次に目を覚ました場所は、全てが闇に包まれた黒一色の世界だった。
周囲には指標となるべき物も、一本の線すらも走っていない。
しかし不思議なことに、自分の姿だけは輪郭があり、色があった。自分だけが、この不可思議な空間において、はっきりと存在していた。
だがこの場所は不思議と────。
《ここに見覚えがあるのか?》
唐突に投げかけられた言葉に、ぼんやりと振り返ると、いつの間にそこにいたのか、白髪の男が立っていた。
男はにやにやとこちらを嘲るように見つめている。
《なんだよその顔は?長年連れ添った仲じゃねェか》
白髪の男は親しげに、不敵な笑みを浮かべながら歩み寄る。
《しかし漸くだなァ。俺とお前がもう一度こうやって顔を合わすのはよォ。長かったぜ。やっと戻ってこられた。……………いや、この場合はお前の方が堕ちてきたって方が正しいか?》
そう言ってとうとう目の前まで来た男は、まるでこちらを吟味するように視線を動かした。
《……あん?》
はぁ、と溜息が一つ漏れる。
《情けねェ。まるで抜け殻だ》
次の瞬間、凄まじい衝撃が腹部に走った。
しかし、後ずさる間もなく身体は奇妙な浮遊感に襲われる。
徐に視線を落とすと、白髪の男の腕が自身の腹に食い込み、持ち上げていた。
《眉一つ動きゃしねェ。
心底哀れむように男は呟き、続け様に掴んでいた脊柱を握り潰した。
「…?」
途端に全身から力が抜け、『彼』の命はそこで終わった。
──────
────
──
《ここに見覚えがあるのか?》
いつからいたのか?
背後には白髪の男が立っていた。
こちらが怪訝な表情を浮かべていると、男は嬉しそうに口角を吊り上げて笑った。
《なんだよつれねェ反応だなァ。俺とお前の中じゃねェか》
男はゆっくりとこちらに歩いてくる。
仕切りに値踏みするかのように視線を向けながら。
《で、その様子だとマジでわからねェらしいな》
目の前で歩みを止めた男は、こちらの瞳を覗き込むようにして身を乗り出した後、一度顔を伏せた。
《よお、
『彼』は変わらず怪訝な表情を浮かべていた。
ごとり、と自分の首が落ちるその時まで。
ザザーッと、脳内にノイズが走る。
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常世へ続く暗闇。
まるで出口のないトンネルをひたすら進んでいるかのような長い長い道を、『彼』は歩き続けた。
身体に纏わり付く得体の知れないナニかが、歩みを進める足を、振り払おうともがく腕を
ただ、進まなければと。今の『彼』を動かしているのは、何故か頭の中に刷り込まれている、その一点のみだった。
《そうやって当ても無くただ歩いて何日経った?漸く変化があったと思やァ、やってることは亡者と変わりゃしねェ。まるでゾンビだぜ》
白髪の男は心底苛立たしげに頭を掻いてそう吐き捨てた。
「……」
その言葉に『彼』は一瞬反応したものの、すぐさま何事もなかったかのように歩き始める。
白髪の男の口から自然と舌を打つ音が漏れた。
《───
次の瞬間、『彼』の身体は力無く崩れ落ちた。
急激に抜けていく力、次第に狭まっていく視界。
しかし『彼』は尚、這いずるようにして身体を前へと動かす。
数秒後、貫かれた心臓がその役目を終えるその時まで。
ノイズが走る。
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─
あとどれだけ、どの方角にどれ程の時間進めばいいのか。───そんなこと、とっくに頭の中から消えていた。
もう既にどうでもよかった。
頭の中でぐるぐると渦巻き、思い描いていたものは、家族や仲間の顔でも、住み慣れた土地の情景などでもなく、『光』と『音』だった。
何も見えない、何も聞こえない。
何にも触れられず、唯一踏みしめているはずの地面も、雪や砂の上を歩いているように不安定で、感触も曖昧だ。
その微小な感覚を頼りに、今自分は歩いているのだと認識できていた。そんなただ一つ残された指標に縋り、一歩、また一歩と踏み出していく。
《おい》
途端に飛び込んできた『音』。求めていたものだ。
気付けば、『彼』は動きを止め、その方向に意識を向けていた。
《………あーあー、こりゃ駄目だな》
声の主は嘲るような口調でそう告げると、早々とその場を後にした。
段々と遠ざかっていく足音を感じ、『彼』は呼び止めようと口を開くが、
それでも何とか呼び止めようと、胸の内で必死に繰り返す。
《『待ってくれ』だァ?てめェで立ってるかどうかの区別もつかねェ間抜けはそこでくたばってろ》
薄れゆく意識の中で、まるで忌むように呟かれた言葉を耳をした。
《偶にはのんびり
ノイズはより大きく、よりはっきりと『彼』の脳内に響き渡る。
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目が覚めてからどれだけの時間が経った頃だろうか?
