異世界に行きなさい。己の全てを犠牲に。   作:唯一神

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秋穂の国と、散濃の国の大決戦

風が、死んだ土の臭いを運んでくる。

 

 

 

 

 

 

 

 かつて、この北の連山は神の住まう緑の回廊と呼ばれていた。九ヶ月前までは。  

 

 

 

海からの湿った風を遮るように聳え立つその稜線は、視界を埋め尽くすほどの黒い竹の原生林に覆われていたはずだった。

 

 

 

太陽の光さえ届かぬその密林は、昼でも常に暗い常闇の世界であり、不用意に踏み入る者の方向感覚を奪い、竹の根元に仕掛けられた無数の罠と、竹の側で潜みながら刀を構えた奇襲兵が、侵入者を文字通り土に還す天然の要塞であった。

 

 

 

 だが今、不知火城を見下ろす本陣の床几に腰を下ろす将、ケインの視界にあるのは、見るも無惨に皮を剥がれた、赤茶けた巨大な肉と、露出した岩という骨。その山の骸と敵の本丸だけである。

 

 

 

 骸。

 

 

 

 そう呼ぶにふさわしい、荒涼とした風景がそこにあった。

 

 

 

 三ヶ月に及ぶ掃討作戦。

 

 

 

ケインは、後方から送り込まれた工兵隊と、前線で使い潰される歩兵たちに、単純かつ残酷な命令を下した。

 

 

 

"全ての竹を切り倒せ。根を掘り返せ。山の潜伏場所を全て潰せ"と。

 

 

 

 兵士たちは補給網の断絶に晒され、山肌から湧き出る水を啜り、井戸に投げ入れられた豚の死体により疫病に冒されながらも鉈を振るい続けた。

 

 

 

 

 

海軍は圧倒的で、いくら沈めども沈めどもどこからでも砲撃をしてきた。

 

橋頭堡を作るのに1年。 1回目の上陸作戦はここで終わり、二度目……今回で全てを決めに来た。海軍が復旧していないであろう、超ハイペースでの強行軍。

 

 

 

切り倒された数百万本の黒竹は、あるものは攻城兵器の資材となり、あるものは暖を取るための薪となり、そして多くは、死体を焼くための燃料となって灰に帰した。

 

 

 

 今や山肌には、鋭利な切っ先を天に向けた切り株が、あたかもこの地で死んだ数万の兵士たちの墓標のように、無数に、無限に点在している。

 

 

 

現地の士気向上のため、総大将という立場がありながらも演説していたが、その時には乾燥しきった赤土が風に舞い上がり、ケインの顔に薄く積もっては、彼が拭う汗と共に赤黒い泥となって頬を伝った。

 

 

 

「……九ヶ月か」

 

 

 

 

 

ケインは、疲労困憊で、ひび割れた唇で呟き、本国より届いた飲料水を飲みながら、右手では手元の真っ赤になった胡桃を弄ぶ。その胡桃には、手垢と脂が染み込んでいる。

 

 

 

 彼がいるこの本陣は、標高にしておよそ2100メートル。不知火城の天守とは1400メートルほどの高低差があり、この要塞は連峰の山々の中でも唯一無二の高さにある、「神の視点を得られる場所」だ。

 

 

 

ここに至るまでに、主君から吐き出された軍資金は、小国が三つ買えるほどの額に達している。  

 

 

 

彼が地図の上に落とした視線の先には、赤いインクで記された補給線や経路が、血管のように複雑に絡み合っていた。  この数字が意味する重みを、前線の兵士たちは知らない。

 

 

 

一日たりとも途絶えさせてはならない麦と水の輸送は、雨が降れば泥濘に車輪を取られ、たとえ小さな石であれど障害物があれば余りの高低差に疲労が蓄積していた車軸は容易く折れ、強度を呪いながら奇襲にあう者たちの死体で、補給網の防衛がされていると言っても過言ではない。

 

 ケインの役割は、剣や旗を振るうことではない。この膨大な浪費と死の帳尻を合わせ、資金という名の冷徹な天秤の上で、不知火城という金塊の錘を粉砕することにある。

 

 

 

 

 

 眼下の城を見つつ、ケインは大きなガラス窓から下の兵士たちを見る。

 

 

 

 

 

 禿げ上がった斜面を、蟻の行列のような兵士たちが埋め尽くしながら下っている。

 

 

 

彼らの鎧は赤錆と泥にまみれ、元々の色が何であったかすら判別できない。ただ、その数だけが圧倒的だった。

 

 

 

数万の絶望が、一つの巨大な生物のようにうごめいている。

 

 

 

 彼らは英雄ではない。故郷の村から徴用され、あるいは借金のカタに売られ、この地獄へ放り込まれた名もなき消耗品だ。だが、その消耗品たちが九ヶ月かけて積み上げた土嚢と扉。そして、敵のトンネルの真上を探して掘り続けた斜面は、ある種の醜悪な美しさを放っていた。

 

 

 

穴ぼこだらけの山は、しかし非効率的ではあるがトンネルを発見するに至った。

 

 

 

 

 

 

 

「準備は整いました」

 

 

 

 傍らに控えていたケインの副官が、抑揚のない声で告げる。

 

 

 

 それと同時に、視線をさらに前方、下に存在する孤絶の要塞――不知火城へと向けた。  

 

 

 

白亜の城壁。幾何学的に配置された銃眼。

 

