温泉郷ユミルは寒さが厳しい雪の季節を徐々に迎えており、降り積もった雪を掻くのに忙しさを増していた。エリゼも家に留まったりせずに外へ出て雪掻きの手伝いをしていた。先程までは雪の中を闊歩していた愛犬のパドも、今は飽きたのか大人しくしている。時折エリゼの方を見ては、彼女が懸命に雪掻きをしていると分かると邪魔をしないようにまた伏せるなんてことを繰り返しているが。
「…ふぅ」
きりの良い所で一息つこうと思い、エリゼはスコップを邪魔にならない場所に立てる。すると唐突にパドが立ち上がった。遊んでほしいのかと思いきや、パドは郷の外へと通ずる道を向いていた。エリゼもそちらに視線を向ける。
見えてきたのは、1人の男性。翡翠色の上着を纏い、綺麗にそろえられた髪と凛とした表情から高貴な気配が感じられる彼の姿に、エリゼは見覚えがあった。ユーシス・アルバレア──エレボニア帝国において最も家格の高い貴族の総称、四大名門に連なる公爵家の1つであるアルバレア家の次男にあたる青年だ。何度か交流をしたことがあるので、エリゼは慌てて彼へと駆け寄る。向こうもそれに気づいたのか、1度エリゼに対して深々と頭を下げた。
「ユーシス様」
「あぁ、わざわざ迎えてくれなくて構わなかったのだが」
「いえ。これくらい、当然です。貴方が四大名門にあろうとなかろうと、私の行動に変わりはありません」
「ふっ、そうだな」
彼女の言うように、きっと自分が何者であろうとその態度は変わらないだろう。エリゼとユーシスは然程交流はないが、彼女が初めてトールズ士官学院に来た際、義兄のリィンと離れてしまったせいで迷子になったのだが、懸命に探していたと後に聞かされてきちんと感謝を述べてくれた。それだけでも充分だ。
「今日は、どのようなご用件で?」
「あぁ、いや……近くに来たのでな。そのついでに様子を見ようと」
「そうでしたか。兄様、今は郷の外に出払っているんです」
「そうか。別に急ぎの用もない。少し、のんびりさせてもらおう」
「では、屋敷の方にご案内しますね」
そう言って手を屋敷の方へ向けたエリゼだったが、ユーシスは彼女の細い手から視線を外せなかった。先程まで懸命に雪掻きをしており、冷たい風に晒されていたせいで、真っ赤になっている。
「待て。手がかじかんでいるのなら、足湯の方で少し温まって行った方がいいはずだ」
「え? あ、これくらいでしたらすぐに温まりますから、大丈夫です」
「そう言った遠慮は不要だ。お前も兄に似て自分を後回しにする癖は直した方がいい」
エリゼの手を取ると、ユーシスは彼女の反論が出るより先に足湯へと連れて行く。最初は戸惑っていたエリゼだったが、足湯の傍まで来ると彼に謝辞を述べてから足湯に手を近づける。程よい温かさがじんわりと伝わってきてほっとする。
「あの、ユーシス様も……」
「いや、その前に挨拶を済ませてくる。無理矢理連れてきて悪かった。
ゆっくり浸かって、温まってくれ」
エリゼに一礼すると、ユーシスはシュバルツァーの男爵家へと足を進めた。彼の言葉に甘えることにして、エリゼは郷の中央に設置してある足湯でのんびりする。今はちょうど他の人もいないので、足湯を独り占めできるのはなんとも嬉しいものがあった。
しかし、やはり自分だけがのんびりしてしまうのは申し訳ない気持ちもある。ユーシスに言えば、間違いなくそんなことを考える必要はないと一刀両断されるに違いないが。
ほどなくして戻ってきたユーシスの手には、タオルが握られていた。どうやら持ってこさせてしまったみたいだ。
「失礼する」
「どうぞ」
ユーシスも靴を脱いだので、エリゼは彼のためにスペースを空ける。と言っても利用しているのは自分たちだけなのでそこまで気にする必要はないが。
「あの、タオルありがとうございました」
「いや。これぐらいは誰にでもできることだ」
「それでも、持ってきてくださったのはユーシス様ですから」
柔和な笑みを浮かべ、エリゼはのんびりと足湯につかる。ユーシスも彼女に倣う形で隣に並んで足湯につかった。しばらくそのまま言葉もなくつかっていたが、別に話す話題がないわけではない。ただ、この足湯のちょうどよい温かさが気持ちを落ち着けてくれるから自然と閉口してしまうのだろう。