不意に感じた気配に、思わず立ち止まった。
「───誰だ?」
その声色は力無いものであったが、問いかけられた当人は驚いたように目を見開いた。
《……………ヘェ、漸くか》
まるで漆黒の布を捲るようにして、白髪の男が闇の中から現れた。
「……」
《……》
互いに沈黙が続く。
尤も、白髪の男の方は返答を待っている様子だが。
「…………………誰だ?」
《おいマジかお前》
眉間に皺を寄せたまま首を傾げた『彼』に対し、白髪の男は天を仰ぐように手を額に当てた。
「すまん、マジで誰だ?」
『彼』は既にふらふらと覚束ない足に力を入れ、体ごと向き直ると、改めて目の前の人物を凝視して言った。
しかし白髪の男は溜息を吐くばかりで此方を見ようとしない。
《……まあ、自我がはっきりしただけ上等か》
「何?」
《っ……何でもねェよ》
白髪の男は舌を打ち、今度は不機嫌そうに『彼』を見据えた。
《一応聞いとくが、俺が誰だかわからねェんだな?》
「……いや、その……すまん」
《なら今自分の置かれてる状況については?》
「……何も」
《そうかい》
白髪の男はゆっくりと歩み寄る。
その目は既に『彼』を見ていない。
「な、なあ。あんたこの場所について何か───」
そう言いかけた直後、身体を突き抜けた途轍もない悪寒に、『彼』は反射的に身を引いた。
「ッ……!?」
殆ど倒れ込むように何とか身体を後転させて受け身をとるが───。
《何避けてんだてめェ》
そんな中、白髪の男は拳を突き出した姿勢のまま、鋭い眼光を『彼』に向けていた。
「急になにしやが───」
有無を言わせない、と言わんばかりに、白髪の男は一瞬で距離を詰めると同時に、『彼』の腹部へ回し蹴りを放った。
「ぐぼっ…ッ!?」
直撃と同時に『彼』の身体はくの字に折れ、血反吐を撒き散らしながら宙を舞った。
「がっ…!?」
しかしその身体は一度も地に触れることなく、凄まじい衝撃と同時に背部を掴み上げられる。
《あーあーあー、いいんだよそういう後ろに跳んでダメージ減らすみたいなやつは》
白髪の男は心底面倒臭そうな口振りでそう告げると、手荒く『彼』を地へ押し付けた。
《いいか?今のお前に用はねェ》
固く、握り込まれた拳がその額へと向けられる。
上から押さえつける力は凄まじく、抵抗しようにも背部から肺を圧迫されているようで、まるで力が入らない。
「今…の…?」
何とか首を捻り、間近で目にした男の顔。
漸く、『彼』は驚愕の表情を浮かべた。
「お…前……っ」
《今更遅ェよ》
次の瞬間、轟音が耳を叩き、『彼』の意識は途絶えた。
《とことん苛つく野郎だなお前は》
男は舌打ちの後、亡骸を尻目に自身の手の平へ視線を落とした。
《……》
端からほろほろと崩れていく手。
見れば、身体のあちこちから風に散る灰のように消失していた。
しかし、男の表情は変わらない。
そしてその身体がとうとう完全に消え去る直前、男は徐に呟いた。
《……面倒臭ェ》
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───
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─
意識が戻った時には、既に歩みを進めていた。
一体いつから自分はここにいるのだろうか。
何故あてもなく歩き続けているのだろうか。
思考は曖昧だが、不思議と足は止まらなかった。
まるで遥か昔から刷り込まれてきた本能に従うように、その先にあるかもわからない───を目指して。
帰らなければ。
でも、どこに?
───に。
どこだ?
───だ。
よく聞こえない。
それはお前が───だからだ。
うるさい、お前はなんだ!?
……なあ、おい。
《俺に、見覚えがあるか?》
全てが闇に閉ざされた黒一色の世界。
その中で、二人の男が対峙する。
両者の容姿は瓜二つ。
唯一異なるのは、まるで対照的な色のみだ。
「お前は……っ!」
お久しぶりです。そして5ヶ月遅れのあけましておめでとうございます。
大分時間があいてしまいましたが、本日からまた続きを書かせていただきますので、引き続きよろしくお願いします。
追記
今回の話は、「番外編4 誰も知らない『彼』のお話」の冒頭とリンクしています。