輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
アルベールはただ、ジュノアの目覚めを喜んでいた。
その穏やかさに、海里は言葉を失った。
確かにアルベールは、生きてそこにいた。だが、その身に負わされた傷の深さも、それを刻んだ者が誰なのかも、口に出すまでもなく分かってしまう。
彼と最後に会話をしたのは、ジュノアの解毒を見届けてすぐ、医院の屋上で話したときだった。あの時の彼は、真面目な顔で自分やジュノアの未来を憂いてくれていた。
だから、ジュノアが目覚めたら、そのこともまた話したかった。しかし、こんな牢獄で、瀕死となった彼と言葉を交わすことになるなど、想像もしていなかった。
「……王国の法で処断するために捕らえたって話じゃなかったのかよ……」
ラルフの声が、押し殺した怒りで掠れていた。
アルベールの破れた服の下から覗く胴には、内出血の痣が幾重にも広がっていた。罪人を裁くための収監などではなく、ただ甚振るためだけに人一人を痛めつけ続けた痕だった。
胴の痣よりも海里の目を引いたのは、両腕の傷だった。枷が食い込んだためか、傷口が腫れ上がっていた。
そのラルフの言葉に、当のアルベールがおかしそうに笑った。
「ふふっ。普通は……そうなのだろうけれどね。彼には……イディウス宰相には、関係のないことみたいだ……」
アルベールは苦しそうに咳をしながらも、海里たちへ目を向けた。
「どうして……アルベール先生が、こんな目に……」
ジュノアが疑問を零す。イディウスの喧伝した罪状を聞かされてなお、その内容を信じられずにいた。その理由なら、アルベールの捕縛を直接実行した教団の少女ノイゼットから、海里は聞かされていた。彼の医院に異形の魔物ルカンの氷像があったからだと。
「アルベール先生、どうしてルカンの死体を使って研究していたんですか? いや、そもそも、どうやって入手したんですか?」
海里の問いを聞いて、ジュノアとラルフがばっと彼に視線を向けた。問われたアルベールは薄く笑った。
「お節介な患者がね、私に提供してくれたんだよ。ルカンが襲ってきた戦場から持ち出して、ね。私自身も異形の魔物について知りたかったし、
「……そんな」
入手した経緯はともかく、彼が先々を案じていたことは分かった。それなのに、イディウスはその研究を反逆の芽とみなした。
海里の疑問に答えた彼は、視線をジュノアへと向けた。
「ジュノアちゃんが……無事に解毒できたことを、この目で確かめられて何よりだよ。ラルフ君の経過も良好そうだ。二人とも、ルカンの毒はもう完全に消えたようだね」
自分がこれほどの傷を負い、身動きひとつ取れぬというのに、アルベールが案じたのは、ルカンの毒に侵された者たちが無事に解毒できているかどうかだった。
この人はどこまでも医師なのだと、海里は理解させられる。
「――っ! 捕まっていた時の海里と、同じことを言わないでください。今は、ご自身のことだけを案じてください」
ジュノアの声は震えていた。瀕死のアルベールを前に、認めたくない現実を否応なく突きつけられていく。
この監獄塔に踏み込んだあと、蓋をしていた過去に揺さぶられ、膝を折ったばかりだった。どうにか騎士としての顔を取り戻したはずが、アルベールの穏やかさに触れ、その奥に隠した脆さがまた露わになっていく。私生活でも騎士団の仕事でも、長く接してきた人物が、こんな惨い姿になっていた。その事実を、ジュノアの胸はまだ受け止めきれずにいた。
痛みを堪えながら、アルベールは牢の底で苦しげに息をついた。深い傷を負おうと、得意の回復魔法で自らを癒すことはできない。癒す術を持ちながら、拘束で腕の自由を奪われ、彼はこの牢で嬲られ続けてきた。
「アルベール先生……! すぐに牢から出します。もう少しだけ、待っていてください。外に出て治療を……!」
海里の言葉を、アルベールはふっと笑って、静かに制した。
「いや、いいんだ。私を置いて、脱出するんだ……」
「何を言って……!」
