輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
男傭兵の言葉をきっかけにして、ジュノアの周囲の水は荒れ狂い渦を巻いていた。それは女傭兵と戦う海里たちにも異変として届いた。
「何だ!? 怒り? いや、殺気?」
「ジュノア!?」
「本当にバカですの! また余計なこと言って相手を怒らせたのですわね!」
女傭兵は明確に苛立ちを見せていて、男傭兵の言動によって、状況が悪化したことを誰よりも理解していた。
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目の前で相対する女騎士ジュノアから伝わってくる明確な怒気と殺意。それが自身に向けられていると理解して男傭兵は一筋の汗を浮かべていた。
「やっべぇ、マジで怒らせちまったなあ。……こんな反応するなんてな」
男傭兵の視界の先で、ジュノアの水の魔力は荒れ狂う。逆巻く水流が彼女の周囲だけで渦を巻き、四方へと冷たい飛沫を撒き散らす。
胸のうちで暴れる激情を、それでも堪えて冷静であろうとしているのが伝わってくる。だが、抑えきれなかった怒りと殺気が、荒れ狂う水とともに滲み出ていた。
冷たく澄んでいる瞳の奥では、怒りと、それだけではない悲しみとが、複雑に揺れている。
それに気づいて、男傭兵は束の間、口を開くことを忘れた。軽口は、喉の奥に張り付いたように出てこなかった。
逡巡している間に、荒れ狂う水の魔力と、その手に握られた剣が、まっすぐ自分へと向けられる。そう理解した直後、膨大な質量を持った水の圧力が正面から迫ってきた。
「うおおおっ!」
慌てて砂魔法を発動し、さきほどと同じように水分を吸わせにかかるが、含んだ砂はみるみる重さを増し、上限を超えた分が泥となって床へと落ちていく。
迫る水量に砂の吸収がまるで追いつかない。その直後、男傭兵が立っていた場所を水刃が薙いだ。
「あっぶねええ」
横っ飛びに転がって刃をかわし、男傭兵は体勢を立て直すが、息を整える間さえ与えられなかった。
ジュノアは無言のまま踏み込み、水を纏った剣で斬りつけてくる。
「っと、と、とと……!」
砂を撒いて水を吸わせ、その隙に下がる。限界まで含ませた砂は、もう足元に湿った山を作るばかりで、次の一撃には間に合わない。
剣戟のたびに男傭兵は通路の奥へと押し下げられ、背に冷たい石壁の感触が近づいてくる。
「あああああっ!」
ジュノアの口から零れるのは、言葉にならない叫びだけだった。問いかけも、皮肉も、もう彼女の耳には届いていないのだと知れた。
振るわれる剣は速さを増し、男傭兵の取れる選択肢を減らしていく。
軽口で相手のペースを乱すのが男傭兵の戦い方だった。
だが、乱すべきものが、今のジュノアにはない。乱すことには成功したが、それが裏目となって返ってきた。攪乱の手管が悉く潰され、男傭兵に残されたのは、ただ受けて、躱して、凌ぐことだけだった。
「わぁってる、わかってるって! 悪かったよ!?」
叫びは男傭兵の望む反応を得られない。横薙ぎを屈んで躱し、突きには身体を反らし、それでも掠めた水刃が頬を、肩を裂いていく。
いつしか着ていた装束はぐっしょりと濡れ、床には踏ん張る足が滑るほどの水が溜まっていた。
どれほどそうしていたのか、やがて、荒れ狂っていた水の勢いが、少しずつ静まっていった。
渦を巻いていた水流が勢いを失い霧散していき、叩きつけられる剣の一撃もまた、その重さが弱まっていくのを男傭兵は感じ取った。
ジュノアの叫びが途切れた。
振り上げられかけた剣が、すっと降ろされ、その切っ先が、かたかたと小さく震えていた。瞳から怒りの色が引き、後には隠しきれなかった悲しみだけが残されていた。ジュノアは、それを提げたまま動かなかった。
「あ――」
男傭兵は、壁を背にしたまま、しばらく動けずにいた。濡れそぼった前髪から雫が滴り、静まり返った通路にぽたりと落ちる。
依頼主の宰相の目的に反する以上、女騎士が敵なのは間違いないのだが、それでも思いもしなかった反応を見せたことで、後味が悪すぎた。
何か言葉をかけようと思った直後、横合いから凄まじい殺気を感じた。
「うおおおおおおおおおお!!」
慌てて身体を逸らすと、一瞬前まで顔があった部分を剣の突きが通り過ぎた。横を見ると、相方と戦っていた冒険者の男の攻撃だった。彼もまた明確な怒気を携えた目で男傭兵を見据えていた。
相方の女傭兵と戦っていたはずだが、彼女は変わらず、炎の槍を持った騎士と斬り結んでいた。攻撃の勢いが増しているのか、魔法を使いたがらない相方は押され気味のようだった。
