「ったく、ついてねぇ……」
ポタポタと髪を伝って落ちていく滴。大した数でなければ気にすることのないそれは、残念ながら全身から溢れるようにして落ちているため、強制的に意識せざるを得ない。
短く切り揃えられた髪を掻き揚げ、アッシュ・カーバイドは舌打ちする。学院からの帰り道、通り雨に降られた彼はずぶ濡れだった。幸い、学院から寮までの距離は然程遠くはなかったから走ってきたのだが、雨脚が強かったせいでびしょ濡れだ。
寮の扉を開けると、他にも雨に降られた生徒がいたのか、出入口にタオルがかけられている。それを1枚拝借し、適当に髪や顔、手足を拭う。さっさと風呂に入って暖まろう──そう思ったアッシュだったが、脱衣場の扉を開けて先客の数を見て舌打ちした。
(チッ、流石に埋まってやがる)
脱衣場に置かれた、衣服を入れておく籠はどれも使われており、混雑していることが分かった。浴場に続く扉の向こうからは話し声が聞こえてくる。まだ空くには時間がかかりそうだ。アッシュは潔く諦めて、自室に足を向けた。暖房器具を使っても暑いと文句を言われる季節でもない。キッチンでセレスタンからホットコーヒーをもらって自室へ。
「降るなんて聞いてねぇぞ」
返る言葉などないと分かっているからこその苛立ちを籠めた独り言。しかし、アッシュの予想に反して返事があった。それも、柔らかな声色で。
「まったくですね。お陰で私もずぶ濡れになっちゃいました♪」
その言葉を耳にした瞬間、アッシュは驚くどころかげんなりした。ずぶ濡れになったと、普通ならば気落ちするはずの出来事をあっけらかんと、それも明るく言い切る少女が目の前に──と言うより自分のベッドの上に座っていた。
「……何でここにいやがる、イーグレット」
「あら。それはもちろん、愛しのアッシュさんに会うため、ですわ」
「いけしゃあしゃあと……」
睨むアッシュに臆することなく微笑むのは、ミュゼ・イーグレット。アッシュとは恋人同士だが、周囲からは「そうは見えない」と言う評価だった。2人とも、恋仲になる前とあまり接し方が変わらないことが主な要因だろう。
「俺につまみ出されるか、自分で出ていくか選べ」
とにかく早く出ていって欲しいアッシュは苛立たしげに頭を掻きながら言い放つ。しかしミュゼは指を顎にあてて「うーん」と呑気に熟考する。
「服も乾いたことですし、行きますね」
意外なことに、ミュゼは素直に部屋を出ることを選んだ。立ち上がり、乾かしていた制服を手に取るとそのまま扉へ向かう。
「待て」
「はい?」
しかし咄嗟にアッシュが制止の声をかけ、腕を掴んだ。
「やっぱり、私に居て欲しいんですね♪」
「んな訳あるか!」
嬉しそうに顔を綻ばせるミュゼに、アッシュは溜め息ばかり出てしまう。
「テメェ、誰のシャツを着てやがる」
アッシュが問うたのは、ミュゼが着ているワイシャツについてだった。彼女の手には綺麗に畳まれた制服と、彼女自身のものと思しきワイシャツがある。ならば今、袖を通しているそれはいったい誰のものなのか。女性ものだとしたら、いくらか肩幅が広い。細身のミュゼには不釣り合いだった。しかも袖も長く、指先がかろうじて姿を覗かせているくらいだ。
「あら、アッシュさん以外のワイシャツを着るとでも?」
「やっぱりか」
悪びれる様子もなく、ミュゼはアッシュのワイシャツだと言い切る。しかしここまで自由気ままに動かれると、怒りを通り越して呆れてしまう。そんなアッシュの気持ちを知ってか知らずか、ミュゼは嫣然と微笑む。
「アッシュさんのワイシャツを着て、更にアッシュさんの部屋から出て行ったら……皆さんはどう思うでしょうね」