やがて15分ほどして、ユーシスが唐突に口を開いた。
「…この後、少し時間を取れるか?」
「え? えぇ、大丈夫です」
「では、よければビリヤードに付き合ってもらえないだろうか?」
いきなりの誘いに戸惑いつつも、エリゼは二つ返事で承諾した。その時、ユーシスが一瞬だけ表情を翳らせたのに気がついたが、あまりにも僅かな間だっただけに、何も言えなかった。
「先に行っている。準備が出来たら来てくれ」
ビリヤード台が置いてあるのは、この郷にある宿泊施設の中だけだ。ユーシスは先に足湯から上がり、ビリヤード台が設置してある鳳翼館へと足を運んでいく。その背を見送るエリゼは、どこか彼らしくない気がしてならなかった。
一方、ユーシスはまさか自分がらしく振る舞えていないことに気付いておらず、鳳翼館に入ってビリヤードをさせてもらう許可を取ると、専用の部屋に入って扉に背を預けながら溜め息を零した。
「何をやっているか、俺は……」
苛立ちが顔に出ないようつとめているが、聡いエリゼのことだ。恐らくもう気付いているだろう。しかしそれに頼り切って自分から何も言わずに済ませる気は毛頭ない。そんな甘えは、自分からすれば恥でしかないのだから。
「ユーシス様、お待たせいたしました」
やがて扉がノックされ、向こう側から聞こえてきた綺麗な声で我に返る。ユーシスは彼女を迎えるべく扉を開いた。
「ん、あぁ。わざわざすまない」
「いえ。ところで、ユーシス様はビリヤードのご経験が?」
「あぁ。兄上に少し教えてもらった程度だから、大した実力もないが、な」
「でしたら、私にも分があるかもしれませんね。以前兄様に教えて頂いたことがあります」
「そうなのか? 奴はこの手の娯楽にあまり興味が向かないと思ったが……」
「なんでも、クレアさんに教わったそうですよ」
「ほう。ならば、今回ばかりはエリゼ嬢にご教授願おうか」
「そんな、教授だなんて……」
慌てて両手を振って自分にはそこまでの才がないと示すエリゼ。しかしキューの持ち方や手入れを見る限り相当な腕前だと窺える。恐らく教える立場だったはずの兄の実力をとっくに抜いているに違いない。
「今は家柄のことは考えてくれなくて構わない。俺たちは今、ただの友人だ」
「ユーシス様……分かりました。それでは、自信はないですが少しだけ」
「あぁ、頼む」
「でしたら、まずは……」
エリゼはユーシスに対して臆することもなく丁寧にビリヤードを教えていく。元々少しだけではあるがやっていたことがあるだけに、彼の呑み込みも早い。なにより、エリゼの教え方も中々に良い物だった。
「ふむ、少しは様になってきたようだな」
「流石ですね」
「まさか。これもエリゼ嬢が教えてくれた賜物だ」
「そんな……ふふっ」
「どうした?」
「あ、いえ。ただ、互いに相手を立てるばかりだったので、おかしくて。
兄様もそうですが、Ⅶ組の皆様も同じなのですね」
「そう言われると、確かに」
「もう少し自信をお持ちになってください、ユーシス様」
「その言葉、そっくりそのままお前に返そう」
再びお互いに微笑みあい、そしてゲームを開始する。最初こそエリゼが優位に立っていたが、次第にユーシスもその実力を発揮していく。お互いにどんな局面であっても焦りを見せないだけあり、ゲームの勝敗はほとんど交互に入れ替わる形となった。
「ふむ……このままゲームを薦めるのもなにか味気ないかもしれんな。
どうだ。ここは1つ、賭けをすると言うのは?」
「賭け、ですか?」
「あぁ。ゲームの勝者が、敗者に1つだけ願いを聞いてもらう……まぁ、よくある内容だが、拒否権は持たせる」
「それでしたら、構いませんよ。それにユーシス様ならば、拒否権を使わせるような願いなど言わないでしょうから」
「あまり買い被るな。俺はお前が思っているような人間ではないのだからな」
まただ──エリゼはそう思って、まじまじとユーシスを見てしまう。台に身体を預けるユーシスの瞳が、再び翳ったのだ。どうしてそんなにも悲しい瞳をするのか、聞いてみたくて仕方がなかった。それでも聞くのが怖いようにも思う。それでもエリゼにはそれを見過ごすなんてできない。彼が苦しい表情をしていると、自分も苦しくて仕方がないから。