そうして、余裕のできた冒険者の男がこちらに矛先を向けてきた。
その冒険者の男が左手を翳すと、重圧が圧し掛かり、男傭兵は勢いよく地面に突っ伏すことになった。女傭兵にも使っていたはずだが、はっきりと感じられるくらい、威力が違った。
「おぉぉぉぉぉぉ、重ッ! 重いって、ごめんて、俺が悪かったって!」
冒険者の男にも謝罪の言葉を並べてみるが、冷たい目をしている彼には効果がない。
そして、ぽつりと問われた。
「お前……ジュノアに何を言った?」
短い、ただ、それだけの問いだった。だが、この問いの答えを誤ったらまずいと本能的に男傭兵は感じ取った。だから、偽らずに答えた。
「アリーナポリスの! 俺らの本来の雇い主の名前を言っただけだって! あんたたち、恋人なのか? 悪かったって!」
圧し掛かり続ける重力の重さに抗いながら叫ぶが、状況は変わらない。冒険者の男からまざまざと感じられるのは、理不尽は絶対に許さないという意思だった。剣の一撃が降ってこないだけマシなのかもしれないが、ここにいる者たちと、これ以上戦いたくないと思わされた。
「――ったく、世話が焼ける奴なのですわ!!」
「――ッ!」
その声に反応して冒険者の男が振り向こうとした先で、相方の女傭兵が一気に距離を詰めてきた。
女傭兵が地面を踏み込むと、その周囲が衝撃と共に激しくヒビ割れた。
男傭兵に見えたのは、赤い髪が視界の隅を横切ったところまでだった。石畳に頬をつけたまま目だけを上げると、女傭兵はもう手の届く位置に立っている。
男傭兵は、女傭兵の手で重力の影響下から乱暴に引きずり出された。そのまま上階へ繋がる階段に近いほうの通路へと引きずられ、冒険者や騎士の男と対峙した。
「あ――悪い、ライラ。助かった」
男傭兵は、全身から蒸気を発している相方の女傭兵の名を呼んで感謝を告げるが、返ってきた言葉はぶっきらぼうだった。
「あなたが喋ると状況が悪化するから黙っているのですわ」
「ぐぎゅぅ」
そう言われたと思ったら、ハルバードの柄で思いきり殴られて、うめき声を上げて意識を手放した。
「お前、何しやがった? 使いたくないと言ってた魔法を使ったみたいだが……」
ライラと呼ばれた女傭兵に問うたが、彼女には答える意思がなかった。
「ウチは手の内をペラペラ喋るのは好きじゃないのですわ。何をしたかは勝手に想像してほしいですわ。でも、身内のおバカの言動で、そっちの女騎士を傷つけたことは謝罪いたしますわ」
と、戦闘中だというのに殊勝に頭を下げてきた。
海里たちがそれ以上、何かを言うよりも早く、監獄塔が轟音とともに揺れた。
天井から細かい粉が落ちて、床に溜まった水の上に散った。壁の継ぎ目のあたりでは、石と石が擦れ合う低い音が続いている。揺れが収まっても、その音だけは止まらない。
「何だ!?」
「この塔が揺れた?」
「……戦いはここまでですわね」
ライラの言葉に、ラルフが怪訝な声を上げる。
「あ? 急に何言ってやがる?」
「この場所、程なく崩れそうですわ。それもお宅の宰相の差し金で……。舐めた真似をしてくれるのですわ……。とにかく、生き埋めになりたくなかったら、さっさと逃げることですわ」
それ以上の会話を打ち切って、ライラは気絶させた男傭兵の首根っこを乱暴に掴んだまま引きずり始め、監獄塔の出口のある上階へと姿を消した。
海里とラルフとしても、戦闘することよりも重要な目的がある以上、道を塞いでいた傭兵がいなくなったことは好都合といえた。
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ジュノアは石畳の床に膝をついて放心していた。
「――ア! ジュノア!」
「……あ」
しばらく名前を呼ばれ続けていたことを理解して、俯いていた顔を上げると、目の前に海里がいた。辺りを見ると、ラルフが他の危険がないか周囲を警戒していた。
「……ごめんなさい」
「何に謝ってるんだよ?」
責めるような声音ではなく、純粋に案じられている。この監獄塔に何を目的にやって来たのか、心中で再確認すると共に身体が震えた。
こちらの反応をじっと待っている海里の両肩に、そっと手を乗せた。
「ジュノア?」
「ごめんなさい、少し、少しだけこうさせて。もう少しで戻るから」
海里は何も言わず、ジュノアの気の済むようにさせながら、震えるその身体をそっと抱き寄せた。
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海里の腕の中で、ジュノアの震えは少しずつ収まっていった。
