幻想郷と外の世界の狭間に存在する屋敷。
ここの主人である紫は、重い足取りと力無く項垂れた手を玄関引戸にかけた。
カラカラと戸車が滑る音が鳴り、それを聞きつけた従者が即座に駆け付ける。
「ただいま藍。今日は橙も一緒なのね」
「はい。お疲れ様でした…───、紫様」
隣で同じくして頭を垂れる妖獣の少女と共に出迎えた藍は、
その瞬間、真意を悟る。
しかし焦る気持ちを抑えながらにこやかに告げた。
「まずはお休みください。私はお茶を淹れてきますので」
そう言って自身の式神へとそっと目配せを交わすと、少女に手を引かれて居間へと入っていく主人の背中を見送った。
(私が結果を急いては駄目だ…っ!)
台所へと向かう途中で、藍は己に言い聞かせるように心の内で繰り返す。
(……仕方がない。仕方がないんだ。紫様も仰っていたじゃないか。確率はかなり低いと……!)
不意に感じた鋭い痛みに、はっとなって視線を落とすと、じっとりと滴る血。
自分の爪が肉に食い込む程に握り締められた手の平は、じんわりと赤みを帯びていた。
───
湯呑みに手を添えると、まだほんのり温かい。
しかし立ち昇る湯気はとうに消え失せ、玉露本来の旨味も落ちてしまったであろう時間を、3人は同じ空間で過ごした。
紫が───、主君が切り出すまで聞いてはいけない。
橙は主人である藍からの言い付け通り押し黙っていたが、その目線はそわそわと落ち着きがない。
対して隣に座する藍は、凛とした姿勢を崩していない。
「……今日、全ての作業が終わったわ」
そんな静寂を破ったのは、待ち侘びた主君の言葉だった。
しかしその声色は酷く落ち込んでいて、とても朗報を口にする雰囲気ではない。
「あっ、……えっと……」
その様を見て、橙はあたふたしながらも必死に返事をしようとするが、上手く言葉が出てこない。助け船を求めるように己が主人へ視線を向けると、同時に藍は驚く程落ち着いた物腰で言った。
「いかがでしたか?」
だがその実、彼女とて焦る気持ちを必死に抑えてのものだ。
その証拠に机の下では、自身の着物の裾を鷲掴むようにして握っているのが見えた。
「…」
紫は一拍置くようにして湯呑みに口を付けた後、徐に首を横に振った。
「痕跡の発見には、至らなかったわ」
「………えっ」
「そう、ですか」
二人の胸の内が大きくざわつき、心臓を締め付けるような感覚が突き抜けていく。
隣の橙に悟られぬよう、なんとか平静を装う藍だったが、喉が引きつって思う通りに言葉が出てこない。
覚悟はしていた。
残酷な運命を受け入れる───、受け入れなければならない覚悟を。
でも心の何処かでは未だ決心がついていなくて、ほんの僅かな希望に縋っている自分がいて。
もしかしたら、もしかしたらと。
日を増すごとに……、調査の終わりが近づくことに焦りを感じていたのだ。
それが今、主人の言葉で確定してしまった。
とうとう、受け入れ難い現実を突き付けられてしまった。
「……」
いつしか会話を続けようとしていた口は固く閉ざされ、真っ直ぐに主人を見つめていた視線は手元へ落ち、九つもの立派な尾は力無く垂れていた。
「……あの、私思うんですが」
静寂を破ったのは、おずおずと差し込まれた声。──── 隣からだった。
「紫様も藍様も、隼斗様のことを忘れていませんよね?」
橙は二人の反応を気にしながらそう尋ねた。
「あ、ああ…勿論だ。だからこうして──」
唐突な質問に戸惑いながらもそう答えた藍は、同じくして小首を傾げた紫と目を見合わせた。
「紫様、今博麗神社では復興に向けての取り組みがなされていると聞きました。妖怪と人間が協力し合って、一つのことを成し遂げようとしていると」
「……ええ、そうね。以前霊夢から聞いた時は驚いたものだけど」
現在博麗神社が信仰を取り戻しつつあることは、彼女らとて見聞きしていた。
幻想郷中に配られている天狗の新聞は、この屋敷が認知されにくい場所に建っているためか届いていないが、一度栄えた場所にでも繰り出せばいくらでも情報は入ってくるし、何より彼女らは幻想郷の管理を担っているのだ。大概の事柄はその場にいなくとも把握することができる。
「ということは博麗の巫女をはじめ、誰も隼斗様のことを忘れてはいないんです」
未だ話は見えず、紫は眉をひそめた。
「つまり、何が言いたいのかしら?」
やや食い気味に、問い質すかのような口振り。
別に苛立っているわけではないが、紫はこんなにも堂々と話す彼女を見たことがない為、内心驚いていた。
藍も同じだ。今の今まで、まだまだ未熟な式神の少女だと思っていた自身の部下の態度に目を丸くした。
途端に主人二人の眼差しが自分に集まっていることに今更ながら気が付き、一瞬たじろいだ橙は、一呼吸おいた後、意を決したように答える。
「……隼斗様はまだ諦めていませんっ!」
今度こそ、二人は言葉を失った。
だが構わず、小さな式神の少女は続ける。
「ずっと考えていたんです。本当に存在自体が消えてしまったなら、隼斗様は
考えてみれば……、そうだ。
あの時、龍神は言っていた。
矛盾を正す為に『世界』は隼斗の存在を消すのだと。
その矛盾とは?
存在を消すとはどこまでの範囲を指すのか?
同じ人間が二人いるのが矛盾。
その解決策として、どちらか一方をただ死に至らしめるだけでは不十分なはずだ。それでは柊 隼斗という肉体を排除できたとしても、魂は残る。彼の生きてきた痕跡を残すことになる。
皆の記憶の中にある。
つまり、概念としてこの世界に存在してしまっている。
「隼斗様はきっと帰ってきます!だから──」
思わず感極まり、終いには声が上擦ってしまった橙の頭へ、優しく手の平が乗せられた。
「そうだな」
いつしか瞳に溜まっていた涙を拭い、徐に視線を上げた少女へ、藍はただ一言告げた。
そして更に藍の手へ重ねるように、新たな手の平が触れる。
「紫様」
「いつから、ここまで心のゆとりがなくなっていたのかしらね」
可能性が0になった訳じゃない。
たかだか手立てが一つ潰れただけ。それがなんだと言うのか?
今回が駄目だったのなら次を探して試せば良い。人間である
こんな体たらくでは、いつしか彼が帰ってきたときに拳骨をもらってしまう。
失敗が終わりじゃない。諦めた時が本当の終わりなのだ。
紫は胸の内で、何度も自問自答を繰り返した。
「二人とも」
紫はそのまま二人を抱き寄せた。
静かに応じる藍に対し、橙は顔を赤らめて縮こまってしまってはいるが。
「ありがとう」
それは紛うことなき本心から出た気持ち。
普段の隙を見せぬ、仮面を貼り付けた言葉では決してない。
「あ、あの紫様、藍様」
そんな中、橙は二人の間から顔を出しておずおずと言った。そして同時にその手に握られていたとある新聞記事を差し出す。
「橙、これは?」
藍の問いに、橙は完全に二人の抱擁から抜け出すと、改めて手にした新聞を広げて見せた。
「今朝私の家に届いてました!」
お久しぶりです。
先月は何かと立て込んでいましたので、1ヶ月とんでの投稿となりました。