カスレアクロニクル   作:すばみずる

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98 友達だからな

 月山シジマは、あえて関係者席ではなく、一般の観客席に座っていた。

 

 カード映像の演出に興奮しているらしい観客に紛れ、すり鉢状の客席の中段に腰を下ろしている。周囲には歓声を上げる来場者たちがひしめいているが、月山の耳にそれは遠い潮騒のようにしか聞こえなかった。

 

 パーティションに映し出されるフィールドの光景。結晶の獣が駆け、機械仕掛けの兵士が拳を振るい、金色の鎖が盤面を縛る。クモンという少年とヒナタの対戦は、見映えとしては上々だった。

 

 かつての月山であれば、このイベントの成功に安堵し、次の一手を計算し、損益の帳尻を合わせることに頭を使っていただろう。商売人としての仮面を被り、感情を押し殺し、数字という勝利だけを見つめていた頃の自分なら。

 

 今は違う。あの夜からだ。ノルドリッチと出会ったあの夜から、激情は月山の中から抜け落ちていた。怒りも歓喜も、欲望すらも。残されたのは空虚な笑みだけだ。

 

 商談の場でも、社員の前でも、この笑みは変わらない。変わりようがない。笑う理由が枯れているのだから。

 

 パーティションの映像に目を戻す。

 

 ヒナタのライフは10。クモンは20。盤面だけを見れば、クモンが圧倒している。

 

 月山はカードプレイヤーだった。学生時代にエインヘリヤル・クロニクルに触れ、社会人になってからも細々と続けて、会社内のクラブでも籍を置いている。だからこそ分かる。ヒナタが劣勢であることは明白だ。

 

 だがクモンはまだヒナタを倒せていない。ノルドリッチの指南があり、彼女の占い(セイズ)があるはずなのに。

 

 薄くなっていたはずの感情の底で、苛立ちのようなものが微かに軋んだ。

 

 クモンが使っているデッキは、エインヘリヤル・クロニクルの公式が組んだサンプルデッキだ。ヒナタとの事前合意により、ゲストは公式サンプルをそのまま使用することで一致している。デザイナーズコンボをそのまま搭載した構築は単純だが強力だ。印装填によるカウンターの倍加、ルーン着地を起点とした連鎖的な盤面展開。回り出せば暴力的な速度で相手を轢き殺す。

 

 だが単純なものほど脆い。妨害一つで歯車が狂い、除去一枚で核を抜かれる。その脆さを補強するために、ノルドリッチの占いに期待していたのだ。

 

 セイズ。淫蕩白野(ヴァナヘイム)に伝わる占術の魔法。未来を覗き見て、望む結果を手繰り寄せるための力。

 

 あのデッキにはデッキからカードを抜き出す効果を持つカードが多く搭載されている。製図台帳、儚い透過印や、その他にも。それらの効果を使うたびに、デッキはシャッフルされる。そのシャッフルの結果を操作し、望むカードが望む順番で引けるようにすること──それがノルドリッチのセイズの真価だ。

 

 それがあれば確実に倒せるから、と。ちょっかいを出す口実をノルドリッチは語っていた。それがあるから月山はノルドリッチを好きなようにさせている。

 

 しかし。パーティションの向こうで、ノルドリッチはクモンの傍に寄り添っているだけだ。時折操作マニュアルを示すように杖で盤面を指し示し、少年に声を掛け、まるで本当のティーチングスタッフのように振る舞っている。

 

 魔術的なものを行使している気配はない。

 

(何故セイズを使わない)

 

 月山は笑みを貼り付けたまま、ステージ上の白髪の少女を睨んだ。

 

 答えは返ってこない。あの精霊はこの距離では月山の思考を拾わない。拾えたとしても、応えるつもりはないのだろう。

 

 そもそも、あれは月山の所有物ではない。契約者とは言われているが、主従関係など意識があるのか怪しい。ノルドリッチが月山を選んだのであって、月山がノルドリッチを使役しているとは言い難い。