「脅してんのか?」
「まさか」
楽しそうに笑むミュゼは、やんわりとアッシュの手から逃れると、くるっと一回転して見せた。そして思わせ振りにピラッとワイシャツの裾を僅かにたくし上げる。
「アッシュさんが可愛いから、楽しんでいるだけですよ」
「相変わらず最悪な趣味だな」
蠱惑的な太股と視線を釘付けにしようとする絶対領域。アッシュは頭を掻く素振りをしながら視線を外した。
「お冠のようですね?」
「当たり前だろ……お前、まさか外でもそんなことしてねぇだろうな?」
それまで以上に眼光を鋭くするアッシュ。それが“ミュゼの色気を他の男に見せたくない”ために表れた態度だと言うことはミュゼにもすぐに分かった。その独占欲がアッシュを愛らしく見せるし、なによりも自分を見てくれて──愛してくれている証にもなる。ミュゼはからかうのを止めて、アッシュに改めて微笑む。
「もちろん、見せたりしていませんよ。
これでも私は、貴方にだけ総てを捧ぐと誓ったんですから」
本当なら、言葉だけでなく態度でも示したかった。しかしいざ行動に移そうとすると、途端に足が動かなくなる。柄にもないと一蹴されそうだが、恥ずかしいのだ。それでもアッシュは信じてくれた。そしてこれからも信じてくれると確信している。
「……騙したら、承知しねぇからな」
不意に目の前が陰ったかと思うと、いつの間にかアッシュが立っていた。静かに、そっと耳にかかった髪に触れ、耳打ちしてくる。あまりに突然のことに、ミュゼは心構えもできず、ビクッと身体を震わせてしまった。
「ククッ、いい反応だな。食われるとでも思ったのか?」
形勢逆転したこの状況が面白いのか、アッシュはミュゼの顎に触れると自分の方へ向かせる。吐息が聞こえるほどの至近距離。楽しんでいるアッシュに、今度はミュゼが仕掛ける。
「あら、食べてくださらないんですか?」
首に手を回し、抱き締めるように胸元に顔を埋める。余裕振ってはみるものの、アッシュには虚勢だと見破られている可能性が高い。対してアッシュは臆することなく彼女を抱き抱えると、ベッドに座らせた。押し倒されると直感したミュゼは起死回生の一手を口にする。
「ところで……これ、なんだと思います?」
「あ?」
ミュゼが枕元から引っ張り出した、黒い布。それがミュゼの下着だと理解した瞬間、押し倒そうとしていた手を引っ込める。その様子に笑みを浮かべてひらひらと布を揺らすミュゼ。
「ふふっ、お気に入りなんですよ、これ」
「知るか」
それだけ返し、アッシュは顔を背ける。そんな反応をされてはもっと困らせたくなってしまうことに彼は気付いていないだろう。
「もっと直視していいんですよ?」
耳元で囁き、アッシュの気持ちを揺さぶっていく。アッシュの体躯にからみつくように腕を回し、息遣いをわざとらしく耳打ちする。
「冗談です」
充分楽しんだところでミュゼはからかうのを諦めて、着替え始める。それでも1度芽生えた嗜虐心は簡単に抑えられそうになかった。最後に1回だけ──そう思ってミュゼは口を開く。
「見ないでくださいね?」
「ハッ、頼まれたって誰が見るかっての」
その返答に、ミュゼはムッと唇を尖らせる。確かに好き好んで見られるよりはいいかもしれないが、まるで興味を示さない反応は却って腹立たしかった。あり得ないとは思うが、アッシュの気が変わるより先に着替えると、彼の後頭部目掛けてシャツを投げつける。
「なんだ、いきなり?」
振り返る彼に向かってあっかんべーと子供みたいに舌を出し、ミュゼは黙って部屋を出ていった。取り残されたアッシュはただただ呆然とし、訳が分からないと苛立たしげに舌打ちするのだった。