という枠においてのみ、ノルドリッチは天井として機能し続けている。新しいカードが出るたびに性能が更新されていくインフレの中で、この一枚だけが静かに境界線を引き続けている。
「カードの性能だけじゃない。ノルドリッチってキャラクター自体が、境目にいるんだ」
「境目?」
「ECは最初、脈絡のない取り合わせのファンタジーカードゲームだった。それがある時期から、少しずつモチーフが北欧神話寄りになっていった。世界樹っぽい意匠だとか、ルーン文字だとか」
シラベはWikiページを下にスクロールし、関連カードの欄を示した。
「ノルドリッチが収録された弾から、その傾向が明確になっていった。そして後年、こいつが関わるカードのフレーバーテキストで、初めて九脊界って言葉が出てきたんだよ」
九脊界一の
「コンセプトの定まっていなかったカードゲームだったのが、こいつが先駆けになってECのストーリーとして歩き出したとも言える」
キリメは感心したように何度か頷いていた。
「ふーん。なんかすごい歴史があるんだな。で──」
キリメはステージの方に目をやり、それからシラベに向き直った。
「そのカードと、これから始まる戦いってなんか関係すんのか?」
「無いんじゃね。どうせ収録されてないから」
「はあ!? じゃあなんで今その話したんだよ!」
「あれなんだって聞いたのお前だろ」
「アタシはさっきのキャラがどういう意味だったのか聞いたんだよ! カードの歴史講座は頼んでない!」
キリメはいつもの調子で食って掛かるものの、周囲の観客の目を気にして声は抑えられている。シラベは涼しい顔でスマホをポケットに戻した。
カードゲームの話になると止まらないのはシラベの悪癖だ。自覚はあるが反省はない。
キリメには言わなかったことが、もう一つある。
ノルドリッチは境界線上にいる。九脊界とそうでない世界観でも、カードの性能面でも、ストーリー面でも、こいつは常に何かの狭間に立っている存在だ。
だがそれとは別に、ノルドリッチにはもう一つ、境界に立つ設定がある。
彼女が住まう
ノルドリッチの「杖」。彼女が得手とする占いにも纏わり、カードのモデルにもなっている。使えば使うほど削れていくそれは、ノルドリッチが旅をする話では敵対者の血肉を犠牲とする儀式で作り上げるものということになっている。
だが海外公式での記述は異なっていた。日本での展開では諸々考慮して修正された部分でノルドリッチは、旅の行く先々で異なる男と一夜を過ごすことで翌朝には杖を手にして出発している。
つまり、まぁ、そういうことなのだろう。直接的な描写こそないものの、かなり煽情的なキャラクターの位置づけになっている。
まさか女子高生にそんな話をするわけにもいかない。というか、シラベ自身この設定を知った時は中学生で、当時のインターネットの海外フォーラムで英語の原文を必死に翻訳して読んだ結果、思春期の脳を揺さぶられた記憶がある。
そんな尻軽女のキャラクターを、コンプライアンスも厳しい今のご時世にわざわざ復帰させるわけがない。再録回数はゼロ。アプリ版の宣伝という華々しい舞台において、案内人の役回りをするのなんて全く相応しくないはずだ。
そんな奴がクモンの名を呼んでいた事実が何を意味するのか。あまり考えたくない。
「よろしいでしょうか、シラベ様」
背後から、声が降ってきた。
足音は一切なかった。気配の欠片もなく、シラベの真後ろに立っている人間がいる。
「ひっ」
キリメが短い悲鳴を上げた。椅子の上で飛び跳ね、反射的にシラベの肩を掴む。
そのキリメの悲鳴のおかげで、シラベは逆にビビらずに済んだ。先に他人が驚いてくれると自分の恐怖が相対的に薄まるという、ろくでもない精神の防衛機制が働いたらしい。