 

 苛立ちが空虚の底に沈んでいく。苛立つことすら億劫になる。感情の水位が低すぎて、怒りが形を成す前に干上がってしまう。

 

「隣、いいか」

 

 声がした。

 

 月山は視線だけを動かした。右側から、一人の男が通路を横切って歩いてくる。

 

 見覚えのある顔だった。

 

 月山の端末に保存されている調査報告書。ヒナタの周辺人物を洗い出す過程で収集されたその資料の中に、この男の写真があった。

 

 押江シラベ。二十五歳。ボトムレスピットの住み込みバイト。元会社員。ヒナタの懸想している片方の人間。

 

 確か、関係者チケットで入場しているはずだ。関係者席に通されたはずの人間が、なぜわざわざ一般席に来ている。

 

 男は月山の返事を待たずに隣の空席に腰を下ろした。背もたれに深くもたれかかり、足を組む。気怠げな姿勢だった。

 

「あんたが月山さんだな?」

 

 月山は表情を動かさなかった。笑みを維持したまま、穏やかな声を返す。

 

「失礼ですが、どちら様で?」

 

 シラベは鼻で笑った。

 

「スマホに俺等の調査報告書が入ってんのに、そうやって惚けるのは無理があるだろ」

 

 月山の笑みが、微かに凍った。調査報告書は月山が個人的な伝手を通じて収集させたものだ。端末の中にデータとして保存されているだけで、当然誰にも共有していない。

 

 まさか。月山は動揺を表に出さないよう、右手をさりげなくスーツのポケットに滑り込ませた。スマートフォンの硬い感触が指先に触れる。ある。盗まれてはいない。ならば遠隔でハッキングされたか。

 

「セキュリティについては気にするなよ。こっちには電子戦最強の黒幕がいるから」

 

 シラベは適当に流した。具体的な説明を省く口ぶりからは、追及しても答える気がないことが窺える。

 

 月山は指先をポケットから戻し、膝の上で手を組んだ。

 

「それで。わざわざこちらにいらしたということは、何かご用件が?」

 

「あんたがヒナタと賭けをしてるのは知ってる」

 

 シラベの声から、怠惰さが一枚剥がれた。

 

「計画の見直しの要請と、プライベートに会えとか、その辺を賭けてると。金持ちが馬鹿な真似してるんじゃねえよ」

 

 月山は少し間を置いた。それから、いつもの笑みで応じる。

 

「仮に何か賭けていたとしましょう。あなたは、それを止めるために来たのですか?」

 

「いいや。ヒナタが勝つから、賭けについてはどうでもいい」

 

 迷いの欠片もない。ヒナタの勝利を信じて疑わない声だ。

 

 月山は内心で首を傾げた。パーティションに映し出されているライフ差はヒナタの10に対しクモンの20。盤面もクモンが優勢だ。その状況で勝利を確信できる根拠が、この男にはあるのか。

 

「問題はそっちじゃない。あんたがヒナタに手を出そうとしたことだ」

 

 シラベの目が月山を射抜いた。

 

「今回の賭けに負けたとして、あいつに対する執着で事を起こそうとしたのなら、今後も付きまとう可能性がある」

 

 怠惰な男の顔から、別の何かが覗いている。

 

「ヒナタを狙った理由があるのか。偶然いい女が寄ってきたから口説こうとしたのか。それはハッキリさせなきゃいけない。もし狙ってるなら、相応の対処が要る」

 

「それは──脅しとして受け取っても?」

 

「そうかもな」

 

 シラベは肩を竦めた。

 

「こんな『大穴』の中に閉じ込めてるんだから、脅しになっちまうよな」

 

 月山は瞠目する。

 

 視界が変わっていた。

 

 いつの間にか、周囲の景色が塗り潰されている。観客席の照明も、隣に座っていた来場者たちの姿も、パーティションに映し出されていた映像も、全てが黒く沈んでいる。

 