 

 

そして、広場に確認できる黒い物体。  不知火の技術の結晶であるその城は、九ヶ月に及ぶ島の包囲を受けてなお、傷一つない。

 

 

 

 

 

いや、傷一つ付けられなかったのだ。あの城は、貴婦人のような涼しい顔で、湾岸に群がる兵士冷徹にを見下ろしていた。

 

 

 

 あの城壁の中には、大砲があり、磨き上げられた鉄のレールがあり、計算され尽くした殺戮の轍が眠っている。

 

 

 

 対するこちらの最大火力は、現地の要塞のバリスタだ。

 

 

 

 だが、それでいい。

 

 

 

 ケインは、口の端をわずかに歪めた。

 

 

 

 高度な文明を、野蛮な物量が押し潰す。その理不尽こそが戦争の正体なのだ。

 

 

 

 なにより、奴らは傲慢にも海軍を設立して通商路を妨害した。その理由だけでも開戦理由には足る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本陣、総司令官の要塞より下方、禿山の中腹に展開するのは、指揮官ペイルが率いる数千の長弓隊がいた。

 

 

 

 彼らの陣地には、異様な臭気が立ち込めていた。  腐敗した土の臭いではない。鼻の奥にへばりつくような、甘ったるく、そして鼻をつく油の臭いだ。

 

 

 

ペイルは、並べられた巨大な樽の列を歩きながら、その一つを革の手袋で叩いた。

 

 

 

 ゴン、ゴンと、鈍く重い音が返ってくる。  

 

 

 

これらの樽の中身は、軍用燃料として精製された高級な油ではない。  

 

近隣の漁村、農村、宿場町。この九ヶ月の間に、寄せ手の軍勢……否、略奪者の群れが通過し、踏み荒らしたあらゆる場所から収奪された生活の油だ。

 

 

 

 灯りのための菜種油、料理に使われる胡麻油、あるいは魚から絞り取った生臭い獣脂。それらが無差別に混ぜ合わされ、ドロドロとした黒褐色の液体となって、樽の中で波打っている。  

 

 

 

 

 

「おい、こぼすなよ。一滴が貴様の血より高いんだ」

 

 

 

 

 

 

 

足跡を強く残しながら、ペイルはそこら辺にいる若い男に低い声で叱責した。

 

 

 

油を小分けにする作業をしていた兵士が、ビクリと肩を震わせた。

 

 

 

彼は立場上は偉いが、ぜんぜん優しくない……そのような事を感じ取り、九ヶ月の間に様々な精神的磨耗が発生していた。

 

 

 

 

 

宴会では酒を率先して飲み、階級が下の人間には空になると、はるか上の階級なのに注ぎに行かせた。

 

 

 

曰く、ペイルは階級を重視していないだとか……優しい方だとか、様々な噂が流れていたが、多くの兵士は不満を持っていた。

 

 

 

曰く、ペイルは略奪品で暮らすなんて野蛮な行為ができないと拒否した兵士には無理やり紙幣を握らせ、財布に入れさせた。

 

 

 

曰く、ペイルは疫病が発生した拠点には一切近づかず、海上の医師船に送るのに部下を使い、その部下は感染しても良いと言い放った。

 

 

 

 

 

 

 

兵士たちは、手垢にまみれた柄杓(ひしゃく)を使い、樽から油を汲み出し、手元にある容器へと注ぎ込んでいる。  

 

 

 

その容器もまた、統一された兵器ではなく、  農家から奪った酒瓶や味噌が入っていた甕、あるいは素焼きの安っぽい工芸品と生活品の中間のような品質の壺。

 

 

 

ありとあらゆる割れ物が動員されていた。

 

 

 

 「千の油罐」。  いや、作戦名の数字をそのまま捉えてはいけない。本当の数はもっと多いだろう。

 

 

 

九千、あるいは一万。  兵士たちの足元には、数え切れないほどの割れ物に、注ぎ終わった油罐が山積みになり、黒い光沢を放っている。その光景は、まるで巨大な昆虫の卵が産み付けられた巣穴のようだ。

 

 

 

 

 

「総員、配置につけ!」

 

 

 

 ペイルの怒号が、乾いた空気を引き裂く。  

 

 

 

数千の長弓兵たちが、一斉に動き出した。彼らの動作には、歴戦の兵士特有の無駄のなさと、長引く戦陣生活が生んだ倦怠感が同居している。

 

 

 

 ある者は、身の丈ほどもある大弓を手に取り、その弦に特製の投擲具――撒脂器を取り付ける。これは、矢の代わりに瓶を挟み込み、投石機のように放り投げるための粗末な網だ。

 

 

 

 

 

 また、それと同時に、敵城の門の前で待機しているある者は、革紐の中央に受け皿がついた投石紐を指に絡ませる。

 

 

 

彼らは油の入った壺を受け皿に乗せ、手首のスナップで重さを確かめるように、ブン、ブンと空回しを始めた。

 

 

 

 風向きは北。  

 

 

 

城へ向かって吹き下ろす、絶好の追い風だ。  

 

 

 

ペイルは、風が運ぶ油の臭いを胸いっぱいに吸い込み、ニヤリと笑った。  

 

 

 

不知火の連中は、自分たちが高度な科学戦を挑まれていると思っているだろう。だが、これから降るのは、彼らが見下していた下界の暮らしそのものだ。

 