乱れていた呼吸が整い、強張っていた身体から、ゆっくりと力が抜けていく。彼女は濡れた目元を手の甲で拭い、騎士としての顔を取り戻した。
少なくとも、表面上は元に戻っていた。
「迷惑をかけたわね、二人とも。ごめんなさい」
その声は、まだかすかに揺れていたが、気づかないふりをするのが、今の彼女への礼儀だと海里は思い、あえて何も言わなかった。
「謝らなくていいから、先に進もうぜ。あの女傭兵が言ってたことが正しいなら、この監獄塔にいること自体があぶねえ」
ラルフはわざと素っ気なく言って、通路の奥へ顎をしゃくってみせる。言葉こそ乱暴だが、それ以上ジュノアの傷に触れまいとする、不器用な気遣いが滲んでいた。
「そうだな。早くアルベール先生を見つけて、ここから脱出しよう」
「ええ」
短く応じたジュノアの声には、もう先ほどまでの脆さは残っていなかった。剣を握り直す手つきも、いつもの彼女のものに戻っている。
三人は当初の予定通り、アルベールの姿を求めて、監獄塔のさらに先へと進んでいった。石畳を踏む足音のほかに、通路には物音一つない。錆びた鉄の匂いに死臭が絡みつき、奥へ行くほど、その濃さを増していく。
塔が崩れるとしたら、それがいつなのかは誰にも分からない。刻一刻と削られていく時間への焦りを噛み殺しながら、海里たちは薄暗い闇の先を目指した。
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傭兵たちと戦闘していた通路から、もう一階下へ降りる階段を見つけ、海里たちはさらに下っていく。その間にも牢獄はあったが、やはり生きている囚人の姿はなかった。
最後まで階段を下りきると、その先に、他の階層とは異なる広い牢獄があった。独房ではなく、多くの囚人を雑多にひとまとめへ押し込めておくための造り。
この牢獄が造られた意図が何であれ、はっきりしていることは一つ。
上階と比較して尚、死臭が酷かった。多くの囚人がその命を失って、それ以降放置されているのか、遠目に見ただけでも身体の腐敗が始まっている死体まであった。
「何だこりゃ、上の階より、さらにひでえじゃねえか」
嫌悪を隠さないラルフの言葉に、海里とジュノアも同じ感覚を抱いていた。
暗く広がる牢獄の中に三人が視線を向けると、床に突っ伏して薄く呼吸をしている禿頭の男のほかに、もう一人、暗がりで生きている者の姿があった。
彼は床に座り込んでいたが、その両腕は拘束具によって、自由を奪われていた。先ほどの揺れでそれが壊れ、辛うじて腰を下ろせたというような有様だった。
それが、彼らが救い出すためにやって来たアルベールの姿であり、三人は絶句するしかなかった。
かつて穏やかに患者を診ていた医師の面影は、そこにほとんど残されていなかった。
天井から長く吊られていたのだろう、頬はやつれ、擦り切れた両の手首は黒ずんだ血で幾重にも固まっていた。全身に刻まれた傷は、どれ一つとして浅いものがない。古い傷の上に新しい傷が重ねられ、乾いた血と、まだ乾ききらない血とが、肌の色そのものを塗り替えていた。
牢に満ちていた死臭の幾らかが、目の前のアルベール自身から漂っていることに気づいて、海里は喉の奥が引き攣るのを感じた。ろくな手当てもされず放置された傷が、そのまま彼を苛んでいた。
それでも、彼はまだ息をしていた。浅く、湿った呼吸が、痩せた胸をかすかに上下させている。まだ生きているというその事実こそが、彼がどれほどの時間、この責め苦に晒され続けたのかを物語っていた。
海里たちが握りしめてきた回復薬の小瓶が、ひどく無力なものに思えた。これは、傷さえ塞げば助かるという段階の怪我ではない。医師であるアルベール自身が、もし今ここで回復魔法を振るえたとしても、その命を繋ぎ止めることは叶わないと理解できてしまった。
直接戦う術を持たない一人の医師に、人はここまでの仕打ちができるのか。その事実が、三人をその場から動けなくさせていた。
「アルベール……先生……」
躊躇いがちにジュノアの唇から零れた呼びかけは、掠れていた。
その声が聞こえたのか、暗がりの先で俯く男が緩慢な動作で顔を上げた。
「イディウス宰相以外の……誰が来たのかと思ったら、君たちだったのか……。あぁ、ジュノアちゃん、目を覚ましたんだね、よかった……」
自らの身体の惨状には無頓着に、アルベールはそう言って、ふっと笑った。
その穏やかな笑みは、何度も見てきたアルベールのままだった。石と石が擦れ、監獄塔が揺れる音は続いている。
崩落の時が近づいていた。