 席に座っている感覚はある。シラベの姿も見える。だがそれ以外の全てが、墨を流し込んだように闇に呑まれていた。外界から切り離された、空虚な空間。

 

 月山の背筋を、久しく忘れていた感覚が走った。恐怖、とまでは言わない。だが、薄くなった感情の膜を突き破って、冷たい何かが滑り込んできた。

 

 この感覚を知っている。ノルドリッチが使うものと、同じだ。

 

 現実の中に異質な空間を切り出す結界。ノルドリッチは現実世界では月山以外の人間に姿を見せることができない。他者の目に映るためには、先ほどのパーティションのように何かに投影するか、結界を張って閉じた空間を作るしかなかった。

 

 今、それと同じようなことが起きている。ただし張っているのはノルドリッチではない。目の前の男がそれをしているか、させている

 

「でも大目に見てくれよ」

 

 シラベの声には、脅迫者にしては軽すぎる響きがあった。

 

「一年くらい前だったか? ウチの最寄り駅前の再開発の為にやくざ者を動かしたことがあるような奴と相対するなら、ある程度は暴の備えは必要だろ」

 

 月山の呼吸が一拍止まった。駅前の再開発。暴力団との接点。それは月山が深く埋めたはずの過去だった。エデンパクトの急成長の影に、どれだけの泥が詰まっているか。この男は、それを知っている。

 

 枯れていた感情の水面が、僅かに波立った。

 

「……随分と、亜修利社長と仲が良いんですね」

 

 月山は声を整えて言った。笑みは維持している。だが、その笑みの下で歯車が軋んでいる自覚があった。

 

「ああ。友達だからな」

 

 シラベは頷いた。友達。その単語をこの男は何の衒いもなく使った。亜修利ヒナタの、あの偏執的で、狂気じみた愛情を振り撒く女の。友達。

 

 月山は小さく息を吐いた。狂人の相手は精霊であろうと人間であろうと疲れる。

 

「……亜修利社長を狙っているわけではありません。彼女が都合良く、私の幸運として舞い込んだため、その機会を使おうとしただけです」

 

「ずいぶん都合の良い考え方だな。お前が物語の主人公ってか?」

 

「自分の人生の主人公は自分でしょう」

 

 月山は膝の上で手を組み直した。

 

「とはいえ、私にはその幸運に思い当たるところがありました」

 

「ノルドリッチか」

 

 シラベの口から精霊の名が出た。月山は驚かなかった。この男がここまで知っているなら、そこに辿り着いていない方がおかしい。

 

 月山は闇に塗り潰された周囲を見渡した。

 

「この空間といい、あなたもオカルトが真に在ると分かっている側のようですね」

 

 シラベは無言で頷いた。

 

「彼女はカードの精霊です。私は彼女によって、幸運が巡るように施されている」

 

 月山は、初めて他人にその言葉を口にした。

 

 語り始めると、虚ろな井戸の底から汲み上げるように言葉が出てきた。

 

「使う宛のなかったECのライセンスを最大限に活用できる箱が舞い込む。その箱を利用した賭けに、相手方が了承してくれる。全てが都合良く噛み合っていく。彼女の占いが──セイズが、そうしてくれている」

 

「占いの結果で、女が手に入りやすそうだからそうしたって言うのか」

 

 シラベの声に、露骨な呆れが滲んだ。月山はそれを変わらない笑みで受け止める。苦笑したはずだった。

 

「亜修利社長を抱こうとしても、私には無理ですよ。ノルドリッチのせいで、私に男としての機能はありませんから」

 

 

 *

 

 

 二年ほど前のことだ。

 

 実家の整理をしていた月山は、学生時代の荷物が詰め込まれた段ボールの中に、一枚のカードを見つけた。

 