 

 

民草の生活を支えてきた油が、彼らの精緻な機械を窒息させるのだ。

 

 

 

「構えろ!」

 

 

 

指揮官Bが、赤い旗の剣を振り上げる。

 

 

 

剣と言うには刃が潰されていて、片手剣と言うにはあまりにも長すぎるが、持ち手に両手を使用できない。

 

 

 

このとうてい実用できない剣は、合図のための長剣である。

 

 

 

 

 

 ギチチチチ……  

 

 

 

数千本の弦が引き絞られ、乾いた木と鋼の糸が軋む音が、重奏となって山肌を震わせる。

 

 

 

 スリングを持つ兵たちは、頭上で革紐を旋回させ、もう投げ始めた。

 

 

 

 ブォォン、ブォォン、ブォォン……  軽い小瓶や投石紐が空気を切り裂く低い唸りが、次第に数を増し、やがて一つの巨大な羽音となって戦場を支配していく。

 

 

 

 それは、イナゴの大群が迫る音にも似ていた。  食い尽くし、焼き尽くすための、貪欲な音。

 

 

 

「放てッ!!」

 

 

 

 剣が振り下ろされた瞬間。  シュルシュルシュル――! ズザザザザッ!  数千の風切り音が重なり合い、大気が物理的に悲鳴を上げた。  禿山の中腹から、黒い雲が湧き上がったかのように見えた。  それは雲ではない。  数千個のが入った陶器の群れだ。  太陽の光を遮り、戦場に一瞬の影を落としながら、黒い雨は重力の放物線を描いて不知火城へと殺到する。

 

 

 

 

 

大型の投石器は、漁業で使う網で改造されている。港を制圧した時に大量に手に入った品だが、陶器を括って射出すれば相当な飛距離を出すことができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 視点は城壁へ。  不知火城の城壁を守る兵士たちにとって、それは理解不能な光景だった。  空が暗くなったかと思うと、頭上からバラバラと何かが降り注いできたのだ。  矢ではない。石でもない。

 

 

 

 パリン! グシャッ! パリーン!

 

 

 

 軽快ですらある破砕音が、城壁の至る所で響き渡る。  兵士Bの目の前で、素焼きの壺が石畳に叩きつけられ、砕け散った。中から飛び散ったのは、鼻をつく異臭を放つ、どろりとした黒い液体だ。

 

 

 

 

 

「なんだ!? 毒か!?壺が降ってきてやがる!」

 

 

 

 

 

兵士Bが叫び、盾を背負って屋根のあるところへと走る。しかし、次から次へと飛来する陶器は、盾の防御など嘲笑うかのように、あらゆる場所で弾けた。

 

 

 

 銃眼の隙間から、大砲が据えられた広場の中央へ。  兵士たちが待機する防矢屋根の上へ。  そして何より、大砲を旋回させるための精密な転輪と、それを支える鉄軌の上へ。

 

 

 

摩擦が少なくなるように油がたっぷり塗られたレール。しかし、それは粗悪な油と混ぜられてしまえば効果は激減する。

 

 

 

 

 

ドプッ、ドプッ、ドプッ……    

 

 

 

液体が溜まる重い音が続く。  数千、いや、万に近いかもしれない。  

 

 

 

第二射、第三射と、長弓隊による飽和攻撃は止むことを知らなかった。  

 

 

 

白亜の美しい広場は、瞬く間に醜い黒いシミで覆い尽くされた。  石畳の継ぎ目という継ぎ目に、油が毛細管現象によって吸い込まれていく。

 

 

 

乾燥した石は貪欲に油を飲み込み、その表面を黒光りする鏡面へと変えていった。  

 

 兵士は、自分の足元が滑るのを感じた。  木靴の裏に、ねっとりとした油が絡みつく。

 

 

 

クソッ、油だ!  誰かが叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そう、ただの油だ。火薬でもなければ、強酸でもない。  

 

 

 

城壁の上は、まるで巨大な厨房の床のように油でギトギトになり、屋根の無い場所では強烈な獣脂と植物油の混ざった臭気で満たされた。  兵士たちは、油に濡れた手でクロスボウを握り直し、顔を見合わせた。  敵は何がしたいのか?  足を滑らせて転ばせるつもりか?  そんな子供騙しのために、九ヶ月も包囲していたのか?

 

 

 

 彼らは気づいていない。  自分たちが今立っているその場所が、巨大なフライパンの底になったということを。  

 

 

 

そして、その底に敷かれた油が、彼らが誇る最新鋭の科学兵器――熱に弱い鋼鉄の塊――を、これから始まる物理の実験へと誘うための潤滑油であることを。

 

 

 

 

 

禿山の中腹。

 

 

 

ペイルが命令し、部下の3人に全力で押させた。

 

それは投石器の重しを外す、一つのスイッチであった。

 

 

 

 それと同時に、背後で、ギリギリと限界まで引き絞られていた巨大バリスタの留め金が、ペイルの大鎚で叩き外される。

 

 

 

 

 

 

 

 ガキィンッ!!

