貴族連合が所有する純白の艦、パンタグリュエル。その一室で静かな寝息を立てるクロウは、突如として増した重みによってゆっくりと覚醒していく。寝返りを打つことすら叶わない彼は、寝ぼけ眼で状況を確認する。
「おはよう、クロウ」
「……おう」
麗しい声。美しい容姿。誰が見ても美人だと評するに違いない女性が──ヴィータ・クロチルダが、クロウの足に腰かけていた。にこやかな笑みの奥に何かを企んでいる色を見出したクロウは、適当な返事をしたところで目を瞑る。
「起きなさい」
「あー……分かったから、とっととそこ退け」
ひらひらと手を振ると、ヴィータは溜め息を零しながらもやっと退いてくれた。
退いてくれたのだから二度寝しようと思いたいところだが、相手は魔女だ。怒らせたら怖いので渋々身体を起こす。
「で、用件は?」
欠伸を噛み殺しながら問うと、ヴィータは妖艶に微笑む。その笑みを目にした瞬間、クロウは悟った。これは面倒な奴だ──と。
「今日1日、私に付き合いなさい」
こんな美人からの誘いだ。誰もが即座に受け入れるだろうが、クロウの頭に真っ先に浮かんだ感情は「嫌だ」だった。貴重な時間を少しだけ割くならともかく、1日ともなれば面倒なことになるに違いない。しかし断ればそれはそれで大変な目にあうだろう。
「…分かったよ」
仕方なくと言った様子を隠さず了承すると、案の定ヴィータは唇を尖らせて頬を引っ張ってきた。
「そこは嘘でも喜んで受けなさい」
「嘘でいいのかよ」
「それもそうね」
「それで、どこ行くんだ?」
「帝都よ」
「……はい?」
帝都ヘイムダル。数ヵ月前に、クロウがギリアス・オズボーン宰相を射殺した地。まさかここに戻ることになるとは思わず、クロウは頭を掻いた。街は相変わらず喧騒に包まれているものの、誰も宰相が殺された事件を忘れている訳ではないだろう。いわゆる空元気と言うものだが、そうでもなければやっていけまい。
ひとまず邪魔にならない場所に立ち、ヴィータを待つ。適当な私服を見繕い、サングラスをかけてなるべく目立たないようにする。
「お待たせ」
「あぁ──って、それは……」
声のした方を振り返ると、そこにはラジオパーソナリティー、ミスティとしての服装に包まれたヴィータが。流石にドレスを着てくるとは思っていなかったが、久しぶりにカジュアルな彼女を見たので新鮮な気持ちだ。
「けど、まさか帝都とはね……ばれないか?」
「大丈夫よ。魔法で認識に齟齬を生じさせるから」
曰く、ヴィータから離れなければクロウの姿もはっきりとは認識されないらしい。最早なんでもありだが、今はその恩恵に預からせてもらうことに。だが───
「いやいやいや……これはおかしいだろ」
───何故かヴィータはクロウの腕に抱きついてきた。あまりにあり得ない出来事に、クロウは喜ぶはずもなく必死に腕を離そうとする。
「あら、ちっともおかしくはないと思うけど?」
「嘘つけ!」
しれっとするヴィータに声を荒らげるが、彼女がその程度で怯むはずもなく、なんとか離れようと躍起になる。
「そんなに激しく動かれると、困るわ」
「だったら離せよ」
豊かな胸が僅かに触れる。服の上からでも分かるぐらいの柔らかさと温もりが心地好い──などと口が裂けても言えない。
「近すぎるだろ」
「仕方ない子ね」
「俺が悪いのか?」
溜め息交じりに呆れられてしまった。寧ろそれは自分の持つべき感情のはずなのだが、やはり彼女といるとペースを崩されてしまう。もっとも、それを嫌に感じたことは1度としてない。
やっと離れてくれたところで、気を取り直してヘイムダルへと入っていく。ヴィータの言う通り、周囲は2人のことなどまったく気にする様子もなく、あっという間に喧騒へ呑み込まれていった。
「さて、それじゃあ行きましょうか」
「どこに?」
「競馬場よ」
帝都にある競馬場は、未成年が賭けることはもちろん、入るのにも厳しい場所だ。しかしヴィータからそんな行き先を聞くとは思わず、いざ競馬場に着くと首を傾げてしまう。