 スリーブに入れられたまま、教科書の間に挟まっていた。中学生の頃に引き当てたものだ。当時の月山にとってカードゲームは友人との暇潰しに過ぎず、引いたカードの価値も碌に調べなかった。

 

『白き円環のノルドリッチ』

 

 白い髪の少女のイラストを一瞥し、月山は大した感慨も湧かなかった。精々が、いくらで売れるか。その程度だった。

 

 しかし、ネットの買取サイトを検索して手が止まった。

 

 市場在庫が存在しない。カードショップの在庫検索にも、オークションサイトの出品履歴にも、ノルドリッチは影も形もなかった。買取額すら設定されていない。流通量が少なすぎて、値段をつける基準すらないのだ。

 

 もしかすると、相当な額がつくかもしれない。月山はカードを丁重に仕舞い直し、適切な売却先を探すことにした。

 

 その夜。月山は夢を見た。

 

 白い空間だった。壁もなく、床もなく、天井もない。ただ白く霞んだ虚空の中に、月山は立っていた。

 

 目の前に、少女がいた。

 

 白い髪。金の瞳。白いローブの下から覗く細い手足。カードのイラストを美しく整えたの少女が、月山の前に立って微笑んでいた。

 

『やぁ。始めまして、マイ・マスター』 

 

 中性的な声が白い空間に響いた。じゃれつくように少女が月山に抱きつく。細い腕が首に回され、ローブ越しに薄い体が密着する。

 

 夢という自覚がある。明晰夢の一種だろうか。月山はそう思った。学生時代に引いたカードのイラストが記憶に残っていて、それが夢に出てきた。よくあることだ。

 

 まぁ夢だし、と。月山は夢の中で、ノルドリッチを抱いた。

 

 夢の中の肉体には、現実の道徳も常識も適用されない。少女の姿をした存在を組み敷くことに躊躇いはなかった。夢だから。そう思っていた。

 

 快楽があった。味わったことのない種類の刺激だった。肉体の感覚を超えた何かが脊髄を駆け上がり、脳の奥で弾け、全身の神経を灼き尽くすような昂りだ。

 

 頂点に達する寸前。ノルドリッチの顔が、月山の視界を埋めた。

 

 それまでの無邪気な笑みが剥がれ落ち、その下から現れたものが見つめてくる。

 

 女の顔だ。年齢を意味しない、圧倒するような色気を湛えた顔。

 

『愛しのマスター』

 

 囁き。甘く、粘ついた声。

 

『キミの杖を、ボクにくれるかい?』

 

 月山は答えた。何でもくれてやる、と。

 

 その言葉が唇を離れた瞬間。ノルドリッチの口角が、裂けるように持ち上がった。

 

 次の瞬間、月山の中から何かが抜け落ちた。

 

 快楽が消えた。上り詰めていたはずの衝動が消失し、代わりに虚脱感だけが全身を満たした。腹の底に空いた穴から、生気そのものが流れ出していくような感覚。

 

 そのまま、目が覚めた。

 

 天井が見える。実家の客間の天井だ。布団の中で仰向けになっている。夢だった。ただの悪夢だ。

 

 そう思った月山は、身体を起こそうとして、気づいた。

 

 男としての機能が、一切反応していなかった。

 

 朝だ。健康な成人男性が朝を迎えれば、否応なく身体が反応するものだ。それが何もない。感覚がない。物理的には存在しているのに、機能としてはのっぺりと平坦な、何もない無だけがそこにあった。

 

 困惑する月山の視界の端に、白いものが映った。

 

 布団の傍に、少女が立っていた。

 

 白い髪。金の瞳。片手に杖を携えた、あのカードの少女。夢ではなかった。

 

『おはよう、マスター』

 

 ノルドリッチは微笑んだ。杖をぺろり、と舌先で舐めた。

 

『キミの杖、ボクによく馴染むよ』

 

 その姿を見ても、月山の身体は一切反応しなかった。

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