 

 

 

 鋼鉄の弦が弾ける音は、もはやバリスタのそれではない。巨大な鉄骨同士が衝突したような、耳をつんざく打撃音だ。

 

 

 

 放たれたのは、百の巨杭の第一陣。

 

 

 

 不知火の森で育った高密度の樫を削り出し、先端に数百キロの銑鉄の塊を冠した、空飛ぶドリルである。  

 

 

 

それらは、火を灯していない。  赤々と燃える矢など、この距離では風に煽られて消えるか、威力を殺ぐだけの無駄な装飾に過ぎない。  

 

 

 

必要なのは、純粋な運動エネルギーだ。  

 

 

 

 

 

 ゴォォォォォォォォ……!

 

 

 

 空気が押し潰される轟音が、黒い油の雨が止んだ直後の空気を震わせる。  城壁の守備兵たちが、「雨の次は雷か?」肩を組みながらと空を見上げた時には、死神はもう目の前にいた。

 

 

 

 

 

 

 

――ズガァァァァァン!!

 

 

 

 着弾。  先端の銑鉄が、油で黒光りする屋根に激突する。

 

 

 

 硬いが脆いという銑鉄の性質は、この瞬間に爆発へと変換された。  衝撃で砕け散った銑鉄の破片が、鋭利な対物散弾となって放射状に飛び散る。

 

 

 

正二十面体の星状の矢は、全てこの効果を生み出すためにある。数多の敵を殺したバリスタの凶悪な矢が、ついに自分たちに向けられたことを悟る。

 

 

 

 

 

バギカギギカキ…… 

 

 

 

 

 

 防矢屋根の下に隠れていた兵士たちを、とてつもない数の鉄の礫が紙のように貫通し、肉を抉り、骨を砕く。  

 

 

 

さらに、運動エネルギーの余波が防矢屋根の下の回廊にまで貫通して直撃し、精密な歯車を歪ませた。

 

 

 

 だが、真の絶望は、そんな物理的な破壊のコンマ数秒後に訪れた。

 

 

 

 巨杭の芯に仕込まれていたのは、火薬ではない。精巧な空気圧縮筒だ。

 

 

 

 衝突の凄まじい慣性によって、精密に加工された木筒の中のピストンが一気に、そして極限まで押し込まれる。

 

 

 

 逃げ場を失った空気は、断熱圧縮の理に従い、瞬時にして八百度を超える超高温の熱源へと変貌した。

 

 

 

 カッ!!

 

 

 

 杭の根本に設けられた排気口から、赤い閃光が走る。

 

 それは、ただの火花ではない。凝縮された熱の刃だ。  

 

その刃が触れたのは、つい先ほどの飽和攻撃によって城壁全体に撒き散らされ、気化し始めていた油の蒸気であった。

 

 

 

 

 

ボォォォォォォォッ!!

 

 

 

 爆発音ではない。空気が一瞬にして燃焼し、膨張する時の、腹の底に響くような重低音だ。

 

 

 

 城壁の上部は、一瞬にして巨大な溶鉱炉と化した。  

 

 

 

精製された軍用油ではない、不純物を多く含んだ生活の油だからこそ、その燃焼は汚く、粘り強く、そして温かった。

 

 

 

 火は油の道を走り、石畳の隙間へ、大砲の足元へ、そして兵士たちの甲冑の隙間へと、生き物のように這い回る。

 

 

 

 城壁の外部からは、中の惨状は見えないが……しかし、数拍の静寂の後、バリスタが穿った穴や銃眼から、どろりとした脂ぎった「真っ黒な煙」が、猛烈な勢いで噴き出した。  

 

不完全燃焼の黒煙は、天に向かって龍のように渦を巻きながら昇り、まるで城そのものが苦悶の息を吐いているかのように見えた。

 

 

 

 そして、その高熱の中で、不知火が誇る高度な科学が悲鳴を上げた。

 

 

 

 「ギィィィィィィッ! ギャリリリリッ……!」

 

 

 

 金属が金属を削る、身の毛もよだつ断末魔。  大砲を旋回させるために敷設された鉄軌が大きくたわんでいる。

 

 

 

異常高熱によって急激な熱膨張を起こしたのだ。  鋼鉄は熱を得て分子レベルで膨張しようとする。だが、レールの両端は強固な石壁に固定されている。  伸びようとする鉄。逃げ場のない空間。  行き場を失った膨大なエネルギーは、分厚い鋼鉄と分厚い鋼鉄、その双方を飴細工のように捻じ曲げ、上方へと跳ね上げた。

 

 

 

 

 

バキンッ! という音と共に、レールが生き物のように鎌首をもたげる。  その上に乗っていた最新鋭の大砲は、自らの足場が隆起したことでバランスを崩し、車輪を歪んだレールに噛み込まれ、完全に動作を停止した。  

 

 

 

火蓋を上けようとしていた兵士の足の下で、熱によって膨張したレールの弊害が早速発生した。まったく動かなくなったのだ。

 

 

 

   「動かん! 砲が回らんぞッ!」  「火だ! 油を拭え! 水を持ってこい!」  「水などかけるな! 広がるぞッ!」

 

 

 

 火達磨になった兵士たちの絶叫と、鉄が死んでいく音が交錯する。  不知火の防御システムは、破壊されたのではない。「熱」という環境変化によって、物理的に窒息させられたのだ。

 

 

 

元より油が歯車には多い。つまり、そこに大量の油がさらに加えられ、着火してしまえば火薬もろとも誤発射の連発!

 

 

 

 ケインは、黒煙の柱が立ち昇り、燃え盛る城を見て、次なる合図を送った。  本陣の背後に控えていた千の太鼓隊が、一斉にバチを振り上げる。

 

 

 

 ドッ!!