「どうやって賭けるの?」
「知らなかったのかよ」
全部教えても1度に覚えるのは大変だろうと、必要最低限のことを伝えていく。そして適当な場所で各馬の出走を見守った。
固唾を呑んで眺める者、馬券を握り締めて吠える者、ただ馬が走る様を楽しむ者、立場は様々だが、抱える情熱は同じだ。ヴィータもその熱気を感じているのか、茶化したりせずに静かに眺めている。やがて、その時が来た。スタートと共に響く足音。それを掻き消す程に広がっていく声。応援こそしないが、ヴィータの横顔からは確かに楽しんでいる色が窺えた。
「まぁ、いいか」
何か企んでいるのではないかと考えた自分が恥ずかしい。クロウはその横顔を目にできただけで満足し、レースに向き直った。
「いやぁ……惨敗だったぜ」
賭けた額はさほど高くないが、やはり外れると堪えるものがある。ちなみにヴィータは何故か三連単を的中させていた。昼食を奢ると言われたのだが、あくまで彼女のお金なのでそれは丁重にお断りして、今はバーガーショップにいる。少々値は張るが、ヴィータに美味しいものを食べて欲しかったからこの店を選んだ訳だが、もちろん本人には内緒だ。
「ん?」
トイレから戻ると、ヴィータを囲むように数人の男が立っていた。いわゆるナンパだろうが、ヴィータはのらりくらりとかわしている。命知らずもいたものだと呑気に考えていたクロウだったが、自分でも気付かない内に、1人の腕を掴んでいた。
「俺の連れになんか用か?」
つとめて冷静に言ったはずなのに、言葉の端々に冷徹で、鋭利な怒りがこもる。幸い男達はそれを感じてくれたようで、そそくさとその場を後にした。
「遅かったわね」
「へいへい、悪かったよ」
いきなり苦言を口にされるとは思わず、ついぶっきらぼうに返してしまった。その子供っぽい一面に気付いたヴィータがくすくすと笑う。
「助けてくれてありがとう。白馬の王子様には程遠かったけど」
「ほっとけ」
「まぁ、私には王子様なんて不釣り合いね」
「そうか?」
「そうよ。だって、魔女だもの」
魔女──確かにヴィータの二つ名もそうだし、結社の連中からも名前ではなく魔女と呼称されることが多いように思う。
「ははっ、ならその魔女に見初められた俺は、魔王だな」
「魔王……ふふっ、王子様よりよっぽど素敵だわ」
機嫌をよくしてくれたのか、ヴィータは鼻歌交じりに笑みを浮かべる。簡単に周囲の雑音に呑まれそうなほど小さな旋律。クロウはそれを聞き逃すまいと耳を傾けた。
昼食を終えて店を出ると、次はアクセサリーショップへ足を運ぶ。安価ものから高級なものまで、ありとあらゆるものが取り揃えられているそこは、ゆったりとした音楽が流れており、自然と足を止めては商品を眺めてしまう。
「イヤリングとかしないの?」
「似合うと思うか?」
「…確かにね」
あっさりと同意されてしまった。もとより世辞など期待していなかったが、こうも簡単に同意されると却って面白くない。
「これなんてどうかしら?」
試しにイヤリングを施したヴィータが振り返る。普段は艶やかな髪に隠れて見えない耳が露になる。女性らしいちょっと小さな耳は、白磁を思わせるように綺麗な肌をしていた。一点の曇りもないそこに追加された蒼いアクセサリーが、より強くクロウの目を引き付けた。
「あー、うん。いいんじゃねぇの」
見惚れてしまったせいで、そんな気の抜けた返事しかできなかった。それが不満なのか、ヴィータは膨れっ面になる。
「なんでもいいみたいな言い方ね」
「違うって」
素直に見惚れたなどと言えば、またからかわれるだけだと思い、苦しい弁明でなんとかその場を取り繕った。それでも中々機嫌のよくならないヴィータに、別の話題を出す。
「ちなみに、俺には何が合うと思う?」
「そうね……ペンダントとかどうかしら? それなら、変に飾っているとは思われないし」
言いながら、小さなペンダントを指差す。目立たず、それでいて消え入ることのない存在感を醸すそれを手に取り、試しに首からさげてみる。