「どうした、カルメリエル」
振り返ると、シスター服のカルメリエルが立っていた。後光を模した円環は外しているが、それ以外はステージにいた時と変わらない。糸目の微笑みが、薄暗い関係者席の照明の中で柔らかく浮かんでいる。
「な、なんだ。びっくりした……」
キリメが揺れていた胸を押さえながら呟く。カルメリエルはキリメにも穏やかに微笑みを向け、それからシラベに視線を戻した。
「少しお耳に入れておきたいことがありまして。後ほど、通路にお越しくださいませ」
声は穏やかだった。だが、穏やかなものの下に流れるその温度は、いつもとは違う。
雑事の報告ではない。他の者に聞かせる話でもないらしい。シラベだけに伝えるべき何かを、カルメリエルは抱えている。
「分かった。少し待ってくれ」
カルメリエルは小さく一礼し、来た時と同じように音もなく姿を消した。関係者席に通じる通路の暗がりに、シスター服の裾が溶けるように消えていく。
キリメは消えたカルメリエルの方向をしばらく見つめ、それからシラベに向き直った。
「なんだ? 改まって」
「さぁな。ちょっと席外すわ」
問題は、膝の上だった。シラベは視線を落とす。
しがみついたまま微動だにしないミトラがそこにいた。
ステージのプロモーション映像は片目で覗いているのは分かっている。寝たふりはとっくにやめているが、それがこのめんどくさ女が移動を許容する理由になるとシラベは思えなかった。
だが、カルメリエルの用件は後回しにできる性質のものではない気がする。あの女がわざわざ直接、シラベを名指しで呼びに来たのだ。無視するのは怖い。
「……店ちょっ」
小声で呼びかけ掛けたが、捕まっていた指先がギリリと爪を立てた。キリメが居るのだからそう呼ぶなと手は口ほどに物を言っている。
「ミトラ」
名前で呼ぶ。ミトラの肩がぴくりと動いたが、腕は離れない。
「ちょっとだけ席外す。すぐ戻るから」
「…………」
沈黙。だがしがみつく力が僅かに強くなった。
シラベは溜め息をつき、選択肢を脳内で並べた。
強引に引き剥がす。一番楽だが、人前で子供の風体のやつに騒がれたら下手したら社会的に死ぬ。不機嫌を爆発させるだけでも後が怖い。
このまま連れていく。抱っこしたまま通路に行けば話は聞けるが、カルメリエルの話がミトラに聞かせてはいけない内容だったら困る。
どうにか懐柔する。ミトラを? このワガママ三十五歳児をどうやって? シラベの手札は空っぽだ。何もない。だが何もないなりに、その手のひらを使うことは出来る。
シラベはミトラの腰にそっと手を添えた。膝の上から降ろして隣の席に座らせようとするが、ミトラの首に回された腕が離れない。
「おい」
「…………」
シラベは目を閉じる。今日一日、ミトラと共に回っていた会場内を思い返したあと、ミトラの耳元に口を寄せた。
「焼きそば」
ミトラは微動だにしない。
「クレープ」
身じろぎした。
「シュークリーム」
ミトラの腕の力が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
その隙を逃さず、シラベはミトラを膝から降ろし、脇に座らせる。ミトラは顔を上げず、咄嗟にワンピースの袖を引き上げて顔を半分隠したまま、むすっとした気配だけを放射している。
「後で買ってくるから。フードコートにあったろ」
「……二個」
「一個」
「二個」
「分かった二個」
交渉成立だ。シラベは膝の上から解放された足の軽さに安堵しつつ、席を立った。
「キリメ、頼んだ」
「お、おう」
キリメは戸惑いながらも、隣に座った小さな人影を不思議そうに見つめていた。襟元に口を隠して偽装出来ている気になっているのかもしれないが、どちらかというと親の用事で連れ回されたことに飽きてふざけている子供の格好だ。