 

 

 

 たった一打。それだけで、戦場の空気が物理的に殴られたように歪んだ。  続いて、連打が始まる。

 

 

 

 ドドドドドドドドドドドドドドッ!!

 

 

 

 それは音楽ではない。音の暴力だ。  腹の底を揺さぶり、思考を麻痺させる重低音の壁。  麓の空堀に溜まった赤黒い泥水の表面には、太鼓の鼓動に合わせて無数の同心円が立ち上がり、空中の煙さえもその音圧に共鳴して震えている。

 

 

 

 

 

だが、この轟音には、もう一つの、そして最も冷酷な目的があった。  遮音である。

 

 

 

 視点は、城の深部――天守閣の内部へ。

 

 

 

 

 

 外の地獄とは対照的に、そこには豪奢な絨毯が敷かれ、静謐な空気が漂っていたはずだった。  だが今、その回廊を、影のような黒装束の集団が疾走している。

 

 

 

 九ヶ月かけて掘り進めた地下坑道から侵入した、ケインとペイルの手駒たちだ。

 

 

 

 彼らは声を上げない。走る音も立てない。  ただ、出会い頭の警護兵の口を背後から塞ぎ、短刀を喉元に滑らせる。  

 

 

 

 肉が裂ける音。喉から漏れる空気の音。倒れる鎧の音。  通常なら城内に響き渡るはずのその死の音は、外から絶え間なく響く、パリンパリンと割れる轟音と悲鳴によって、完全に掻き消されていた。  

 

 

 

窓ガラスが太鼓の音でビリビリと震える中、城主がいる最上階の間の扉の前で、最後の近衛兵が音もなく崩れ落ちる。  

 

 

 

白装束の城主は、窓の外の炎上する城壁を見つめ、それを知らずとも終わりを悟った。

 

 

 

一瞬で城主の切腹は終わり、少し腹をプスリと刺しただけで首を跳ねた。

 

 

 

 

 

一方、城の麓。  巨大な空堀の底に、足軽……ユージは立っていた。 「……でかい」

 

 

 

 見上げる城壁は、天を突くように高い。だが今、その頂は黒煙に包まれ、大砲は沈黙している。  

 

 

 

ユージの周囲には味方がひしめき合っていた。

 

 

 

 彼らは九ヶ月間、泥にまみれ、友を失い、飢えに耐えてきた。その鬱屈した感情が、今、爆発しようとしている。

 

 

 

 堀の底は、意外なほど静かだった。いや、太鼓の音が大きすぎて、逆に静寂を感じる音の飽和状態にある。

 

 

 

 鼻をつくのは、城壁から流れてくる焦げ臭い油の臭いと、九ヶ月ぶりに踏みしめる、湿った土と落ち葉の清浄な香り。

 

 

 

 足元には、剥がれ落ちた白漆喰の破片が、まるで季節外れの雪のように散らばっている。いや、もう冬が来ているのかもしれない。家を出たのは何の季節だったか……ユージは覚えていなかった。

 

 

 

「梯子をかけろッ! 一番槍は誰だ!」

 

 

 

 誰かの叫び声と共に、百の梯子が城壁に立てかけられる。  そして、空堀を横断するように、架けられた木の橋に味方は乗り、降伏を促す。

 

 

 

 それは勝利への花道に見えた。  

 

 

 

敵は混乱している。反撃は、もうない。  

 

 

 

「うぉぉぉぉぉッ!!」

 

 

 

ユージは吼えた。  

 

 

 

恐怖は……多少あるが、今の心中は、この地獄のような遠征を終わらせ、金銭という報酬にありつけるという、浅ましくも強烈な希望だけだ。  

 

彼は泥だらけの靴で木橋を踏み鳴らし、逆光と共に開かれた正門の闇に向かって突進した。

 

 

 

 その直線上。  門の奥の暗闇の中で、熱の影響を受けないよう分厚い石室に守られた最後の一門、重鎮砲の砲口が、冷酷な眼差しで彼らを見据えていることなど、知る由もなく。

 

 

 

ユージの視界は、ブレていた。  呼吸はとうに限界を超え、喉の奥から鉄錆のような味がする。

 

だが、脚だけはかつてないほどの軽快さで地面を蹴っていた。  目の前には、巨大な空堀。その上には、味方の工兵隊が夜を徹して組み上げた、真新しい白木の橋と、敵の橋が架かっている。

 

 

 

 それは、敵が作ったとか、味方が作ったとか、そのような事をはるか超越し、地獄から天国へと続く階段に見えた。    背後では、まだ「の大太鼓が地鳴りのように響いている。だが、そのリズムは先ほどまでの「攻撃」を促す激しい連打から、どこか勝利を祝うような、雄大でゆったりとした拍子へと変わりつつあった。  

 

 

 

頭上を見上げれば、難攻不落を謳われた不知火の城壁が、黒煙を上げて喘いでいる。  銃眼からの反撃はない。あの忌々しいクロスボウの狙撃兵たちも、熱と煙に巻かれて逃げ出したのだろう。

 

 

 

「一番乗りだッ! 俺が、俺たちが一番だ!」

 

 

 

 ユージは叫び、橋板を踏み鳴らした。

 

 

 

 

 

