博麗神社某所。
「ただいま」
居間の引き戸がすっと開き、若干頬を赤くして博麗 暁美は帰宅した。
「おかえりー、どうだった?」
「んんー」
外が余程寒かったのか、質問に答える前にそそくさと
「ありがと」
暁美は湯気の立つ湯呑みをちびちびと口へ運び、漸く一息つけたとばかりに大きく息を吐いた。
「こればっかりはわからないわね」
卓上に湯呑みを置きつつ、肩を竦めてそう言った義姉の様子を見て、霊夢からも思わず溜息が漏れる。
「なんせ
「ううん」
「それに里からここまで来るには大なり小なり危険を冒す必要があるわ。立地に恵まれてないのも大きな要因よね」
人里から神社までの道中は見通しの悪い獣道が続き、腕に覚えのない者は妖怪に狙われる可能性が高い。
特にここ最近では、天使軍襲撃の一件もあってか、人々の警戒心はますます強まってしまっている。
「あっ、一層のこと守矢のとこみたいにウチも引っ越すって言うのは?」
「……紫に怒られるわよ」
「………今のは冗談」
会話は一旦そこで止まり、二人は唸りながら眉間へ皺を寄せた。
そもそも巫女や神職の仕事を担う者達が、強引に神様を売り込もうなどあってはならないはずなのだが、此処は幻想郷。彼女らは元より、そのような常識が存在するのかもあやふやだ。
よって今日一日人里へ下り、慣れない布教活動(多少強引な)に勤しんでいた暁美にも、一切の悪気はない。
「でも真に信仰を集めるとしたら、このままの方がいいのかもね」
「……えっ?」
ぽつりと呟いた義姉へ、霊夢は思わず間の抜けた声をあげた。
「ほら、やっぱり無理矢理信仰を集めたところで神様の力にはならないだろし、そしたら神徳なんて発揮されないでしょ?」
「それは…、まあ。だけど……っ」
何もしなければ何も変わらない。
そう言おうとした霊夢の口元を、暁美は指先で制した。
「だからって本当に何もしないでわけじゃなくてね?例えば参拝しやすいように環境を整えるとか、間接的なことなら神様も許してくれるかもしれないじゃない?」
暁美は霊夢の口元からゆっくりと指を離して言った。
まずはやってみよう、それでダメならまた考えればいい。───霊夢には、そういった意味合いも込められているのだと感じられた。
そもそも確証があって始めたことではない。
ただ、何もしないまま諦めてしまうことができなかったから。このまま終わってしまうことが、我慢ならなかったから。
「そう、だね」
守ってもらってばかりだった
やれることは全部やろう。全てを出し切った上でダメだったのなら、少なくとも今より後悔はしていないはずだ。
──────
周囲が幻想的に呼応する空間。
足場となる床一面には大規模な陣が広がり、淡く瞬きを繰り返している。
「………」
彼女がこの空間へ最後に訪れたのは、半季前の天使軍進攻以来か。
陣の中心に腰を下ろし、その華奢な指先で幻想郷が刻んできた過去数百年分の記憶を辿っていた。
(……………少々、先走り過ぎたかしらね)
紫は一人溜息を漏らし、ゆっくりと立ち上がると、らしくないとばかりに目を伏せた。
友人から助言を浮け、思わず駆け出したのはつい今し方だ。そんな短時間で数百年分の記憶を読み解くことなどできるわけがない。
それに身体が動くようになったとはいえ、病み上がりであることに変わりはない。
この空間で缶詰で作業をするにしても、体調が優れないのであれば無理をするべきではないのだろう。これではまた従者に心配をかけてしまう。
「……っ」
先行する気持ち鎮め、目の前の空間にスキマを展開する。そして入り口に足をかけ、名残惜しそうにこの空間を後にした。
──────
「これでよし」
空に昇った太陽が西へ沈む頃、霊夢は寒空の下にいた。その手には手拭いとはたきが握られており、足元には水を汲んだ桶と竹箒。
彼女が今の今までやっていたのは、博麗神社本殿の掃除だった。