シラベは背を向け、カルメリエルが消えていった通路の方へと足を向けた。
ふと。何故自分の膝から降ろすことだけで交渉が必要なのだろう? シラベは訝しんだ。
*
プロモーション映像がループを終え、VMコロッセオの照明が再び絞られた。
フィールドの入場口に、二つの人影が現れる。
一人は小学生。VRグラスを付け、強張った足取りでスポットライトの中に踏み出してくる。
橋谷クモンだ。観客席からは拍手と声援が送られ、少年の肩がびくりと跳ねた。
もう一人は、白い髪の少女。ヒナタが由来を知らない精霊が、クモンの半歩後ろを音もなく歩いている。金の瞳が、コロッセオの照明を受けて淡く光っていた。
ヒナタの目が少女の足元を捉えた。白いワンピースの裾の下から、微かな光が走っている。
光の走査線。パーティションの投影映像とも照明の反射とも異なる、地を這うような微細な光だ。ノルドリッチの足が床に触れるたびに、そこから蜘蛛の巣状に広がり、ステージの床面を薄く覆っていく。
レーラズ・フィールド。精霊がカードでの戦いを起こす際に展開する戦闘結界。シラベとの初戦でもヒナタ自身が味わったあの異質な空間を、この少女は今、音もなく敷き始めていた。
「ヒナタ」
隣に立つレヴェローズが、観客席に向けた堂々たるポーズを崩さないまま囁く。
「どうする」
レヴェローズの声に緊張が走っている。精霊であるからこそ、目の前で起きている事象の意味を正確に理解しているのだろう。
レーラズ・フィールドの展開は、先に敷いた側に主導権がある。あのシラベとの初戦がそうだった。レディ・ローマと大穴の二体が放った黒白の走査線は、レヴェローズ一体の紫電よりも速く、広く、強く満たして染め上げた結果、場の支配権はヒナタ側にあった。
もしこのまま白髪の少女のされるがままにすれば、このステージはあの精霊の掌中に収まる。観客に影響が及ぶかもしれない。ステージの機材が破壊されるかもしれない。最悪の場合、今日のイベントそのものが台無しになる。
だが。
「まだ動くな」
ヒナタは静かに言った。
レヴェローズは一瞬だけ紫の瞳を揺らしたが、すぐに唇を引き結んで頷いた。戦場での命令に従うこと、それはこの精霊が最も得意とする振る舞いだった。ポンコツであっても、指揮系統への従順さだけは筋金入りだ。
なおシラベに対してだけは別だ。あれにはいくらでもワガママを言っていいとレヴェローズは学習している。
走査線は微かにステージ上の床面を満たしていく。だがその光は極めて薄い。精霊と縁があり知覚を持たない人間の目には、照明の加減による床面の色ムラ程度にしか映らないだろう。観客席からも、スタッフからも、異変は気づかれていない。
その時。ヒナタのインカムに声が入った。
通常の運営チャンネルとも、月山との個別回線とも異なる。周波数を指定した覚えのない、存在しないはずのチャンネルから。
『すまないね』
中性的な声だった。ステージの上で、入場してくるクモンの横を歩く白髪の少女の唇が動くたびに、声がインカムに流れ込んでくる。
『こうしないと私は皆に見えないから。少し場を整えさせてもらったよ』
ヒナタはインカムのマイクを起動させなかった。代わりに、白髪の少女に向けて目だけで視線を送る。唇の動きが読まれる距離ではない。だがあの精霊が、人間の機械を通じて会話できるのであればこちらの発話もまた勝手に拾うだろう。
「演出の邪魔をしなければ構わないよ」
声を落とし、マイクが拾わない音量で呟く。
「ただし。うちのスタッフが心血注いで調整したイベントだ。それを壊すと言うなら、こちらにいる総督閣下をけしかけるのもやぶさかではない」
インカムの向こう側で、けらけらと笑い声が弾けた。