 ドカ、ドカ、ドカ、ドカ……!  彼一人ではない。左右に並ぶ橋すべてに、同じように泥だらけの兵士たちが殺到していた。橋は、数千人の男たちの体重と欲望を支え、ギシギシと危うい悲鳴を上げている。だが、その軋み音さえも、今の彼らには凱旋のファンファーレにしか聞こえない。

 

 

 

 九ヶ月。  長かった。あまりにも長かった。  泥水を啜り、友の死肉を喰らう鼠と添い寝し、来る日も来る日も竹を切り続けた日々。  だが、それも終わる。  この橋を渡りきり、あの厚い門をこじ開ければ、そこには不知火が溜め込んだ金銀財宝と、柔らかい布団と、そして略奪という名の無上の快楽が待っている。  ユージの脳裏に、故郷で待つ幼馴染の女の顔が一瞬よぎったが、すぐに金貨の輝きにかき消された。今は、女の肌よりも、黄金の冷たい感触が恋しい。

 

 

 

 

 

橋の中ほどまで差し掛かった時だ。  先行していた兵士たちが、不意に足を止め、ざわめき始めた。

 

 

 

「……おい、見ろ」 「開くぞ……! 門が完全に、開くぞ!」

 

 

 

 

 

 不知火城の正門は厚さ数寸の鉄板で覆われていた。

 

 

 

その厚みで持ってして、どのような手段を使おうとも全くびくともしなかったその巨大な扉が、重苦しい金属音を立てて、ゆっくりと上側へと開き始めたのだ。

 

 

 

 ギギギギギギギ……

 

 

 

 錆びついた蝶番の音が、大太鼓の音の隙間を縫って、橋の上にいる全ての兵士の耳に届いた。

 

 ユージは立ち止まり、肩で息をしながらその光景を見つめた。  罠か?  一瞬、疑念が頭をもたげる。

 

 

 

 だが、開かれた門の奥は暗く、静まり返っていた。矢が飛んでくる気配もない。  そして何より、城壁の上部からは依然として黒煙が噴き出し、守備兵たちが逃げ惑う姿が見え隠れしている。城の防御機能が崩壊していることは明らかだった。

 

 

 

「降伏だ……」

 

 

 

 誰かが、震える声で呟いた。  その言葉は、波紋のように橋の上の兵士たちに伝染した。

 

 

 

「降伏だ! 城主が諦めたんだ!」 「門を開けたぞ! 迎え入れるつもりだ!」 「終わった……本当に、終わったんだ……」

 

 

 

 カラン、と乾いた音がした。  近くにいた兵士が、手から槍を取り落とした音だった。  それを合図にしたかのように、張り詰めていた糸がプツリと切れた。  殺気立っていた兵士たちの肩から力が抜け、顔には安堵と、だらしない笑みが浮かび上がる。  ある者は兜の紐を緩め、ある者は隣の戦友の肩を叩き、またある者は天を仰いで涙を流した。

 

 

 

ユージもまた、握りしめていた錆びた刀を鞘に納めかけた。

 

 

 

 膝が震えているのがわかる。恐怖ではない。あまりの安堵に、力が抜けてしまったのだ。  これで、もう殺さなくていい。死ななくていい。  ただ、あの開かれた門の奥へ歩いて行き、ひざまずく城主を見下ろし、蔵から財宝を持てる分だけ運び出せばいいのだ。  

 

 

 

 

 

戦場の空気が、一変した。  先ほどまでの殺伐とした熱気が、ぬるま湯のような弛緩した空気へと変わる。  本陣の大太鼓も、まるでその空気を察したかのように、一度完全に鳴り止んだ。

 

 

 

 静寂。  聞こえるのは、黒煙が風に流れる音と、橋の下の堀を吹き抜ける風の音、そして数千の兵士たちが吐き出す安堵の溜息だけ。

 

 

 

 誰もが、この物語のエピローグを確信していた。  

 

その時、ユージは思考した。

 

 

 

俺たちは生き残った勝者なのだ。

 

英雄譚として書かれるだろう、自らの勇姿を見てくれていただろうか?故郷に戻ったら……そうだ。犬を飼おう。

 

 

 

 

 

 ユージは、再び歩き出した。  今度は走らない。勝利の余韻を噛み締めるように、一歩一歩、ゆっくりと。  門の闇が、彼らを招き入れている。  

 

 

 

だが、その闇の奥に、二つの金色に輝く瞳が光っていることに、まだ誰も気づいていなかった。

 

 

 

 

 

 門の内部。  そこは、外の喧騒とは隔絶された、冷たく静謐な石の空間だった。  天井は高く、壁は分厚い。外壁がどれほど炎上しようとも、このエリアだけは完璧な防火構造と換気システムによって、冷涼な空気が保たれている。  その暗闇の中央に、それは鎮座していた。

 

 

 

門の内部。  そこは、外の喧騒とは隔絶された、冷たく静謐な石の空間だった。  天井は高く、壁は分厚い。外壁がどれほど炎上しようとも、このエリアだけは完璧な防火構造と換気システムによって、冷涼な空気が保たれている。  その暗闇の中央に、それは鎮座していた。

 

 

 

 水平射撃用の重砲、名前を"重鎮"と言う。

 

 

 

