輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
海里、リュカ、アルベールの三人はアウロラの森の奥へと進んでいく。
海里とアルベールはシモンの道具屋で購入した外套で気配を絶ち、リュカは狩人の技で気配を絶っていた。徘徊する魔物の目を欺けており、順調に進めていた。
先頭に立つリュカは、複雑に絡み合う大樹の根を軽やかに越えていく。その後ろを海里とアルベールが追随し、リュカは時折振り返り、二人の様子を気にかけていた。
特に非戦闘員のアルベールの体力に気を遣い、決して彼に無理をさせぬよう、リュカは歩調を緩めていた。
一方でリュカの予想を裏切ったのは海里の動きだった。
彼はリュカに遅れることなく追随する。動きに無駄はなく、歩きづらい地形でも意に介していない。森を熟知するリュカが驚くほど、身のこなしが洗練されていた。
「ねぇ海里、どうしてそんなに速く動けるの?……この森に来たのは初めてだよね?一人なのに、二人分の力が合わさっているみたい」
リュカの直感的な感想に、海里は微かな笑みを浮かべた。
「よく見ているな。その通りだよ」
その呟きは森のざわめきに消えて、リュカの耳には届かなかった。
「え?海里、なんて言ったの?風の音で聞こえなかった」
海里は曖昧に首を振った。
「何でもない、独り言だ」
「そぉ?分かった」
リュカは不思議そうな表情を浮かべたが、それ以上の言及はしなかった。今のリュカは、
「海里は平気そうだけど、アルベールは無理しないでね」
リュカが案じると、アルベールはわずかに乱れた呼吸を整えた。
「心配ありがとう、リュカちゃん。だが、私が希望して同行しているんだ」
肩で息をしながらも、その瞳に自らの役目を果たそうとする意志があった。
リュカが再び前方に視線を戻すと、海里は確認したかったことを問いかけた。
「リュカ、一年前はこの先に
「うん。そこでゼファーとシル姉がアリシアと戦ったんだ。戦闘を避けたから予定より早く着けそうだよ。二人とも、そろそろこれを塗って」
「これは?」
リュカが懐から取り出したのは、粘性の液体が詰まった瓶で、蓋を開けると周囲に生えている樹々と同じ匂いがした。
「薔荊蛇は気配だけじゃなく、生き物の熱も察知するんだ。その外套を疑うわけじゃないけど、念には念を入れておきたいんだ。この樹液を塗ればいけるから、さあ、満遍なく塗って塗って!」
「分かった、分かったって!」
海里は促されるまま、外套や顔に樹液を塗り広げていく。粘つきに思わず顔を顰めるが命に関わる以上は仕方がない。
一方、アルベールは何の躊躇もなくそれを終えていた。医学に携わる者には何でもないことなのか。そんな考えが海里の脳裏を掠めたが、すぐに思考を切り替えた。
森の最奥はすぐそこまで迫っていた。空気は重さを増して、嫌な湿り気を帯び始める。遠くで聞こえていた鳥の鳴き声もいつの間にか途絶え、周囲を不自然な静寂が支配していた。
□■□■□■□
「なんなんだ……ここ」
「これが薔荊蛇が通った跡だよ」
リュカは微かな声で海里の疑問に答えた。
周囲の樹々は激しく削られ、捲れあがった樹皮の隙間から、血のように濃い赤の薔薇が不揃いに咲き乱れている。
薔薇による侵食。
樹上に根付くはずのない花が、薔荊蛇の魔力によって森を蝕み、異形の環境へ作り変えていた。
そして、この場所に来たことがあるはずのリュカでさえ驚愕し、目を見張っていた。
「……薔薇の侵食が広がってる。前はこの辺りの樹には生えてなかったのに」
「薔荊蛇はただ存在するだけで森を殺していくのか……」
「うん。だから放置できないのに倒せなかった……」
唇を噛んだリュカは、薔薇の侵食速度に強い危機感を覚えていた。このまま侵食が広がり続ければ、いずれは里にも影響が出るのだと。
慎重に進む途中、海里は身体から何かが薄く剥がされていくような脱力感を覚えた。
「……海里君。身体に違和感はないかい?」
問いかけたアルベールの声に、体力の消耗とは異なる疲労が感じられた。それは海里も同じだった。
「力が入りにくいです。……なんなんだ?」
「あの薔薇が魔力を吸っているようだ。この侵食圏にいるだけで奪われ続ける。ルカンとは全く異なる生態。寄生と侵食こそが薔荊蛇の本質みたいだね」
アルベールは懐からリアムに借りた記録用の魔道具、淡い蒼光が渦巻く水晶を取り出した。それに魔力を通すと、水晶は周囲の光景を内部へ写し取っていく。
「この侵食の状態を記録すれば、里でリアムさんと詳しく分析できるだろう」
三人が溝に沿ってさらに慎重に進むと、リュカが不意に足を止め、頭上を仰いだ。
「……あそこ」
リュカが指し示した太い枝に、マッドエイプが複数蹲っていた。里に向かうときに遭遇した個体と同じく、赤黒い薔薇がびっしりと根を張り、濁った眼は虚ろに開かれたまま微動だにしない。
「倒すか?」
「ううん、大丈夫。気づかれていないから。でも……あいつらがいるってことは、薔荊蛇も近くにいる」
海里が剣に手をかけたのをリュカが制止する。海里は魔物たちが反応しないことを確かめ、柄から手を放した。
さらに進むと、より異容極まる光景が目に入ってきた。溝の終端に薔薇に覆われた巨大な隆起があった。
リュカの手が海里の腕を掴んだ。その指先は震えている。
「……二人とも、あれだよ」
地面の隆起だと思っていたものが微かに脈動した。
右を辿れば巨木に絡みつく曲線に至り、左を辿れば別の隆起へと繋がる。大樹に幾重にも巻き付くほどの巨躯を誇る大蛇がとぐろを巻いて眠っていた。その体表は無数の棘に覆われ、全身が凶器の塊と化している。その隙間からは血のように深紅の薔薇が不気味な美しさを纏って咲き誇っていた。
海里はその圧倒的な存在感に思わず息を呑んだ。遭遇してきた如何なる魔物とも異なる威容に心臓の鼓動が速くなり、体中を戦慄が走った。
(ヴェノム・ルカンでも足元に及ばない大きさだ……!)