『おお、怖い怖い』
少女の声は心底楽しそうだった。恐怖の欠片もない。だが、ヒナタの言葉を軽んじているわけでもなさそうだった。
『じゃあこれ以上、派手な真似はしないよ。約束する。ボクはただ、この子をサポートしたいだけだからね』
走査線の拡散が止まった。ステージの床を覆った薄い光はそのままだが、これ以上の侵食は起きていない。最低限の範囲で場を整えた、ということなのだろうか。
ヒナタはレヴェローズにわずかに頷いて見せた。レヴェローズの肩から、僅かに力が抜ける。
MCの声がコロッセオに響いた。
「それでは、両プレイヤーはステージ中央にお越しください!」
ヒナタはフィールドの中央に向かって歩いた。ブーツのヒールがステージの床を叩く音が響く。反対側からは、クモンがおぼつかない足取りで近づいてくる。レヴェローズと少女はプレイヤーの傍をゆっくりと進む。
中央で向き合う。ヒナタが手を差し出すと、クモンの小さな手がそれを握った。汗ばんだ掌。微かに震えている指。だがその目は、ヒナタの顔を──顔を見上げようとして、途中で別のものに目を奪われていた。
視線がヒナタの胸元で止まっている。そこから露出した腹部に移り、慌てて顔に戻り、だが金属板に覆われた胸元の存在が視界の端に引っかかるのか、瞳が忙しなく泳いでいた。
ヒナタは口元を緩めた。
「似合ってるかな?」
「す、すみません」
クモンの顔が紅潮した。握手の手すら離すのを忘れている。ヒナタはその手をそっと握り返し、それから離した。
「手加減はしないよ、クモン君」
弟子入りを請われた日のことを思い出す。あの時の少年もこうして真っ直ぐにヒナタを見上げていた。今日は衣装のせいで別の意味でも見上げているようだが、目の奥の真剣さは変わっていない。
「は、はい」
クモンの声はガチガチだった。握り締めた拳が白くなっている。緊張で身体が軋んでいるのが、見ていて痛々しいほどに伝わってくる。
「しかたないなぁ、クモン君は」
ひょい、と。白い影がクモンの横に顔を出す。
「ノルちゃんが、緊張をほぐしてあげよう」
ノルちゃん、という気の抜けた愛称を自称する少女の手に、細い杖が握られていた。
その杖の先端が、クモンの首筋にそっと触れた。
一瞬だった。杖がクモンの肌に接した瞬間、ヒナタの目には──杖の全長が、ほんの僅かに伸びたように見えた。数ミリ。目の錯覚と言われれば否定できない程度。だが、確かに。
途端、クモンの肩から力が抜けた。
先ほどまでの強張りが嘘のように、少年の表情が弛んでいく。顔の赤みが引き、呼吸が安定し、握り締めていた拳がゆっくりと開いた。
緊張が取れた、のではない。ヒナタの観察眼はそれを見逃さなかった。クモンの瞳に宿る光が変わっていないからだ。怖気も闘志も、そのまま残っている。ただ、それらを覆い隠していた余計な緊張のようなものだけが、綺麗に剥がされたのだ。
人間の精神を触る精霊。
ヒナタは底知れないものを見た気がしたが、表情を変えなかった。
「良い戦いにしよう」
ヒナタはそれだけを言い、クモンに背を向けた。
フィールドのそれぞれのサイドに分かれる。ヒナタの側にはレヴェローズが控え、クモンの側には少女がひらりと付き従った。
VRグラスを装着する。レンズの向こうに、紙のカードでは見たことのない盤面が構築されていく。エリューズニルのVRステージ。三次元に再現されたフィールドが、視界を埋め尽くした。
パーティションには、二人のプレイヤーが見ているVR空間の映像がリアルタイムで投影される。観客席からは、フィールドの上にファンタジー世界が出現しているかのように見えているはずだ。
スピーカーから、二人の声が同時に響いた。
「対戦よろしくお願いします」