 それは、攻城戦における籠城側の切り札として設計された、異形の怪物だった。  通常の榴弾(りゅうだん)を放つ大砲ではない。  砲身は極端に短く、そして異常なほど太い。  台座は車輪ではなく、石畳に埋め込まれた鋼鉄のアンカーによって、地面と完全に一体化している。  旋回機能はない。照準を合わせる必要もない。  なぜなら、この砲は「開かれた門の真正面」、すなわち「橋の上」という一点のみを殺すために固定されているからだ。

 

 

 

 砲の傍らには、血と油で汚れた砲術長が、像のように静止して立っていた。  彼の手には、点火用の松明(たいまつ)が握られている。  彼の耳には、外の様子が手に取るように聞こえていた。  太鼓の音が止み、兵士たちの歓声が安堵の溜息に変わり、軍靴の足音が無警戒に近づいてくる音。

 

 

 

両手を上げて、白旗を振る。そうしつつも、砲術長が、砲に向かってくる者に向かって一言喋る。

 

 

 

  「……馬鹿な連中だ」

 

 

 

 砲術長は、憐れみすら感じない声で独りごちた。

 

 

 

 九ヶ月。  彼らもまた、この一瞬のためだけに、暗闇の中で息を潜めて耐え抜いてきたのだ。  外壁の兵士を見殺しにし、城主が逃げたと噂を流し、敵が勝った」確信して武器を下ろす、その瞬間を。

 

 

 

 心理的な油断というその大きな隙こそが、最大の後悔を生む。    装填されているのは、散弾という無粋な武器ではない。

 

 この距離、この密集度、そして橋という一直線の構造。  散弾では威力が分散してしまう。  この日のために用意されたのは、直径5尺ほど、純度を高めた最高品質の鋳鉄の球体だ。  

 

 

 

 橋の上に兵士たちが密集した。  先頭の男――ユージの顔が、外光に照らされて微かに砲術長にも見えた。  だらしない笑顔。緩みきった頬。

 

 

 

 

 

 砲術長は、その顔を標的に定めた。

 

 

 

「ようこそ、不知火へ」

 

 

 

 彼は松明を、にこやかに笑いながら火門へと振り下ろした。

 

 

 

ユージは、数歩というところで、ふと違和感を覚えた。

 

 

 

なぜ両手を上げているのに、いちばん明るい夕方だというのに……松明だなんて持っているんだろう? 

 

 

 

 その火が、黒い鉄の塊に触れた瞬間。  ユージの思考は、そこで永遠に停止した。

 

 

 

 

 

 

 

 ズガァァァァァァァンッ!!!!!

 

 

 

 音ではない。  

 

 

 

世界そのものが破裂したかのような衝撃波が、門の中から噴出した。  狭い石室の通路の中で圧縮された爆発音は、指向性を持って前方へ――すなわち橋の上へと解放される。  

 

 

 

 放たれた鉄球は、滑空砲の中で加速し、空間を抉った。  

 

 

 

 グシャッ!

 

 

 

 ユージには、痛みを感じる時間さえ与えられなかった。

 

 

 

 彼の目線が、宙を舞った。  回転する視界の中で、彼は見た。  自分の下半身がまだ橋の上に立ち尽くしているのを。  そして、自分の背後にいた戦友の顔が、驚愕に歪む間もなく、同じ鉄の嵐に飲み込まれて弾け飛ぶのを。

 

 

 

 ゴッ、バキバキバキッ!

 

 

 

 鉄球の質量は、人体で止まるような生易しいものではない。  先頭の十数人の胴体を肉塊に変えながら、その運動エネルギーは減衰することなく、橋へと激突した。

 

 

 

   勝利の架け橋が、悲鳴を上げた。  それは、死への滑り台へと変わる最初の音色だった。

 

 

 

 

 

重鎮砲から放たれた砲弾は、人体という柔らかい障壁を紙細工のように切り裂いた後、その真の目的を果たした。

 

 

 

 ――ズガァァァァァァァン!!

 

 

 

 凄まじい衝撃音が、橋の中央部で炸裂する。橋を支える主要な横木や梁などの衝撃吸収機構、しかしその有り余る猛烈な回転エネルギーを一点に叩きつけた。

 

 

 

 

 

白木の橋。それは、垂直方向の荷重には耐えられるよう設計されていたが、大砲の火力に耐えるようには設計されていなかった。

 

 

 

 バキバキバキッ! メリメリ、メリッ……!

 

 

 

 乾いた木の悲鳴が、戦場に響き渡る。  ユージの遺体が転がる橋の端から、亀裂が走った。それは稲妻のような速さで木材の繊維を裂き、橋全体を波打たせる。  

 

 

 

 橋の上にいた数千の兵士たちのうち、幸運にも鉄球の直撃を免れた者たちは、自分たちの足元が不自然に「浮き上がった」のを感じた。  安堵に緩みきっていた顔が、一瞬で凍りつく。  逃げようにも、橋の上は功名を焦る後続の兵士たちで埋め尽くされており、一歩も動けない。    

 

 

 

 

 

 

 

逃げ場のない橋の上。その欠片の雨が、密集する兵士たちを容赦なく叩く。

 

それは木片というよりは、巨大なシュレッダーに肉を放り込むような光景だった。

 

 

 

甲冑の継ぎ目を、盾の裏を、そして叫ぼうとして開いた口の中を、熱を帯びた木が貫いていく。一瞬にして橋は崩壊し、赤黒い霧が立ち込める処刑場へと変貌した。生き残った者たちの頬を、戦友だった者の肉片が掠め、彼らが握りしめていた降伏への期待を、物理的な血の臭いが上書きしていく。

 

 

 

 ――ドォォォォォォォォンッ!!