「意外と様になっているわよ」
「ははっ、俺でも意外だと思う」
「せっかくだし、買ってあげる」
「いや、流石にそれは……」
「あら、私の優しさを無下にするなんて、いい度胸ね」
珍しく頑なな態度を見せるヴィータ。そこまで言われては自分が折れるしかないだろう。
「分かったよ。けど、買ってくれるんなら、そっちの蒼い奴にしてくれ」
「どうして?」
「どうしてって……そりゃあ、蒼はお前の色だからだろ」
その一言にヴィータはぽかんと呆けるが、それも一瞬だけ。くるっと背を向けてしまった彼女は小さく「バカ」と返すのだった。
◆◇◆◇◆
「よう」
「おう、マクバーン」
パンタグリュエルに戻ると、早々にマクバーンから声がかかる。彼とはあまり言葉を交わす機会はないが、関係は悪くない──はずだ。
「兎から聞いたぜ」
「アルティナから?」
黒兎(ブラックラビット)の二つ名をもつアルティナは、小柄ながらも黒い戦術殻を使役して戦う頼もしい少女だ。
「魔女とデートだったんだってな」
「ぶふっ!」
喉を通るはずだった飲料が口から吹き出す。マクバーンは興味がないのか、その様子になんの反応も見せず、ただ笑っていた。
「デートじゃねぇよ。ただ一緒に出掛けただけだ」
「へー」
クロウの弁明に対しても気の抜けた返事をするだけ。まったく信じていないようだ。
「まぁ、せいぜい魔女に手綱握られないようにな……って、もう手遅れか」
「うるせぇ」
否定できないのがなんとも悲しい。マクバーンは言うだけ言うと満足したのか、自分の部屋へ戻っていった。相変わらず好き放題しているが、クロウはもう慣れてしまった。
「行くか」
ヴィータに呼ばれていたのだが、マクバーンのせいで行く前に疲れてしまった。それでも待たせて怒らせるのは嫌なので、さっさと歩き出した。
「おーい、来たぞ──って、なんだこりゃ?」
自由に入っていいと言われているので、いつもみたいにノックもなしに入ると、まず最初に目に入ったのは、机には綺麗に並べられた白磁のお皿と、そこに盛り付けられた料理だった。
「あなたにしてはいいタイミングね」
言いながら、奥から姿を現したヴィータが持っていたのはケーキだった。訳が分からないと言った様子のクロウを見て、ヴィータはくすくすと微笑んだ。
「忘れたの? 今日はあなたの誕生日でしょ」
「……あぁ、そうだった」
自分のことには無頓着なクロウは、その言葉でようやく誕生日であることを思い出す。ヴィータに促されて椅子に腰かけると、彼女はいつもの妖艶な表情から一転、鋭い顔つきになった。自然と空気が張り詰め、クロウも少し姿勢を正す。
「クロウ、あなたはまだ20歳にもなっていない。私からすれば子供も同然。それなのに、こんな危ない橋を渡って、戦禍に身を投じて……平穏に暮らせば、まだまだ長生きできるわ」
「だろうな」
「けど、あなたは歩みを止めないでしょうね。ずっとずっと、前へ進んでいく」
「……あぁ」
オズボーン宰相を討ったとは言え、それですべてが終わる訳ではない。クロウにもヴィータにも、まだまだやるべきことがたくさん残っている。
「あなたのその覚悟や思想は立派だと思う。
でも、だからこそ、お願い……生きて。私の騎士(クロウ)」
ごくごく普通の、誰もが思う、ありふれた願い。しかし、ヴィータからすれば切なる願いに違いない。からかうつもりも翻弄つもりもない、心からの言葉。クロウも茶化したりせず、まっすぐに見詰め返す。
「約束する。何があっても、生きるさ」
「本当に?」
「あぁ。なんなら契約でもするか?
お前は魔女で、俺は魔王だ。約束なんて生ぬるいもんじゃなく、契約を交わそうぜ」
「ふふっ、いいわね」
言いながら、ヴィータはクロウに向かって左手を差し出す。それが何を求めているのか察すると、クロウは膝をつき、手を取る。
そしてヴィータの薬指へ静かに口付けをするのだった。彼女への、愛を籠めて───。