「では、俺から行かせてもらおうか」
「…はい」
最初は賭けがあるから多少頑張っていたが、しばらくするとそんなことも忘れてゲームへ熱中していく2人。ユーシスはずっと真剣な眼差しだったが、それは玉を撞く時だけに限られ、エリゼには笑みを見せてくれた。エリゼも会話こそ続かなかったものの、楽しくプレイすることができたようだ。
「ふむ……俺が2敗か」
「ふふっ、勝ち越せました。しかしユーシス様のお願いを1度だけお聞きしますよ。
何かご所望はありますか?」
「そうだな……では、乗馬に付き合ってもらえまいか?」
「そんなことでいいのですか?」
「そんなことと言うが、馬を歩かせると街道に出なくてはならないだろう。
狭い雪道だからな。どちらかが馬を先導する必要が出てくる」
「確かにそうですね。では、早速準備いたしましょう」
「待て。先にお前の望みを聞いておかなくて良いのか?」
「はい。すぐには決まりそうもありませんし……さ、参りましょう」
エリゼに促され、ビリヤードで使った道具を片づけてから鳳翼館を出ていく。彼女の行動力は本当に羨ましく思うと同時に、兄であるリィンがたじろぐのも頷けた。
「やはり大型だな」
「えぇ。でも、とても落ち着きのある子なんですよ」
案内された馬小屋には1頭の大型の馬がいた。漆黒の巨躯で多少なりとも威圧的なようだが、エリゼにかなり懐いているようでとても落ち着いている。
「怖くないですからね」
馬にエリゼが語りかけているのを見ると、自然と頬が緩む。しかしエリゼは見られたのが恥ずかしかったのか、咳払いして誤魔化した。そして鞍などの馬具の準備を終えると、外へと連れ出す。
「引くのは大変ではないか?」
「この子が自然とついてきてくれるので大丈夫です。ユーシス様、どうぞ」
「…では、失礼する」
エリゼが引く馬に騎乗すると、最初は戸惑いを見せたが優しく接して落ち着かせる。ユーシスも馬が好きなだけあり、嫌がることはせずに済みそうだ。
「しかし、やはり普通の馬よりも力強さを感じるな」
一歩進むたびに伝わってくる振動がいつもと違うこともあり、ユーシスは思わず感心してしまう。雪道にも慣れているようで、エリゼの先導の元力強く進んでいく。
「ユーシス様は、今も乗馬を?」
「あぁ。最近は乗る時間を確保できぬが、接するだけの時間は作っている」
「通りで、姿勢も凛々しくありますね」
「あまり褒めてくれるな。この程度、誰にだってできることだ」
「私は流石にそこまで優雅にはできません」
「それはそれで、見てみたい気もするが……」
「機会がありましたら、ご覧に入れますよ」
「…やめておこう。女性を困らせるものではないからな」
それからも少しだけたわいない話を進めていく。しかしユーシスはあることに気が付いて馬の歩みを止めさせた。
「奥まで来すぎたかもしれん。そろそろ戻った方がいいだろう」
「そうですね」
「帰りは俺が先導をつとめよう」
「あ、ありがとうございます」
そしてユーシスが馬から下りた時、エリゼは彼の瞳をじっと見詰めた。ずっと堪えていたことをどう話せばいいのか──そんな迷いに満ちた瞳だと気付き、口を開く。
「ユーシス様。そろそろ、本題に入っていただいてもよろしいでしょうか?」
擦れ違いざまに言った呟きを耳にして、ユーシスは息をのむ。やはり気づかれていたようだ。もちろん気付かれる可能性を考えていなかったわけではないが、こうして気を遣わせてしまったことは反省するほかあるまい。
「私の希望を聞いてくださるのですよね。でしたらどうか、郷に来た理由を……いえ、私に会いに来た理由を教えてください」
「…すまぬ。言わせてしまったな」
「いえ。こちらこそ、出過ぎたことを申しました」
「寧ろ俺に口を開かせる機会をくれたのだから、お前が謝る必要はない。
それに、謝らなくてはいけないのは俺の方だ」
「え?」
「この郷、そしてお前の父君が襲撃されたこと……まだ、面と向かって謝罪していなかっただろう」
「あ……!」