 

 

 

 大太鼓の音さえも掻き消すような、巨大な崩落音が堀の底から突き上げ、ペイルのいる場所まで届いた  橋の長さは九十間ほど。

 

そこにひしめいていた数百の命が、否……砲撃で弾け飛んでいない、『ラッキーな生き残りたち』が、支持を失った木材と共に、重力に従って垂直に落下を始める。

 

 

 

 「うわあああああああああッ!!」

 

 

 

 絶叫。しかし、それはすぐに物理的な衝突音によって打ち消される。  

 

 

 

 

 

ドシャッ、ベチャッ、バキッ……!  

 

 

 

 

 

堀の底は、一瞬にして地獄の窯へと姿を変えた。  上から降り注ぐのは、自らの身体よりも重い橋の残骸、そして兵士たちだ。

 

 

 

堀の底に溜まっていたわずかな水が、落下した衝撃で泥と共に高く跳ね上がる。そこには、折れた梯子と、無数に絡まり合った四肢、そして生きながらにして材木の下敷きになった者たちの悶えがあった。

 

 

 

白漆喰の破片は今や、飛び散った血によって赤く染まり、不気味な色彩のコントラストを描いている。空からは、まだ破壊されていない隣の橋から、仲間の姿を見て発狂した兵士たちが、押されるようにして次々と逃げようとして、端っこにいた兵士が堀に向かって墜落し続けてくる。それはまるで、巨大な蟻地獄に吸い込まれる黒い塵のようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 禿山の本陣。  床几に座っていた将Aは、思わず立ち上がっていた。  

 

 

 

彼の手に握られた軍配が、微かに震える。  計算外だ。  不知火の城壁を焼き、砲を座屈させ、別動隊を天守へ送り込んだ。ここまでは完璧だった。

 

 

 

だが、この門を開けての迎撃という、あまりにも想像できなかった行為に驚いた。

 

 

 

スパイによって門を開けさせたが、それを城主の降伏と受け取らず砲兵による徹底抗戦へと入った。

 

 

 

 

 

と、推測したのだった。

 

 

 

 

 

「……重鎮砲か。残っていたのか」

 

 

 

 

 

ケインの目には、堀の底で文字通りの血の霧ができ上がっていくのが見える。  九ヶ月かけて積み上げた優位が、たった1発の大砲によって、心理的な大敗北へと引き戻されようとしていた。    斜面の中腹では、ペイルが喉を潰さんばかりに叫んでいた。

 

 

 

 

 

「戻れッ! 橋から離れろ! 罠だ! 下がれッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 だが、その声は数千の兵士たちに向かえども届かない。山の空気は澄んでいるが、上げるパニックの怒号と、鳴り響いた銅鑼の轟音に掻き消される。  

 

 

 

後続の兵士たちは、前方の橋が落ちたことを知ったが……興奮、あるいは狂乱に突き動かされ、逃げようする仲間を堀の底へと押し出してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 どれほどの時間が過ぎたのか。  一分だったかもしれない。あるいは、永遠のような数十分だったかもしれない。

 

 

 

 不知火城の正門から噴き出していた硝煙が、ゆっくりと風に流されて薄れていく。    橋は、中央の三本が完全に消失していた。  堀の底には、人知を超えた量の瓦礫と肉が堆積し、そこからは不気味なほど静かな呻き声だけが漏れ聞こえてくる。    その時、本陣の銅鑼が、ついに止まった。    支配的な重低音が消えた瞬間、戦場に訪れたのは、耳が痛くなるほどの「静寂」だった。  城壁の上で燃え盛る火の爆ぜる音。  堀の底で、泥水を啜りながら息を絶やす者の、ヒュウヒュウという喘ぎ。  そして、まだ橋の上に残り、腰を抜かして座り込む兵士たちの、ガチガチと鳴る歯の音。    ケインは、窓ガラスに張り付くのを止めて、再びゆっくりと座り直した。

 

 

 

 彼の視線は、再び城壁の破孔に向けられる。  別動隊は成功したのか?  天守は落ちたのか?    だが、その答えが出る前に、城門の暗闇から、白旗と、甲高い笛の音が鳴らされる。

 

 

 

彼は頭が地面に着くまでの5秒間、走馬灯を見た。

 

 

 

 

 

 九ヶ月前、故郷を出る時に見た、黄金色の麦畑を。  あの時、自分は英雄になれると思っていた。

 

 

 

 だが今、自分を包んでいるのは、冷たい噎せ返るような鉄の臭いと、名もなき暗闇の感覚だけだ。    彼の視界が暗転する寸前。  彼は見た。  城壁の頂に白旗が、掲げ直されるのを。    

 

 

 

 

 

勝利したという結果を見て、最期の瞬間に満足した。

 

 

 

このようにして……この1人の足軽は死んだが、この世に鬼などというものが存在するはずもなく。

 

 

 

死後の世界というものは存在しないまやかし。考えていても仕方の無いことだ。

 

 




人間同士の戦いでクロスボウを使うのは非人道的、だけども使わぬ手はない。

西洋の怪物どもが使ったこの死の武器は……なんとも強い。

秋穂の実りこそ我が国の誇り。小さな国ごときに負ける訳には行かない。
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