「見て、気づいているだろう? 私の傷は深い。ここから出たところで、もう回復魔法では治しきれない。医者として生きてきたから、自分の身体が駄目なことも分かるさ。私は君たちの足手まといにしかならないよ。さっきの揺れを……感じただろう?」
「それは……」
「イディウス宰相は私を懐柔しようとしていたが、用済みだと判断したようだ。この監獄塔ごと爆薬で崩落させて……自分に従わぬ者を、まとめて始末するつもりだ」
「は……?」
自分に従わないというだけで、塔ごと人を葬るつもりなのか。
(また、なのか)
海里の脳裏を、ルクスの最期がよぎる。自分を生かすために命を差し出した、この世界で最初の恩人。その死を無駄にすまいと足掻いてきたはずが、今また、世話になり続けてきた人物を、目の前で助けられずにいる。
憑想なら、瀕死のリーファを癒したときのように、アルベールも救えるかもしれない。あとで消耗するからなんだ? そんなことは関係ないと思った直後、監獄塔が先程よりも大きく揺れた。時間がもうないのだと嫌でも思い知らされた。
「くっ!」
「私を嬲りながら、イディウス宰相は上機嫌に喋っていたよ。私と親しくする者は、決して自分に従わぬ反逆者どもだとね。だから、君たちが私を助けに来ることも、彼は織り込んでいる」
監獄塔がさらに激しく揺れる。石壁の継ぎ目から、細かな砂利がぱらぱらとこぼれ落ちていく。
「時間がないことが分かっただろう。さぁ、私を置いて、ここから出るんだ」
「嫌です……! 諦めないでください。……リュカとだって、また会うって約束したじゃないですか」
既に自らの最期を悟っているアルベールに、どうにか生きる意思を繋ぎ止めたくて、海里は縋るように名を出した。
だが、その名を聞いても、アルベールはまた弱い笑みを浮かべただけだった。
「ひどいじゃないか、海里君。今の私に……あの子の名を聞かせるなんて。まだ生きていたいと……思ってしまうじゃないか。いや……私が意地悪だったね」
それでも海里は、アルベールに向かって一歩踏み出していた。掌に意識を集め、リーファを癒したあの光をもう一度呼び出そうとした。
その腕を、ジュノアが掴んだ。
「駄目よ、海里。それを使ったら、あなたは倒れる」
反対側から、ラルフの手が肩を押さえた。
「倒れたお前まで担いで、俺たちがこの塔から出られると思うか。三人まとめて生き埋めだぞ」
言い返せなかった。集めかけた力が行き場を失って散っていく。海里は歯を食いしばり、それでもアルベールから目を逸らさなかった。
その顔を、アルベールは静かに見つめ返した。苦しげに息を継ぎながら、口を開いた。
「海里君、リーファちゃんとリュカちゃんに……伝言を頼まれてくれるかい」
「何を……でしょうか」
海里は奥歯を噛みしめ、滲む涙を堪えようとした。
「リーファちゃんには……君の勤勉さには、私も身が引き締まる思いだった、と。これからは、医院の皆と助け合って、決して焦らず、腕を磨いていってほしい。リュカちゃんには……回復魔法の訓練を、これからも続けるようにと。医院には、私の資料が沢山ある。役立ててくれたら嬉しいよ」
「……必ず、伝えます」
「ありがとう」
一度、深く息を吸い込む。その一呼吸さえも痛みを伴っているのが、傍目にも分かった。
「最後に……医者アルベールとして、君たちに伝えたい言葉がある。三人とも……聞いてくれるかい」
海里たちは、静かに頷いた。崩落が始まっている監獄塔の底で、三人はただ、彼の言葉を待った。
「ラルフ君。君は……粗暴に見えるけれど、その実、誰よりも仲間想いだ。不器用な君のことだから、そのせいで誤解されてしまうこともあるだろう。少しだけ……口調を優しくしてあげるといい」
「……分かり……ました」
ラルフは目を伏せ、唇を強く噛みしめて、その言葉に頷いた。悪態でしか悲しみを表せない男の胸を、アルベールの言葉は、まっすぐに射抜いていた。
ルクスの死を割り切れず、笑って逝った戦友を怒鳴りつけることしかできなかったあの時のように、今もかけるべき言葉が見つからず、ラルフはただ拳を握りしめるしかなかった。
「次にジュノアちゃん。君はとても優しい。優しいからこそ……君が悲しむ姿は、見ていられないよ。気持ちに蓋をしないで。自分の心に素直になるんだよ。……いいね?」