ユーシスが言わんとしていることを察し、エリゼは沈痛な面持ちを見せる。以前、ユミルは貴族連合に組みしていたユーシスの父、アルバレア公爵の命によって襲撃されたのだ。その際にエリゼの父親が重傷を負った上、リィンは1度自分の中に眠る鬼の力を御せずに錯乱してしまった。そしてあろうことかエリゼは、その混乱に乗じて誘拐されてしまったのだ。
その後、人伝に家族と郷のことを聞かされたが、心中穏やかではなかったのは間違いない。ユーシスはそれを謝罪したいと言っているのだ。
「本来であれば父に直接謝らせるのが筋だ。だが、それだけでは俺の気が収まらん」
「でも、兄や父は貴方を責めなかったはずです」
「あぁ。例えそれでもお前への謝罪をしなくてもいいと言う理由にはならないが、な」
「ユーシス様……」
「別に謝ってすべて終わったと実感したいわけでもない。
いや、もしかしたら心の底ではそう思っているのかもしれんな」
「……それは、絶対にありえません」
「…何?」
「ユーシス様は、決して自らの罪から逃れるような人ではありません」
エリゼは毅然とした態度でそう言うと、馬から下りてユーシスを正面から見つめた。その視線に耐えきれないのか、ユーシスは思わず顔を俯かせてしまう。
「何故、そう言える? 俺だって逃げたいと思うことぐらい……」
「もちろん、逃げたいと思うのはおかしなことではありません。ですが今の貴方は、本当に逃げてしまうほど弱くはない……私はそう思います。
兄と再会してからだって苦しいことがありましたよね。ですがその時、逃げることを実行しましたか? それにそもそも、本当に逃げたかったらユミルまで来ませんよ」
「それは……」
「いつだってⅦ組の皆様が貴方を支え、力となってくれていたはずです。
そしてその力は、1人でいる時だって確かに存在するものですよ」
エリゼの言うように、1度はⅦ組の面々と別行動を取ろうとしたことがある。その時止めてくれたからこそ、自分は自分でいられたと思うし、逃げずに立ち向かうだけの勇気を得たとも思う。
正面に立つエリゼが、ふっと微笑して歩んでくる。自分が謝ることでまたその笑顔を奪ってしまうのではないか──ほんの少し前までそんなことを考えていたから、彼女の笑みが怖かった。だが今のエリゼは、無理に笑顔を作ることもなく、ユーシスに接してくれている。
「ユーシス様」
両手にはめてある手袋を取り去ると、ユーシスの頬を優しく包み込んだ。
「貴方は強くあろうと努力するあまり、弱さを恥だと思っているのかもしれませんが……それは、間違いです。
誰だって弱くて当たり前なのですよ。その弱さを認め、誰かに打ち明ける強さを、どうか見出してください」
「エリゼ……」
「もし……そう、もし見出せない時は、私が貴方を支えますから。兄様を支えたように、ユーシス様のことも、支えて見せます」
ぐっと背伸びして、エリゼはユーシスの額に自分の額をそっとあてる。彼女の艶やかな髪から香るシャンプーの香りが、さらに気持ちを落ち着けてくれた。
「その言葉、感謝する。
だが俺だけ支えてもらうと言うのは不本意だ。だから……俺にもお前のことを支えさせてほしい。アルバレアの人間としてではなく、ユーシス・アルバレアと言う1人の人間として」
「そ、それは……その、勘違いしてしまいます」
頬を紅潮させ、視線を泳がせるエリゼ。その姿が愛らしく、ユーシスは己の理性が崩れ去ることを認識する前に次なる行動に出ていた。
「あっ……」
「どう勘違いするかは知らぬが……俺は、別に勘違いしてくれても一向にかまわん」
愛おしい──その気持ちだけで、ユーシスはエリゼを抱き締めていた。こんなにも簡単に自分の理性が保てなくなると思ってもいなかっただけに、抱き締めてからどうすればいいか分からず、しばし2人とも硬直してしまった。
「…そろそろ夕暮れになる。冷え込みが強まる前に、戻ろう」
「そ、そうですね」
やがてユーシスが離すと、エリゼも赤くなった顔を見られまいと明後日の方向へ視線を向ける。しかしあることに気付いたのか、再びユーシスに向き直ると、こう切り出した。
「まだ、私の望みを聞いてもらう権利が1つだけ残っていますね。
これからはどうか【エリゼ】と、呼んでくださいませ、“ユーシスさん”」
小雪舞う中、可憐に微笑むエリゼの姿に、ユーシスはただただ頷くのだった。