アルベールも息を殺したまま、震える手で水晶を薔荊蛇へ向けていた。
三人が息を潜める中、薔荊蛇の身に宿る深紅の薔薇が、時折、音もなく零れ落ちる。地面に落ちた花弁は生き物のように蠢き、周囲の草木へ絡みついて侵食は止まらない。
全身から冷たい汗が噴き出すが、樹液が熱を遮り、外套が気配を塗り潰していた。動かなければ悟られない。
「絶対に動かないで」
リュカの囁きはほとんど吐息だった。
その時だった。薔荊蛇の閉じられていた眼がゆっくりと開く。
薔荊蛇がとぐろを解き、巨体が動き始める。森を支配していた静寂は、大地を震わせる重く鈍い音に打ち消されていく。
巨体が地面を這いずると同時に地面が抉られ、細い樹々はメキメキと音を立てて次々と薙ぎ倒されていく。巨躯がうねるたび、棘と樹皮が激しく擦れて金属が軋むような不快な音が響き渡った。
それは森そのものの悲鳴に等しかった。
開いた口からは、毒々しい紫色をした舌が粘液と共にのたうち、大岩をも容易く嚙み砕けそうな牙が露わになった。
体表の薔薇から漂う甘ったるい香りが届くたび、思考が微かに痺れる。
(これが聞いていた麻痺毒か。身体がピリピリする)
このままでは動けなくなると感じた刹那、薔荊蛇の紅い巨眼がゆっくりと三人のいる方向へ向けられた。
(――ッ!!)
瞳孔が微かに収縮する。視えないはずの何かを捉えようとするかのように。隠れているはずなのに、巨大な瞳に自分たちの姿が映り込んでいるように思えてならなかった。
海里の全身を底冷えするような恐怖が貫く。
しゅる……しゅる……
粘液を含んだ湿った音とともに、毒々しい紫の舌が地面を這う。独立した生き物のように蠢き、樹皮を執拗に舐め回して、獲物の痕跡を執念深く探っていた。
腐敗した肉のような匂いが鼻腔に届き、海里は吐き気を必死に抑え込み、リュカの手を強く握った。アルベールは水晶を握りしめたまま、呼吸を必死に止めている。
数秒の静止が異様に長く引き延ばされた。
樹液と外套は隠れるための効果を過たず発揮していた。薔荊蛇の舌は隠れた三人を捉えられず、湿った空気を虚しく舐めとるのみだった。やがて薔荊蛇は鎌首をもたげ、三人を背にして移動を始め、溝を広げながら森の奥へと去っていく。
樹上で動かなかったマッドエイプたちが一斉に蠢き始めた。主に従うように次々と枝を渡り、薔荊蛇の進む方向へと消えていく。森を蝕み、支配下にあるすべてを連れて。地を這いずる重く鈍い音は次第に遠のいていった。
薔荊蛇の脅威から逃れても、三人の身体はすぐには言うことを聞かなかった。麻痺毒の影響か、全身に細かな痺れが残っている。
「……早くここを離れたいところだが、少しだけ待ってもらえるかい」
ふらつくアルベールがそう切り出した。その視線は薔荊蛇が地を抉った跡へ向けられている。
「アルベール先生、何を?」
「姿の記録は出来たが、薔荊蛇の素材が欲しい。あれだけの巨躯なんだ。剥がれ落ちた鱗や棘が残っているはずだ」
「落ちた棘にだって毒があるよ。危ないよアルベール」
リュカが制止の声を上げたが、アルベールは懐から布袋を取り出した。
「リアムさんから記録用の魔道具以外にも借りてきたものがある。この魔法袋なら直接触れずに素材を回収できる。毒に触れる心配はないよ」
それは空間の理を歪めて作られた希少な魔導具だった。
「分かった。……気を付けて」
「なに、間近で本体と対峙したことに比べれば、素材を拾うだけなら造作もないさ」
アルベールは足早に痕跡へと向かった。抉られた地面に散乱する鱗と棘を見定め、袋の口を広げ、慎重に拾い上げて底へ落とし込むと、息を吐いた。
「これで戻った後の分析にも使えるだろう」
戻ってきたアルベールは、二人の顔色を見て表情を和らげた。
「みんな疲れただろう。来る途中にあった泉で少し休まないかい?」
「うん……塗り薬の効き目も切れる。早く行こう」
リュカの言葉に、海里は短く応じた。
「……ああ」
三人は薔荊蛇の棲み処を後にした。一歩離れるごとに、身体に圧し掛かるような圧迫感が薄れていった。