「……はい。先生」
ジュノアは、それ以上は何も言えずに俯いた。頬を伝う涙は、もう止めようもなかった。
「最後に……海里君。君に伝えたいことは、医院の屋上で話したことで全部だよ。どうか、忘れないでおくれ。周りの人だけでも君一人だけでもなく、皆がそれぞれの幸せを噛みしめられるように。そのために……イディウス宰相を打倒してほしい。彼がいる限り、この国の誰もが、不幸に見舞われ続ける。これが……私の最後の願いだよ」
「はい。決して……決して、忘れません。イディウスも、必ず打倒します」
「ありがとう」
そうして、別れの時が訪れる。
「さぁ、今度こそ行くんだ、三人とも。これで……本当にお別れだ」
「アルベール先生……。これまで幾度も、本当に……お世話になりました」
監獄塔は、いよいよ崩落の速度を増していく。天井から降る砂塵が、視界を覆い始めた。これ以上、ここに留まることは許されない。
ジュノアが涙を拭い、ラルフが奥歯を軋ませて、先に牢へ背を向ける。海里もまた、アルベールへの最後の一礼を残し、踵を返した。
ルクスに続いて、この世界で自分を導いてくれたといえる二人目の恩人。救う術を手にしながら、その人を置いて逃げなければならない。
後ろ髪を引かれるどころではなかった。一歩踏み出すごとに、涙が溢れてきて止まらなかった。
どうして、他者を慮れる人が次々に死ななければならない。その疑問に答える者はおらず、それでも、託された願いを果たすために、海里は振り返らずにジュノアとラルフを追って走った。
□■□■□■□
海里たちの足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
激しい地鳴りとともに天井の石材が次々と崩れ落ちる中、アルベールはふっと息をついた。
「良かった、行ってくれたか……。あぁ……皆、いい子達だったな。本当に……」
痛みに霞む視界の隅で、まだ薄く息をしている禿頭の男へと、アルベールは目を向けた。同じ牢で嬲られ続け、憎悪を糧に執念で生にしがみついていた彼は、イディウスへの復讐をアルベールに託した。その願いを受け取った自分もまた託す側となった。
「まだ……聞こえているかい? 君との約束も……私では、もう果たせそうにない。だから……彼らに託させてもらったよ」
禿頭の男は床に頬をつけたまま、血に濡れた顔で弱々しく、それでも笑った。
「律儀……だねぇ、先生。俺が願うのは、あのクソ宰相をこのままにしないでくれってことだけだ。それが叶うなら……誰がやってくれたって、構いやしねえさ」
その言葉を聞いて、アルベールは静かに目を細めた。
賊に身を堕とすほかなかったこの男もまた、イディウスの失政が生んだ犠牲者の一人なのだろう。罪を咎める気持ちよりも、その境遇を憐れむ気持ちのほうが、医師である彼には勝った。
「君の名前は……何というんだい?」
「……?」
瀕死の賊の男は、問いの意味がすぐには分からなかったのか、怪訝そうな目を向けた。
「賊ではない君自身の名を教えてくれないか。ここで逝く者同士だ。……君の名は私が覚えていくとするよ」
男はしばし黙り、それから小さく笑って答えた。
「……ガンザル。俺の名前は……ガンザルだ」
「ガンザル、か。……共に逝こう」
「なぁ、先生。一緒に逝くのが賊じゃ締まらねえだろ。あんたぁ……本当に、未練はねえのかよ?」
そう問われて、アルベールは考えた。
「君まで、彼らと似たようなことを言うのかい。私の未練……か」
問われて真っ先に浮かんだのは、翠色の髪を揺らして笑うエルフの少女の姿だった。
『回復魔法のコツ、また教えてね』
アウロラの森で交わした約束が、昨日の出来事のように蘇る。崩落の音が大きくなっていた。アルベールは瞼を下ろし、アウロラの森で聞いた歌を、もう一度だけ思い返そうとした。
「約束……したのにな。破ってしまって、すまない、リュカちゃん。君の歌を……もう一度、聞きたかったよ……」
届くはずのない願いを唇に乗せ、王都で名医と讃えられた男は、ただ優しく微笑んだ。アルベールはガンザルと共に、崩落する監獄塔の瓦礫に呑み込まれて消えた。