特に計画していたわけでもなく、ふと思い立ち、気ままに始めたのだが、思いのほか時間がかかってしまった。
「うぅ……っ!」
僅かに汗ばんだ身体を、寒風が突き刺すように抜けていく。
つい今し方橙色に輝いていた日の光も、僅かな余韻が残るばかり。既に、周囲は儚い青色へと染まりつつあった。
「あら、精が出るわね─── 珍しく」
せかせかと道具を片付けにかかる霊夢の背中へ、不意に艶やかな声がかかった。
「一言多いわよ、紫」
背中を向けたまま応じた霊夢の口調は、やや尖ったものだった。
「どうかしたの?いきなり掃除だなんて」
そんなことお構いなしに会話を続ける紫に対し、霊夢は小さく溜息を吐いて振り返る。
「………別に、ただなんとなくよ」
腕が辛くなったのか、霊夢は一度抱えた水桶を足下に降ろすと、ばつが悪そうに顔を伏せて言った。
別に悪いことをしたわけではないが、笑みを浮かべた紫と目が合い、途端に気恥ずかしくなってしまったのだった。
「そっちこそ何か用事?」
紫は質問に対し、いいえ、と一言。
次に差していた日傘を畳むと、密かに目を細めた。
「ただなんとなく、よ」
「……何よそれ」
空を仰ぎ、寂しげに呟いた紫に釣られて、霊夢の視線も徐に上がる。
時刻は夕焼けの名残りが消え、藍色の空が広がる禍時に差し掛かっていた。
雲一つない澄んだ世界を視界いっぱいに捉え、二人から一瞬言葉が失われる。
暫しの沈黙の後、口を開いたのは霊夢だった。
「────── 昔、」
「?」
思わず視線を戻した紫が見つめる中、霊夢は空を見上げたまま続ける。
「昔隼斗に言われたことがあったの。
独り言のように始まったその呟きを、紫は黙って聞いた。
「あっ、そう言えば知らないやって思ったのと同時に、私よりずっと長く生きてる隼斗ですら見たことない神様って一体どんな神様なんだろうって当時は思ってたわ」
ゆっくりと、しかし確実に暗く変化していく空は、徐々に二人の姿を不鮮明に塗り替えていく。
「そんな記憶、長らく忘れていたけど……、今朝見た夢でまた思い出してね。それで……その、」
途端に歯切れが悪くなった霊夢を、紫は茶化すでもなくただじっと見つめていた。まるで我が子が隠し事を打ち明けてくれるのを、温かく見守る母親のように。
「……こんなこと、柄じゃない─── って言ったら可笑しいか、一応巫女だし。………とにかく、それだったらその神様を頼ってやろうって思ったのよ。どんな御利益があるかもわからない神様だけど……、すこしでも可能性があるならって」
「それで、本殿を?」
「まあ、アレよ。本殿が汚いままじゃ参拝してくれるものもしてくれなくなっちゃうからね」
紫は目を見開いた。
今の今まで妖怪退治以外、巫女らしい言動や考えをあまり持ち合わせていなかった少女の口から、その兆しが垣間見えたからだ。
「明日は雨かしら」
「一言多いっての」
「ならこんな時じゃなくても普段からそうしてなさい」
うぐっ、と見えないダメージを受けた霊夢には、反論の余地はなかった。
そんな彼女の反応に、紫は頬を緩めると、嬉しそうに歩み寄った。
「な、何よ…?」
警戒気味に後退った霊夢の頬に、優しく、華奢な手のひらが添えられる。
「頑張りなさい」
我が子に対する様な温かな言葉と共に、すっとその手が離れる。
そして、目を丸くした少女を満足そうに眺めた後、背後の空間にスキマを展開させた。
「貴女の勘はよく当たるものね。───その『もしかしたら』に期待するわ」
その言葉に、普段彼女が醸し出している胡散臭さはなく、不思議とそれが本心からなのだと感じ取れた。
故に、霊夢の返答はいつものツンとしたものではなく……、
「任せてよ」
視線を落とし、少し照れ臭そうではあったけれど。
「うん、頼むわね」
最後に紫は満面の笑みを見せ、小さく手を振ってスキマの中へと消えていった。
年度末でやることも漸く落ち着いたので、次の投稿は今月中にはできそうです!
今年度もよろしくお願いします!!